No.1075 令和3年11月号

井垣清明の書

 

新筍出林香
昭和63年(一九八八年) 五月
第17回日書学同人展(銀座・松坂屋)

釈 文
新筍(しんじゅん) 林を出でて香し
(蘇東坡「大老寺竹間閣子)第二句

流 水 抄   加古宗也


緑蔭や少年が吹くサキソフォン
緑蔭や膝もて鳴らすタンバリン
新宿はゴールデン街生ビール
梅花藻や醒ヶ井と云ふ湧水池
梅花藻や水辺に靴を脱ぎ揃へ
柿田川湧水
梅花藻や頭上をダンプ通り過ぐ
沢水はアルプスのもの花山葵
緑蔭に身を入れ電動車椅子
無言館けふ閉されあり山の蟻
樋鳴らす雀や梅雨の中休み
内堀に石橋架かり白はちす
懐しきものに黒板瑠璃揚羽
田水湧くや鞍掛山へのぼる坂
壱岐に来て焼酎蔵に昼の飯
風蘭の香やたつイエスタディ歌ひ
地境の杭にからみて南瓜蔓
筆箱にそつと収めて落し文
石庭に波音聞え沙羅の花

真珠抄 十一月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


国定は忠治の里よ西瓜買ふ      工藤 弘子
鯉こくは男がさばき村祭       飯島たえ子
潮待ちの雁木(がんき)に憩ふ秋燕  渡邊たけし
ビルを出でビルに隠るる月に慣る   荒川 洋子
窓開けて月へ飛ばしぬ蚊喰鳥     荻野 杏子
半日で蓑虫進む百センチ       髙木たつみ
浮城は諏訪湖のほとり初鴨来     天野れい子
見覚えのある絣着て案山子かな    竹原多枝子
車椅子押すこつ掴み涼新た      池田あや美
秋澄むや竹刀ぴしぴしきほひ立つ   長村 道子
円陣の尻美し球児らの八月      三矢らく子
松手入庭師の右手素手であり     鈴木こう子
吾亦紅田舎育ちの儘に生き      松元 貞子
木歩忌やコロナ禍で読む木歩の句   関口 一秋
板一枚架けて橋とす秋の水      稲垣 まき
秋風や塵出しに来て訃報聞く     久野 弘子
朝顔のつぼみを数ふ千代女の忌    水野 幸子
青空を歩く鳶職雲の峰        稲吉 柏葉
ねぢばなやよのなかなべてかけちがひ 鈴木 帰心
ぶら下がる箒や熊手や郁子の棚    水谷  螢
二百十日骨折の小指のギプス     中野こと葉
被爆樹の影が寝ている今朝の秋    中井 光瞬
椿の実踊り子坂の道標        新部とし子
真葛原狐塚てふ字に棲む       堀田 朋子
鮎落つる川を濁して昨夜の雨     田口 風子
新しき木椅子を足して今朝の秋    村重 吉香
蓮の実のもうあらかたは飛んでをり  白木 紀子
路線図とカメラ離さず夏休み     鶴田 和美
落葉吹かれゆくや片側三車線     飯島 慶子
秋雨や踵で支ふ火山灰の道      山田 和夫

