No.1040 平成30年12月号

光芒を放つ星座や虎落笛 うしほ

御煤納神事
 名古屋市の熱田神宮では、12 月25 日に神様に新年を清らかな神殿でお迎えいただけるように、午前10 時から、烏帽子、狩衣、浅沓姿の神職たちが長さ 4 メートルの齋竹(いみたけ)を持ち、その笹竹を振るって、ほこりを払い、本宮、別宮はじめ40 社余りの屋根や軒下などを順にお清めをする。そのあと14 時から本宮において、新年を迎える準備が整ったことを神様に報告する。 写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


あまがみの猫や台風圏に入る
熱帯夜夢の中まで曲馬団
法師蟬やつと九月ももう半ば
みづうみに突き出し御堂雁渡し
観音の腰のくびれや秋蚊鳴く
散居村ゆつくり抜けて秋始め
糸瓜棚名古屋コーチン放し飼ふ
陰の神ここにも村は秋なりし
戯れに水に手を漬け未草
坐して直ぐ視線おのづと河骨に
桃吹いてをり屈託のなき男
山形県立美術館
鳥海の群青極め秋彼岸
かまつかを野太く生けて常閑忌
補聴器を耳架けと云ひ良敬忌
さるすべり絞りの町の大梲
つちのこの出ると云ふ村栗爆ぜる
からすうり色をつくして木曽馬籠
馬籠にも桝形遺り曼珠沙華

真珠抄十二月号より珠玉三十句
加古宗也推薦


蟷螂のこんな所に枯れんとす     竹原多枝子
娘の家を終のすみかと台風裡     渡邊たけし
薪爆ぜる音の中なり走り蕎麦     工藤 弘子
夫を呼ぶ見事な秋の夕焼に      東浦津也子
廃線の端は草叢ちちろ鳴く      深谷 久子
台風の目の瞬きを見てみたし     堀口 忠男
戴きし親芋子芋葉でうけて      岡田 季男
秋ひとり投網をうてる男あり     荻野 杏子
長き夜をけんぴ食みつつ龍馬伝    関口 一秀
焼締の火のがうがうと霧の夜     今井 和子
母逝きて色なき風の色を知る     鈴木 恭美
感想はまあまあとしか秋芝居     荒川 洋子
秋燕にまだ軒貸して江戸竿師     市川 栄司
秋高し十大弟子の糞掃衣       小林 泰子
露草や廃墟に今も涸れぬ井戸     加島 照子
カリヨンの音転げをり秋の湖     渡辺 悦子
傘立てに捕虫網立つ秋の暮      鶴田 和美
杉箸に杉の香のこる良夜かな     水野 幸子
看護婦の届けてくれし衣被      浅井 静子
赤も白も咲く交番の曼珠沙華     稲石 總子
赤い羽根つけくれし娘の髪匂う    髙相 光穂
秋湿り大きくはたく瓶の塩      飯島たえ子
まねき猫古りてどかん屋蔦枯るる   桑山 撫子
狐鳴いて曼珠沙華に日が沈む     牧野 暁行
数珠玉を入れてお手玉なつかしむ   小原 玲子
草の花山羊の乳房のうすあかし    前田八世位
立て掛けし帚の横の捨団扇      高柳由利子
秋暁や鰺百匹を釣る漁師       山田 和男
冬瓜の転がる畑に立話        成瀬マスミ
色鳥の来てをり裸婦の木炭画     髙橋より子

