No.1046 令和元年6月号

ふと気づく鞄の黴や山の宿 うしほ

大高斎田御田植祭
熱田神宮の境内外摂社である名古屋市緑区の氷上姉子神社にある斎田で水玉模様の着物姿で、手甲、脚絆、菅笠を身に着けた早乙女(写真)によるお田植祭りの行事が行われる。この早乙女姿の女性たちは田植歌に合わせて田舞を舞い、さらに、男性の奉耕者の介添えで早苗を斎田に植えて五穀豊穣を祈る祭りが行われる。今年は、6 月23 日に行われる。場所・名古屋市緑区大高町火山1 の3・氷上姉子神社。問い合わせ先・熱田神宮 ☎ 052-671-4153。最寄駅・東海道線・大高駅。 写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


薫風や五指になじめる能登漆器
万緑や振子電車は木曽に入る
浴室用座椅子を尻に草むしり
園丁の白き軍手や屁草引く
里山といふ安らぎや青嵐
陶榻に座し杜若見てをりし
跼み引く草に深き香修司の忌
鈴木いはほ・隆子夫妻句集『夕納涼』上梓
夫婦句集座右に引き寄せビール抜く
蛇の目傘好きと云ふ人花菜雨
ためらへる鍬里山の蛇苺
安曇野やちひろの芥子の風に舞ふ
憲法の日や青春の反戦歌
みどりの日イムジン河の歌うたふ
諏訪大社にて二句
薫風に座し伶人の笛を吹く
畑中に万治仏ありうまごやし
南木曽にはよき木地師ゐて柏餅
春キャベツふんだんに盛りアジフライ
奥三河
鞍掛山に雨雲かかり蛙鳴く
貝塚の貝ポケットに聖五月
貝塚に佇ち草笛を吹く男
白牡丹崩れ本覚坊遺文
麦秋の村やお焦げの匂ひあり

真珠抄六月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


空堀の菜の花蝶と化す日和     成瀬マスミ
裏山に水の音して桜冷え      髙橋より子
いざ出陣新人教師手弁当      高木たつみ
清明や太く湧水落つる音      春山  泉
風光る夫のパスワードを知らず   田口 茉於
春禽や此処は都々逸発祥地     石崎 白泉
恋猫に昼のありけり眠りけり    田口 風子
芽柳や風をいなして日を掬ふ    鈴木 玲子
水底の影も流れて花筏       江川 貞代
歩かねば歩けなくなる草若葉    丹波美代子
花時や天守礎石をひとつ飛び    川嵜 昭典
木蓮の開ききるまで風よ待て    鶴田 和美
戦国の出城春田の真ん中に     加島 孝允
一本の桜に富士の鎮もれる     稲石 總子
冗談を残し父逝く四月馬鹿     中野こと葉
汽笛いま花の山よりよく聞こえ   鈴木美江子
すみれ草店主一人の喫茶店     前田八世位
剪定を終えて理髪の蒸しタオル   村上いちみ
花ふぶき線路跡地に木のベンチ   鈴木こう子
雉子鳴くや川より低き農具小屋   高柳由利子
玉眼に強き意志あり春の雷     池田真佐子
空席のシルバーシート春寒し    柳井 健二
ほめるたび初音上手になりにけり  平井  香
童心をしまつて長しチューリップ  竹原多枝子
禁漁日海女の屋台で昆布買うて   酒井 英子
手みじかの紙に句とどむ目借時   髙橋 冬竹
陽炎の底掘る遺跡調査員      島崎多津恵
春愁や霊狐に預くこと数多     岡田つばな
のどけしやベンチひとつの無人駅  鈴木 恭美
暁やふつくら九条葱坊主      荻野 杏子