選後余滴  加古宗也


潮待ちの雁木(がんき)に憩ふ秋燕     渡邊たけし
瀬戸内海にある船着場に雁木と呼ばれる階段状のものが
ある。水位が上がれば上がるほど階段の上の方に船が着け
る仕組で、逆に水位が下がればそれに合わせて船は下の方
で着ける仕組みになっている。水位に合わせて船が上下す
るので、長時間、荷の揚げ下ろしが可能だ。いや、いつで
も船を接岸させることが可能になる。先年、司馬遼太郎の
『竜馬がゆく』がNHKの大河ドラマになったとき、竜馬
が現在の広島県鞆の浦(とものうら)から船出する場面が
あった。この場面はいってみれば『竜馬がゆく』のクライ
マックスの一つで、日本の夜明け、つまり、明治維新へ向
けて大きく日本が動き出す象徴的な場面でもあった。
作者は、広島県尾道市で少年時代を過ごしており、鞆も
思い出深い地と聞いている。先年、作者と鞆を吟行したこ
とがあり、上掲句から生き生きとその折りの景が甦ってき
た。そして、この句には、しみじみとふるさとを愛する作
者の等身大の姿が浮んできて、心が熱くなる。
ビルを出でビルに隠るる月に慣る      荒川 洋子
横浜で生まれ、横浜で育ち、横浜で暮らしている作者な
らではの作品で単純に合点すると同時に、下の句「月に慣
る」がきびしく胸に刺さってくる。慣れることを当り前と
しながら、慣れに一抹の抵抗が無しとしない都会人の屈折
がほの見えてくる。当り前のことを当り前としながらふと
たじろぐのだ。
鮎落つる川を濁して昨夜の雨        田口 風子
愛知県・岐阜県には意外に鮎の川が多い。清流で釣り上
げた鮎もおいしいが、下り簗に落ちるのを捕まえて食べる
のも、風物詩にとどまらず食いしん坊にはたまらない秋の
贅沢だ。鮎は別に年魚とも呼ばれる。つまり、生まれてか
ら死ぬまでたった一年の川魚だ。海あるいは湖で生まれた
鮎が春に川を上りはじめる。渓流で藻を食べて育ち、大き
くなると産卵のために川を下る。それを生け捕るのが簗だ。
昨夜の雨によってすっかり見えなくなった渓流を見つめ、
そこに鮎の姿を厳しく想像している。「濁して」に複雑な
思いが籠る。
国定は忠治の里よ西瓜買ふ         工藤 弘子
いささか浪曲調のリズムが国定忠治の一句として面白
い。国定忠治は新国劇をはじめ、芝居、映画、漫画、小説
などでも扱われ、しぶとい人気を誇っている。忠治の他で
は清水次郎長・吉良仁吉などがことに有名。そこに流れる
任侠精神が庶民に受けるのだろう。つまり、弱きをたすけ
強きをくじくだ。上州には国定忠治の他に『木枯し紋次郎』
という大衆小説もあり、これが全国的な人気を呼んだこと
もある。さて、上掲の句の「西瓜買ふ」が意表をついた季
語の斡旋で、しかも忠治にぴったり似合うのだから面白い。
俳句は理屈ではない。「何となく」ということがとても大
切なことだ。
秋雨や踵で支ふ火山灰の道         山田 和夫
「踵で支ふ」にはっとさせられた。この措辞は山に登っ
たことのある人でないとわからない。秀句か凡句かの分れ
目は体験によって得られたものであるかどうかによって決
まる。《秋興や営業まめな山ガイド》も、その素材の拾い
方がすこぶる面白い。まさに、はっとさせられた一句だ。
窓開けて月へ飛ばしぬ蚊喰鳥        萩野 杏子
「蚊食鳥」は「コウモリ」のこと。夕方になってどこか
らともなく現われて、ぱたぱたと飛び廻る。この頃は見か
けなくなったが、かつては守石荘(若竹発行所)にも、夏
になるとよく現われたものだ。翅を開いたときには鳥のよ
うに、たたんだときには鼠に似ていることから、寓話に使
われたりもする。私も何回か捕まえたことがあるが、けっ
して、かわいいという動物ではない。この句「月へ飛ばしぬ」
が面白い。月に向って飛ぶ蚊喰鳥は映像的にも格好がよい。
アニメーションにしてもいいし、紙芝居にしてもいい。そ
んな視点が新しい一句だ。
松手入庭師の右手素手であり        鈴木こう子
庭師はいつも軍手をはめている、とうっかりすると思い
込んでしまう。じつにその通りなのだが、「松手入」のと
きはちょっとそこがちがっているのだ。素人は松の枝に鋏
を入れると同時に葉にも鋏を入れると思うが間違いだ。松
手入の基本は鋏ではなく、指で毟ってゆくのだ。正確にむ
ら無く毟るためには素手でなくては。松手入のこの先入観
を打ち破るやり方が俳諧そのものだといえよう。
落葉吹かれゆくや片側三車線        飯島 慶子
道路の片側から落葉が吹き出されたときの運転手の心理
が面白く表現された。一車線ならば易々と道路を横断、二
車線だとあやうく横断できそう。ところが三車線となると
どうなるか。落葉だからそれで事故というわけではないが、
このとき運転手のはらはら感がすごい説得力をもって描写
されているのに驚かされる。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(九月号より)


