No.1020 平成29年4月号

流 水 抄   加古宗也

一打ごと紙風船の音変はる
茎立や洲畑の隅のごろた石
料峭や仁王の胸の紙礫
瓢々忌(尾﨑士郎忌)三句
梅が香に似て千代さんの恋文は
高井戸に立ち梅が香に出会ひけり
士郎忌や士郎の太き眼鏡づる
薄氷に耳寄せ水琴窟を聴く
茎立や猫が寝そべる井戸の蓋
草餅や知多に数多の札所寺
吉野如意輪寺
春寒料峭正行の鏃文字
春の風花両の手をポケットに
紅梅の日当るままにちぢれけり
春は芝より昼時のジャズライブ
春禽の上枝を渡り煙出し
止まざりしものにピーナツ春炬燵

真珠抄四月号より珠玉三十句 加古宗也推薦

冬りんご星のきれいな村に買ふ      今泉かの子
欠伸して出てゆく猫や春炬燵       早川 暢雪
冬の朝ロックのやうなバッハ聴く     山科 和子
針塚に針を納めて春ショール       斉藤 浩美
晴れ上がる伊吹に開けて白障子      風間 和雄
耕せる土につまづき農婦老ゆ       久野 弘子
霜柱そつと踏みあとがんと踏む      平井  香
動く餌凍える指で押さへけり       加瀬 恵子
夕刊の束と降り立つ雪の駅        勝山 伸子
白鳥の子ら日本語に馴れてきし      堀口 忠男

冬ざれや火の神眠る登り窯        新部とし子
雪路来て熱の我が手をにぎりしむ     筒井 万司
寒昴手を懐に急く家路          井垣 清明
節分や似合いすぎたる鬼の面       佐藤 明美
半ば溶け八頭身の雪だるま        石崎 白泉
人の日の生命線をなぞりたる       平松 邦芳
大寒の夜に白湯あれば人和む       中井 光瞬
手延うどん大鍋で茹で初三十日      服部 喜子
火に寄れば湯気立つ十指紙漉女      堀田 朋子
お隣りは長男家族福寿草         小川 洋子

末黒野に煤けて在す賽の神        島崎多津恵
水仙や母の月日のつつましく       水野 幸子
起き出でて雪に厨の明るさよ       浅井 静子
初夢や掴みそこなふ北斗の柄       深見ゆき子
初場所の桟敷いつもの老婦人       髙相 光穂
鬼の豆投げて小袋大袋          村重 吉香
仏飯を早目に下げる余寒かな       磯村 通子
節分や心の鬼へ豆を噛む         服部 芳子
冬帽子ラマの絵柄に異国の香       松元 貞子
足跡の上に足乗せ雪の道         山崎  藍

選後余滴  加古宗也

冬ざれや火の神眠る登り窯   新部とし子
「火の神眠る」とはどういう意味なのだろうか。「廃窯」なの
か「休み窯」なのか。そして、「休み窯」なら、神は眠っては
いまい、という結論に思い至った。連作の中から「土管坂」の
一句を見つけてそれが常滑のことだと知れた。登り窯は公害が
社会問題になったとき、ほとんどの陶都から消えたが、常滑市
のそれもそうで、いまは重要文化財として保存されている。焚
かれるはずのものが焚かれないことは死を感じさせるもので、
まさに「冬ざれ」だ。年中、赤松の黒煙が立ちのぼっていた陶
都は、ガス窯・電気窯に変わり、すっかりその姿を変えている。
富田うしほの《港もつ陶の都や春の雲》の句碑が五十数年前に
陶彫家・片岡静観ら若竹常滑支部の会員によって同市内の寺院
に連立されている。常滑市は中部国際空港(セントレア)の開
業によって、新しい街に大きく展開している。一方で、常滑陶
芸研究所を中心に、若者たちが、焼き物に新しい息吹を吹き込
んでいる。一方で、伝統技術の継承発展が急須などの生産の中
に見られ、その卓越した技は文字通り芸術の城というべきもの
だ。

初夢や掴みそこなふ北斗の柄   深見ゆき子
作者は若竹同人中、屈指のロマンチストである。つまり、童
心をいつも持ち続けている。この資質は何ものにも代えがたい
もので、作者との会話の中で、ふるさとのこと、母親のこと父
親のことがしばしば出てくることでも納得させられる。躾とい
うよりも、童心を大切にすることを身をもって教えた両親で
あったのだと思う。冬の空にくっきりと輝く北斗七星、その柄
杓のような形を、柄杓として教えてくれたのだ。天体あるいは
宇宙を生活の中に取り込んだといってもいい。さらに「初夢」
の季語と「掴みそこなふ」によって、作者の茶目っけが、実に
健康的で読者の心を明るく楽しませてくれる。

