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加古宗也の人と作品

加古宗也主宰の第5句集「茅花流し」の句集評と一句鑑賞が、角川「俳句」に掲載されました。以下は、角川「俳句」11月号からの引用です。

加古宗也の人と作品

吟行は至福の時間

坂 口 昌 弘

加古宗也は三年前に創刊一〇〇〇号を迎えた「若竹」の主宰である。第三句集『花の雨』は日本詩歌句大賞(俳句部門)を受賞した。今回の第五句集『茅花流し』は還暦をこえてから約八年間の句を纏めている。宗也は「あとがき」に、「仲間とともに吟行をしているときこそ、私にとって至福の時間だと言っていい」と述べる。作者は至福の時間に何を詠んだのであろうか。一句一句鑑賞するほかはない。
また時雨きしお木像拝さばや
四十七人の刺客義士の日とは笑止
作者の住む西尾市には吉良上野介の菩提寺・華蔵寺がある。宗也は吉良の木像に「拝さばや」と思い、赤穂浪士を「義士」とは呼べないという吉良びいきである。吉良は地元では名君と慕われている。多くの日本人は「忠臣蔵」を通じて吉良を悪役と思ってきたが、吉良を名君と評価する人々がいることは、歴史的に公平な評価とは何かを思わせる。
美しきをみなと佇てり冬泉
螢火やをんなの息の甘かりし
白川の女やさしき冬菜畑
女性を思う気持ちを率直に詠む俳人は珍しい。正岡子規が写生を唱えて以来、一般的に異性に対する思いを詠むことは少ない。宗也は還暦をこえても、女性への思いを詠む。俳句では「美しき」といった主観的な形容詞は使われることは少ないが、作者はこれらの形容詞でしか表現できない女性の姿を捉える。「若竹」前主宰で義父の富田潮児から俳句を作らないと娘と結婚させないと言われ俳句を再開した逸話を連想する。
薔薇に香と棘なかりせば愛されず
人なべて甘きに弱く一位の実
美しいものには棘があり、その棘が刺さっても美しいものに近づきたい思いである。二句目には、「一位の実は甘けれど微量の毒あり」という前書がある。甘い言葉には毒が隠れているようだ。
初夢の釈尊の掌の広さかな
釈尊の舎利ある不思議雪ばんば
初夢に釈迦の大きな広い掌が出て来るというのは珍しい。釈迦は二千数百年前に没し、死後は焼いて川に流せと言い残したという。仏舎利塔の舎利には、遺骨に似た宝石や貴石等が代替品とされてきた。作者はアジアの仏舎利塔にどうして多くの釈迦の遺骨があるのかと、疑問に思ったのかも知れない。釈迦をテーマとするユニークな二句である。
引く波にわが魂引かれ涅槃西風
作者の魂が引き潮に引かれている。この句は魂と釈迦入滅と西方浄土の関係を思わせる。魂が体から出て涅槃に向かうイメージである。
鮎錆びて水に匂ひの生まれけり
自転車に乗るコスモスの風に乗る
詩的な発想である。鮎が錆びたような模様と色になる頃、川の水に「匂ひ」が生じると詩的に詠む。二句目はコスモスの咲き満ちている花野を風におされて自転車が進む詩的なイメージである。
老鶯や山の神にも酒少し
神は留守なれば報賽軽くせり
山の神の小さな祠に酒を少し注ぐと言い、神は出雲に出かけ留守だからお礼参りの賽銭は少しと言う。神々を詠んでユーモアが感じられる。
小春凪とは天蚕の浅黄色
雲雀は天を人は水辺を好みけり
小春のような凪とヤママユの色の配合は美しいポエジーである。二句目は、孔子の言葉「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」を連想する。孔子は山と川を好む人を対比したが、宗也は雲雀と人の好みを対比する。宗也は自然を好み、吟行の旅で至福の時間を楽しむ。


