No.1060 令和2年8月号

花火師の顔ひきしまる鬼面かな   うしほ

雨乞笠踊り
明治用水もなかった西三河地方にとっては、雨のみがただひとつの頼り、干天続きになれば、人々にとっては、死活問題。刈谷市の野田八幡宮には、今も雨乞いの儀式と踊りが保存されている。もっとも古い記録は正徳 2 年(1721年)に行なわれたと言われている。踊りは赤い襷、菅笠の浴衣姿で二人一組の踊り手が太鼓を中に向かい合い「つつろ」というバチを持って踊る(写真)。毎年八月の最終日曜日に行われる。刈谷市指定重要民俗文化財である。所在地・刈谷市野田町東屋敷。野田八幡宮。JR野田新町駅から徒歩 5 分。問合せ☎ 0566-23-4100。刈谷市観光協会。 写真撮影・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


子豚抱くごと家苞の冬瓜抱く
鈴虫の涼し源泉掛け流し
安中は襄のふるさと百日紅
神泉の四囲や秋海棠なだれ
達磨堂に達磨ひしめき昼の虫
尾瀬や美し渺々として草紅葉
日本のポンペイ葛の花なだれ
へそ風呂といふ風呂覗きちちろ鳴く
花街は二階家多し秋簾
きはちすや紺屋に掛かる紺暖簾
きはちすや一つ買ひ足す呉須絵皿
きはちすや薩摩に多き黒酢甕
備前・伊勢崎満さんを訪ふ二句
陶房は三和土が似合ひ昼の虫
香月の絵好きな陶師や花木槿
聖堂の白美しく酔芙蓉
灯火親しまた出してみる『カムイ伝』
日本のポンペイ芋の露ころげ
美濃に「すや」あり栗きんとんを買ふ
鵙くぜり鳴く神君が狩場跡
藍甕のつぶやきを聞く秋簾
鈴懸の鈴振り奏楽堂の道
秋雨を来て熱々の茹で卵

真珠抄八月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


掛け終へし袋幸せ呼ぶごとし       工藤 弘子
蜘蛛の井にコロナウイルス清らなり    堀口 忠男
ヘプバーンのやうな短かき髪洗ふ     水野 幸子
妙高山映す代田に足とられ        磯村 通子
踊子のチュチュ軽やかや百日紅      渡辺 悦子
若葉寒会話短く距離を置く        新部とし子
色々に紐を編みたる梅雨籠        荻野 杏子
卯の花や姉のアルトに声重ね       池田あや美
花びらをたたみ重ねて薔薇真紅      竹原多枝子
蛞蝓やじわじわと湧く古き悔い      石崎 白泉
十薬の初めの白さかくありと       清水みな子
ウィンドサーフィン河口の風を鷲掴み   岡田つばな
早苗積む軽トラ元気よく左折       山科 和子
幇間の吉原かむり夏の月         市川 栄司
水門を開けて水路の杉落葉        藤原 博恵
用足しの途中足助のうなぎ屋に      今泉かの子
人悼む酒と根岸のどぜう鍋        江川 貞代
店仕舞ひ近し画材屋蔦青む        中澤 洋子
夏蝶を追ふ子追ひかけ八千歩       鶴田 和美
親燕頭突きで鴉追っ払う         神谷つた子
たれかれに上げるマスクを縫ひし夏    重留 香苗
自粛解けてよりの白玉しるこかな     天野れい子
老鶯のこゑの流るる川の幅        田口 風子
初茄子に鋏を入るる男下駄        小川 洋子
母の日や夫はわたしにありがとう     服部 喜子
青蔦や官庁街の蔵茶房          鈴木 玲子
夏桑の一筋並ぶ古墳道          春山  泉
ハンカチの木の花潔き別れ        磯貝 恵子
象の足ほどの竹の子もらひけり      鈴木こう子
背を向けるゴリラの鬱や走り梅雨     加島 照子

