No.1030 平成30年2月号

肩借りるや雪解の路の潦

うしほ

こども雛行列
可愛らしい子供たちがおひなさまの衣装姿で、御引摺りをしながら行列を作って町中を練り歩く、まさに平安風俗を彷彿とさせる。沿道には多くの人達が出てこの行列の写真を撮ったりする。まさに動く雛人形達である。全国でも、このような本格的なものは、ここの行列だけだそうだ。毎年2 月末から3 月の初めにかけて3 回行なわれる。今年は、2 月24 日、3 月3 日、4日の3 回行われる。場所、名鉄三河線吉浜駅下車すぐ。問合せ。人形小路の会事務局 0566-52-2808 人形小路の会事務局。 写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


奥三河 三句
秋風や貧乏山から吹き降ろす
音立てて鞍掛山の落し水
大西瓜大風呂敷に包みきし
総持寺 祖院
かなかなや直歳の手の玉杓子
迷走台風真実は見えにくき
茶の子てふ茶屋あり冬瓜持つてけと
島道のすぐ坂がかり捨冬瓜
ブルドック蟷螂に径ゆづりけり
一枚の茣蓙敷いてあり糸瓜棚
司馬遼太郎
本は引くもの卓上のコカコーラ
歳時記に数多の付箋虫の秋
新涼や藍汁の味確かむる
魚河岸や新涼の水荒使ひ
墳山の草刈らずあり昼の虫
木道の貫く花野雨降り出す
三脚を立てし人あり大花野
木道に跼み撫子ちんぐるま
ひぐらしに応へひぐらし杉美林
蜩の樹間に透けて司祭館
ロザリオを掌にのせ秋の冷えをふと
赤き灯のともり銀河の端の端
虫の夜の締めは切込うどんとす
松乃井の仲居は男ちんちろりん
吹割ノ滝四句
滝じめる小径ままこのしりぬぐひ
はいいろちよつきり見て滝音の耳に憑く
滝音の地底より湧き秋彼岸
滝径の辷りやすくて赤のまま
火山灰湿りして渺々のレタス畑
死人花しようつか婆を囲みをり
奥利根に甌穴多し下り鮎
彼岸花天竜ここに発しけり
回想
嫁が弾く葬送のチェロ身にぞ入む
秋興や三河木綿の機の音
余呉はいつも小暗きところ雁渡し
有松
爽秋や絞りの町の紺暖簾

真珠抄二月号より珠玉三十句 加古宗也推薦


北風に向かう全身盾にして     竹原多枝子
過去帳に空欄見つけ十二月     山科 和子
磐梯や湖沼三百水の秋       清水ヤイ子
晩菊や島浦にある母の墓      中井 光瞬
十二月八日ラヂオの微調整     服部くらら
バイク行き交ふ冬靄の旧市街    田口 綾子
八千草の庭やシェークスピア生家  平井  香
簀桁より落ちる水音紙を漉く    成瀬マスミ
喫茶だるだる小春日の小半刻    工藤 弘子
多羅葉の脇にポストや神無月    山田 和男
訃報来し夕べ北窓塞ぎけり     髙瀬あけみ
黄落や女坂からをとこ声      鈴木 玲子
アンコール曲で一転秋深む     鶴田 和美
障子全開佐吉生家に力満つ     今井 和子
老の身に一入重き寒さかな     石崎 白泉
陋屋の工事師走の音と聞く     荒川 洋子
待つつもり落葉時雨の中にゐて   岡田つばな
帰りゆくサンタクロース見かけたる 田口 茉於
夫に布団掛けて一と日の終りけり  稲垣 まき
寒むやまた母置き去りにしてきたる 荻野 杏子
水底に色を移して冬紅葉      茂原 淳子
霜の朝ゆるりと締まる名古屋帯   丹波美代子
俳縁は心の絆帰り花        柳井 健二
気がつけばポケットに手や冬はじめ 奥村 頼子
掃ききれぬ落葉の中のテニスかな  生田 令子
小春日や往時偲びつバラス踏む   前田八世位
木犀の香にまみれ起つ雀どち    堀口 忠男
おたぐり喰へざざ虫喰へと伊那の冬 池田真佐子
思い出のマフラー巻いて野辺送り  水野  歩
お歳暮のお礼に続く長電話     湯本 明子

