No.1067 令和3年3月号

井垣清明の書6

 

杜詩五絶

昭和57年(一九八二年)四月
三寿会展(銀座・鳩居堂画廊)
杜甫、絶句二首・其一

釈 文
遅日 江山麗(うるわ)し、
春風 花草香(かんば)し。
泥融けて燕子(つ ばめ)飛び、
沙(すな)暖かにして鴛鴦(えんおう)睡る。

流 水 抄   加古宗也


沢音や指もて摘める花山葵
大銀杏営巣の鳩ふふみ鳴く
花は葉に谷を挾みて如意輪寺
湖北には観音多し麦の秋
大津絵に座頭の褌梅雨じめる
魚は草魚に似たり走り梅雨
老鶯や獅子門を抜け藩祖廟
岩あれば岩に腰置き夏薊
頭首工まで潮のぼり通し鴨
釈迦堂の真裏に小池井守棲む
紅蓮や堀割深き一揆寺
まつすぐに割れる割箸冷奴
嫁取り話持つてきし人吊忍
抱いてみてすぐに合点や竹婦人
黴の香やクルスを秘めし納戸神
右左に寝墓分かるるねぢり花
聖歌洩れくる五月雨の大扉
花苔や石の屋根置く産湯井戸
熊蝉の腹の底より鳴き出せり
夏草や父の頑固が好きと云ふ
その中に棘を持つもの夏の草

珠玉三十句 真珠抄三月号より

加古宗也 推薦


柚子風呂や採血あとの絆創膏      久野 弘子
白障子この静謐のいづくより      市川 栄司
水涸るる底石白き五十鈴川       川端 庸子
一陽来復素敵な句集届きけり      天野れい子
日記買ふペンを執らねば言葉寂び    工藤 弘子
比良越の風に吹き寄る鳰        阿知波裕子
寒月下魴鮄青き鰭ひらく        江川 貞代
冬木の芽逃げてるだけのドッヂボール  竹原多枝子
味じんわりとみちのくの凍豆腐     石崎 白泉
軒氷柱飛騨の左官の鏝使ひ       荻野 杏子
ふる里は薩摩の端つこ賀状来る     松元 貞子
とつておく子らの算盤煤払ひ      山科 和子
涸滝や猿投の山に皇子の墓       堀田 朋子
兄にだけ強気な妹冬うらら       鶴田 和美
初詣歯固めの石借り申す        酒井 英子
冬麗や米屋に佐賀の米買うて      田口 風子
面会日母寒紅をうすく引く       鈴木 帰心
初日眩しむ背凭れの防波堤       長村 道子
疫に倦み己を疎み寒苦鳥        今泉かの子
除夜の鐘内なる闇を打ち放つ      藤原 博惠
みかん色冬の日中の寝覚めかな     中野こと葉
初電話声のみ若き私達         荒川 洋子
遅れゐる時計をなほす寒夜かな     高橋 冬竹
雪折の香もなつかしき先祖の地     髙相 光穂
雪もよひ障害の児の尖り耳       重留 香苗
倒れ込む走者を包む防寒着       渡辺 悦子
池凍る風の形を閉じこめて       和田 郁江
皆少し遠回りする社会鍋        坂口 圭吾
初鴨や羽ばたきて水かがやかす     桑山 撫子
筆跡にその日の気分古日記       髙𣘺 まり子