選後余滴  加古宗也


降り止まぬこんな日も好き濃あぢさゐ     重留 香苗
五月晴、あるいは梅雨の晴間は梅雨のじめじめ感から一時
解放された心地がする。おのずとはしゃいだ気持ちにもなる。
ところが、「降り止まぬこんな日」もじつは好きなんだと作
者はいっている。一日中雨音を聞いて過すと、いつの間にか
雑然が洗い流されている。雨音は何とも美しい音なのだ、
「雨」と「濃あぢさゐ」の取合せが心地よい。
懐かしや越後平野の田植歌          磯村 通子
一読、心がほのぼのと温もる一句だ。作者は新潟の生まれ
であり、米どころ新潟は作者の原風景だ。そういえば芭蕉の
句にも《風流の初やおくの田植うた》というのがあって、厳
しい労働を前向きに、明るく捕えようとする強さが見て取れ
る。ふるさとへの熱い思いが田植歌のメロディーとして読者
の耳にも聴えてくる。
妙高山映す代田に足とられ
これまた労働讃歌になっているのがうれしい。
小半時団子虫とゐる立夏           渡辺 悦子
「小半時」は本来は「小半刻」と表記すべきところだろうが、
最近では『広辞苑』にも「半時」という表記になっている。
そして①一時(いっとき)の半分。今の一時間」と苦しい解
説を付している。江戸時代には「一刻」は「二時間」を指し
ており、「半刻」は「一時間」、「小半刻」はその半分だから
「三十分」ということになる。ところで、「団子虫」は面白い
虫で、触れると、そのとたんに団子のようにまんまるくなっ
てしまう。子供の頃はそれをてのひらに乗せて転がしながら
遊んだものだ。さて、この「団子虫」だが、歳時記のいくつ
かを調べてみても載っていない。つまり、現時点では無季と
している俳人が多いようだ。私は夏の項に入れるべきだとい
う思いが強い。子供時代、団子虫と遊んだのは、どう考えて
も夏だったように思うが皆さんのご意見を聞きたい。
十薬の初めの白さかくありと         清水みな子
この句、「初めの白さ」が何といってもポイント。開花時
間が経つにつれて次第に黄色っぽくなってくるのだ。しかし、
この句は、そんな理屈を言っているのではない。「初めの白さ」
の美しさに感動しているのだ。俳句は「確かな感動」に始ま
る。
背を向けるゴリラの鬱や走り梅雨       加島 照子
ゴリラが背を向けている姿を「鬱」と見たところが面白い。
一見すねているようでもあり、人を嫌っているようでもある。
さらに注視していると鬱とも思われる。先年、犬山市にある
京大霊長類研究所を訪ねたことがある。そこであらためて、
チンパンジーなど猿類は賢く、しかも、デリカシーに富んだ
動物であることを知った。新型コロナウイルスの蔓延で、日
本では「コロナ鬱」なる新語が誕生したようだが、人間だけ
でなくゴリラも鬱に陥っても仕方がないような事態がつづい
ている。「走り梅雨」が「鬱」にはずみをつけているとも。
蔦茂る嵌め殺してふ蔵の窓          鈴木 玲子
「嵌め殺し」とは「枠の内に襖・障子などを造りつけにし
開閉できないようにすること。また、そのもの。」(『広辞苑』)。
これによって、外からの侵入を防ぐことができるわけで、蔵
などでは、しばしば見かけることがある。嵌め殺しが仕掛け
られている蔵は白壁あるいは海鼠壁の古いものが多く蔦が
茂っている様子はじつに好もしい。
ヘプバーンのやうな短かき髪洗ふ       水野 幸子
「ヘプバーン」はいうまでもなく、ハリウッドの往年の名
女優、オードリー・ヘプバーンのこと。マリリン・モンロー、
ソフィア・ローレンなどとともに大女優の名をほしいままに
した。つまり、その手の話しに余りくわしくない私でも、ヘ
プバーンのあのキュートな美貌は、いまでもくっきり脳裡に
残っている。ヘプバーンの全てが自分に似ているといわず髪
だけに絞り込んだところが、かえって、キュートな心地よい
読後感を読者に与えてくれる。
早苗積む軽トラ元気よく左折         山科 和子
田植は農業の中でもメインイベント中のメインイベント
だ。苗代から引き上げた早苗を軽トラに積み込んで、水田に
運ぶ。「元気よく左折」に農業に従事する人の気負いが感じ
られ、その気負いが心地よく伝わってくる把握だ。「米」と
いう字は八十八回手間がかかるということから生まれたと聞
くが、近年、急速に直播きが普及しはじめてきているとも聞
く。これも農業機械の急速な進歩による変化なのだろう。農
業に限らず、「文化」と「文明」のことについて考えさせら
れることが多くなった。
母の日や夫はわたしにありがとう       服部 喜子
「母の日」は無論、母親に感謝する日であり、カーネーショ
ンなどをプレゼントする。ところで長年連れ添った夫婦、こ
とに妻に対する夫の感謝の心は母に対する思いに似ている。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(六月号より)


