No.1044 平成31年4月号

餅花や障子の桟のうす埃  うしほ

日長の御馬頭祭り
知多市の日長神社での御馬頭祭り(おまんとまつり)は農耕馬や、荷役馬、軍馬などの供養がその始まりと言われていた祭りであるが。今では、鞍に御幣。高張針提灯、囃子、標具巻などで飾り付けた馬が 4 人の引き手に引かれて日長神社の大門の四辻に集合。飾り馬が集まると順番に大門の通りを往復する。各地区ごとに色の異なる半纏、もも引き、派手やかな装いが楽しめる。今年は 4 月14 日に行われる。知多市無形民族文化財に指定されている。所在地・知多市日長字森下 4 。問合せ先・知多市岡田字段戸坊 5 ・知多市観光協会・電話0562-51-5637。名鉄常滑線日長駅下車徒歩 5 分。車でのアクセスは伊勢湾岸自動車道東海IC より10 分。
写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


志賀高原・地獄谷温泉
底冷ゆる谷間や猿の糞並ぶ
木地師の郷・小椋を訪う
落葉積む維高親王幽棲地
高松御所 三句
冬の日や鈍色見せて菊花紋
冬簾吊りて御所てふ禅の寺
水音のきりなく冬の轆轤谷
寒波頬打つ氏神は軍神
北風や樫垣(かしぐね)に添ひ城に入る
石庭の波美しく寒替る
馬籠坂 三句
初雪や藤村堂の冠木門
初雪や小幅愛しき下駄の跡
雪晴や軒下で売るねずこ下駄
松過ぎの松を大事に門に差す
豊川稲荷
猿廻し来てお稲荷の大鳥居
猿廻し猿の烏帽子の傾ぐまま
リズムよく打てばはづみぬ土竜打
土竜打下の畑から上の畑
足踏みをゆるめぬままに悴める
初旅や京都三條橋たもと
大河の寒蜆掻く薄暮かな

真珠抄四月号より珠玉三十句 加古宗也推薦


アルプスの雪嶺を愛で山御飯      山田 和男
息白く押す旅立ちの娘の鞄       清水ヤイ子
バスを待つ母と子の手話春隣      加島 照子
寒四郎トローチ舌にころがして     工藤 弘子
日脚伸ぶむかし電話を借りし家     高濱 聡光
厳寒や根菜どさと鍋支度        岡田 季男
駄菓子屋に剣玉もあり冬あたたか    石崎 白泉
寒明の千木をこぼるる雀かな      鈴木 玲子
白鳥の重みに氷沈みけり        堀口 忠男
地虫出づ信念といふ力もて       牧野 暁行
救急車に手を振り合図寒の朝      稲垣 まき
春待つてをり啄木の女々しき字     田口 風子
梅二月伊勢型紙の刀とぎて       酒井 英子
シスターの足早や二月果つる日の    深谷 久子
雪花菜煮て甦る日のありにけり     丹波美代子
凍蝶の巌の黙を吸うてをり       堀田 朋子
トーシューズ置く如月の飾り窓     服部くらら
お年玉はたき添寝のハーモニカ     村上いちみ
冴返る認知機能の検査明日       服部 喜子
如月や水を吸ひゆく粗砥石       稲吉 柏葉
たらの芽の天ぷらを置き二人卓     東浦津也子
満席の皆マスクしてのぞみ号      中野こと葉
しもやけの親子四代足小趾       池田真佐子
しまひ湯の柚子としばらく遊びけり   水野 幸子
大寒や明治の医院毀さるる       浅井 静子
登校児に踏み尽くされし薄氷      髙相 光穂
早春の庭にも一つ休み椅子       服部  守
起き抜けの夫が不機嫌根深汁      田村 清美
柚子を切る夫や私の言ふ通り      山科 和子
奥の灯は消され書店の底冷す      原田 弘子

