No.1068 令和3年4月号

井垣清明の書 7

李白詩古風其二十四
昭和58年(一九八三年)一月
第22回日書学展(東京都美術館)
李白、古風五十九首・其二十四

釈 文
大車飛塵(ひじん)を揚げ、亭午(正午)阡陌(道路)暗し。
中貴(ちゅうき)(朝廷の高官)は黄金多く、雲に連なって甲宅(豪邸)を開く。
路に闘鶏の者に逢う、冠蓋何ぞ輝赫(きかく)たる。
鼻息虹蜺(にじ)を干(おか)し、行人皆怵惕(じゅつてき)(恐怖)す。
世に耳を洗う翁無し、誰か知らん堯(ぎょう)と跖(せき)とを。

流 水 抄   加古宗也


夕涼や阿国の像で待ち合す
川床料理愛で三條の橋袂
黒日傘肩にあづけて後生車
末伏やごろごろ鳴れる後生車
煮魚は穴子や長き織部皿
雨燕郡上に速き流れあり
機音に機音重ね秋隣
かき揚げのからりと揚がり秋隣
早桃てふ桃よ清水に浸しあり
遠くにも近くにも蜂水を飲む
蝉声に阿吽てふもの石に塚
お隣りは曹洞の寺蝉時雨
かつてここに隔離病棟蝉時雨
蝉声や鎌を絵馬とし祀る宮
風鈴や赤間硯を坐右に置く
啄木鳥のしきりに叩く橅の幹
うかつに手触れるなと兄夏薊
滋賀県小椋
新涼や挽き終へて抱く栃の盆
孟宗のつくる真闇や秋蛍
秋扇に墨置く気負ひ賜りし
木道の足裏に応へ大花野
ビードロは海の色持ち土用あい
野阜(づかさ)の風が紅さす吾亦紅
秋蛍竹林の闇ほしいまま
五箇山ほか十句
硝煙の匂ひが残り榾の宿
花眼とは老眼のこと榾を焚く
婆の座は嬶座の隣り榾を焚く
炉框や七寸五分の竹並べ
榾焚いてをりむぎや節唄ひをり
熱き茶や炉框に置く大根漬
寒牡丹見に葛城の山裾を
染寺の井戸生きてをり寒牡丹
伏見には酒蔵多し寒鴉
冬林檎相馬野馬追唄流れ
「俳壇」三月号より

真珠抄 四月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


鳰潜く水輪と鳰の浮く水輪      田口 風子
その夜の山河涙の凍る音       荻野 杏子
麦の芽や伊吹の裾は湖へ入る     阿知波裕子
押鮨を祇園に頼む春驟雨       市川 栄司
葛湯吹くひとりに夜の灯が動く    工藤 弘子
少年は手を振つたはず蝶の昼     田口 茉於
バレンタイン花の形のチョコレート  田口 綾子
寄せ波引き波流氷が口開ける     大澤 萌衣
びんびんと響く硝子戸寒稽古     長村 道子
願ひごと秘密と言ふ子十二月     鶴田 和美
初東風に靡く疫病退散旗       春山  泉
大嚔嫁が我が子となりにけり     鈴木まり子
振り向けばさらに手を振る春の雪   中井 光瞬
武蔵野で観る夕焼の黒き富士     岡田 季男
綿虫やぬくもり欲しき夕まぐれ    鈴木 玲子
暗唱の小さき声するちゃんちゃんこ  中野こと葉
腫瘍なし回転寿司の牡蠣三皿     山科 和子
かまいたちスマホ歩きを狙ひけり   稲吉 柏葉
大空へ枯れゆくままに立つ枯木    今泉かの子
新しきテーブルクロス二月来る    重留 香苗
木の実植うトトロの森を夢に見て   磯貝 恵子
寒オリオン紙が薄刃となる夜かな   平井  香
飛行機の少なき空や風光る      高濱 聡光
暖かや雲梯の子の顎マスク      白木 紀子
手仕事を生業として針祭る      稲垣 まき
着ぶくれの列や一粒万倍日      髙𣘺 まり子
職人は屋根へ行ったきり日脚伸ぶ   斉藤 浩美
冴ゆる夜の遺品の中に土門拳     天野れい子
余寒なほ意外に長き火縄銃      嶺  教子
日だまりの柚子に群れ居り寒雀    井垣 清明