人の名のたとへば持統桜かな         荻野 杏子
〈ははの譜のたとへばつばなながしの譜 宗也〉を本歌(句)
取りにしつつ、固有名詞の力を拠りどころとした一句。「春
過ぎて夏来るらし白妙の…」の歌も想起されます。仏教に帰
依し、母としての徳もある女帝とされる一方で、皇位継承に
執着した一面もあるとか。掲句はその持統天皇お手植えの
桜。歴史に残る名を冠した桜も、そのよろしきを得て、堂々
とした佇まいの桜なのでしょう。
万金丹発祥の地や雁瘡癒ゆ          川端 庸子
個人的にこのところよく口に入れているのが「萬金飴」。
甘草など和漢の植物が配合された黒糖風味。味に慣れてくる
と体によさそうです。「万金丹」は本家そのもの、気付け解
毒に効く丸薬です。季語の「雁瘡癒ゆ」は、雁が帰るころに
治る湿疹性皮膚病のこと。アトピー?との説も。いずれにし
ても江戸時代から続く皮膚のトラブル、効き目は伊勢の地で
生まれた、万金丹にお任せあれ。飴の袋には一五七〇年創業
と記載あり。また、万金丹の袋は落語にも登場するほど。季
語の、発症と治癒が雁の去来による頃、という不可思議さ。
そしてお伊勢様の霊力をもつ地。ふしぎと適う気が致します。
百千鳥来て一竹の辻が花           酒井 英子
十数年前、どうしても行きたくて久保田一竹美術館へ出か
けたことがあります。アーティスティックな外観の建物や庭、
そして壮麗なる辻が花染めの展示。絞り染めの上から刺繍や
金箔の装飾を施した着物は、手仕事の繊細さを下地に豪華絢
爛たるものでした。掲句、百千もの鳥に、竹や花が縁語のよ
うに置かれ、季語と巧みな意匠とが麗しく響き合っています。
春潮や陰神まつる岬鼻            髙橋 冬竹
陰神とは、日本神話の世界における女神のこと。海に突き
出したその先端部に祀られているのでしょう。そこに吹く風
や日差しが、少しずつ柔らかさを増す春。潮の色も明るく変
わってきた春潮と、古代の女神との取り合わせの妙。
戦法は籠るばかりの末の春          関口 一秀
そうなんですよね、この事態。気づかないまま自身も感染
源になる恐れ。でもこんな一句に出会えるのも、また楽し。
共感しつつ、軽やかに受け止める客観的な視点に、どこか救
われる感じもします。俳句の楽しさを再確認する春にも。
目つむりて闇見ひらきてさくらかな      桑山 撫子
幻想的なイメージのさくらです。目をつむってさえ、はっ
きりと、真暗闇でもくっきりと。作者にはしかとさくらが見
えるのです。このさくらは、まるで命のともしびのような、
心の底にあって支えのような、象徴的な存在なのでしょう。
ランドセルごと抱きしめる一年生       加藤 久子
笑顔で迎える、うれしい場面が目に浮かぶようです。一年
生の子の体はまだ小さく、その分ランドセルの大きさが目立
ちます。まさに「ランドセルごと」とは当を得た措辞。
手を洗いまた手を洗い花疲れ         斉藤 浩美
わかります、わかります。肌荒れの手をして、警戒の心を
して「花疲れ」。もちろん桜をご覧になってのことでしょう
が、こんな小粋な季語をもっていらっしゃるとは。脱帽です。
春星や大好きだつたヒゲダンス        白木 紀子
海外でも報ぜられた志村けんの訃報。あの独特なリズムに
乗って登場する、ペンギンを真似たヒゲダンスは印象的でし
た。独身を貫き、お笑いの道にある後輩への支援の数々は、
死後明らかになりました。春星は夜空に美しく瞬いています。
反芻の牛のものぐさ目借時          米津季恵野
四つの反芻胃をもつ牛。飲み込んだ食物をまた噛み直す消
化法の丁寧さに対して、何でも面倒がるというのが、おもし
ろい。そのものぐさな牛の様子が、眠気を誘うというのも、
おもしろい。第一「蛙が人の目を借りる」季語も、また。
孔雀絵の花瓶は九谷白牡丹          春山  泉
鮮やかな色絵の九谷焼。しかもその絵は華麗なる孔雀です。
金襴手でしょうか、花瓶の絢爛たる豪華さ。対する牡丹のあ
でやか、且つ白色の無垢な清浄さ。対極にありながら、その
極まるところを取り合わせる、このバランス感覚。
囀りに覚めて良き日の始まれり        阿知波裕子
なんとも気持ちの良い一句です。朝のまどろみの中に聞く
囀り。自然に目覚める爽快感とともに、朝の新鮮な空気感も
伝わります。声に出して読んでも心地よい、句の姿のすっき
りとした感じ。新しい朝、今日もまた一日がんばれそうです。
子規虚子の町つばくらめつばくらめ      杉浦 紀子
「つばくらめ」のリフレインが、行ったり来たり、空中を
好きに飛ぶ燕の姿に重なります。時に翻り、時に地上すれす
れに、飛燕は縦横無尽。自在に飛ぶ二羽の燕は俳句の巨星、
子規と虚子。そして、どの町にも俳句を身ほとりにし、巣を
かけ、好きに飛ぶつばめがいるのでしょう。