選後余滴  加古宗也


追儺寺赤鬼青鬼控室     田口 風子
日本の伝統や説話の中には、しばしば鬼が登場してくる。
そして、そこに登場してくる鬼たちは、文字通り鬼である場
合とときに愛すべきキャラクターである場合とがある。とこ
ろで、節分の豆撒きに登場する鬼はどうかと考えてみるとこ
れがどういうわけか両方の性格を備えているように思われ
る。「鬼は外、福は内」と唱えながら豆を鬼に投げつける。
投げつけながら豆を除けようとする鬼を、確かに愛しく思っ
ているような気がする。当然のことながら豆撒きの主人公は
年男ではなく鬼であることに参加者全員が気づいている。赤
鬼、青鬼の控え室を覗き込んで、鬼たちは控室でどんな風に
出番を待っているのかすばやく見ている。信仰の形を取りな
がら、同時にそれを心のリフレッシュに活用するのが、日本
人の優れた資質なのだ。
寒の夜や記憶途切れし娘を抱く     稲垣 まき
強い精神的なショックによって、人間は一時的に記憶を失
うことがある。この句について、作者は私に夫の死のことを
告げられた。即ち、父親の看病に当っていた娘さんが、父親
の死に直面したとき、その死を肯定したくないという強烈な
思いが、死という事実をも記憶から消し去ってしまった、と
いうのだ。愛とはそういうものなのだろう。
地虫出づ信念といふ力もて     牧野 暁行
「啓蟄」「地虫出づ」。冬眠から覚めた虫たちが、地中から
春の日刺しを求めて出てくる。じつは作者も、昨年春の句碑
除幕の後、体調を崩していたが、目下、少しずつではあるが
回復の方向に向かっている。作者は周知のように、若竹同人
会長、東海俳句作家会会長であり、その職責を早く全うでき
る状態へ持っていこうという強い思いがある。そして、作者
は元教員として慕われており友人、知人の信望も厚い。「病
いは気から」という言葉もあるが、本復への強い思い責任感
が、「信念」という言葉に凝縮されている、「信念といふ力も
て」がうれしい。
白鳥の重みに氷沈みけり     堀口 忠男
白鳥が氷の上に降りたった瞬間に、その重みで氷が沈んだ
というのだ。一見何でもない句のように見えるが、重さを視
覚で捕らえた力は素晴しい。しかも、その瞬間が映像として、
ダイナミックに復元させたのは見事だ。さらに、白鳥の大き
さ、周りの風景も見えてくる。俳句は風土の詩。
日脚伸ぶむかし電話を借りし家     高濱 聡光
そういえば、昔は携帯電話というものがなかった。さらに
その前は公衆電話もちょっと田舎に行くとめったに見つける
ことができなかった。その頃、訪ねた村に久しぶりに作者が
やってきたのだ。人の心を最も優しく満たしてくれるものに
「懐しさ」がある。「むかし電話を借りし家」には懐しいドラ
マがあり、いま再び新たなドラマが始まりそうな予感がある。
柚子を切る夫や私の言ふ通り     山科 和子
ほほえましい一句だ。夫婦仲がいいことほど美しいことは
ない。誰か武者小路実篤はそんなことを言ったような気がす
る。柚子を切って、さて何に添えられるのだろうか。焼魚か、
あるいは酢のものか。「亭主関白」という言葉があるが、そ
れでうまくいっている家庭はその昔ならいざ知らずいまはあ
りえない。「夫や私の言ふ通り」は亭主を尻の下に敷いてい
るという感覚ではなく、夫にぞっこん惚れ込んでいる作者な
のだ。柚子は何ともすっぱいが、すっぱいから好きというの
もある。久しぶりのおのろけ俳句につい苦笑いをしてしまっ
た。
アルプスの雪嶺を愛で山御飯     山田 和男
作者は山男である。冬山の経験を持たない私は、冬山がど
ういうものであるのかわからない。冬山は危険がいっぱいで
ある。むろん、そんなことは承知の上で、山を愛する男たち
は冬山へ登る。掲出句を見て、冬山を愛するとは「雪嶺」即
ち冬山の美しさが魅力の一つかとも思われたし、さらにもう
一つ「山御飯」のおいしさなのだと確信めいて思われた。
厳寒や根菜どさと鍋仕度     岡田 季男
「芋力」という言葉があるが、根菜類には人間を元気にし
てくれる力があるようだ。「厳寒」と「鍋仕度」と二つの季
語が入っているが、この二つはけっしてぶつかり合うことな
く、いや逆に、厳寒であるからこその鍋料理なのだ。しかも、
根菜類をたっぷり入れて大地の力をいただく。作者は、男ら
しさを自然に表現できる俳人として、若竹の重要な一角を占
めている。
バスを待つ母と子の手話春隣     加島 照子
「手話」はいうまでなく耳の不自由な人たちの会話を成立
させるために考え出された。手話の母子の表情は明るい。作
者は心の中で、お幸せに、と声をかけている。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(二月号より)