選後余滴  加古宗也


帰りゆくサンタクロース見かけたる     田口 茉於
クリスマスは日本の行事として完璧に定着している。無
論欧米の、あるいは世界中のキリスト教徒が大切にしてい
るキリストの誕生を祝う行事とは若干その在り様が異なっ
ているかもしれない。ただ純粋に、無垢な心で、大人も子
供もクリスマスを祝う心はどこまでも美しい。クリスマス
になると何人もの大人たちが、サンタクロースの赤い服を
着て、幼稚園へ、保育園へ、あるいは施設へ出かけてゆき“メ
リー・クリスマス”という言葉とともに幸せを振りまく。
ところで揚出句は「宴の後の淋しさ」というのだろう。何
ともうら悲しい風情を見せるサンタクロースなのだ。「帰
りゆく」が怖しいほど確かな把握だ。

寒むやまた母置き去りにしてきたる     荻野 杏子
一度ならずも二度も、三度も、母を置き去りにしてきた
ことの後悔が作者の心を攻める。そこには止むを得ない事
情があるから仕方がない、という言い訳があり、言い訳し
ている自分が「寒む」なのだ。そこには親子の絆と親子の
情がからみあっている。このことは人生における決して解
決のならない一事なのかもしれない。

訃報来し夕べ北窓塞ぎけり     高瀬あけみ
冬の季語に「北窓塞ぐ」というのがある。冬になると冷
えた北風が北窓から、いや北窓の隙間から吹き込む。それ
を防ぐために「塞ぐ」のだが、「目張貼る」と兄弟のよう
な季語だ。ただ、北窓ということで、はっきりと方向性が
示された季語であることが特徴で、そのことで一層、寒さ
が意識される。そして、「訃報来し夕べ」と、訃報もあた
かも北から、あるいは北風とともにやってくるかのように
表現した所に抜群の俳句センスを感じる。無論、北窓を塞
いだからといって訃報が来なくなることはない。ないゆえ
に厳しい季語の斡旋になっている。

梟の森知らぬ間に伐られたり     堀口 忠男
ここしばらく梟の声を聞かなくなったなあ、と思ってい
るとき、梟が棲息していた森が伐られていたことを知った、
というのだろう。「伐られた」というのはいうまでもなく
人間の仕様であり、乱開発が止まらない日本の現状を憂い
ている一句でもある。「知らぬ間に」という表現が如何に
もやさしそうでいて、じつはその後から、いつまでもふつ
ふつと怒りが込み上げてくるのがわかる。「伐られたり」
の「たり」が強烈。

陋屋の工事師走の音と聞く     荒川 洋子
「陋屋」というのは、「むさくるしい家」とか「狭い家」
をさすが、さらに「自分の家をへりくだっていう語」だ。「あ
ばら家ですがよろしければ上がってお茶の一杯でも」とい
うときの家ともいえようか。陋屋を修繕しても、所詮陋屋、
一年の最後の月が師走、ここでいくらバタバタしてもたい
して事態は変わりはしない。と開き直りの思いを比較しな
がら嘯ぶいている。

磐梯や湖沼三百水の秋     清水ヤイ子
会津磐梯山にはその山懐に湖沼が三百もあるという。そ
れぞれ特徴的な水の色を持ち、秋は格別に美しい。ちなみ
に裏磐梯の紅葉も日本屈指のもので、作者、曰く「日本一」
という。

バイク行き交ふ冬靄の旧市街     田口 綾子
作者はベトナムはハノイ市在住。「バイク行き交ふ」が、
いかにもハノイの街の様子を具体的に見せていて面白い。
つづいて「冬靄」、さらに「旧市街」とハノイの様子がくっ
きりと描写されて、読者であるわれわれもハノイの旧市街
に佇んでいるかのような思いに誘われる。「俳句は写生」
が大切。それも「確かな描写力」が欲しい。作者は自然体で、
それが成功していることに拍手を送りたい。