選後余滴  加古宗也


露草や廃墟に今も涸れぬ井戸     加島 照子
城趾のそれも山城の趾でも、まだ生きている井戸を見つけ
ることがある。あるいは離島の廃墟跡にも見つかることがあ
る。例えば三河湾に浮かぶ佐久島もそうで、廃墟の庭に生き
た井戸を見つけることができた。さらに佐久島の本島から防
波堤でつながっている弁天島にもそれを見つけることができ
る。弁天島は武田信玄伝説がいまも遺るところで、少なくと
も四百年以上の時を経てなお、生きつづいている。それは取
りもなおさず、人間の生存と最も深く強く井戸がつながって
いることの証左でもある。佐久島はかつて三千人の島民がい
て漁業、農業を中心に暮しをたてていたがいまは何と二百人
に減少してしまった。典型的な過疎の島だ。その分、廃屋が
いよいよ廃墟になっている。それでもなお井戸は生きつづけ
ている。「涸れぬ井戸」に人間の生きるための知恵のすごさ
に感嘆を禁じえない作者の声なき声が聞こえてくる。
とびきりの色出しきりて毒茸
にも、確かな描写力が感じられて心地よい。
傘立てに捕虫網立つ秋の暮     鶴田 和美
捕虫網がすっきり立ち上がっている一句だ。その家の少年
が、あるいは少女が日課のように虫捕りをしているのだろう。
鈴虫、松虫、あるいはばった。はたまた蜻蛉を追っかけてき
たのかもしれない。作者は少年や動物を描写することが得意
で、それは童心への素直な憧憬のようにも思われる。「傘立て」
が見事な写生だ。
戴きし親芋子芋葉でうけて     岡田 季男
季語で「芋」という場合、里芋、八頭、赤芽芋、蝦芋、蓮
芋その他があるが、ここは「里芋」と解するのが素直だろう。
この句「葉でうけて」がいい。里芋の大きな葉で受けた、つ
まり風呂敷の代わりなのだ。そこには私たちの若き日と重な
るような懐かしさがある。俳句の詩情の中で、上質な詩情の
一つが、この「懐かしさ」なのだといっていい。
杉箸に杉の香のこる良夜かな     水野 幸子
最も心地よい香りの中に「木の香」がある。そして、その
代表が「杉の香」といっていいだろう。新築されたばかりの
木造建築の木の香もいいが、杉箸を手に取ったとき、ふと鼻
をくすぐる杉の香はこれまたなんとも食欲をそそるものだ。
人間の幸福感というのは案外こんなところにあるのではない
かと思う。
秋高し十大弟子の糞掃衣     小林 泰子
「十大弟子」というのはいうまでもなく「釈迦の十大弟子」
のこと。棟方志功がこの「十大弟子」板画で一気に国際的な
活躍のきっかけになったことは有名な話だが、この句はどこ
かの寺院での矚目だろう。この句の面白さの第一は下の句の
「糞掃衣」。本来は糞塵の中に据えられた弊衣を洗って縫い合
わせた僧衣のことで、この糞掃衣に作者は僧侶への、あるい
は仏教への熱い思いを持ったのだろう。そして糞掃衣に却っ
て誇りを見せている十大弟子に対して尊敬の念を強めてい
る。それは「秋高し」という季語にぴったりと言いとめられ
た。
丹波栗転がつてをり古窯あと     今井 和子
丹波は確か「日本八古窯」の一つだ。丹波の焼締めはその
きりりとした焼き具合が備前と並んで特徴的で、私など大好
きな古窯だ。その上、妙な装飾も無く、色もつけないのが特
徴で、まさに火色によって、紋様がかもし出される素朴なも
のだ。素朴ゆえに美しい焼締め陶だ。そして、丹波は豆とと
もに美味しい栗がとれるところとしても全国にその名が知ら
れている。太古から丹波の人は栗や豆を愛していたに違いな
いと思うと、丹波篠山という風土が丸ごと好きになろうとい
うものだ。
台風の目の瞬きを見てみたし     堀口 忠男
私はその昔、「台風の目に入った」と実感した経験を持っ
ている。伊勢湾台風がそうで、ほんの先方まで吹き荒れた暴
風が急に静まり返った。外に出てみると嘘のような静けさ
だった。そして、しばらくすると再び暴風が吹きあれ、やが
て静寂がやってきた。「瞬きを見てみたし」は私のそのとき
の心境にぴったりで、妙に共感した一句だ。
秋湿り大きくはたく瓶の塩     飯島たえ子
塩は湿気を持つと何ともこちこちに固まって往生する。こ
の句「大きくはたく」がぴたりとはまった。
秋暁や鯵百匹を釣る漁師     山田 和男
俗に「朝飯前よ」というのがあるが、朝飯前に百匹もの鯵
を釣り上げたというのだから驚く。この句、佐久島吟行のと
きの収穫のようだが積極的な取材が功を奏した句だと言え
る。つまり、作者自身も朝飯前に句種を拾い集めてきている
のだ。
母逝きて色なき風の色を知る     鈴木 恭美
痛切な思いが風にも哀しみの色を付けたのだろう。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十月号より)