軒深く冬菜を吊りて初瀬村     川端 庸子
百人一首でお馴染み「うかりける人を初瀬の山おろしよ」
の「初瀬」です。また山に囲まれた所を表す「隠国(こもり
く)」は初瀬にかかる枕詞でした。食材の調達しにくい冬、
昔ながらの農村の景に、隠れ里としての背景も加わり、世俗
を離れた閑寂さを感じられる一句です。
陵の川涸るるまま湖に出る     田口 風子
菅浦の須賀神社には、淳仁天皇の墓として舟形御陵がひっ
そりと守られ残っています。白州正子が見出した里の、蕭条
たる冬の景が「川涸るまま」に象徴されているようです。
水煙の天女が吹けり虎落笛     島崎多津恵
なんと美しい響きの虎落笛でしょうか。水煙とは、塔の九
輪の上にある火焔形の飾りだそうです。火を避けるという意
味から工匠がそう呼んだらしく、天人の舞う姿が彫り込まれ
たものもあるとか。冬の烈風も水煙の天女の辺りを通るとき、
この世のものではない、雅な響きを含むのかもしれません。
特売の肉を買ひ足す薬喰     濱嶋 君江
頼もしい。在る肉にさらに「買ひ足す」それも「特売」と
なれば二重に頼もしい。作者九十三歳となれば、三重に頼も
しい。肉はやはりエネルギーの元。薬喰の本意に適う一句。
湯に降るは富山しぐれと申すべく     清水みな子
今日一日の旅の疲れを癒してくれるかのようなたっぷりの
湯。そこに、一日降りみ降らずみの雨が、今また降っていま
す。夜の闇に降る雨粒の光の雫が、旅情を誘う一句です。
凍蝶の捨て舟のごと吹かれをり     小柳 絲子
三好達治に「蟻が/蝶の羽をひいて行く/ああ/ヨットの
やうだ」という詩がありました。掲句では「凍蝶」を主眼と
し、その命を詠っています。凛烈たる大気の中、寒風にさら
されじっと耐えているかのような蝶の姿を「捨て舟」ととら
えた作者の透徹した目。寄る辺ない生き物の存在の確かさ。
寒鴉時報待たずに帰りけり     三矢らく子
何ともおかしい。鳥ですから、人間社会の時の流れなどお
構いなしに行動して当たり前なのですが、人なみの扱い。ベー
スには「ゆうやけこやけ」の、からすといっしょに帰りましょ
う♪があるのでしょうか。あっさりと詠みながら、単に郷愁
に留まらない俳味が加わった新しい感覚の一句。
男の子にも子ども包丁買ふ小春     天野れい子
実は掲句と中七下五が全く同じ句を作りましたが、軍配が
上がるのはこちらです。今のご時世、「男の子にも」の方が断
然おもしろい。男子厨房に入る、現代の一句です。
山茶花や九九を諳んじつつ帰り     田口 茉於
次々と咲き継ぐ山茶花の花の多さと、はらはらとこぼれる
ような花弁の散り方。九九のたくさんの数字の並びと唱える
ような覚え方。山茶花と九九、二つの言葉が綾となり響き合っ
ています。句の調べから、まだ九九を完璧に覚えきっていな
いような印象も受ける、冬の日の帰り道。
句座満座笑顔の揃う小春句座     吉見 ひで
小春の陽気、明るさに満ちあふれています。座の文芸であ
る俳句の楽しさが「座」の畳みかけによってさらに高まりま
す。まさに句碑まつりにふさわしい、晴れやかな一句。
アトリエにパイプが五本冬ぬくし     烏野かつよ
荻須記念館を来訪しての吟。画伯にとって絵筆を離れ、気
に入ったパイプを燻らすのは、ほっとする休息のとき。かつ
てのその安らぎに、時空を超えて「冬ぬくし」が重なります。
三十年「第九」に問ひて年送る     渡辺 悦子
年末の第九は今や、各地で市民参加の合唱の定番となって
います。歌われたのか、聴かれたのか、原語なのか、日本語
の訳詞なのか。わかることは「三十年」という長い年月と「問
ひて」から来る慮り。「歓喜の歌」に寄せる内省的な思いが「年
送る」の季語と絶妙に響き合っています。
「かます」なる言葉懐かし小春かな     柘植 草風
朧気ですが、「かさこじぞう」の最後の場面、じいさまの
家に届けられた米俵のほか、野菜等が入っていたのが「かま
す」だったと記憶しています。かますは藁むしろを二つ折り
にした袋。むかし話の結末と相まって伝わる小春の温もり。
白マスク俺だ俺だと言はれても     水野由美子
白が効いています。「おれおれ詐欺」を連想させる措辞に
対して、潔白の正しい白いマスク。不審者?を前に作者困惑
の一場面。マスクを外せば、案外、なあんだとなるのかも。
品ぞろえ念入りにして十二月     後藤さかえ
いかにも締めの月にふさわしい。大きな店舗ではないのか
もしれませんが、商いに向かう心構えや丁寧な仕事ぶりが伝
わります。そして、卒寿を過ぎた作者の気概も感じられます。