鴨の陣日差しの方へ崩れけり   平井  香
鴨の陣の移動を「崩れけり」と見て取ったところが面白い。
しかも、「崩れ」るという、どちらかと言えばマイナスの表現
を使いながら、「日差しの方へ」とプラスに転じた措辞はじつ
に俳句的で面白い。さらに、鴨の群の移動はその形を様ざまに
変えるところが特徴で、それを「崩れ」と詠むことで、形の変
化にぴったり呼応した表現になっている。《霜柱そつと踏みあ
とがんと踏む》も、普段口数の少ない作者の新たな面を見たよ
うで楽しい。

大寒の夜に白湯あれば人和む   中井 光瞬
「大寒」は一年のうちで最も寒い日とされる。具体的にはか
ならずしもそうならないこともあるが、暦は生活を円滑に営ん
でゆくための目安としてじつにありがたいものだ。また、それ
だけではなく、しばしばその見事な呼応に驚かされ感心もする。
例えば、「暑さ寒さも彼岸まで」というのもそうだ。掲出句は
お茶でなくとも、一杯の熱い白湯さえあればといっており、そ
こには人の心遣いに対する感謝の念が見えて心地よい。さらに
「人和む」と言い切ったところがよい。

産小屋の壁にひび割れ春北風   深谷 久子
「産小屋」は「さんごや」とか「うぶごや」とか呼び、地方
によってその呼び方は異なるようだ。いまは民族資料として幾
つか遺っているだけで、私の知っているのはわずかに二件だけ
だ。ただ、そのいずれも漁村にあるのはどうしてなのか興味を
持ちながら未だ答えを得ていない。福井県敦賀市種ヶ浜のもの
は、子供を産むための産小屋と生理のときに使う浅小屋が一つ
屋根の下でつながっており、浅小屋があるのは珍しいと聞いた
ことがある。「壁のひび割れ」にその土地の気候の厳しさと生
活の厳しさが象徴的に表現されている。「春北風」という季語
も漁村であることを思うと素直に理解される。

人の日の生命線をなぞりたる   平松 邦芳
「人日」は五節句の一つで、陰暦正月七日の節句をいう。こ
の日は七種粥を炊いて祝うほか、その昔、商家などでは仕事始
めの日としていた。これから一年頑張るぞ、というわけだが、盆、
暮、正月くらいしか休日のなかった時代には、かなり重要な日
であったことが想像される。ところでこの句、生命線を指でな
ぞりながら、さて、これから何年元気で頑張れるか、を思った
というのだ。少子高齢化時代、「なぞりたる」にしみじみ感が
深く表現されて力がある。

欠伸して出てゆく猫や春炬燵   早川 暢雪
猫は犬と比べて、そのふてぶてしさにおいて、犬より数等上
を行くという。こんな場面に出会うといよいよその思いを深く
する。そして、作者自身も、春炬燵の中でのんびり時を過ごす
ことのできることに、感謝しなくてはと思っているのだろう。
幸せはこんな暮らしの中にあるのではないだろうか。

お隣は長男家族福寿草   小川 洋子
味噌汁の冷めない距離に子供の家族がいる幸せはよくいわれ
るが、お隣ならなおさらいい。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(二月号より)

歳晩の地べたより買ふからげ本   酒井 英子
聞こえてくるのは、年の瀬の街のざわめき。見えてくるの
は、一括りに束ねられた本。神田古書街の年の暮れ、せわし
げに行き交う人々の、その足下に置かれた本を作者は買い求
めました。地面ではなく、地べたから。かつては全集として
或いはシリーズ物として店頭に並べられていた本も、今はか
らげ紐で縛られ無造作に積まれています。いつまでも色褪せ
ない読書の魅力とは別に、活字の本としての価値は、いつし
か過去のものになろうとしています。過去のものへの懐かし
さは地べたという、土着的な感じと相まって句の奥行きを深
めています。地べたとからげ本。選び抜かれた言葉は共鳴し、
歳晩という大きな背景をもつ季語が、さらに郷愁へと誘いま
す。

外は木枯らし薔薇色の肉敲く   高橋 冬竹
外は木枯らし、というきっぱりとした切れから対比のおも
しろさを味わえる一句。あえて外は、と限定したことによる
家の外と内の対比です。まずは、寒暖。外の北風の冷たさに
対する家庭の暖かさ、温もり。乾湿。外の空気の乾燥した感
じに対する肉の柔らかい質感にある湿り。そして横と縦。外
を吹く風の向きが横方向とすれば、対するのは肉を敲く上下
の縦の動きです。さらに薔薇色とくれば、外は灰色でしょう
か。しかし、掲句の核は何と言っても薔薇色の肉。もう、お
いしさが約束されています。肉の厚さを均一にして、やわら
かくするために手間をかけて敲きます。家庭的でありながら、
フランス料理店の厨房のような、洗練された下ごしらえのよ
うです。夕餉の準備に、幸せな家庭の一場面が浮かびます。