恐竜の骨みな曲がり夏終わる     高橋 冬竹
小さな骨の一つ一つがパーツとなって全身を形成している
恐竜の骨格展示。その恐竜の骨が本当に曲がっているかとい
うことより、今年の夏の暑さを思うとき、掲句は俄然、説得
力をもちます。「命の危険」となるような尋常でない暑さに、
どこもかしこも降参でした。それは現存していない恐竜でさ
えきっと。また、終止形の句末から、暑さとの戦いの終わっ
た収束感が、余韻となって漂っているように感じます。
レース編む悲しき恋と気づかずに     深谷 久子
レース編みの緻密な編み目を生む熱心な手の動きと、若い
恋のひたむきさ。少し心もとない感じもする透かし模様の美
しさと、まだ行く末のわからない恋のはかなさ。毛糸を編む
あのざっくりとした温かな感じとは違う、かぎ針のもつ金属
性の光の冷たさに叶わぬ恋の行く末が重なってくるようです。
原爆の記憶貼り付く夏の石     中井 光瞬
この石はきっと人影の石。銀行の石段に座っていた人に当
たった熱線は、そこだけ黒い影となって白い石段に残りまし
た。合唱曲「消えた八月」♪熱い光の中で僕は一枚の絵になっ
た、も蘇ります。広島在住、作者の夏。
国民学校五年でありし原爆忌     東浦津也子
国民学校は特別な言葉です。戦時下の皇国の道に則った理
念により、それまで小学校と呼んでいた学校を改称。国民学
校と呼んだのは、一九四一年(昭和十六年)からの六年間だ
けです。戦後の混乱と復興、そして平成が終わろうとする今
に至る時代を思うとき、作者のみならず、私たちは等しくま
だ「戦後」を生きているのだと思います。
末伏や忍者屋敷の隠し部屋     石崎 白泉
掲句は「三伏」と題された初伏、中伏、に続く三句目。まっ
ぷく、と読むこの季語は、三伏の傍題として、立秋後の最初
の庚の日をさします。今年は八月十六日。夏の季語ながら、
立秋より一週間以上過ぎているのです。この手強いような季
語と忍者屋敷にある秘密の部屋。なんだか、術にかけられた
ような、罠を仕掛けられたような、不思議な感じの一句。
水虫君訪ねてくれし五年ぶり     柳井 健二
驚きました。なんと優しきこの一句。まるで旧友に出会え
たかのような懐かしさです。しつこい痒みで疎まれ、嫌われ
るはずの水虫に、この親愛の情。まるで「やれ打つな」の一
茶のごとき境地。俳句の広さ楽しさをまたも実感しました。
よき顔で菊に埋もれて逝かれけり     米津季恵野
親族や弔問客から手向けられた菊が、亡き人のまわりを取
り囲んでいます。天寿を全うされてのお迎えでしょうか。句
の調べは素直で温かです。哀悼の意が静かに伝わります。
目に青葉帝国ホテルのハムサンド     小柳 絲子
これは絶対おいしい。帝国ホテルは、朝ドラ「まんぷく」
のロケ地。明治村の木々の清々しい生気は、新鮮な野菜と上
等のハムを更においしくさせ、そしてきっと気持ちも満腹に。
寺田屋の裏は濠川遊び船     阿知波裕子
寺田屋は幕末二度にわたり、血なまぐさい事件の起きた歴
史の舞台。「おいごと刺せ」の科白も残る、凄惨な薩摩藩の
同志討ち、そして風呂に入っていたお龍が坂本龍馬に危機を
知らせた襲撃事件。その建物の裏手の川を船はゆっくり進み
ます。川の流れのように時は行き過ぎるだけ。寺田屋も現代
の京、伏見に乗る船も、全ては歴史の光の中の一粒に。
空調の作業着膨る庭炎暑     服部 嘉子
暑さ対策最先端の、ファンと充電器が服に取り付けられた
作業着。襟元と袖口から出る風の流れでまさに膨れて見えた
のです。炎暑に抗する現代のテクノロジーを掬い取った一句。
至宝展出て天空のアイスティー     浅野  寛
一読、スッとしたアイスティーの冷たさが、喉元を通るよ
う。ほう、くう、ティーの、長音が絶妙に配され、響きの連
なりが清涼感をもたらしています。至宝展の眼福と喉を潤す
アイスティー。午後のひととき、ティータイムの充足感。
炎熱のダッグアウトに大薬缶     喜多 豊子
ダッグアウトとは、野球場の控え席。熱中症予防のための
大薬缶も控えています。大量のお茶は冷たさを保持できるで
しょうか。グラウンドの眩しさはないものの、ベンチに陣取
る選手達の熱も感じる、炎熱のダッグアウトです。
万緑の恵那いつ来ても五平餅     田村 清美
五平餅は主に中部地方の限られた山間部に伝わる、郷土の
食べ物です。地域により形状や味付けはさまざまですが、も
てなしの心が生んだ素朴なもの。背景は、なだらかな恵那山、
美濃の山々。その緑のあふれるような生命力と御幣とも書く
長く伝えられてきた地域の歴史。掲句の歯切れのよいきっぱ
りとした調べに、懐かしい五平餅を食べたくなりました。