俳句常夜灯   堀田朋子


葛晒す上澄みの月捨てながら     野中 亮介
(『角川俳句』二月号「瞳」より)
「葛晒す」とは、葛の地下茎から抽出したデンプンを水を
替えながら攪拌と沈殿を繰り返していく工程。灰汁で褐色の
デンプンが次第に白く純粋な「葛」となる。特に寒中の水は
良質の「葛」をもたらしてくれるという。掲句はそろそろ仕
上げに近いのではなかろうか。「上澄みの月」は、煌々と輝
く寒の月の本来の色を取り戻しつつあるようだ。
中七・下五の美しい修辞によって、厳寒の夜の作業であり
ながら、この仕事に向かう真摯さと喜びがしみじみと伝わっ
てくる。物を作る時の清明な心のあり様に憧憬を覚える。水
の精、月の精といったものに助けられて、真っ白な「葛」と
なるのではなかろうか。そんな不思議を感じる一句だ。
告げるやうにも諭すやうにも息白し     中田  剛
(『角川俳句』二月号「一瞥」より)
句の状況が確定できない。告げているのが作者なのか、或
いは告げられている方か。はたまた、そんな光景を離れた所
から見つめているのか。そんな設定が面白いと思う。
そもそも、何を告げているのかも諭しているのかも定かで
ないようだ。戸外の寒空の下なのか、体育館のような広くて
寒々とした部屋なのか、場所も特定されていない。それらは、
読み手の想像にまかされている。つまり、ただ「息白し」の
一点に焦点が絞られているということが面白いのだと思う。
掲句の「息白し」には空間の寒さだけでないものが見える。
語り手の聞き手に対する熱意が感じられる。それが熱ければ
熱いほど、息の白さは濃密になるのだろう。けれど、その熱
意も聞き手にとっては受け入れ難いものかも知れない。そん
な想像さえ許してくれる楽しい句だ。
測量の敬語飛び交ふ小春かな     山崎千枝子
(『俳句四季』二月号「紅葉宿」より)
冬とは言え春のような日和の日、つい散歩の足を延ばして
みたら、なにやら測量の場面に出くわした。数人の測量士達
がそれぞれの役割を担って作業を進めている。一つのチーム
には、同じ作業服に身を包んでいても、ベテラン・中堅・新
米の年功序列があるようだ。通りがかりに「敬語飛び交う」
様子を耳にする。新米は経験豊かな先輩たちを敬い、中堅は
ベテランに一目置いているのだろう。その無理のない自然な
会話に、ほっとするような嬉しい気持ちになった作者がいる。
まさに「小春」にぴったり呼応する心持ちだ。
敬語というものが、共同作業をする人と人の間で秩序を作
り、潤滑油となっていることに、私達は安心を感じるらしい。
いちめんの寒雲を背に投函す     仮屋 賢一