選後余滴  加古宗也


冴え返るランドセルにも予備マスク     磯貝 恵子
「冴え返る」がじつに厳しく効いた句だ。春になって一
旦暖かくなったところに再び寒気が襲ってくることで、気
の緩みが一層寒気を強く感じさせる。昨年から今年にかけ
て、新型コロナの流行で、日本国中が右往左往している。
マスクはコロナ対策に最も有効な方法として、外出時には
必需品になっている。顔に付けるだけでなく、ランドセル
に予備マスクを吊るしている登校児だ。「冴え返る」とい
う季語に呼応するように「予備マスク」がストレートに心
に突き刺さる。ことに「予備」が。
紋付の母の旅立凍返る
その夜の山河涙の凍る音          荻野 杏子
杏子さんは先頃母親を亡くされた。その悲しみが「凍返る」
あるいは「涙の凍る音」に凝縮していて胸を打つ。その地
方々々で死に装束は違う。飛騨地方では「紋付」のようだ。
村上鬼城がかつて「江戸っ子を気どっている人でも、喧嘩に
なった途端に方言が丸出しになるものだ」と言ったことがあ
る。人はその地方地方の有り様に従ってこそ「本当」が心に
正しく返ってくることを教えてもらった一句でもあった。
青年のコートは軽し始発駅         今泉かの子
若者は一年を通じて軽装の人が多い。真冬の始発駅にい
かにも薄ぺらい感じのコートを着て立っている青年を見て、
「あれで寒くはないのかしら」と思ったのだろう。私はこん
なに着ぶくれているのに。この頃、ますます若者は異人種
のように思えることがある。「始発駅」がよく効いている。
着ぶくれの列や一粒万倍日         高橋まり子
東京浅草の浅草寺の縁日の一つに一粒万倍日の参拝があ
る。この日一粒の種子をまけば万倍もの粒となる、との意
にあやかったもので、この日にお参りすると一万回お参り
したのと同じご利益が得られるという。この句、「着ぶくれ」
という季語が面白く効いている。寒かろうと、格好悪かろ
うとこの日にお参りしてしまえばご利益がある、という庶
民の思いが、せつなくも滑稽に活写されている。
大嚔嫁が我が子になりにけり        鈴木まり子
姑の前で嫁というのはなかなか嚔はできないものだ。こ
の句、「大嚔」によって一気に嫁と姑の距離がちぢまった
というのだ。嫁を我が子のように愛しく思えた瞬間だ。人
生というのは案外こうしたことを切っ掛けに好転してゆく
ものだ。「なりにけり」にこれまでの時間が読み取れて、
これまたうれしい表現になっている。
思ひ出を引き寄せ過ぎず賀状書く      鶴田 和美
思い出を引き寄せ過ぎるとどうなるのだろうか。べたべ
たとして一方通行の文句にもなりかねない。年賀状はあっ
さりと明るいものがいい。
綿虫やぬくもり欲しき夕まぐれ       鈴木 玲子
綿虫は不思議な虫だ。夕方になって気温が下がってくる
とどこからともなく現われる。綿虫には何種類かあるよう
だが、大綿といっても小さなもので、夕明りの中にぽっと
現われたかと思うとぽっと消えてしまう。そして、また現
われる。ひょっとしたら綿虫もぬくもりが欲しくて人に近
づいてくるのではないかと思ったりもする。
暗唱の小さき声するちやんちやんこ     中野こと葉
暗唱は英単語なのか、歴史年表なのか、あるいは…。じ
つは、私の個人的な経験では、暗唱は小声の方がいい。大
声を出すと、声と一緒に記憶したいことが逃げてしまうよ
うに思われてならなかった。自分の心の中に呼びかける、
といおうか、つぶやきかけるのだ。「ちやんちやんこ」に
けなげさがぴたりと寄り添った。
寒オリオン紙が薄刃となる夜かな      平井  香
紙はときに薄刃のナイフのようによく切れる。あえてい
えばそれは寒気と乾燥によって生まれるもののようでもあ
る。私も紙で二三度指を切ったことがある。それが意外に
深手で、治癒にけっこう時間がかかる。この句、「寒オリ
オン」の光りを薄刃に対比しているところが鋭い感性とい
うべきだろう。薄刃は少しの心の隙に入り込んでくる。
暖かや雲梯の子の顎マスク         白木 紀子
子供はブランコや辷り台が好きだ。もう少し大きくなる
と鉄棒や雲梯に挑戦したくなる。今年は新型コロナで、子
供たちは遊ぶときもマスクの着用が義務づけられている。
ところが、雲梯はかなりの運動量が要求され、たちまちに
汗ばんでくる。この句「顎マスク」が実景を素早く俳句に
しているのがいい。作者自身も何となく汗ばんでいるのだ。
手仕事を生業として針祭る         稲垣 まき
作者は長年テーラーとして生きてきた人。この句には寸
分の隙もない。堂々とした一句だ。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(二月号より)