選後余滴  加古宗也


清明や太く湧水落つる音     春山  泉
「清明」は二十四節季の一つで、春分から十五日目、つま
り四月五日ごろにあたる。万物が潑剌としている季節という
ことなのだろう。湧水にも力が満ち満ちて、しかも、透明で
美しい。群馬県高崎市のかつて群馬町と呼ばれていた地区で
新幹線工事が行われていたとき、突然に大量の水が湧き出し
た。その水をどうするかという議論になったとき、この湧水
を利用した公園づくりが提案され実現した。全国でも珍しい
公園で、しかも、その大量の湧水の量は尋常ではない。ゆえ
にその透明度も抜群だ。音をたてて流れ、音をたてて池に落
ち込む。残り鴨が泳ぎを楽しみ、若草が甘い香りをたててい
た。この句、「太く」の措辞に強いリアリティがあって心地
よい。視覚・聴覚を満足させるのに過不足がない。
童心をしまつて長しチユーリツプ     竹原多枝子
芭蕉は「俳諧は三尺(さんせき)の童にさせよ」といった
というが、忙しい日常の中で、ついつい童心を忘れがちだ。
人には原風景というものがあるが、チューリップが植わった
花壇などもその一つとして持っている人が多い。童心にある
ときの安らぎは格別なのにどうして人間はすぐにそれをどこ
かに見失ってしまうのだろうか。チューリップを見たとき俳
人であることの幸せをふと思ったりする。
歩かねば歩けなくなる草若葉     丹波美代子
目と耳の衰えは老化の表れとして誰もが気にかかるところ
だし、日常の中でしばしば「老い」を意識させられるところ
だ。ところが、見方によっては、目耳は不自由といっても直
ちに健康と直結するものではないが、足の衰えは如何ともし
がたい危険信号だと言ってはばからない。「歩けない」とい
うことは、まず、自立から遠ざかることであり、思いもかけ
ない余病の原因にもなる。草若葉の生命力に魅せられて、自
らを励ます作者のいじらしさが美しい。「歩かねば歩けなく
なる」は平易な表現だが、強い説得力を持って読み手の胸に
せまる。
風光る夫のパスワードを知らず     田口 茉於
「夫のパスワードを知らず」といわれてみると確かに私も
そうだと思う。夫婦のことはお互いにわかり合っていると思
い込んでいるが意外にそうでもないことに気づいたというの
だ。そして、それはそれでいいんだという答えが自問自答の
ように戻ってくる。逆に何もかも全てをわかってしまったと
したら、それは幸せなことだろうかと思えてくる。「風光る」
という季語が鋭い。
田楽で孫の胃袋つかむ妻     鶴田 知美
孫の大好物の田楽をつくることで、孫の関心を見事にひき
つけている妻。これにはかなわない、という思いと同時に、
自分のやきもちにも幸せを感じている作者なのだ。むろん作
者の胃袋も妻の田楽につかまれている。
頼朝の墓域明るし藪椿     高橋より子
作者は度々鎌倉へ出かけている。そして、鎌倉をまちがい
なく愛している。「頼朝の墓域明るし」と本来なら墓域など
は暗いものだが、頼朝びいきゆえの明るしなのだ。落椿が墓
域を明るくしているだけでなく、頼朝びいきが、墓域を明る
く感じさせていると見るのが自然だろう。鎌倉はいうまでも
なく武家政治の本格的に始まったところ、そこが奈良や京都
と決定的に魅力を異にするところだろう。《裏山に水の音し
て桜冷え》も鎌倉らしい風土を心地よく伝えてくれる一句だ。
汽笛いま花の山よりよく聞こゆ     鈴木美江子
SL人気は根強い。それは郷愁を越えている。子供は無論
のこと、大人もSLファンが多い。この句はおそらく、愛知
県西尾市幡豆町にある「愛知こどもの国」を詠んだものだろ
う。作者はこの「愛知こどもの国」のすぐ近くに暮らしてい
る。日曜日には、小型SLが運転され、汽笛の音が聞こえて
くるのだろう。この句も、聞こえたとたんに童心に帰ってい
るところがいい。しかも「花の山より」なのだから、まさに
メルヘンの世界にしばし浸っている。
すみれ草店主一人の喫茶店     前田八世位
場末の喫茶店、しかも、ほとんど常連客以外は来ないであ
ろう喫茶店が想像される。けっして大儲けとはいかないが何
とか老夫婦二人が暮すくらいの客は入る。カウンターの上に
小さなすみれを植えた鉢が置かれているあたりが、暖かく気
張らない喫茶店主の人柄が見えてきて、好ましい。こういう
店主に限ってコーヒーの味については一家言を持っているも
のだ。
冗談を残し父逝く四月馬鹿     中野こと葉
あまりにも衝撃的な一句で、本欄に取り上げるべきかどう
か迷った。作者に取って「冗談じゃないよ」という思いだっ
たろうと思う。「四月馬鹿」という季語がこんなに悲しくひ
びいた句は初めて見た。これ以上、何も書かけない。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(四月号より)


