No.1042 平成31年2月号

縁側に野焼の灰の到りけり うしほ

豊 橋 鬼 祭
豊橋市の安久美神戸神明神社では、毎年 2 月10 日、11 日の二日に亘って春を告げる祭として国指定重要無形民族文化財の鬼祭が行なわれる。二日間に亙り様々な行事が行われる。良く知られているのが、「天狗と赤鬼のからかい」である。荒ぶる神の赤鬼(写真)と武神天狗の争いの後、敗れた赤鬼がタンキリ飴と白い粉をまきながら境内外へ逃げ出す。この時に撒かれた粉を浴び、飴を食すると厄払いになると昔からいわれている。所在地・豊橋市八町通3-17 安久美神戸神明社。問合せ☎ 0532-52-5257。路面電車豊橋公園前下車すぐ。
写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


手袋の中の小さきハーモニカ
寒牡丹見たくて石光寺まで歩く
腹蔵のなき身の軽し七日粥
錠剤のころげやすくて寒の卓
黄鐘(おおじき)の音のやさしさもお正月
ぽつぺんを吹く少年の赤き唇
路地深く蜑小屋のあり海鼠腸抜く
向き合うて向き合うて婆海鼠腸を抜く
氏神に隣る漁具小屋海鼠腸を抜く
塀白き藤村堂や軒つらら
昨日雪降りしと藤村堂の女
藤村の墓訪ひ雪の恵那仰ぐ
寒晴れて雀の貌に力あり
白川郷合掌集落
七福神祭や雪の合掌家

真珠抄二月号より珠玉三十句 加古宗也推薦


雪女郎消ゆるココアの渦の中     大澤 萌衣
自然薯の長きを抱いて男来る     米津季恵野
臼洗ひ終へて餅屋の年用意      高濱 聡光
よく切れるペーパーナイフ憂国忌   川端 庸子
あたたかき弔辞聴きゐる年の暮    髙橋より子
大声の鴉来て散る櫨紅葉       勝山 伸子
時雨るるやこんなに広き男傘     平井  香
冬日差す床に柱に手斧彫り      烏野かつよ
通し矢のへこみに触るる小春かな   清水ヤイ子
寒菊や小走りに行く登校児      神谷つた子
大根蒔くジョウロは人をやさしくす  鶴田 和美
倫敦と書けば鬱鬱漱石忌       市川 栄司
小春日や選ぶに迷ふジャムの店    山田 和男
平成で終ふ紅葉や八ツ場ダム     堀口 忠男
冬りんご競りのはじまる道の駅    磯村 通子
短日やせがまれて描く消防車     川嵜 昭典
試験監督指にごぼうの匂ひして    山科 和子
山国のものことごとく凍る音     荻野 杏子
いか焼いて一人手酌の冬帽子     太田小夜子
冬耕や京手拭いを首に巻く      飯島たえ子
付箋にも星の輝くクリスマス     田口 茉於
神帰り賜ふ深井戸のぞき込む     深谷 久子
さば缶の品切れ続く日の短か     長崎 公子
実石榴やひとつ日記に書かぬこと   田口 風子
台風来朝からカレー煮つめをり    鈴木こう子
今日は小雪蒸したてのすまんじゆう  新部とし子
小春日や砂浴びをする雀どち     和田 郁江
義央忌冬日のつつむ家臣塚      岡田 季男
漱石と同じ背丈と知る小春      鈴木 帰心
日がな百舌鳴いて何だか忙しい日   久野 弘子