枇杷の花別れは人を近くせる         服部くらら
寒い冬でも葉はしおれず、その陰でそっと咲く枇杷の花。
いなくなった後の不在が、かえってその面影を強く心に呼び
起こすのでしょうか。それは胸の内にある存在の確かさ。惻々
とした心情を超えた境地のように、人目につかぬまま枇杷の
花は、そこはかとない香気を漂わせています。
今朝冬のなんて綺麗な心電図         阿知波裕子
季語から始まり、続く平易な言葉が修飾する、下五の意外
性。立冬の、厳しい季節の始まる緊張感と、心電図の、きれ
いな線から感じる安心感。意外とも受け取れる取り合わせ
が、なぜか響き合う、この不思議。新鮮な今朝冬の一作です。
すぽすぽと抜く人参や地の温み        長村 道子
「すぽすぽと」から、勢いよく引き抜かれる人参の様子が目
に浮かびます。しっかり茂った葉、朱色の人参に着いた黒々
とした土。収穫の純粋な喜びはもちろん、「温み」に陽の温み
と、恵みをもたらす大地への思いも感じます。
卵酒飲むムーミンのマグカップ        天野れい子
丸みの一句。卵の球体、ムーミンの体型、マグカップの安
定感。ほっこり穏やかでやさしい。声に出して読めば、マ行
の音の韻きもなめらか。体の調子もよくなりそうです。
朝刊で顔を押さへし嚔かな          関口 一秀
怖れるべきは飛沫感染。それはたとえ、朝刊を読んでいる
くつろぎの日常にあっても。突然の嚔に思わず新聞紙で顔を
押さえた作者。この面積、厚みならきっと大丈夫でしょう。
ちょっとおかしみも感じてしまう、コロナの時代の嚔です。
長靴の底まで冬日入れて干す         米津季恵野
逆さに向けて干すことの多い長靴ですが、陽ざしに向けて
沿うように角度を調整、干したのでしょう。日の力を惜しみ
なく受け入れられるように。「底まで入れて」の確かな描写力。
着ぶくれて旗ふる朝の通学路         鈴木 静香
「旗ふる」が何だかおかしい。声をかける代わりに振る旗が、
陣頭指揮の旗振り役を思わせ、それでいながらその身は着ぶ
くれて防寒第一。てきぱき感ともっさり感のこのギャップ。
着ぶくれた暖かさ同様、児等への応援の心持ちも温かい。
木曽駒ケ岳や皮ごとかじる冬林檎       江川 貞代
手元の林檎は、千恵子が「がりりと噛んだ」檸檬にも似た
清々しさ。あるがままの林檎の素朴さ、食感と甘酸っぱい香。
駒ケ岳の雄大さと林檎の小さくもみずみずしい感じ。信州の
広い空と澄んだ空気感が伝わる、気持ちのよい作品です。
落葉掃きて胸に箒の目を通す         堀田 朋子
想起されるのは釈迦の、何でもすぐ忘れてしまう愚かな弟
子、周利槃特(しゅりはんどく)。「塵をはらえ」と唱えなが
ら庭の掃除をし続け、遂に悟りを開いたといわれる、茗荷に
由来する僧です。掲句も落葉という塵を掃き、結果心の塵も
払われたのでしょう。掃き目の筋が通ったすっきりした胸の
内。
流星の群れを客とす冬の町          荒川 洋子
流星が見える夜の町から、逆にさびれた昼間の町も思われ
ます。シャッターの下りた夜更けの町への訪問者。人知れず
天から客人が降りてくるような。秋気澄む夜のファンタジー。
淋しさはどこへも行かず日向ぼこ       安藤 明女
こんな思いのする「日向ぼこ」も確かにあると共感いたし
ます。暖かな日に包まれながらたった独りをかみしめて。人
が抱える、生きている淋しさが光の底に沈んでいるようです。
冬ぬくし嫁のポテサラ褒めちぎる       山科 和子
ポテサラ論争?がベースでしょうか。それは、総菜売り
場で「ポテサラぐらい母親なら作れよ」という一言に端を
発したもの。ポテトサラダを作る手間を思えば、またその
間柄を思えば、「褒めちぎる」のやや過剰な表現も納得です。
人とのつながりを大切にしようとする気持ちが伝わる「冬
ぬくし」。
ひとりゐの身に入むハービーハンコック    鈴木 帰心
一読、勝手ながら「処女航海」のイントロが蘇りました。
海へ静かに滑り出すようなメロディーライン。ハービーハン
コックは、シカゴ出身のジャズピアニストです。深まりゆく
秋、ひとりの部屋に聴く、好きなナンバー♪。秋の冷気も、
そこはかとなく感じる、しみじみとした秋の夜です。
鴇色の夜着ビロードの黒い衿         今津 律子
鴇色はトキの風切羽のような淡紅色。夜着は、布団に袖や
衿がついたような、着物の形をした夜具です。鴇色と黒の色
の対比。ビロード独特の光沢や滑らかな手触りに、古くも豪
華に仕立てられた夜着の特別感、遠い時代を感じます。。
新米を掬ひて水のごと落す          渡辺よねこ
水のもつ清澄なイメージと、稲作に根差した米のもつ神聖
さ。新米がさらさらと輝き落ちる様子が目に浮かびます。句
末のあっさりとした端的な表現「水のごと落す」が秀逸。

