No.1047 令和元年7月号

朝虹や天気占う童たち うしほ

ほうろく灸
一年も半ばを過ぎ、折り返し地点である。暑さも本番! ほうろく灸でハズ観音さまのご利益をいただき「暑気払い」を。また頭痛封じ、認知症防止、高血圧予防などのご利益もいただけると好評である。「ほうろく」とは、食品を炒るのに使われる素焼きの土鍋のこと、ここで、モグサを焚く(写真)。七月の土用の丑の日(今年は27 日)に行われる。
所在地・〒444-0701西尾市幡豆町東幡豆森66 ☎ 0563-62-2297 宝樹院妙善寺(通称名:ハズ観音)、最寄駅・名鉄蒲郡線東幡豆駅下車徒歩 2 分。
写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


倉敷に瓦斯燈ともり新樹冷え
軽井沢
石の教会ふんだんに新樹光
墳山に銅鐸出しと麦の秋
蟇鳴くや鞍掛山に雲かかる
オニオンスライス楚々と薄口醤油さす
新緑や眩しき中に画架立つる
卯の花腐し語り部はみな老ばかり
山鳩のくくと竹の子梅雨あがる
郭公や小諸城址に義塾跡
水郷の水路双手に行々子
花葡萄神谷傳兵衛伝を読む
新田郷 九句
松の芯こぞり新田が挙兵の地
甚五郎の鷹とや透し彫涼し
郭公や縁切り寺に千の墓
軽暖や三行半にある癖字
境内に上番所跡薄暑光
汗冷ゆるとは上番の袖榒み
梅雨冷えや火の番助郷てふ番所
葉桜や閂太き不開門

真珠抄七月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


逃水を追ふ退院の松葉杖       田口 風子
ふくらまぬ綿菓子雨の弘法忌     酒井 英子
夏足袋の少女仏師をこころざす    市川 栄司
すぐ乾く幼なの涙春苺        髙橋より子
春興や山里で会ふ輿の列       山田 和男
待ち合はす杜に水の香新樹の香    工藤 弘子
のどけしや老いし落語家との時間   鶴田 和美
花筏組むに流れの速すぎて      堀田 朋子
かぶりつきの下は奈落や梅雨寒し   白木 紀子
百合の樹の巨木伐採冴返る      堀口 忠男
護摩札にねぎごと数多山笑ふ     新部とし子
春紫菀ベートーベンの散歩道     中野こと葉
手みじかの紙に句とどむ目借時    高橋 冬竹
着られないイッセイの服更衣     重留 香苗
憲法記念日バスに小さな日章旗    加島 照子
サンバでも踊るか天道虫集ふ     深見ゆき子
やることは先にやる癖松の芯     小川 洋子
花菜風前行く人のふいに消ゆ     飯島たえ子
波音も入れて栄螺の売られをり    水野 幸子
種籾の発芽のにおい満つ令和     三宅 真晴
朝焼や真珠筏に寄す小舟       深谷 久子
たんぽぽやリハビリの足踏みしめて  田畑 洋子
砂消しゴムせつせと擦る昭和の日   磯村 通子
お相手を違へて哀し猫の恋      田口 綾子
やはらかき木地師の口調山若葉    今泉かの子
をみなごは令和のラムネ抜きにけり  堀尾 幸平
木苺や過疎に荒れゆく開墾地     松元 貞子
苗床に雨のやさしき一日かな     稲石 總子
ちぬ釣りの自慢の半身貰ひけり    久野 弘子
涸れ井戸の蓋上げてみる木下闇    成瀬マユミ