打水に石の光陰しづかなり          工藤 弘子
水が撒かれた瞬間から始まる乾くまでの短い時間と、動か
ない石の上を過ぎ行く月日の長い時間。石につかの間宿った
湿り気の生気は、静かな時の経過と共にたちまち消えていき
ます。悠久の時の流れの中にあって、泰然と且つ格調高く詠
まれた、うたかたの清涼感が印象に残ります。
奥入瀬は若葉オープンバス染まる       酒井 英子
十和田湖辺りを周遊されたのでしょうか。九音、九音の破
調ながら、気持ちのよい展開がたのしい。屋根のないバスは
若葉風が直接感じられ、心も体も、若葉の瑞々しさに「染ま
る」のです。旅のうきうき感、高揚感が伝わる句末の三音。
暑き日をはじきて濁る養鰻田         髙橋 冬竹
三河一色産の鰻は全国に誇るブランド鰻。「はじきて濁る」
に、夏の陽ざしの強力さやシラスうなぎの逞しさを感じます。
地元西尾にお住まいの作者、見事に活写された夏の生命力。
面打ちを志望の少女単足袋          市川 栄司
「面打ち」とは、能や神楽で使われる面を作る作業。面打ち
師。この伝統工芸の世界を「志望」しているのは少女です。
夢をかなえる前途には、彫刻の技術的な面の修練はもちろん、
能面や能の歴史等学ぶべきことは多々あるでしょう。お能の
舞台は稽古でも、素足や靴下は許されず足袋だけは必須とか。
薄手の足袋に十代の少女のどこか心もとない感じも重なりま
すが、常に必要とされる季語の斡旋に、明確な覚悟やどこか
日常を超えた一途な瞳の輝きが感じられるように思いました。
袋掛けの数増えてゆく家の壁         烏野かつよ
「家の壁」がちょっと謎ですが、はじめは家の外壁の身近
な所で果物を栽培され、中七の措辞から摘果の楽しみへ繋が
るように捉えました。が、句末の「壁」から隔て遮る感じが
して、よその家なのかもと思い直しました。袋を掛けてしま
えば姿が見えないように、いろいろに想像が膨らみます。
夏期講座茜蘇芳の重ね染め          平田 眞子
茜も蘇芳も赤い植物染料。同系色の色を重ねることで生ま
れるグラデーションの妙は、やってみてのお楽しみです。液
に浸けたり洗ったり、水と共に過ごした夏のひととき。出来
上がった作品は勿論、手仕事の体験を楽しまれたのでしょう。
虎が雨色蘇る貝の殻             堀田 朋子
今年の旧暦五月二十八日は七月七日。折しも梅雨前線の影
響で全国的に雨模様でした。虎御前の涙雨で、貝殻の色が海
にあった時のように蘇る、時空を超えた浪漫です。貝は縄文
の昔から食され、今の暮らしにも馴染み深いもの。古人の鎮
魂の思いを、身近な貝の色に託して鮮やかに詠まれました。
伊勢詣耳さはさはとさくらんぼ        服部 喜子
一読、季語は二つと思い確認すると、歳時記によって「伊
勢詣」は「伊勢参」の傍題であったり、また比較的新しい歳
時記には掲載がなかったり。もともと自然は季重なり。主従
がはっきりしていれば、それほど問題ではないのでしょう。
掲句。季節は春ではなく、夏のお伊勢さんでの吟。心地よい
響きの「さはさは」が、さくらんぼだけでなく、晴れ晴れと
した伊勢詣にもかかり、明るい清爽さを感じます。
まだ亀とも知らず子亀の売られけり      小柳 絲子
亀は万年。人間界では長寿のめでたい象徴とされています
が、作者は売られている子亀に心を寄せたのでしょう。自分
が亀であることをわかっていない位、小さい亀。その小ささ
元気のよさに、今のこの状況や行く末を慮ってのことでしょ
うか。痩せ馬に寄り添いながら「秋高し」と詠んだ、鬼城の
「あはれ機嫌や」の名句も想起されます。
鍔に手を添へ挨拶の夏帽子          奥村 頼子
ちょっと小粋。ダンディーな紳士からの挨拶は手を添える
だけ。いえ、中折れ帽も女性が普通に被る時代、女性なのか
も。いずれにしても夏帽子の軽さ、涼やかさが肝。美意識は、
大げさに振舞わない、さりげない仕草にあるのでしょう。
白杖の妹手触りで草を引く          米津季恵野
草を引くことは、日々こなしてゆく事の一つ。妹御の「手
触りで」は自分なりの草の引き方です。「できることをやっ
ているんだよ。」そんな声が聞こえてきそうでもあります。
作為の感じられない淡々とした詠みぶりが、胸に響きます。
大玻璃戸とびだしてゆく入道雲        富永 幸子
豪快な入道雲にふさわしく痛快です。もくもくとした雲は、
大きなガラスの窓枠を「とびだしてゆく」ほどの勢い。大胆
な詠みに、夏雲の生き生きとした感じが伝わります。
草引きて休みて引きし母の背な        鈴木 帰心
「引きて休みて引きし」この繰り返しのリズムに、自分の
調子を自身で把握しながら無理のないように、草を引く姿が
浮かびます。それはご母堂なりのやり方、暮らし方の一つな
のでしょう。母を見守る作者の眼差しに、今までもそしてこ
れからも続いていくであろう時間の長さが思われ、温かい。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