大マスク分からぬやうで分かるもの   冨永 幸子
本人は分からないと思っていても、周りにはそれと知れて
しまうことは、間々あります。表情の読みにくいマスクはま
さに仮面。けれど、はっきりと顔を見なくても、背格好や着
ている物から、ああ、あの人…と大体分かってしまうのです。
よしんば、分かったところで、そう大して困ることはないの
かもしれません。大義は風邪予防、花粉対策。はたまた素っ
ぴん隠し?なのですから。マスクに大をつけたことも相まっ
て、何ともいえぬ俳味の感じられる一句です。

冬至近し日を膝に乗せ靴磨く   阿知波裕子
冬の日差しは貴重です。冬至に向かい、日差しがだんだん
短くなっていく頃の生活の一場面。玄関先でしょうか。暖か
い光が靴磨きをしている作者の、しゃがんだ姿勢に注がれて
います。何といっても「日を膝に乗せ」の措辞が秀逸。天か
らの恵みである、太陽の光とぬくみをその膝の上に受けて、
靴を磨いています。ヒの音の重なりが心地よい響きを生んで、
上の六音の字余りをカバーしています。靴を磨くという行為
に、日頃のていねいな暮らしぶりも窺える作品です。

伊賀甲賀へだてし山の眠りけり   奥村 頼子
伊賀甲賀とくれば忍者です。伊賀市は三重県、甲賀市は滋
賀県。伊賀は服部半蔵の徳川方、甲賀は豊臣方。実はこの二
つの里は、山を挟んで、車で三十分位の距離にあるようです。
かつて忍びの者が暗躍したのは、はるか遙か、遠い昔のこと。
その山中の木々も今は葉を落とし、山は静かに眠りについて
いるかのようです。季語の斡旋が的確で、けりに込められた
詠嘆の意から、何か山に対しての、畏怖のようなものも感じ
られる一句です。

よその子のぶらんこを押す小晦日   田口 茉於
新年を迎える準備が少しずつ整い、年の瀬も詰まってはい
ますが、まだほんの少し余裕がある小晦日。慌ただしい中の
すきまの時間、近くの公園での景でしょうか。子育ての時期
は、子どもを中心に物事が決まって進んで行く、本当に忙し
い時期。地域コミュニティへの参加も必要となってくるで
しょう。「よその子のぶらんこを押す」視界の中には、もち
ろん我が子も入っています。自分の子どもを見守りながら、
よその子にも手をかけてやる、開かれた母の姿が見えます。
複雑な時代となりましたが、手をかけ、声をかけて子育てす
る母の姿は今も昔も変わりません。

小春の日乗り継ぎて来し武相荘   磯村 通子
武相荘は言わずと知れた白洲次郎・正子夫妻の旧邸宅。と
いっても、茅葺き屋根の農家の造りです。アクセスとしては
不便な場所なので、冬の暖かい日差しに恵まれたある日、実
際に乗り物を乗り継いで訪れたのでしょう。また小春の日差
しの中、光から光へ、光をつないで移動し、目指すところへ
到着した心の華やぎもあるでしょう。次郎の愛したベント
レーや正子の書斎等、遊び心をもった二人の粋な生活空間。
季節を変えてまた訪ねてみたくなりました。

人間を続けるつもり年用意   沢戸  守
何とおおらか。俳句ってこんなにおもしろい。瑣末な句意
の解釈など、はね除けられそうです。読んだ通り、そのまま
です。人間である以上、人間を続けるつもりでいます。はい、
何も異存はありません。逆に、そう言われてみると、いろい
ろあれこれ用意し、新しい年を迎える準備を整えることは、
即ち人間らしい行為なのでしょう。年用意。季語のもつ力を
土台に、新しい年を迎える作者の、肩の力を抜いた静かな決
意が窺われます。また、読んだ者にも晴れやかな、そして前
向きな心持ちが伝わります。

俳句常夜灯  堀田朋子

柚子の黄を灯して暮らす御師部落   沢田 改司
(『俳句四季』二月号「十楽の花」より)
「御師」とは〝特定の社寺に所属して、信者への祈祷や参
詣者の宿泊・案内などの世話をする下級の神職や僧〟のこと。
神仏の前にも上下があるようで、だから余計に、この「御師
部落」がしじみじとした味わいを感じさせるのかもしれない。
柚子は重宝なもので、その香りは柚子茶・柚子味噌、各種
料理に生かされて心にくい。甘く煮れば美味しいお茶受けに
なる。柚餅子という絶品の酒の肴にもなる。冬至の柚子風呂
も忘れてはならない。どっさり実った柚子の黄色は、平和の
象徴に思える。やがて御師たちは喜びの内に収穫して、思い
思いの柚子仕事を成すのだろう。「灯して」に神仏のほとり
ならではの千年一日の真摯な暮らしが浮かび上がる。