(『俳句四季』二月号「息継」より)
「寒雲」がとても効いている。冬ではない寒の雲なのだ。
まして「いちめん」を覆っているという。寒々として重たそ
うな「寒雲」が表象するのは、恐れ・不安・後悔といったも
のだろうか。作者の心中にもそういった感情があるように察
せられる。しかし、作者はそれらに囚われているわけではな
いと感じる。「背に」という言葉に、掲句の鍵があるように
思えてくるのだ。決して「寒雲」に向いているわけではない。
背を向けているのだから。
郵便ポストは、希望への入り口。書状には期待が込められ
ている。そう考えると、掲句は一転、希望を予感する句と成
り得る。前向きで力強い句なのだ。私はそう読みたいと思う。
生なましく生きよ生きよと蚯蚓鳴く     安西  篤
(『俳句四季』二月号「特別作品四〇句」より)
金子兜太氏を送って一年、新たに発足した『海原』を率い
られている作者の渾身の四〇句中の一句。風にも日にも、鳥
や虫や草木を見ても、そのあらゆるものに俳人「兜太」が立
ち上がった来る一年であったことが伝わってくる。
掲句は、四〇句の中で最も平明で直截な句だ。蚯蚓は生ま
れた土の中で土を食べ土を排出して生きていく。泥臭い生き
様だが、蚯蚓によって土壌は生き返るという。この風土に根
ざした究極の生き方は「兜太」俳句に繋がる。ついつい美意
識のようなものに引っ張られてしまいがちな時、「生なまし
く生きよ」の檄にははっとさせられる。「蚯蚓鳴く」という
季語は浪漫的ではあるが、一方で〝何かを捨てて何かを得る〟
という切実な意味も含んでいるのではなかろうか。
「生」という字の繰り返しに、先師の踏襲だけにとどまる
わけにはいかないという、作者自身の生き方の模索と希求の
真剣さが迫ってくるようだ。
猟銃音の透明な穴冬の空     鈴木 章和
(『角川俳句』二月号「震生湖畔」より)
山辺か湖畔か、突然、鋭い「猟銃音」が辺りを震わせる。
音とは普通上下左右三六〇度、三次元的に拡散するように伝
わっていくものだ。だが掲句では、まるで弾丸そのものとなっ
て空気中に「透明な穴」を穿っていったという。それは、単
なる音ではなく、「猟銃音」の持つ不穏さ所以であろうと思う。
生あるものは皆、死に近いその音に胸を貫かれるはずだ。「透
明な穴」は作者の胸にも穿たれたのであろう。音が去って、
心身のこわばりが解けた時、何事もなかったかのような「冬
の空」に気がついた作者。雪雲に覆われてどんよりとした冬
空もあるが、掲句の冬空は、乾いた冬の青空がふさわしいと
思う。その硬質な空は、穿たれた穴から「猟銃音」を遠い宇
宙へと逃してくれるはず。この季語は動かない。