選後余滴  加古宗也


やはらかき木地師の口調山若葉     今泉かの子
木工を生業とする友人を私は何人か持っているが、彼らは
職人というよりも、どこか芸術家に近づこうとしているよう
に見える。それはそれでけっして悪いことではないが、ひた
すらに同じものを同じように作りつづける人にはどこか凄み
がある。そういう人を私は職人と呼びたいし、職人が好きだ。
先年、滋賀県東近江市に今も残っている木地師の里を訪ねた
ことがある。かの子さんもどうもそこを訪ねたらしい。その
昔、この地に流された惟高(これたか)親王が、この地の人々
に木地の生産を奨励したのが始まりといわれ、木地師発生の
地ともいわれている。木地師は良質な材料が無くなるとそれ
を求めて次の地へ。さらに次の地へと移住していったといわ
れ、岐阜県の南木曽が最後の木地師の里だと言われている。
奇しくも最初の里と最後の里でじつに善い木地が生産されて
いることに、強いカルチャーショックを受ける。
まず、滋賀県にこんな山里があったことに驚かされたし、
さらに深い森の中に、木地師の里があることに驚かされた。
しかも、木地師のルーツが現在も大切に保存されているだけ
でなく、じつに美しい木地がいまも生産しつづけられている。
漆その他の加工は一切拒否して、木地そのもので、最高の美
を追求する姿勢にも驚かされた。
ろくろ工房の主は、じつに穏やかな人で、自分の仕事に自
負を持った人におのずと備わる暖かさがオーラとなって発信
されていたのだろう。「若葉」が心地よい。
春興や山里で会ふ輿の列     山田 和男
「輿」といえば都大路あるいは、それなりの街道筋を通るもの、
というのが多くの人の常識だ。それが、思いもかけずこんな山
里の、それも眼前を行く。立ち止まって、じっと輿の列を眺め
る作者のじつにいい顔が思い浮かぶ。俳句の基本の一つに「常
識を破ること」がある。即ち「意外性」だ。心地よい意外性を
得られたときの至福感は俳人なればのものだといえよう。
逃水を追ふ退院の松葉杖     田口 風子
作者は数ヶ月前、足の手術を受けたようだ。その後、順調
に回復しているようなので、ほっとしているが、手術という
大事をユーモアでもって往(いな)しているところなど、さ
すが本格派俳人だ。無理をせずに一日も早く全快してほしい。
ちぬ釣りの自慢の半身貰ひけり     久野 弘子
「ちぬ」は「黒鯛」のこと。釣糸の引きが格別にいいこと
から釣人に人気がある。そして、刺身にしても塩焼きにして
も煮つけても美味い。この句「半身」といったところが恐ろ
しく俳句的。つまり、半身はくれたけれども美味しいことを
承知の釣人は一匹さらくれることをためらったのだ。しかも
「自慢の」が恐ろしいほど俳句的。
扁額は宸筆といふ風薫る     市川 栄司
「宸筆(しんぴつ)」というのは天子の直筆をいう。殿様な
どは祐筆(ゆうひつ)といって書記のような役割を担った武
家がいて殿の代筆をする。いわんや天子様にあっては、やた
ら手紙なども書いたりしない。ゆえにたまたま見つかったり
すると「何でも鑑定団」などでも高額の評価がでる。扁額な
どもそうで、天子様直筆の扁額を掲げることで、その寺の格
の高さを誇示することができるのだ。
ちなみに、吉良家の菩提寺・花岳寺にも天皇の直筆といわ
れる宸翰があって公開している。ただし、宸翰は散らし書き
になっていて読み順を知っていないと何が書いてあるのか
さっぱりわからない。誰れにでも簡単に読めてしまうと、天
皇の権威がそこなわれるからだという説もある。
卯の花腐しとんと見ぬ薬売     工藤 弘子
晩春から夏にかけての長雨には、「卯の花腐し」「筍梅雨」「走
り梅雨」「梅雨」などがあるが、「卯の花腐し」には、卯の花
の美しさが損なわれるのを惜しむ気持ちが込められている格
別に美しい季語だと思う。それでいて「腐し」という言葉か
らくる健康対策への思いがうまく引き出されていて無理なく
薬売への思いが展開してゆく。なかなか周到な一句だ。
憲法記念日バスに小さな日章旗     加島 照子
「憲法記念日」は少なくとも昭和時代には最も重要な祭日
であったはずだが、この頃は集会などもとんと盛り上がらな
いようだ。「平和が長く続き過ぎたから」という人もいるが、
戦争が起きてしまったらもともこもないことで、答えになっ
ているようでなっていない答えだ。憲法記念日ももちろん、
他の祭日もすっかり「日の丸」を見なくなってしまった。オ
リンピックで日本選手が金メダルを獲得したときか、バスの
お尻に付けるくらいが日章旗の役割なのだろうか。
着られないイッセーの服更衣     重留 香苗
服飾デザイナーとして一世を風靡した三宅一生。久しぶり
に引っぱり出して来たがさてさて。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(五月号より)