俳句常夜灯   堀田朋子


八月へ体を入れてしまひけり     柿本 多映
(『角川俳句』十月号「体を入れて」より)
飾りのない明らかな句。七月と八月の境界線を越えた時を
言い止めた句。なんと嫋やかな句かと息を止めた。
季語「八月」が動かないのは、日本人皆が共有している終
戦に纏わる感慨が強烈だからだ。そして作者ならではの経験
も加わっていることだろう。「入れてしまひけり」に楽々と
過ごせない月であることが伝わる。今年また、あの「八月」
を追体験しなければならない。齢を重ねても薄れないものを
迎える時の作者の心持ちに寄り添うことができる句だ。
只事が只事でなくなる句として、新鮮だ。
科学とは遠くにありて芋の露     衣川 次郎
(『俳句四季』十月号「漆黒」より)
「科学」とは何ぞやとハタと考えこんでしまった。観察・
実験・論理・数理・法則的・体系的、そんな言葉が浮かぶ。
なるほど、日常の些事に追われる私の生活では、科学など吹っ
飛んでいる。増してや句作モードに入ると、雨が降っても花
が咲いても人間に引きつけて情緒で受け止めてしまいがち。
さあ今、作者の眼前には「芋の露」が存在している。瑞々
しい芋の葉の被膜の上にコロンと水の玉。葉を揺らせば、コ
ロコロと幾つかに分かれる。離合集散の「芋の露」は楽し気
でまるで遊んでいるかのよう。いやいや、それは科学からあ
まりに遠い。乏しい知識から〝表面張力〟というものを思い
浮かべてみる。「科学」から遠くにいるようでも、実は身の
回りの殆どは科学的視点で説明できるのだろう。それは分
かっているけれど、作者はこの「芋の露」の美しさに心を奪
われているのだ。この出会いを嬉しく思っているのだ。
面白い句。「芋の露」に存在感がある。
廃屋を早めし峡の秋桜     内藤  充
(『俳句四季』十月号「初秋夜曲」より)
昨今は田舎を行けば、しばしば廃屋に出会う。家屋自体が
取り残された侘しさを纏っている。誰もがそこに人が住んで
いた頃を思い描いて、一抹の淋しさを覚える。峡の里にある
掲句の「廃屋」は、人が去ってから幾年経っているのだろう。
すでに壁面は葛などに覆われているのかもしれない。何もか
も過去・現在・未来へと変化していくことの無常を、作者は
「早めし」と表現したのだと思う。この〝し〟には強調と切
れがある。ズームを引けば、「廃屋」の回りに秋桜が群れて
咲いている。かつての主が植えてより、種を継いで咲き続け
る花。廃屋が持つイメージが、秋桜の可愛らしさを際立たせ
ている。だから余計に、廃屋は早いのだ。周到な句だと思う。
海鞘ふふみをり島々をけぶらせて     奥名 春江