足助直してふ塩問屋雛飾る     酒井 英子
「吉良も赤穂も仲良し塩」とは売り文句の一節。江戸時代
より交通の要衝であった、足助の地では三河の塩も瀬戸内の
塩も混ぜ合わせ、塩尻まで運んでいました。各地の塩を混ぜ
合わせることで、品質や量が均一化され角がとれるそうです。
地域に根ざした昔から続く人々の営みと、今に続くお雛さま
を飾る風習。遠い歴史の端に今の生活がつながっています。
一杯の白湯に力や寒旱     堀田 朋子
一杯の白湯に頂く力とは、清浄なるものの力。一旦沸騰さ
せた真水を体の中へ入れることによって、得た活力。このたっ
た一杯が、限りない力を生むかのような。乾燥した冷たい大
気に向かう力が、体の中から自ずと湧いてくるような。寒旱
の厳しさに対峙する気力を感じる一句です。
今も友在りはつさくを店に買ふ     東浦津也子
この八朔は友との思い出に連なるもの。しっかりとした果
肉は、ほどよい食感と酸味があります。さっぱりとしておい
しい八朔と心の友と。いつまでも忘れられない存在。その絆。
青饅や昭和の家族みな正座     斉藤 浩美
折しも新元号「令和」が発表されたところ。写真というも
のが貴重で、家族の記憶を辿る役割を担っていた頃。昔、毎
年正月にはきちんとした格好で正座し、家族写真を撮ってい
ました。また、正座し車座で食卓を囲んでいました。季語の
青饅の青菜の色と、馴染んだ酢味噌の味。遠く懐かしく、け
れど色褪せない昭和の思い出と定番の一品です。
薄氷の解ける刹那に日を弾く     江口すま子
刹那というものの、はかなさと美しさ。やがては消えゆく
薄氷が日の光を「弾く」と捉えたことで、そこに一瞬、力が
生まれたかのよう。春まだ浅い頃の一瞬を言い留めた一句。
妹よ七草粥を持ちくれし     鈴木 里士
やさしく柔らかなうたい出しに、ほのぼのとした心の交流
を感じます。妹の兄を思う気持ちと「持ちくれし」と受け取
る兄。子規にとっての妹、律も連想されます。息災を願って。
マスクして知らない町を大胆に     久野 弘子
これもマスクの力。「大胆に」が何とも愉快でもあります。
知らない土地は不案内で不安ですが、逆に開放感もあります。
時には思い切って行動すると、また違う発見があるのかも。
雪嶺の遙かに橋本治逝く     清水みな子
「とめてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている」か
ら「桃尻娘」、受賞した文芸賞の数々、そして編み物まで。橋
本治の活動は独自の審美眼に基づき、多岐に亘るものでした。
栄達を求めない生き方を貫いたその姿勢は、雪嶺のもつ厳し
い孤高の姿に重なります。一月に他界した橋本治へオマージュ
の一句。
晶子の詩出合ふ石段風花す     監物 幸女
「君死にたまふことなかれ」は浪漫主義の情熱的な歌人、
与謝野晶子の代表的な詩です。掲句はどんな詩かはわかりま
せんが、わかるのは、石段の途中、詩と出合った心のきらめ
き。青空の下、風に乗って飛んできたひとひらの雪は、とら
われない晶子の心のよう。そしてまた風に乗り、何処かへ浪
漫の一片を運んでいくのでしょう。
薄き眉足し義姉見舞ふ春隣     飯島たえ子
顔の印象を左右する眉。眉を描き加えたのは、控えめなが
ら凛として、生き生きとした表情になるようにとの思いから
でしょうか。まずは元気な顔を見せることがお見舞い。春は
病窓のそこまで来ています。
金曜は坂の路地ゆく太鼓焼     平野  文
今川焼は太鼓焼、御座候、東海辺りでは大判焼きとも言わ
れます。掲句の「金曜は」という取り出し方に、行くコース
を把握したお馴染みさんであることがわかります。仕事終わ
りの週末、金曜、坂の路地という暮らしに近い所。伝わるの
はまだ暖かい温もりとおだやかな甘さ。それは作者の大好物。
のどけしやじっくりと見る雲の顔     犬塚 玲子
いいなあ、こんな時間。そういえば、この頃こんな時間な
かったと、気づきました。空をいく雲の色や形、流れる速さ。
読む者の心を開放してくれるような一句の世界です。
凍土や歩幅狭まる坂の道     山田 和男
極寒の中、前傾姿勢で踏みしめるように歩いて行く姿が想
像されます。坂道を上るにつれて狭まる歩幅。凍りついた大
地は固く、冷たい空気は歩き続ける体をかたく強ばらせます。
でも、今はこの歩幅で、一歩一歩確実に歩を進めるのです。
二月の雨下向いて歩す下校の子     長坂 尚子
雨の午後、見かけた子は一人うつむいて通学路を帰ってい
きます。二月は一月の始まりのめでたさと、年度の締めくく
りに挟まれた月。心に不安な影を落とす二月の雨です。