猫柳けぶらふ雨の遊行みち     工藤 弘子
遊行(ゆぎょう)とは僧が修行や説法のため、諸国を巡り
歩くこと。はじめは芭蕉の「遊行柳」を踏まえた一句と思い
ましたが、遊行上人と称された一遍、仏像を作りながら行脚
した円空、木喰さん。特定はできないものの、詠まれている
のは遠い昔、遊行僧が歩いた道の辺の景。その遊行みちに猫
柳の銀白色の花穂が雨に濡れ煙っています。春まだ浅い頃の
しっとりとした情感をたたえているようです。
鳥交む裳階を持てる塔二つ     高橋 冬竹
裳階はもこしと読み、軒下の壁から出した庇の一種。屋根
が二重に見え、二階建てのような外観ですが、内部は一階。
実際より多層に見せることで優美さが際立ちます。美しい構
造物、裳階をもった塔二つと、つるむという生き物二つ。根
源的な生の営みに根ざした季語と歴史的な日本の建造物が響
き合う、時空を越えた格調ある作品です。
切れ目なきほの字のはなし古雛     磯村 通子
「ほの字のはなし」とはまた、乙な。惚れた腫れたが次か
ら次へ。それもたくさんの時代を経てきた古いお雛さまなれ
ばこそ。結びにおかれた歴史的背景をもつ季語が、一句に奥
行きをもたらし、ぐっと引き締まった作品になりました。
野に出れば素直になれし花菜風     小川 洋子
本当にその通り。この開放感。野原に出て、お日様の光を
浴びて、春の風を身に感じれば、心の凝りもほぐれそう。ナ
行の柔らかな音が一句全体に春の明るさを呼んで、誰もがも
つ、あどけない子どもの頃に返してくれるようです。
佐保姫のお手玉めきぬ観覧車     水野 幸子
確かにそんな感じも致します。観覧車に吊り下げられた一
つずつの小さな箱。広い空をゆっくりと、お手玉のスローモー
ション。佐保姫は春を司る女神。この夢幻的な季語は視覚的
な「観覧車」と、具体的な行動「お手玉」によって具象化さ
れ、浪漫の香り漂う一句となりました。
娘の仕草なき妻をふと蜆汁     岡田 季男
蜆汁のもつ日常性を根底に、家庭のしみじみとした叙情を
感じる一句。今は亡き妻の仕草や振る舞いが今は大きくなっ
た娘に自然に受け継がれている、と思う一瞬。それはほのぼ
のと心が和む場面でもあります。健やかな家庭の一コマ。
凍返る心愛も結愛にも愛の字が     関口 一秀
このところ、世間をざわつかせている児童虐待。心愛(み
あ)ちゃんは十歳、結愛(ゆみ)は五歳で命を落としました。
実の親の手によって。下五の言いさした表現には、作者の憤
りや無念さが滲んでいるかのようです。それら諸々を受け止
め、統べるかのような季語「凍返る」です。
囀や髪光らせて走る子ら     神谷つた子
木の上にはたくさんの鳥と囀り。下には大勢の子どもと走
る靴音、息づかい。そしてその両方に春の明るい日差しが降
り注いでいます。命あるもののエネルギーを感じる春です。
白木蓮大きな家を訪ねけり     岡田つばな
白木蓮と大きな家との取り合わせ。平易な言葉と簡潔な詠
みに、木蓮の高さや家の大きさが、読み手に素直に伝わりま
す。白木蓮の清々しさと削ぎ落とされた表現と。対象を真正
面からとらえた、大きな景の気持ちのよい一句です。
雛の昼牛の受精をせしことも     米津季恵野
下五に作者の生活実感が表れています。雛を飾る穏やかな
春の昼、一方では牛の受精も行います。それが生活というも
の。お雛様を飾る春、こうして牛の世話をし、育てていくと
いう背景に、大地とともに生きる暮らしの豊かさを思います。
己が通夜横で見てゐる春の闇     岡田 初代
生死の境をさまよい、声に呼び戻されて蘇生したという特
異な体験をされての一句。春という季節の芽吹く気配や万物
が息を吹き返すような生気。その裏には冥界の不思議な力も
潜んでいるかのようです。春の闇のあやしくも畏れ多い力。
重き荷を背負うがごとく布団着る     岩瀬うえの
疲労感。孤独感。布団に入っても、やすらかな眠りとはほ
ど遠い暗澹たる思いが、作者の胸に去来しているようです。
一人では抱えきれないような重い荷。辛い夜です。そのつら
さを作品として一句にされたことに敬意を覚えました。
春めくや果汁の如き伊予ことば     鈴木 帰心
季語と詩情のハーモニー。伊予ことばといえば、「~ぞな
もし」「だんだん」位しか知りませんが、その柔らかい響き
は伊予柑の甘い果汁に適うもの。濃いオレンジ色の外皮も匂
い立つ芳香も風味も、そして風土に培われた伊予弁も。それ
らが合わさって感覚的な季語「春めく」に統括されます。
広がる芝火叱りつけ叩きつけ     水野由美子
火は生き物。人の手でコントロールしていないと、暴れ出
し手のつけられない事態になることも。畳みかけるリズムに、
まさに今、火勢と闘っているような臨場感が生まれています。