俳句常夜灯   堀田朋子


黙祷の母娘揃ひの春ショール         佐々木潤子
(『俳句四季』六月号「三・一一」より)
東日本大震災から九年。離れた地で、報道映像でしか知る
ことのない者は、想像力を働かしても、限界を感じた。当事
者意識というものにもどかしさを覚えた人も多いと思う。
さて、掲句の「母娘」は被災の当事者であり、大切な肉親
を亡くした二人だろう。「揃ひの春ショール」という佇まい
が、それを教えてくれる。春ショールは、亡くなった人に見
つけてもらう目印なのではなかろうか。亡き人の魂の安寧を
祈る気持ち、残された者が何とか前を向いて生きているとい
う報告、そんな想いがこもっている。哀しみの中でも春を感
じる淡い色と柔らかい質感を持つ「春ショール」に、視線を
一点集中したことで、敬虔な祈りが立ち上がって来る。被災
者に自然と心を添わせることができたような、そんな心地が
する句だ。
水面蹴ることより帰る鴨となる        小杉伸一路
(『俳句四季』六月号「鳥語」より)
俳句は断定の文学だと言われる。掲句はまさに、堂々とし
た断定の句だと思う。それは、作者の観察の末に得た発見の
確信が言い切らせたに違いない。それ故、清々しい。
鴨は、昼の長さと気温の変化によって、体内ホルモンが変
わり、シベリアが恋しくなるらしい。そうして一群また一群
と旅立っていく。その現場に作者は立ち会っているのだ。鳴
き声、羽ばたきの音、蹴られて跳ねる水の音。渾身の覚悟で
鴨の足が水面を離れたその時から、鴨は「帰る鴨」となった。
作者の断定に深く同意する。自らの感覚を信じて詠むことの
勇気の勝利だと思う。「帰る鴨」へのエールとなっている。
先端に蜷しかとをり蜷のみち         小澤  實
(『角川俳句』六月号「花屑」より)
蜷は、たけのこ形をした淡水の巻貝で、水温む頃の川底や
田の土を右往左往と動き廻る。その軌跡が筋となって残り、
「蜷のみち」と呼ばれる。その道を辿っていくと先端にちゃ
んと一匹の蜷がいた。身をのりだし触覚を出して、力強く前
進している最中にある。その確かな生命の営みを目撃した作
者の喜びが「しかと」感じられる。そして、安心の句とも言
えるのではなかろうか。蜷もまた自然界の中で食物連鎖に組
み込まれている。蛍の幼虫は好んで蜷を捕食する。また、農
薬や土壌汚染など生存を脅かすものは数多だ。そんな世界の
片隅で、蜷は蜷の道を行く。生の証を刻みながら。
人として「蜷のみち」に触発されることは多い。季語に心
を寄せることこそ俳句を詠むことなのだと教えられた。
鳴きやみてより老鶯を聞いてをり       福神 規子