俳句常夜灯   堀田朋子


畚の子に吉野桜の降りかかる     はりま だいすけ
(『俳壇』四月号「畚の子」より)
「畚」は「ふご」と読む。竹・藁・縄などで編んだ、物を
入れて運ぶ籠様の用具のこと。「畚の子」とは、今時でいうクー
ファンに入れられている赤子だ。その子に今、桜の花びらが
降りかかっている。紛れもなく美しい光景が浮かぶ。寝返り
が出来ない分、黒目はくるくる動いているだろう。花びらを
つかむかに五指はいっぱいに開かれているかも知れない。或
いは、すやすやとまどろんでいるのかも知れない。赤子のほ
んのりと紅を帯びた肌の色と、桜の花びらの色とが呼応して、
読み手の心を清らかにしてくれる。
さくらとは神様が宿る木らしい。この赤子は今、神様に愛
でられているのだと思う。ましてただの桜ではない、山岳信
仰の厚い「吉野」の桜だ。神々しささえ帯びた句となった。
一本の日矢に消されて雪蛍     北野恵美子
(『俳壇』四月号「牡丹鍋」より)
「雪蛍」とは、体長二ミリほどの昆虫で、初雪の頃、白い
綿のような分泌物を持って空中を浮遊する。綿虫・大綿・雪
婆・白粉婆・雪虫と幾つも呼び名を持つのは、人々に愛され
ていることの証左だろう。寿命が短い。熱に弱くて、人間の
体温でも弱るデリケートさだ。飛ぶ力も弱くて風に流される
ように飛ぶので雪になぞられる。
人は儚いものに惹かれる。作者もまた、「一本の日矢」で
さえその存在が消えてしまう「雪蛍」の儚さを詠んでいる。
見つけたことの喜びと、見失ったことのさみしさこそが、人
にとっての「雪蛍」というものの本意であることに気づかさ
れる。愛される存在なのだ。でも、決して手に捕ってはいけ
ないものなのだ。
杭を打つ槌のひびきや雪解村     ながさく 清江
(『俳句四季』四月号「巻頭句」より)
雪深い村なのだろう。冬の間、人々は屋内の生活を余儀な
くされていただろう。やっと、春の日差しや南からの風や雨
によって雪解が始まった。とは言え、村中のあちこちに斑雪
となって雪は残っている。それらに日差しが反射してきらき
らと眩しい「雪解村」が浮かぶ。
どこからか「槌のひびき」が聞こえて来る。冬の間に傷ん
だ「杭」を打ち直しているのだろうか。その音が何とも嬉し
気に響いている。春到来の口火を切る音と言えよう。まず修
繕すべきものはして、そして新たな野良仕事が始まるのだ。
長い冬が明けた解放感、春の仕事の始まりの喜びが、「槌の
ひびき」ひとつに象徴される明快さが心地いい。人の暮らし