夫に布団かけて一と日の終りけり     稲垣 まき
作者の夫はいま病床にあるようだ。看護、介護の厳しさ
をあらためていうのは控えたいが、この句「夫に布団かけ
て」にも妻としての切ないまでの思いが込められている。
そして、作者の一日は終わるのだ。

俳縁は心の絆帰り花     柳井 健二
俳句用語に「連衆」というのがある。今様にいえば、「俳
句仲間」というくらいの意味だろう。「俳縁」は俳句によっ
て結ばれた縁、ということだが、不思議といえば不思議な
ご縁だ。にもかかわらず、じつにありがたいご縁であるこ
とに年を経るにしたがって強く思われる。「帰り花」とい
う季語が過不足なく思いを定着させている。

思い出のマフラー巻いて野辺送り     水野  歩
「思い出のマフラー」とは無論、亡くなられた人との思
い出だ。マフラーが暖かいのはそこに思い出があるからだ。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十二月号より)


蚯蚓鳴く書架しんしんとトルストイ     工藤 弘子
上州水上温泉「松之井」での吟。どこかで何かが鳴いてい
るような、声?音?響きが聞こえます。ミニライブラリィに
収められていた、文豪トルストイの厚い本。旅の夜の非日常
の中、変わらずにある本の存在感。「しんしんと」の措辞が
絶妙で、秋の夜の静けさにも書架の背後にある膨大な歴史の
深さにもつながり、「と」の音が流れるように続いています。
辺りは闇に包まれ、秋の夜はひっそりと更けていきます。

月今宵酒に果物の香が少し     高橋 冬竹
今夜は中秋の名月。酒杯を上げるその場に、祀られた秋の
果物の香がします。ほんのりとした秋果の香りが酒の肴です。
と、まず受け止めましたが、或いは名月を愛でるその酒の中
から、ほんのり果物の香がするととらえた方が、やはり順当
でしょうか。最近は、果物の香りがするフルーティーな清酒
も人気です。とまれ、掲句の魅力は、清らかな月とそれに相
応しいほんのりとした果物の香り。さやけき月にふさわしい
高潔さを感ずる作品です。

案山子立つどこか睨んでどこも見ず     田口 風子
直球勝負の一句。近頃よく目にするのは、案山子ファミ
リー。人の目を楽しませるように、衣装やポーズを工夫した
案山子達ですが、掲句はすっきり「案山子立つ」。中七から
下五へ、あとは流れるようなしかも格調のある調べです。鳥
や獣の害を防ぐため、睨みを利かせている案山子。人の代わ
りではあるけれど、それは所詮作り物。実体のないものの虚
しさが「どこも見ず」に表れています。それでも案山子は立っ
ているだけで、何かしら役に立っているのかもしれません。

コーラスは糸さわやかに復習へ終ふ     深見ゆき子
♪~縦の糸はわたし、横の糸はあなた、織りなす布はいつ
か誰かを暖め得るかもしれない~中島みゆき作詞作曲の「糸」
世代を超えてよく歌われる名曲です。コーラスはパートごと
の響きの重なり、ハーモニーが命。歌詞に込められたメッセー
ジとサ音の響きが相まって、一句の調べもさわやかです。い
つものメンバーと共に練習を終えた作者の充実感とともに、
さっぱりとした爽快感が伝わります。

みんみんの峰声明のうねる堂     平井  香
目の前には、今も千日回峰行の修行が行われている比叡山
の峰々。ここはかつて僧兵を擁し、一大勢力を築いた延暦寺。
聞こえるのは、みんみん蝉の鳴き声と天台声明の重厚な響き
です。今この時を懸命に鳴くみんみん蝉の鳴き声と、かたや
永い歴史をもった経文を朗唱する声と。広大な緑と荘厳なお
堂を背景に、二つの声が時に大きく時に小さく響いています。