(『角川俳句』六月号「色即是空」より)
パラドックスな表現に惹きつけられる。ただ鳴き声を聞い
ているのでは、詩とならない。「鳴きやみてより」の声を聞
くからこそ、句は深くなった。
それにしても人は何故こんなにも「老鶯」の声に惹きつけ
られるのだろう。数多の鳥の鳴き声を聞き分けるのが難しい
中、分かり易くて愛着が持てる。「笹鳴き」と呼ばれるたど
たどしい鳴き声が、鳴き続けることでいつしか辺りを統べる
かのような雄々しさを獲得することにも驚嘆する。
清浄で孤高の「老鶯」の声が、作者の心中に飛び込んでリ
フレインしているのであろう。心耳の後の、作者の幸福感が、
特異な表現によって十二分に謳い上げられている。
幼くてめいめい遊ぶ梅白し          千葉 皓史
(『角川俳句』六月号「石神井・上井草」より)
何と言っても、斡旋された季語「梅白し」の無垢な美しさ
に心を奪われる。大切なことが詠まれているんだなと感じる。
「幼くてめいめい遊ぶ」という観察眼は鋭い。多分三歳くら
いまでの幼児は、基本的に『個』の中にいる。横に同年代の
子どもがいても、共に遊ぶほどの社会性は育っていない。今
は、それぞれに社会性の土台を育む時期なのだ。作者はその
事を充分に理解して、幼い子ども達を見守っている。
その愛情が、「梅白し」という季語に凝縮されて提示されて
いると思う。穢れのない咲いたばかりの白い梅の花は、幼い
子どもの心だ。あと一・二年もすれば自我も大きくなり、社
会性も芽生える。それは思っている以上に速いものだ。だか
らこそ、この子達のこの時を、思う存分大切にしてやりたい、
そんな作者の気持ちが込められているのだろう。
稜線の明けて白山田を植うる         中西 石松
(『角川俳句』四月号「風土吟詠」より)
田植時期になお雪渓を頂いた「白山」が、大きく広く句の
世界に立ち上がっている。白山は、富士山・立山と並んで日
本三霊山とされる。二七〇二mの御前峰には白山比咩神社奥
宮が祀られている神聖な山だ。白山連峰の麓といえる石川・
福井・岐阜・富山の人々の崇敬を一心に受け止めている山だ。
作者は石川県在住の方だ。太陽が白山の稜線を浮かび上が
らせることから一日が始まるのだろう。白山に見守られ、白
山を見上げつつ、日々の営みがなされる風土なのだ。白山が
心の拠り所であることが、「田を植うる」という下五に感じ
られる。特別なことではない、人々が数千年を繰り返して来
た田植だからこそ、白山と人々との切れない繋がりが伝わる。
生活する傍らに、ふっと気づいた時、そこに白山のような
讃えるべき山があることの幸せがすごく羨ましい。