選後余滴  加古宗也


水涸るる底石白き五十鈴川          川端 庸子
五十鈴川は伊勢神宮を流れる川で、内宮に入るにはこの
五十鈴川を渡らなければならない。そこに架かる宇治橋を
渡って右に折れると、すぐに身を清めるための水場が設けら
れている。その水場は直ちに五十鈴川で、手を洗い口を漱ぐ。
川底には白い石が敷き詰められており、水に透けた石を見る
だけでも心が清められた心地がする。遷宮のときには善男善
女がお白石を内宮に奉納するが、五十鈴川の底石もその一連
のものだろう。五十鈴川の水が涸れて浅くなった川底の石は
いよいよ白く神神しさをおぼえる。
作者は伊勢の人。伊勢を俗に「神の国」というが、伊勢の
人にとっては神宮との一体感の中で暮しが成り立っているこ
とがこの句からも見て取れる。
初詣歯固めの石借り申す           酒井 英子
「お食い初めの儀」と前書きにある。つまり、氏神様に詣
でて「歯固めの石」をお借りしてきたのだろう。まだ歯の生
えない赤子の口に石をなでた箸をちょっと当てて丈夫な歯が
生えるようにお願いする。丈夫な歯は健康な子を育てるため
に必須なことだ。「歯固め」は新年の季語にもなっていて「正
月三が日の間、鏡餅、猪、鹿、押鮎、大根、瓜などを食べる
行事」をいう。「歯」は齢の意だともいい、歯固めは長寿を願っ
てするもの。掲出の句は実際に鏡餅など固いものを食べさせ
て歯固めをするのではなく、神社で歯固めの石なるものを借
りてきて、やるようだ。そこに、この句の、何ともいえない
ユーモアが見えて面白い。「俳句は傾(かぶ)くもの」という。
したがって、季重なりなどという野暮なことは言いっこ無し
だ。
炉火赤し火棚に吊す猪の肉          江川 貞代
合掌部落では「火棚」を「ひあま」という。白川・五箇山
の合掌部落を始め古民家で炉を焚いている風景を見ると、炉
の上に格子状の棚を吊り、その上に越冬のための食材を乗せ
て乾燥させているのを見ることがある。ときに猪の肉などを
火棚に吊っているのを見る。この猪肉などは燻製をつくって
いる。冬場不足する蛋白質を補うための山村の人々の知恵だ。
この句「炉火赤し」がいい。この赤は山村の人々の命を守る
ものの色だ。赤い猪もいつの間にか焼けて、黒ずんでくるが、
そこには「命」あるいは「生きる」ということの問いが込め
られているようだ。
初雪やはなやぐ声の外湯より         市川 栄司
外湯には何ともいえない解放感がある。つい声も大きくな
る。「初雪」もまたそうで、子供でなくても、つい歓喜の声
が飛び出してしまう。「雪やこんこ・あられやこんこ…」と
唄うあの童謡も初雪の降ってきたときの感動が詩になったの
だろう。「はなやぐ声」の把握にぶれがない。
耳聡き夫と疎き吾(あ)枇杷の花       堀田 朋子
「夫婦げんかは犬も食わぬ」というが、夫婦の機微は他人
にははかりしれない。この俳句にもそんな微妙なものがあっ
て、耳の遠い妻が夫に少しばかりの劣等感をおぼえているの
か、はたまた甘えているのか。わかったようなわからないよ
うな。それが夫婦というものだろう。「枇杷の花」という季
語が夫婦のむつかしさを見事に象徴している。
除夜の鐘内なる闇を打ち放つ         藤原 博惠
除夜の鐘は人の内にある百八つの煩悩を打ち払って、まっ
さらになって新年を迎えるための行事だ。それにしても人間
はたくさんの煩悩を持っているものだ。打ち払ってもすぐま
た新しい煩悩が生まれてくる。「煩悩」即ち「心の闇」といっ
てよいと思うが打ち払っても追い出しても新たな闇がひろが
る。闇を持っているのが人間、と簡単に片づけられないのが
素直なところだが、それが人間の業。誰かの歌に『わが人生
に悔い無し』というのがあったが、これもまた「さてさて」
と思うのが人間だろう。
柚子風呂や採血あとの絆創膏         久野 弘子
弘子俳句の魅力は何といってもこせこせしていないところ
にある。「採血」は血液検査のためのものか、献血のためな
のか。いずれにしても針を抜いた後に張られた白い絆創膏の
白さが目にしみるのだ。柚子風呂は美容あるいは健康のた
め。人間の暮らしにはいつも正と負が同居しそれが何となく
幸せなのだ。
とつておく子らの算盤煤払ひ         山科 和子
「煤払ひ」は単に煤を払うだけでなく、たいてい大掃除を
かねて行なわれることが多い。子供たちが、子供の頃使った
算盤が箪笥の上か部屋の隅に忘れ去られたままになっていた
のだろう。煤払いのときにたまたまそれを発見。「とってお
く」に母親の愛情が迸り出ている。
初電話声のみ若き私達            荒川 洋子
「声のみ若き」が見事。屈折した心情がこの一語で言いき
れた。「私達」がぴたりと呼応している。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(一月号より)