山は秋三河の奥の水清し     鈴木いはほ
「山は高く水は清し、山霊水気ここにあつまり」子供の頃
運動会で必ず歌った北設楽郡歌が懐かしく蘇りました。遠戚
の者が作詞しましたが、今では知る人もありません。掲句の
きっぱりとした詠みぶりに、澄んだ秋の空や水、奥三河の山
の清々しさが広がりました。

秋刀魚焼く食べごろ告ぐる電子音     鈴木 静香
ピピピ。冷蔵庫の閉め忘れや検温、車輌の危険を知らせる
等、現代ではもう馴染みのある電子音。秋刀魚の焼け具合も
センサーが感知して知らせてくれる、本当に便利な世の中で
す。庶民の生活を代表する「秋刀魚焼く」の季語に、現代を
象徴する「電子音」を配した、新しい切り口の一句です。

子供御神輿路地から路地へ声上げて     高瀬あけみ
御神輿を担ぐ元気な子ども達の声が、遠くから次第に近づ
き、「路地から路地へ」抜けていきます。その響き渡る声を
聞き取れる近しい距離に、隣近所のつながりの強さも感じま
す。次代を担う子供たちを自ずと育むような、地域に根ざし
た祭の活気や活力を感じます。

蓮の実飛んで人生ありのまま     安藤 明女
句意はいたって平明。人生に難しいことなんて必要ありま
せん。くよくよ、こせこせしたって始まらない。蓮の実がは
じけて飛ぶように、やって来るものにこだわらず、流れのま
まに時を過ごしましょう。あっけらかんと明るく。人生、ケ
セラセラの一句。そこには笑顔で乗り切る強さもあるのです。

どの色もみんな好きです秋桜     粕谷 弘子
白や紅の濃淡、チョコレート色までたくさんの色をもつコ
スモス。そのどれもがそれぞれにやさしく、風に揺れる様は
儚げです。「みんな好きです」の素直な詠みぶりは、そのま
ま秋桜の花の可憐なやさしさにつながり、共感を呼びます。

真向かひは高き連山蕎麦の花     前田八世位
大きな青空を挟んで真向かいに見える高い山々。日当たり
の良い急な斜面は今、真っ白な蕎麦の花に覆われています。
明るい陽差しと秋の澄んだ空気感が漂います。傾斜地では下
から上へ土を掻き上げるように鍬を使い、少しの土もなだれ
落ちないように耕作します。大変な労力の末の蕎麦畑。澄ん
だ空気の下、もうしばらくすれば、収穫です。

俳句常夜灯   堀田朋子


熊汁や梁も柱もくろびかり     岬  雪夫
(『俳壇』十二月号「熊汁」より)
かつては狩猟を生業とした『マタギ』と呼ばれる山の民が
いた。現在はほとんどが農業との兼業となったようだ。そん
な村に生まれた人達が、伝統を大切に繋いでいるのだろうか。
囲炉裏を中心に据えた、年月を経た小屋の様子だ。別の句に、
銃が立てかけてある光景も詠まれている。男達が囲む鍋には
「熊汁」がぐつぐつと煮立っている。それがどんな色でどん
な匂いを発しているのか、想像するしかない。さしずめ〝命〟
が煮られていると言えようか。
「マタギ」は必要以上の狩をしないという。熊対人の命のや
りとりの中でお互いに同じリスクを負うのだ。熊の霊魂への、
延いては山の神への崇敬を忘れない。粗野と厳粛の全てを梁
と柱は知っている。異空間に踏み込んだ時の毛穴が引き締ま
る感覚が、仮名表記の「くろびかり」に鋭く表現されている。

マフラーをはずせば首細き宇宙     対馬 康子
(『俳句四季』十二月号「我が雪」より)
破調の句だが、幾度も舌にころがすと納得のリズムが生ま
れる。一気に詠み下して「宇宙」という大きな言葉で止めた
明快さが大胆だ。マフラーをはずすという何でもない仕種か
ら、宇宙にまで心が飛んでゆく飛躍力に脱帽する。
寒さの厳しい夜か、空気の冷たい透き通るような青空の日
か。屋内へ入る前に身を整えるためにマフラーをはずした瞬
間、首の回りから温もりが消えた。まるで、宇宙に一人取り
残されたかのような心細さ。人にとって温もりがどれほど大
切かを思う。そして、時に『宇宙』を感じることのできる、
作者の豊かな精神生活を羨望する。