が冴え冴えと詠まれている。
つかわしめのごと消えゆきし黒揚羽     寺井 谷子
(『俳壇』四月号「蝶の道」より)
一筋に「黒揚羽」を詠んだ十句中の一句。夏の蝶は大型で
存在感がある。春蝶のひらひらと花から花へと移りゆく様子
と異なり、何やら使命を持って飛んでいるように感じられる。
時には人の近くにやってきて、暫くとどまる気配さえ見せる。
特に黒い揚羽蝶ともなると、その色に死とか喪のイメージが
重なって、今はもういない懐かしい人を思い出すのは、多く
の人の共通感覚ではなかろうか。
作者もまた、そんな感慨に耽る夏の一日を過ごされたらし
い。しきりに会いたい人があるのだろう。「つかわしめ」と
いう神仏に繋がる格調高い修辞に、作者の心情が表象されて
いる。作者と「黒揚羽」に乗った魂との交感の時間はほんの
僅かなものだったかもしれない。けれど確かな時間であった
ようだ。「消えゆきし」と蝶を送る作者の眼差しが、余韻の
ように浮かんで、読み手を捕らえる。
たんぽぽや透明に堰落つる水     松尾 隆信
(『俳句四季』四月号「春の鹿」より)
無理な力の入らない、平明な心で詠まれた句として惹かれ
る。日本の何処にでもある野辺の変哲もない光景だと思う。
たんぽぽは、ただたんぽぽとして咲き、春の透明な水は、た
だそこに堰があるので堰を落ちて流れている。たんぽぽの黄
色が水の「透明」さを際立たせる。春水の煌めきがたんぽぽ
の面に反射して、その黄色を鮮明に浮きだたせる。何の不思
議もない二つのものが、そっと取り合わせられることで、お
互いを生かし合っている。春の喜びの交響曲のような一句。
自我を超えて、自然物や自然現象に心を寄せる句作は、実
は難しいものではないかと、ふと思った。
やはらかき闇へ雛を納めけり     桐野  晃
(『俳句四季』四月号「挨拶」より)
そっと薄紙を開いて雛を飾る。雛が光の中に出て人々に愛
でられるのは、一年にほんの二〜三週間なのだなと改めて思
う。それ以外の長い時間を、雛はどんな気持ちで過ごしてい
るのだろう。そんなことに想いが巡る一句だ。
できるなら淋しくなく安寧な時間を過ごしていてほしい。
そしてまた一年後、平穏な日常の中で会いたい。そんな気持
ちが「やはらかき闇」という修辞に込められているのだろう。
雛を飾り、雛を納める行為とは、ひたむきな祈りのようなも
のかもしれない。一句一章。心を込めて雛を大切にしている
作者の心根が詠み下した嫋やかな句だ。