(『俳句四季』十月号「秋の声」より)
「海鞘」とは不思議な生き物で、背骨を持たないのに脊索
動物だという。案外人間に近いのだ。海水中のプランクトン
を濾過して生きる。デコボコした真赤な形は、海水をたっぷ
りと含んで爆弾のようだ。「海鞘ふふみをり」とはその様子
の描写だろう。「ふふむ」とは〝乳哺〟に繋がる語で、赤児
が母乳を懸命に吸い上げ体内に取り込んでいる姿に重なる。
作者は、海鞘の切ない程の生命力に心傾けているのだと思う。
海中では海鞘の旺盛な生命の営みが、一転、海上では島々
が霧にけぶっている。幽玄で時さえ止まったような景を、作
者は取り合わせた。上下に因果関係はないだろう。島々に根
を張る木々もまた、その霧に生かされているとすれば、ただ
ひとつ〝水〟の循環により繋がっていると考えられはしない
だろうか。水の地球を思う。生命の黎明に想いが飛ぶ句だ。
冬瓜煮るゆうぞらは金色に澄み     佐藤 郁良
(『角川俳句』十月号「粗熱」より)
「冬瓜煮る」といういかにも平凡な日常の行為が、心を込
めた大切な行為に感じられる。それはひとえに、中七・下五
の美しい景との取り合わせによるものだと思う。コトコトと
何かを煮る料理は、心を落ち着かせてくれるものだ。ふと見
上げた空に心が容易く同化する。ことに冬瓜という気取りの
ない素材は、〝足を知る〟という幸せさえ感じさせてくれる。
煮るにつれて透き通っていく冬瓜は、この金色に澄み渡る「ゆ
うぞら」に繋がっている。
「ゆうぞら」と平仮名表記にしたことで、句に柔らかさと
伸びやかさが加わったようだ。それは、今ある作者の心のあ
り方そのものなのだろう。満ち足りた時間の安寧の一句。
武器だった鉄に小鳥が来てとまる     月野ぽぽな
(『俳壇』十月号「一粒」より)
口語表記の若々しい一句だ。作者はニューヨーク在住との
ことなので、街角のホールや公園などに置かれたモニュメン
トであろうか。今は動かない戦車か大砲のようなものかと思
う。もしも戦場に取り残されたものであるなら、この場面は
一層力を持つ。黒々と固く冷たい「鉄」と小さく柔らかい「小
鳥」は、それぞれ戦争と平和の象徴として、作者の眼前に交
わっている。色鳥と言われるように、秋の小鳥は殊に色彩が
美しい。鉄の黒を背景としたことで、小鳥の美しさ・可愛ら
しさはもっと際立ってくる。そこに作者は、平和の尊さと同
時に脆さを見つけられたのではないだろうか。
そしてまた、小鳥の無邪気さによって、鉄だって武器にな
りたかったわけではないことにも、想いは及ぶのである。戦
争はどこまでも人間の仕業なのだ。一句一章、「小鳥」へと
流れるように焦点が絞られている。句の奥行は深い。