山の蛾の赤目がぬれて熟柿吸ふ   田島 和生
(『俳句四季』二月号「巻頭句」より)
赤色が際立つ句だ。まだ赤目の蛾に出会ったことがないと
思う。調べてみると、〝鳶色虎蛾〟という昆虫好き垂涎の山
蛾がいるという。赤目は勿論のこと、剛毛で迫力満点らしい。
こんな蛾ならさぞかし旺盛な食欲だろう。熟柿に口を深々と
刺し込んでいる。吸引力を増すために身体全体を震わせてい
るに違いない。目が濡れようがお構いなし。命を養い、次の
世代を残すための切実な営みなのだ。
怖いくらいの命の現場を見せられたように、心が震える。

聖堂に入る手袋を脱ぎながら
マフラーに息溜めしまま雑踏へ   斎藤真里子
(『俳句四季』二月号「遠き灯」より)
この二句は、冬の聖堂への入りと出を詠んでいる。聖堂と
いう空間はいつも空気がきりりとしている。決して冷暖房完
備ではない。それでもきっと手袋は脱ぐだろう。自然に無意
識に脱がずにはおれないだろう。それが祈る者の姿だと思う。
祈りを捧げたのちは、心に小さな希望が宿ったに違いない。
前向きに生きる勇気を得た胸より発する息は、きっと前より
熱いはず。作者は、マフラーを巻いていることでその実感を
より確かにしている。そして、また再び「雑踏」という日々
の生活に戻って行く。
「手袋」と「マフラー」とで、祈る心をこんなにも素直に
表現できるとは、なんて素敵な句だろう。

石刻む石工の胸に春霰   中川 靖子
(『俳句界』二月号「石工」より)
この石工の作業場は、屋根こそあれ、外気がふんだんに入
り込むようだ。石工は刻むに余念がない。心にあるイメージ
と違わぬものを石の中に見つけ出そうとしている。けれど、
それは簡単なことではないだろう。イメージが遠のく時もあ
る。そんな時「春霰」が優しく石工の胸に降りかかる。あな
たの求めているものは、あなたのこの胸の内にありますよと
気づかせるように。
雪でも霙でもなく、やはり霰でなければならない。それも
「春霰」であるべきだ。石工を石に向かわせたのは、その朝
の春の気配が相応しい。季語の動かない句は純粋だと思った。

いささかの煮物などして年用意   今井千鶴子
(『俳句界』二月号「待春」より)
厨辺の俳句。掲句を男性の方々はどう感じられるのだろう。
私には母を恋う心に繋がる句となる。
「いささかの」という控えめな修辞には、かつてはお重を
豊かに埋め尽くされた今井氏の歴史がある。齢とともに長時
間の台所仕事は辛くなった。時節柄、お節は買うものと変わ
りつつあるが、お煮しめくらいは手掛けたいと思う。今持て
る自分の力相応の事を成して行けば良しという、満足感と自
己承認感が自然体ですがすがしい。

追いついて足踏みしたる踊りかな   蜂谷 一人
(『俳壇』二月号「虚子忌」より)
こんな経験あるあると、嬉しくなる。踊りが上手ならこん
なことはない。前後の間隔を程よく保って踊るのは結構難し
いものだ。お互い不慣れな者同士なら尚更のこと。
「踊りかな」との詠嘆に万感が込められていて、効果覿面。
自分の踊りはこんなもの。ちょいと格好悪いが、誰に見とが
められる訳でもない。踊らにゃ損々という気持ちが感じられ
る。不格好な踊りも、祭りも闌となれば、いつの間にやら様
になっている。共感の句です。

紙漉いて漉いて澄みゆく齢かな   岸原 清行
(『俳句四季』二月号「巻頭句」より)
紙漉くは冬の季語。不思議だったが、冬に漉く紙は虫がつ
きにくく、他の季節に漉くのもと比べて特別に重宝なのだと
聞いて深く納得した。
数多ある手工芸はどれも手間と時間を掛けねばならぬもの
ばかりだが、紙漉きも例外ではない。「漉いて漉いて」のリ
フレインが、これと決め生涯をかけてきた紙漉きの人生を、
一瞬で悟らせてくれる。「澄みゆく齢」という修辞は、平明
且つ的確で美しい言葉だと思う。作者の紙漉きに向かう羨望
と崇敬が感じ取られる。水晶のような句だ。