選後余滴  加古宗也


通し矢のへこみに触るる小春かな     清水ヤイ子
江戸時代、京の三十三間堂の軒下を矢継ぎ早に矢を通すと
いう射通しという競技が行われていた。三十三間堂の端から
反対の端に設置された的を射貫くというのは尋常の技術では
できない。三十三間堂の長さを真直ぐ通すというのは、よほ
どの剛弓で、しかも、よほどの技術を持っていなければでき
ない。少し上に構えようものなら軒に当たり、少し勢いが無
くなれば途中で下に落ちてしまう。「通し矢のへこみ」とは、
三十三間堂での嘱目だろう。「小春」という季語によって当
時の武人たちの心意気を讃えている。この通し矢の記録保持
者に吉良(現在の西尾市)出身の星野勘左右衛門がいる。ま
た、井原西鶴がとんでもない記録を打ち立てたといわれる「矢
数俳諧」はこの通し矢にちなんで始められたもの。西鶴の記
録に以降、対抗馬があらわれず、西鶴自身も俳諧を捨てて戯
作者に転じている。
この句、「へこみ」が何ともユーモラス。この辺りもどこ
か西鶴の匂いにかよっている。
和田金に庶民の列や十二月     高濱 聡光
「和田金」は松阪市にある高級牛肉を商う店。同時にすき
やきなどの店として東海地方では有名な名店だ。無論、そこ
で扱う牛肉は松阪牛で、日本一と言われる高級品だ。少々お
値段が高いが、そこは十二月。ボーナスも入ったことだし、
一年に一度の贅沢をしようと一家で和田金へやってきたとい
うのだ。最高級の牛肉というブランドがつくと不思議にうま
く感じられるのが、普段は食べなれていない庶民の舌だ。こ
の句「庶民の列」が面白い。ちなみに松阪に和田金につづく
高級牛肉店といわれる「牛銀」という店がある。
付箋にも星の輝くクリスマス     田口 茉於
クリスマスツリーは無論のこと、クリスマスプレゼントな
ど、クリスマスグッズにはことごとく星をかたどったものが
付けられる。クリスマスには星が似合う。付箋にまで星が付
けられることでクリスマスの祝賀ムードが盛り上げられる。
そして、楽しくなる。
悲しみを測るコンパス大枯野     荻野 杏子
杏子さんのお母さんが病床にあると聞いた。杏子さんの必
死の思いが痛ましいほど伝わってくる。ちなみに選外の一句
は〈蓑虫の糸は強いぞ雪しまく 杏子〉だ。
大根蒔くジョウロは人をやさしくす     鶴田 和美
俳句の詩情の最も重要なものの一つは意外性である。「ジョ
ウロは人をやさしくす」がそうで、種を蒔いたあとジョウロ
で水を撒きながらふとそれに気づいたのだろう。そして、こ
の一句を読みながら、私もすっかり合点し、ほのぼのとした
心地にしていただいた。私たちにとって最も身近かな野菜で
ある大根だけに一層、暖かな気持になる。
時雨るるやこんなに広き男傘     平井  香
突然、時雨が降り出したのだろう。直後に夫の拡げる傘の
中に飛び込んだ。その時、二人をすっぽり包み込んでしまう
男傘の大きさに驚くと同時に、ふっと夫が頼もしく思われた。
小春日や選ぶに迷ふジャムの店     山田 和男
小春日は人を何となく楽しくさせ、冒険心を煽ったりする
日和だ。朝食のパンにつけるジャムを買いに入った小店。そ
れが何とたくさんの種類があることか。苺、ぶどう、柑橘類
エトセトラ。予想をはるかに超える種類にさてどれにしよう
かとガラスケースの中をのぞき込む。この句「選ぶに迷ふ」
とあるが、じつは迷うこと自体を楽しんでいるようにも思わ
れる。へえ!こんなジャムが、である。
短日やせがまれて描く消防車     川嵜 照典
短日というのは、人を何となくせっかちにするものだ。や
たら焦ってしまうのはどうしてだろう。それは日本人はやっ
ぱり農耕民族だからなのか、と思ったりもする。つまり、明
るいうちに仕事をかたづけなければ、というある種の脅迫観
念のようなものを持っている。会議でも句会でも、日がかげっ
てくると急に参会者はそわそわしだす。さて、消防車という
のは複雑な形をしていて描くのに時間がかかる。子供のたの
みだから、子煩悩な作者はとてもいやと云えない。気は焦る。
消防車というのは赤く、それもまた焦りを増幅させるのだろ
う。
試験監督指にごぼうの匂ひして     山科 和子
女先生は教員であると同時に主婦でもある。二刀流はたい
へんだが仕方ない。答案用紙を配りながら、ふと指にごぼう
の匂いがすることに気付いてしまった。少し慌てた若い女先
生が想像されて、思わず頑張れといいいたくなる一句だ。
台風来朝からカレー煮つめをり     鈴木こう子
非常食としてカレーほどおいしくありがたいものはない。
備えあれば憂いなし。これも主婦の心掛けなのだ。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十二月号より)