一 句 鑑 賞


泳ぐ子の真青なる淵めざしけり

真青な淵を目指すのは少年と思われるが、少女であっても差し支えない。深い色と静かさを湛えた淵は泳ぎ子にとって神秘的であり、ずっと憧れの処だったに違いない。「めざしけり」に迷いなく抜き手を切る動きまでが見えてくる。
真青な淵は、これから少年が生きて行く人生の象徴として提示されているかのよう。遠目には美しくても、そこは思い掛けない深さや、妖しいまでの光に溢れているかも知れない。身を投じ沈みそして浮かぶ、生きることの奥深さを学びつつ成長していく少年。少し深読みだがそんな風に思えた。
作者は実にシンプルに、泳ぎ子と真青な淵だけを描き、後は読み手に委ねるという手法をとった。
このように省略を尽くした作品を発表するときは、どうしても一抹の不安が付きまとう。
掲句の思い切りのよさに、作者の力量と、円熟味からくる余裕が感じられる。

奥名 春江


草罠に足盗まれてばつた飛ぶ

作者は「あとがき」に「仲間とともに吟行をしているときこそ、私にとって至福の時間」と記し、収録句は殆どが吟行によって得られたと述べている。集中、虫を詠んだ句も多く、〈けら鳴くや百雪隠に百の甕〉は京都・東福寺、〈深吉野の星無き夜は螢火を〉は東吉野村での作であるが、掲句の舞台はどこであろうか。「草罠」とは、草を束ねて結び、人や動物の足が引っ掛かるようにしたもので、ばった
が掛かるのは想定外であろう。ところがこのばったはあわてていたのか、たまたま草に足を絡めてしまったのである。逃げ飛んでは行ったものの、脚の何本かが捥がれたのかも知れず、あのあっけらかんとした表情(?)がかえって「あはれ」を誘う。例えば、〈人は人責むる弱さを蝉の殻〉〈人はすぐ回顧に逃げて日向ぼこ〉などにも滲み出ているこのような哀感は、村上鬼城の精神を継承して、生きる証を求めて来られた作者ならではのものであろう。

寺島ただし


龍太逝く今日も桜の家武村

この句には「悼 飯田龍太氏」と前書きがあり、註として「家武村=現在の西尾市家武町。『雲母』誕生の地」とある。「家武」は「えたけ」と読み、当町は、飯田龍太が父飯田蛇笏から継承した俳句雑誌「雲母」発祥の地である。加古氏はその愛知県西尾市に生まれ、現在も居住している。家武町は、隣町と言って良い地域であろう。「雲母」は創刊時には「キラヽ」という誌名で、当時の村の小学校の校長・教頭が編集、寺院の住職が発行人として創刊された。蛇笏は、第二号から雑詠欄の選者をつとめた。当地は鉱石の雲母(キララ)が産出したので「キラヽ」と命名されたが、蛇笏が「雲母」と改名する。飯田龍太は平成十九年二月二十五日に逝去した。それから約一ヶ月、「雲母」誕生の地は、桜の満開の時期を迎えた。龍太の死を荘厳するかのような桜が見える。地元の人々にとっては当たり前の風景が忘れ得ぬ景として切り取られた瞬間である。

井上 康明


鬼城忌の山河きちきちばつた飛ぶ

村上鬼城の〈街道をキチキチととぶばつたかな〉と〈雹晴れて豁然とある山河かな〉を思い遣っての作だと思った。
〈鬼城忌〉が取り合わされることで、〈山河〉も〈きちきちばった〉も、鬼城の生涯や作品世界を引き受けてうんと特別な言葉になる。山や河のある雄大な自然へと、きちきちばったが飛び立つ。上五に置かれた〈鬼城忌の〉によってこの世界に奥行きが生まれて、境涯俳人と評される鬼城俳句の世界観が立ち上がってくるのだ。大自然に育まれる生の営みの感動を詠み上げることは、自らの生きている証を刻むことでもあると。
集中には、鬼城の弟子であり、作者の師である富田うしほ、潮児を詠んだ作品が数多い。それらの師を尊ぶ作品群のなかにあって、掲句は、師資を継承することを使命に活動する作者の思いが込められたずしりと重い一句であるように感じた。

杉田 菜穂