俳句常夜灯   堀田朋子


注連を綯ふこれほどまでの正直を       榎本 好宏
(『俳壇』二月号「冬籠り」より)
神話の時代から綿々と綯われてきた注連縄は、世俗と神の
領域を分ける境目を示すものだ。その向こうは、人が立ち入
ることのできない神聖な世界。我々は、この神と人との関係
性を冒すことなく守って来たし、これからも守っていくのだ
ろう。
掲句の「これほどまでの正直を」の措辞は、注連を綯う氏
子の方々のそんな厳粛さを感じ取ったが故のものだろう。倒
置法が鮮やかに効いている。受け継がれてきた技と作法に
則って粛々と「注連を綯う」ことが、神に向けての「正直」
さなのだと思う。それは神への畏怖とも言えよう。
作者は、整然として清々しい綯い目を持つ注連縄を前に、
神への畏怖こそが、人としての道を外さない礎なのかも知れ
ないと、深く感受されたのではないかと想像する。
板に干す脂まみれの猪の皮          中村 雅樹
(『俳句四季』二月号「短日抄」より)
これは、壮絶な光景だ。愛知県豊田市足助町という山間の
町に、猪専門の老舗料理屋がある。時期によっては店先で、
何体もの猪の皮が板に貼り付けられるようにして干されてい
るのを目にすることができる。ごわごわとした猪の皮が、剥
ぎ取られた形状のまま干にされている様は、胸に刃を突きつ
けられるような痛みを呼び覚ます。まして「脂まみれ」とは、
凄惨だ。
この「脂まみれ」という表現が、掲句の出色だと思う。獣
の脂は生存に必須のものだ。食べ物の乏しく体温を失い易い
冬季を生き抜くために、猪は秋から懸命に山野や田畑を駆け
回って、その身に脂を蓄える。丁度脂の乗った頃が食べごろ
とは、一番恐ろしいのは人間なのかも知れない。そう思わせ
られる句だ。
うすらひに陰画のみやこあらはるる      角谷 昌子
(『角川俳句』二月号「ランプの鳥」より)
楽しい句だ。腰を落として、「うすらひ」を見つめ続ける
ことで得られた句ではなかろうか。人の目は面白いもので、
雲や星空や、天井の沁みにさえも何かを見つけたりする。「陰
画のみやこ」とは、独創的だ。雅な空想にドラマ性を感じる。
そして大事なことは、それが単なる幻視ではないというこ
とだと思う。「陰画のみやこ」は、薄氷というものの本質を
捉えているのだ。寒暖の陽の光、微かに動く水、触れて行く
風、揺れる水辺の草、それらの細やかな現象を折々包含して、
薄氷は今この姿を見せているのだから。作者は、目前の「う
すらひ」の繊細な儚さを、慈しんでいるのだろう。「みやこ」
の平仮名表記が、掲句の世界に適っていて巧みだと思う。
静脈の集まる手首冬すみれ          内田 美紗
(『角川俳句』二月号「一陽来復」より)