小鳥来る家の中にも松葉杖     田口 風子
「小鳥来る」の背景にある空の大きさ、明るさが松葉杖を
使う家の日常を包んで、新鮮な味わいの一句。鳥の渡ってく
る時季、今、松葉杖の不自由さはあるもののそれも一時。やっ
てくる小鳥の声の明るさの中、しばらくは日にち薬の日々。
高麗笛の高き音色や律の風     川端 庸子
律の風は秋の風。日本では律を陰、呂を陽として律は秋の
季感。高音の澄んだ音が出るという高麗笛(こまぶえ)の哀
調を帯びた優美な音色は、律の風に適うもの。隣国の半島や
大陸からの渡来につながる、遠い歴史を思わせます。
うろこ雲けふも切り抜く旅の記事     烏野かつよ
新聞或いは雑誌から、気になった旅の記事を切り抜くのが
日課の一つになっているのでしょう。空にはたくさんの小さ
な雲のかけら。部屋には切り抜かれた旅の紙片。いつか行き
たい土地の空につながる今日の秋の空です。
夫の杖貰はれてゆく敬老日     成瀬マスミ
どういう経緯なのかわかりませんが、ご主人が使っていた
のか作られたのか、どなたかの手に渡っていくことになった
杖。それは杖のバトン。リレーされた杖は、また違う主の手
もとに置かれ、お役を担うのです。敬老の日、手から手へ。
灯明もスウィング萩のお寺ジャズ     原田 弘子
今夜はお寺でジャズライブ。コルトレーンのような難解な
ジャズとは違い、明るくノリのよいスウィングジャズです。
もう詠い出しからノってます。境内の萩の細い枝や小さな花
が、軽快なリズムをのせた風に揺れているようです。
花の名を一つ覚えて花野径     関口 一秀
秋の草花が咲き乱れる径を歩きながら、覚えた名は一つ。
自然のままの広い花野は、華やかでありつつ寂しさも内包し
ています。「一つ」は、たったの一つだけ。一つの小ささと
同時に、かけがえのない一つの重みも感じられます。
群はいや孤独なほいや敬老日     村上いちみ
「いや」「なほいや」と畳みかける大胆な措辞に敬服。そし
て深く頷いてしまいます。烏合の衆とはなりたくない、でも
一人ぼっちにされるのも不本意。敬老の日の矍鑠とした作者
の感慨。こちらの背筋も思わず伸びる矜持に感服の一句。
運動会空は一枚山彦も     加藤 久子
下五に「山彦も」ときたことでぐっと展開が開けました。
そこは山々に囲まれた学校。段雷や音楽が辺りに反響して聞
こえます。青く澄んだ空の下、気持ちのよい運動会です。
迷子めく札をぶら下げ敬老会     久野 弘子
「迷子めく」はちょっと間違ったら、本当の迷子になるか
もしれない危険をはらんでの措辞。「めく」が絶妙に効いて
います。敬老会の皆さんも、ビジネスマンも認証札の現代。
秋の暮指を離れぬハーブの香     岡田つばな
秋の暮の新しい感覚の一句。もの寂しい秋の情感だけでは
なく、そこに加わった嗅覚、ハーブの香。日の落ちてゆく暗
さと冷えの中、指先のハーブの香に一興を感じたのでしょう。
爽やかやういろも片やういろうも     奥平ひかる
大須ういろと青柳ういろう。外郎は、山口、小田原等全国
各地にある名物。全国的に名古屋名物となったのは、二社の
切磋琢磨が大きいとか。結果、地域貢献にも一役。
ダンボール電車走るよ運動会     水谷  螢
こちらの運動会はきっと幼稚園か保育園。段ボール電車の
手作り感と「走るよ」のよの温かさ。親、祖父母を始め、多
くの大人に見守れ育まれていく、今が伸び盛りの運動会です。
どんぐりを落葉二枚で買ふと言ふ     稲吉 柏葉
「買ふと言ふ」の客観的な描写に、その場面の様子が立体
的に立ち上がってきます。子どもの同士のやりとりの中にあ
る素朴な懐かしさ。童話のような郷愁の余韻が広がります。
夕闇に飲み込まれゆく吾亦紅     渡辺 悦子
榛名山の麓で見た吾亦紅は、錆びた色ではなく澄んだ赤紫
のような色でした。辺りは薄暗くなり吾亦紅の明るさも吸い
込まれ、そこに立つ人影もまた闇に同化していくようです。
山掛けてもぐる蒲団や試験前夜     平野  文
この試験は「赤城山検定」試験。山の検定試験に山を掛け
て?後は野となれ山となれ。結句の音数も、もうよしとして、
さっさと蒲団へ。大胆さを暖かくくるんでくれる蒲団です。
重治さん声出して呼ぶ星月夜     犬塚 房江
言霊の力。声に出してその名を呼ぶことで、遠い存在の人
が自分のそばに来てくれるような、痛切な思い。月のない星
明りの美しい夜、出した言葉の響きに哀切の念が伝わります。