おのづから折れて地中の蓮の骨        川端 庸子
葉は枯れ切り、茎も折れ曲がった蓮の姿。そこに天命を知っ
ているかのような潔さを見たのでしょうか。下五に置かれた
「蓮の骨」がメッセージ性をもった映像として浮かびます。
千日回峰行を成し遂げた塩沼大阿闍梨の「これからは、自分
の生きていた痕跡を消していきたい」という話も想起され、
地に還る骨は、いつか土と同一化していくのでしょう。
爪掻の織師の爪や文化の日          酒井 英子
織師の爪は道具の一つ。ギザギザの波型を施した爪の先で
糸を掻き寄せ、文様を織り出します。まさに手仕事。以前、
西陣の若い女の子が、自らの爪にやすりをかけているのを見
たことがあります。伝統文化を支える織師の技は、指先のそ
の先、爪の先から紡がれていきます。
クロワッサンぽろぽろ銀杏落葉急       服部くらら
「ぽろぽろ」が上下に効いています。パイのような軽さのク
ロワッサンのかけらが落ちるさまと、銀杏の落葉が一気に散
り敷く様子と。一帯を包む銀杏の明るい黄色や、焼き上がっ
た色、バターの香りに、明るい初冬の景が広がっています。
上毛や出来秋望む墳の上           平井  香
上毛(じょうもう)は上毛野(かみつけの)の略。現在の
群馬県。その昔、多くの古墳群と高度な文化をもっていた地。
出来秋(できあき)は「豊年」の傍題。秋の実りの光景をは
るかに見渡す、気持ちのよい風景。郷土というもの。
コロナ禍や神輿オープンカー出御       村上いちみ
何と何と、お神輿のお出ましはオープンカーに乗って。防
ぎようのないこの事態ではありますが、せめて飛沫感染や密
を避けての策なのでしょう。ウィズコロナの今の時代の作品。
山茶花咲く朝日の当たる処より        中村ハマ子
何でもない日常の風景です。日が当たっている処から開花
するのも山茶花に限りません。けれど、長い間を咲き継ぐ山
茶花の咲き始めの、朝の明るい光の描写や母音のa音の明る
い韻きが心地よいのです。俳句は韻律の詩と再認識しました。
豚ロース一キロ当てて神の留守        高瀬あけみ
これはラッキー!と喜びながら、半分何故か、ちょっとき
まり悪いような…。句末の季語にそんな思いを感じ取ります。
神様が留守の間に当てた籤の景品は肉塊。殺生に通じるよう
な。でも、それはそれ、自らの幸運が引き当てたもの。きっ
と、おいしく有り難く頂いたことでしょう。
雑木黄葉して里山はもう眠い         小柳 絲子
下五の大胆さが愉しい。里山の様々な木々が、紅や黄色に
と各々の色を深めていく晩秋。少しずつ冬への支度を始めて
いるのか、冬の「山眠る」をベースに擬人化を極めた一作。
神無月老人は皆怒りがち           斎藤 浩美
この頃の我が振る舞いに、そうかも、と頷きたくなります。
怒りがちになるのは、何かと手間取り思うようにいかなくなっ
た自分に対してかも。でも神様がご不在であっては致し方あ
りません。その咎はご容赦頂きましょう。神無月のもとに
冬ぬくしリボンの騎士の原画見て       乙部 妙子
手塚治の「リボンの騎士」は昭和中期、連載された少女漫
画。男装の麗人となって活躍するサファイア姫に私も虜でし
た。かつての高揚感が蘇る、原画を目にしての「冬ぬくし」。
霜降や糸底ぬくき萩茶盌           沢戸美代子
霜降の時節、草木の表面に降りた霜の白さと萩茶盌の柔ら
かな白い風合い。両者に通じる、うっすら感。晩秋のやや肌
寒い大気に、糸底から伝わるほんのりとしたぬくみもまた。
夢の窓句碑に鳥語と今年酒          杉浦 紀子
米津句碑祀りでの吟。句碑の辺りを活気づけるような鳥た
ちの声と、捧げられた新酒。師とともに「若竹」の多くの先
達を敬い、そして懐かしく思う作者の心ばえが伝わります。
小鳥くる筥迫の房ゆれどほし         池田真佐子
筥迫(はこせこ)は和装のおしゃれな装身具。「房」という
細部から意匠を尽くしたその装飾や、懐近くでの「ゆれ」か
ら胸の鼓動を呼び起こします。周りに聞こえる囀りと共鳴も。
大志もて着袴に革靴七五三          犬塚 房江
大志と袴と革靴、三点そろえばそれは坂本龍馬です。七五
三のお祝いと、これからの前途を祈願しての一句。着袴(ち
ゃっこ)の男児の革靴は、いつの日かブーツへと変わって…。
婆ちゃんの名句聞かせる文化の日       近藤くるみ
いいなあ。こんな文化の日。名句と断定する婆ちゃんの気
取りのなさが、血の通った文化の継承。聞く子がいる幸せ。
新日記まづ書く友の誕生日          中澤さくら
これから始まる一年を見通し、忘れてはいけない友のお祝
いの日。大事な人との絆をまたあらたに強くする「新日記」。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