しあわせの形状記憶ミモザ咲く        室田 洋子
(『俳壇年鑑 二〇二一年版』より)
季語は「ミモザ(春)」。「形状記憶」とは、変形したものが、
熱を加えると元の形に戻ることを言う。私たちが「しあわせ」
と感じたことも、いつしか、日々の忙しさに紛れ、心の奥底
に沈潜してしまう。しかし、あるきっかけで、以前感じた「し
あわせ」な思いがよみがえってくることがある。
ミモザは、二月、三月の花の時期には、黄色い小さな丸い
花が集まって咲き、甘く優しい香りがする。そんなミモザの
花が、作者の心に幸福な気持ちを呼び覚ましたのだ。
トラックに牛おぼろ発おぼろ行        水上 弧城
(『俳壇』九月号「白韻抄」より)
季語は、「おぼろ(春)」。掲句を読んだとき、ハンガリー
映画『心と体と』に登場する牛の屠殺シーンを思い出した。
屠殺される寸前の牛が見せた表情は、数秒後に自らに降りか
かる運命を知るや知らずや、実におだやかだった。それが見
ていて辛かった。掲句の牛も、何もわからないままトラック
に乗せられ、何もわからないまま屠られに行ったのだ。
「おぼろ発おぼろ行」の措辞が、実に重く心に響く。
片陰の途切れしところからが旅        塩野谷 仁
(『俳壇』九月号「沢蟹の朱」より)
季語は「片陰(夏)」。夏の午後に家並みなどの片側にでき
る日陰のことである。それは、夏の暑さをいくぶんか凌ぐこ
とのできる「安全地帯」のようなところだ。その片陰が「途
切れしところ」とは、その「安全地帯」から抜け出ることを
意味する。すなわち、「旅」の始まりである。
例えば、片陰を「親の庇護」と捉えれば、この旅は、「自立
への旅」となるだろう。「片陰」をどう捉えるかによって「旅」
の中身も変わる。いろいろな「旅」を思い描いてみたい。
そこらまでその先までと避暑散歩       石嶌  岳
(『俳句』九月号「太鼓の音」より)
避暑地に到着した。今日は移動日。本格的な散策は、明日
にすることにして、きょうは「そこらまで」行ってくるだけ
にしよう、と思ってペンションを出た。しかし、歩き出すと、
木々を渡る風、鳥の鳴き声、道端の花々に自分の五感はたち
まち満たされた。「そこらまで」が、いや、「その先まで」と、
知らず知らずに距離が伸びていく。避暑地のすがすがしさに
魅了された作者の姿が目に浮かぶ。
捩花のねぢれ止まざる青き空         辻 恵美子
(『俳句』九月号「七葉」より)
季語は「捩花(夏)」。雲一つない「青き空」|それは、少
しの誤りをも許さぬ「正しき世界」にも見える。「正論」ば
かりを振りかざされると、「お説はごもっともなれど・・・」
と少し反発したくなる。その気持ちを中七「ねじれ止まざる」
に込めた。この反発心は、素直な心の発露、健全な心の動き
である。掲句は、青柳志解樹の次の句と一緒に鑑賞したい。
捩花はねぢれて咲いて素直なり
早足だが優柔不断夏帽子           小林 邦子
(『俳壇』九月号「へそまがり」より)
この句のモデルはどんな人だろう。
私は、誠実な人柄だけれど少し生き方が不器用で、相手の
話はきちんと聴けるけれど自分で決断するのは苦手で、何事
にも一生懸命取り組むけれどその情熱が少し空回りしてし
まっていて、でも、憎めない人なので人からは好かれている
|そんな、「夏帽子」の似合う人の姿が浮かんだ。
「早足」と「優柔不断」は、突飛な取り合わせのようにも
思えるが、実は、人間のリアルな一面を描いている。
音楽の来た蓮の花から開く          志賀  康
(『俳壇』九月号「山湖」より)
季語は、「蓮の花(夏)」。仏典には「妙音菩薩」という菩
薩が登場する。「妙音(言うに言われぬ美しい音声、音楽)」
によって全世界に釈迦の教えを広めることを託された菩薩
だ。掲句の「音楽」は、この「妙音」のようなものか。
蓮は、妙音菩薩の奏でる音楽を聞いたものから順に花を咲
かせていく|人々の心の中にある「蓮の花」も「妙音」によっ
てひとつ、またひとつと開いていく。その先に世の中の安穏
があるのだろう。
朝露に日光夜露には月光           高橋 将夫
(『俳句』九月号「王道の塵」より)
季語は、「露(秋)」。「朝露」は日の光、「夜露」は月の光
|それぞれの人生があり、それぞれを輝かせてくれる光があ
る。「夜露」はあえて「日光」を求めに行かなくても、ちゃん
と「月光」が自分を照らしてくれる。自分のことをよくわかっ
てくれる人が一人でもいること、それはとても幸せなことだ。
私が新米教員のころ、あるクラスの教室に「級訓 明るい
子」と書かれてあるのを見て、一緒にいたある先輩教員は次
のように言った|「『暗い子』でいてはだめなのか?」。
当時の私には、先輩の言っている意味がよく分からなかっ
た。しかし、年を経るにつれ、その意味が次第に分かってき
た。その先輩の眼差しは優しかった。