俳句常夜灯   堀田朋子


鮒塚の影置く九条葱畑     大山 文子
(『俳壇』十二月号「紅白俳句合戦」より)
冬の凍てに張りつめた空気の中、川辺に広がる一面の葱畑
の光景は清々しい。葱はピンと天を指し、丈と列をそろえて
いる。そこに「鮒塚」がひっそり立っている。「影置く」と
いう修辞により、冬晴れのしっかりとした日差しと、塚の存
在の確かさを感じる。かつては鮒は農村において貴重な食糧
であり、京都近郊ともなれば、投網などで鮒を捕らえて、町
へ売りにゆくことを生業とした人々もいただろう。彼等が、
鮒への殺生を詫び、感謝して建てた供養碑の意味は深い。
蛇行する川が見える。九条葱の新鮮な青と透明な冬の青空
が眩しい。「鮒塚」を基点として掲句の空間は無限に広がっ
ていく。そして、時間もまた過去へと遠く遡っていくようだ。
甘美なる戦慄に風邪兆しくる     甲斐由起子
(『俳壇』十二月号「紅白俳句合戦」より)
風邪の予兆を「甘美なる戦慄」と捉えるとは面白い。戦慄
は恐れを意味するが、それが甘美とはどういうことだろう。
きっと作者は、いくつもの役目を負ってお忙しい方かと思う。
ふっと〝あら風邪引いたかな〟と気づく。重くなると困る。
あれをし終えていない、これもしなければと頭の中で現実的
な不都合が廻る。それでも早くも風邪の症状がでているよう
だ。ぼんやりとして他人事のように思えたりする。声も自分
のものでないような。この際、風邪を口実にして一日休んで
みようかと、背徳な考えがよぎる。と想像するのは、私が怠
け者だからでしょうか。作者の「甘美」とはいかなるものか。
独自の感性によって、唯一の表現で言い止めた句だと思う。
雁が音や骨肉あわくかみあえり     増田まさみ
(『俳句四季』十二月号「冬桜」より)
雁は、古来より、姿よりも声を愛でられてきたのだとか。
よって「雁が音」という雅な季語が存在する。その身一つで
鳴き交わしながら、北方より数千キロを渡って来る。その姿
に、人々は秋の深まりを知ると同時に、今年も無事に渡って
来てくれたことを称賛し、嬉しさをも感じるのだろう。
「骨肉あわくかみあえり」の慈愛ある着眼が素晴らしい。
なるほど雁は骨と肉とでできた生き物だ。けれどそれだけで
はない。温みという生きるエネルギーを帯びてもいる。刻々
と変化する外界の状況に臨機応変に対応する、しなやかさと
強靱さも備えている。そのことを作者は「あわくかみあえり」
という言葉に込められたのではないだろううか。それは雁だ
けではない。自分もまたそういう生き物でありたいという願
いがあるのだ。熱を持つ生き物全体への賛歌とも言えようか。
樹に寄れば平らなからだ秋気澄む     高勢 祥子