ほどきゆくやうにも見えて藁仕事       しなだしん
(『俳句年鑑二〇二一年版』より)
秋の新藁を使って、縄、筵、俵、草履など、いろいろな物
が作られる。ある物は、打たれ、撚られ、綯われ、編まれ、
また、ある物は、繋ぎ合わされ、先を揃えられる。自由に育っ
た稲が、こうした工程をへて、作品・製品となっていく。そ
の姿を「ほどきゆくやう」ととらえた。そこには、多くの試
練や制約を経たものの美しさがある。俳句にも、五七五の枠
組みからほどきゆかれる美しさと解放感がある。
飛んでみて飛べてゐるなり燕の子       名村早智子
(『俳句年鑑二〇二一年版』より)
「やってみたら、できた!」|この繰り返しが、「燕の子」、
そして、あらゆる生き物を成長させてゆく力となる。「小さ
な勇気」と「小さな挑戦」が「小さな、時に、大きな、飛躍」
を生むのだ。幼い頃、子供用自転車の補助輪を外し、「後ろ
を支えているから乗ってみよ」と言った親。言われるまま
に、恐る恐るペダルを踏む。知らぬ間に親は自転車から手を
放している。なのに、少しよろめきつつも自転車は前へと進
む。振り返ると親の笑顔、それに誇らしく微笑み返す|あの
懐かしい達成感。今再び、あの気持ちを呼び覚ましたい。
夕顔やひとり言とは微かな旅         宮崎 斗士
(『俳句年鑑二〇二一年版』より)
「夕顔」は、夏の夕方から夜にかけて白い花を咲かせ、朝
にはしぼむ。「ひとり言」の幽けさが、そのはかなさと響き
あう。確かに、ひとり言は、現実の自分を「微か」に解き放
つ。その感覚は、旅で非日常を楽しむ感覚に近い。まして、
そのひとり言から俳句が生まれていくのならば、これほど上
質な「旅」が他にあるだろうか。
しぐるるや駅から消えし告知板        河野  薫
(『俳句年鑑二〇二一年版』より)
「しぐるるや駅・・・」とくれば、「に西口東口」と続く安
住敦の有名な一句を思い出す。安住の自註には、待ち合わせ
した相手が西口に、安住が東口に出てしまった、とある。筆
者はこれらを踏まえて、掲句を安住の句へのオマージュ(敬
意)として詠んだのである。スマートフォン全盛の今、駅か
ら「告知板」は消えた。しかし消えたのは、告知板だけなの
だろうか?スマホで「繋がる」ことで、繋がりの切れかけて
いるものは、他にも幾つかあるのではないか。俳句には、そ
れらを再び繋ぎ合わせてくれる力がある、と信じたい。
黄落や楽器持たざる子が指揮者        山根 真矢
(『俳句年鑑二〇二一年版』より)
この句を読んだ時、小学校の頃の思い出がよみがえってき
た。音楽は好きなのだが、不器用な私は、ハーモニカも縦笛
も下手。それでいて、ハーモニカを誰にも負けないくらい大
きな音で吹いてしまう。音楽のH先生は、たまりかねて私を
廊下によび、「あなたには指揮者をしてもらいます」とおっ
しゃった。まさに「楽器持たざる子が指揮者」。それからH
先生による特訓がはじまった。「あなた、ちょっと不器用ね」
と言われながらも、何とか指揮ができるようになり、発表会
は無事終わった。実は、その十年先に吹奏楽部顧問として指
揮棒を振るようになるのだから、人生は面白い。「黄落」と
いう季語が、「楽器持たざる子」をやさしく応援してくれて
いる。
調律の了りは和音天の川           荒井千佐代
(『俳句年鑑二〇二一年版』より)
ピアノには八十八個ある鍵盤それぞれに一〜三本の弦が張
られている。その鍵盤と弦をはじめとする約八千個の部品か
ら成るピアノの構造を熟知し、調整するのが調律師の仕事で
ある。調律師は正確な音律を捉えながら、全ての弦を素早く
合わせていく。掲句では、調律師は調律の「了り」を和音で
もって告げた。家の中に心地よい風が吹き抜けていくような
ひととき。季語「天の川」により、その和音の響きは、あた
かも天界にいるような感覚をも抱かせる。
花曇とは文房具屋のにほひ          仲  寒蝉
(『俳句年鑑二〇二一年版』より)
「花曇」とは、桜が咲く頃の曇り空を言う。傍題の「養花天」
は雲が花を養うという発想から生まれた。作者は、その「花
曇」を「文房具屋のにほひ」と言っている。これはどのよう
な「にほひ」なのだろうか?入学試験の監督として試験会場
に入るとき、私は、机の前にじっと座っている中学生が「文
房具のにほひ」を発しているのを感じる。全身が「鉛筆」と
化して試験問題に立ち向かおうとしている。雲よ、花を養う
力を受験生にも分け与えてくれ。