古本屋炬燵のひと間見えかくれ     山川 幸子
(『俳句四季』十二月号「踏む落葉」より)
店舗の奥に主人の仮休みのひと間があるのだろうか。真新
しい建物ではないだろう。ぬくぬくと暖房を効かせるほど実
入りの良い商売ではないはず。所狭しと本で埋もれた店舗の
奥の扉が少し開いていて、隙間から炬燵が据えられているの
が窺える。たったそれだけの描写で、主人の人となりが浮か
ぶ。どんな経緯で今、古本屋稼業なのかと興味も湧く。分厚
い褞袍なんか着て、毛糸の帽子を被っているかもと思うのは、
あまりに昭和の映画的すぎるだろうか。
新刊本を扱う店にはない、古本屋ならではの親しみがある。
平成二十九年、懐かしいものを発見した作者の嬉しさがおか
しみと共に伝わってくる。

自刃の間秋麗はただ明るくて     辻 恵美子
(『俳壇』十二月号「秋麗」より)
「自刃の間」とは、田原藩士渡辺崋山が自ら命を絶つ部屋。
『不忠不孝渡邉登』の絶筆はよく知られている。時は江戸後期、
日本列島には開国を迫る外国船が出没していた。幕府の鎖国
政策に反することの危険を承知していた崋山であったが、開
国論を唱える蘭学者達との親交が問題視され、『蛮社の獄』
に連なり田原藩池ノ原屋敷に蟄居の身となった。最後は、幕
府内・藩内の権力闘争に巻き込まれ、藩や家族へ咎が及ぶこ
とを慮って自刃したという。武士として、そう処するしか道
がなかったのだろう。そう理解するしか術がない。
作者は自刃という壮絶を抱え込んでいる部屋に「秋麗」と
いう季語を斡旋した。しかも「ただ明るくて」と。作者は、
あの時代と今という時代、崋山という武士の心と現代に生き
る自分の心との隔たりを詠んでいるのだろう。明るければ明
るいほど影は濃くなる。俳句の力を再認識させてもらった。

香煙の流るる水面舟施餓鬼     山田 佳乃
(『俳壇』十二月号「輪郭」より)
「舟施餓鬼」とは、水難により命を落とした特に弔う者を
持たない霊を慰める法事のこと。高知県大豊町などの地区で
無形民俗文化財として引き継がれている。吉野川・穴内川と
いう川を生活の場とした人々ならではの盂蘭盆会の形だ。
三百余りの提灯を吊るした舟形が、夜闇の川面をすべる光景
は誠に幽玄だという。
作者が目をとめたのは、提灯の光に緩やかなうねりを見せ
る川面だ。幾多の命を呑み込んだ川。霊は今、川面の辺りに
戻ってきている。舟や岸で焚かれている線香の香りと煙が、
それを撫でていく。線香の香りは、日本人を一様の境地へと
引き込む。心が落ち着き、仏の気持ちに繋がるのだ。
「舟施餓鬼」という営みは、水難の死者の霊を弔うとともに、
川というものへの畏怖の念の表明なのかもしれない。作者の
川面への着眼は、そういうことだと思う。

拉麺屋の夜更のポインセチアかな     鹿又 英一
(『俳句四季』十二月号「音楽通り」より)
「夜更」の一語がとても効いている。一連の句から、作者
は今夜、愚痴など廃して楽しい酒会を持たれたらしい。幾度
かのはしご酒の後、今夜のしめに拉麺屋に立ち寄った。折し
もクリスマス時、ひと際目を引くポインセチアが置かれてい
る。拉麺の香の中にあっても、聖夜の象徴としてのポインセ
チアは、穢れを知らぬようだ。夜更けの酔った目には、その
深紅が際立って美しく映る。末尾の「かな」には、酔った心
が詠ませたかのような可愛らしさが滲む。
場所と時の設定の面白さによって、ポインセチアの清らか
さが存分に詠まれていて心憎い。