(『俳句四季』十二月号「平らなからだ」より)
人は時に、無性に心惹かれる樹に出会うことがある。その
樹に抱かれたくて駆け寄る。両腕を開いてペタリと樹の丸み
に自らの身体を纏いつかせてみる。背中を柔らかくして堅い
樹の形にそわせるように凭れかかってもみる。その時、作者
は気づいたのだ。自分が「平らなからだ」だということに。
それは、樹が持つ生命力と素直に交感して、神聖な霊力のよ
うなものを得ている身体ということではなかろうか。
自然の中で気負うことなく心を開くことのできる「平らな
からだ」が羨ましい。まさに「秋気澄む」の季感が句を包ん
でいる。作者の身体感覚のリアルから生まれた句が好きだ。
古暦今も廊下の奥がある     亀田虎童子
(『俳句四季』十二月号「巻頭句」より)
渡邉白泉の「戦争が廊下の奥に立ってゐた」の句が前提と
してあるのは明白だ。この句は無季であることに物議を醸す
こともあるようだが、力ある句なのは疑いようもない。日中
戦争から太平洋戦争へと向かう時代に詠まれた句であれば、
季節感さえ色褪せていたと頷ける。ある意味、「無季」とい
う季を詠んだ句だと考えられはしないだろうか。
様々な方面から来年のカレンダーを頂く頃となったが、今
年一杯はまだ用のある「古暦」。十二月のページ、開戦日に
目が留まった作者の脳中に白泉の句が去来して、掲句が生ま
れたのだろう。作者も、そういう時代に多感な頃を生きられ
た方だ。「廊下の奥」にあるものを体験されたからこそ、現
代にも戦争が潜んでいる気配を感じとっておられるのであろ
う。多くの国が自己中心の正義をかざして行動する今は危う
い。「古暦」は、そんなことを思い起こす物でもあるのだな。
逝く夏の月光に瞽女曼陀羅図     水上 孤城
(『俳壇』十二月号「瞽女を偲ぶ」より)
〝最後の瞽女〟と言われた瞽女唄の人間国宝『小林ハル』
さんの特集番組を興味深く観たことがある。瞽女は毎日歩く。
ハルさんは、生涯に地球十周分を歩いたそうだ。娯楽に乏し
い時代に村から村へと、人々に楽しみと感動を届けた。彼女
達の弾き唄いは、時に底抜けに明るく、時に哀切の極みを帯
びていたという。
掲句は、長野市在住の作者が詠まれた、瞽女を偲ぶ十句中
の一句。山間の村か、瞽女唄は闌だ。「逝く夏の月光」が彼
女達を照らし出している。まるで「曼陀羅図」のように。彼
女達の姿や精神性が、仏か菩薩のごとく感じられるというこ
となのだろう。瞽女は弁財天を深く信仰していたという。歓
待する人々が、盲目の瞽女に一種の神性のようなものを感じ
ていたのだと思う。神仏と交わる芸能が滅んで行く。「瞽女」
という存在を忘れさせたくないという作者の渾身の思いが、
椀に満ちた十句だ。切なくて力強い。