一句一会    川嵜昭典


鳥帰る言葉の欠片落としつつ     石井いさお
(『俳句四季』四月号より)
日本で越冬した鳥が帰っていく鳴き声を、「言葉の欠片」
と作者が感じたところが面白い。これが「鳴き声」であれば、
鳥と作者は、全く別の世界に住む、鳥と人間という関係に終
わり、作者が鳥を客観的に見ているに過ぎない。しかし「言
葉」と感じた途端、鳥と作者は、同じ世界に住む、言葉を同
じくする者同士の関係になる。どんな言葉をお互いに交わし
たのか、当事者同士しか知る由はないけれども、同じ世界で、
同じ立場で互いが心と心を繋げたのは事実なのだ。相手や対
象と繋がることが俳句の本質であるということを気付かせて
くれる一句。
持ち上げるともなく割れて薄氷     白石 渕路
(『俳句四季』四月号「花は翼に」より)
「薄氷」を「うすらい」とは読まずに「うすごおり」と読
むことによって、日常的な感覚が増す。そして、氷に触れた
ときの冷たさや、その後の指先の濡れたようすが実感をもっ
て伝わる。また、日常的な言葉を使っているからこそ、子供
のときの気持ちを思い出させる。氷を見つけたときは、とて
つもない宝物を見つけたような興奮を覚え、手に入れて自慢
したいと手に取った瞬間に、その願いは儚くも消える。その
喪失感は、全世界を失ってしまった気にさえなるほどだ。大
人になるとそんな気持ちは忘れてしまうけれども。喪失感と
いうのはかえって、子供の頃の方が日常的にあったのかもし
れない。
雛飾る郵便局の奥の部屋     明隅 礼子
(『俳句四季』四月号「雛飾る」より)
「郵便局の」が意表を突いている。とはいえ、雛飾りの赤
色と、郵便局の赤色とがうまく調和して、この取り合わせが、
意表を突くだけではない、絶妙な関係を保っていることにも
気づく。年中せわしないような郵便局で、局員がこの雛飾り
を見て、束の間、一息ついているような姿を想像する。そし
てまた、季節の郵便物を扱う割には余り季感がなく、殺風景
な郵便局の局内に一つ花を置いたような、そんな温かみを感
じさせる。「奥の部屋」というところが、客に見せる訳では
なく、あくまでも局員用に飾っていることを表し、なおさら
に温かい気持ちになる。
一本の杭に鳥来る冬景色     広渡 敬雄
(『俳壇年鑑二〇一九』より)
一本の杭のほか、何も見当たらない冬ざれの景。そこに一
羽の鳥がやってくる。それは、無機質な世界に、一つの命が
突然入ってきたということだ。モノクロの世界に、突然赤い
炎が現れたようなものでもあったろう。その瞬間、殺風景だっ
た作者の心にも、一つの熱いものが入ってきた。そう考える
と、この目の前の鳥は、希望のようなものかもしれない。
スタインウェイ・ピアノ或いは冬銀河     藤井あかり
(『俳壇年鑑二〇一九』より)
スタインウェイはアメリカのメーカーのピアノ。ほとんど
のピアニストやコンサートホールが使っていると言ってもい
いほどのシェアを占めるピアノで、その響きも、いわゆる一
般的に想像する、華やかで煌びやかなピアノ、というものだ。
ピアノの王様と言ってもいい。もちろんピアノは他にも、日
本が誇るヤマハや、オーストリアのベーゼンドルファーなど
有名なものは多くあるけれども、「冬銀河」の澄んだ広がり
を想像するのは、やはりスタインウェイのような気がする。
重々しくも広がりのある音を聴いていると、そのまま銀河の
中心に吸い込まれていくかのようだ。
蜜豆や向き合ひて縁浅からず     鶴岡 加苗
(『俳壇年鑑二〇一九』より)
人が一生のうちに出会う人というのは、統計によると、
三万人ほどだという。そのうち、向き合って蜜豆を食べるほ
どの関係になる人というのは、どれくらいいるのだろう。そ
う考えると、人と出会い、話し、かつお互いのことを分かり
合えるというのは、とてつもなくかけがえのないものだとい
うことが分かる。掲句は「蜜豆」がとりわけいい味を出して
いる。甘いには甘いけれども、それほどは甘くもない蜜豆が、
二人の、付かず離れずの関係を物語っているようだ。また、
季節が夏であることも、この関係が爽やかなものであること
の証左であるように思う。
補聴器へ話して帰る菊日和     水田 光雄
(『俳壇年鑑二〇一九』より)
補聴器を付けている相手に話しかける。相手も、頷きなが
ら聞いている。伝えようとする優しさや一生懸命さが「補聴
器へ」に表れているように思う。それでいて、それが重いも
のにはならず、微笑ましく感じるのは「菊日和」という季語
の効果だろう。相手への優しさが、菊や日差しの匂いと混じ
り、とても実感や手触りのある句となっている。また「補聴
器へ話し」という表現が、なんとも俳味があると思う。