齢を重ねるにつれて血管が目立つようになる。これは、血
管や皮膚の弾力の低下によるものらしい。ちなみに、浮き出
ているのはすべて静脈なのだそうだ。なるほど手首には多く
の静脈が通っているのがわかる。集まって皮膚を紫色に透か
している。それを作者は、「冬すみれ」のようだと感じてい
る。美しい季語の斡旋だと思う。菫の花期は春で、冬に咲く
品種はないらしい。まだ冬の内に、暖かく日当たりのよい場
所にそっと咲くものを冬菫と言う。静かで清楚な花だ。パン
ジーなどとは一線を画した、日本的な可憐さを感じる。
自身の手首に「冬すみれ」を見て、物言わぬ静脈を労わっ
ている作者こそ、冬すみれのように清廉な方だと思う。
冬の蜂バッハのフーガ天へ鳴り        市村 和湖
(『俳句四季』二月号「奏楽堂」より)
由緒ある奏楽堂で、荘厳なるパイプオルガンによる「バッ
ハのフーガ」を鑑賞されたのだろう。フーガというのは、遁
走曲とも追走曲とも称される。先行主題の旋律と、それに答
えるように移調された同形の旋律が追いかけるように反復さ
れる楽曲を言う。まるで迷路に入りこんだような感覚にな
る。得体の知れない不安や、何か切迫した緊張を呼び起こす。
この場に、「冬の蜂」が実在したのかどうか。それはどち
らでもいいような気がする。天上へと鳴り響くフーガの荘厳
さに包まれた時、作者の心には一匹の「冬の蜂」がたしかに
現れたのだろう。交尾を終えた雄蜂は力尽きやがて息絶え
る。受胎した雌蜂は越冬して産卵の春を待って息絶える。そ
してその次の世代が命を繋いでいくのだ。まるでフーガのよ
うに逃げても逃げても、生き物は生を繋ぐ性から逃げおおせ
ない。バッハのフーガは、作者を厳粛な思索へと誘うための
効果音。
弊誌の師系である村上鬼城の「冬蜂の死にどころなく歩き
けり」を思い浮かべる。この句に音楽をつけるとしたら、バッ
ハのフーガがぴったりするような気がしてきた。
浮寝鳥大河すべてを受け入れて        西宮  舞
(『角川俳句』二月号「指輪」より)
大きな病を得た作者が、不安の中で手術を受けられ、術後、
身体の回復とともに、しだいに凪いだ心を取り戻されるまで
の一連の十二句。同じような経験がある身として、どの句に
も共感した上で、最後の一句を取らせて頂いた。
「浮寝鳥」の光景をどう詠むかは、偏に作者の状況による
のだとつくづく思う。命をかけた長旅を経てたどり着いたこ
の大河で、浮寝鳥は、今という時をゆっくりと生きている。
病を受け入れるまでの煩悶の後に、浮寝鳥の穏やかさにご自
分を重ねられたのだろう。「大河すべてを受け入れて」生き
ていくよりほかないとの、不退転の覚悟が清々しい。覚悟は、
ある日ストンと心に嵌るもの。受容こそ強さの源だと思った。