No.1029 平成30年1月号

餅花や障子の桟のうす埃  うしほ

三 河 万 歳
三河万歳は三河の安城が発祥地といわれている。いろいろな演目があるようである。めでたい正月に演じられるのは、「三河御殿万歳」である(写真)。新春に鶴亀を呼び込むために神々を呼び込み、大夫は扇子を持って中央に、才蔵は鼓を持って左右に並び、共に笑顔で演じる。さらにそこへ七福神がやって来て、みんな笑顔で、めでたい言葉やかけ言葉を語呂良く歌って演じる。恵比寿、大黒、福禄寿、布袋、寿老人、弁財天、毘沙門などが出て賑やかに祝いの舞を踊る。安城市のデンパークにて。
写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

 

流 水 抄   加古宗也


佐賀には名工、中里太郎衛門・酒井田柿衛門・今泉今右衛門と三人の人間
国宝あり。「三右衛門」と呼び世界にその名を轟かせている。
松色を変へず佐賀には三右衛門
唐道やトンバイ塀にかちがらす
料理旅館・松乃井。名工・中里重利の器づくしなり
芋のせて親しきものに唐津鉢
斑唐津やたつぷりなめこ飯を盛る
蛇穴に入る穴窯にほの温み
いよよおくんち若衆の曵山掃除
秋風や唐津神社の逆さ獅子
やや寒き日や岩盤の上の町
名護屋城跡
台風一過指呼に壱岐見ゆ対馬見ゆ
呼子には小舟多くて冬のいか
有田・磁石場
磁石場の荒蓼として赤とんぼ
木の実降るや有田皿山磁石山
磁石場の鎖されおなもみ実を結ぶ
秋思ふと湧く蓬庵の描き落し
カリオンは磁石のことよからすうり
柞黄葉やごま豆腐舌にのす
有田開窯四百年
野菊咲いてお細工人の無縁墓
山茶花や李参平の白き髭
山茶花や陶祖は青き靴を履く
柿右衛門の柿は百匁やあと一つ
濃筆にたつぷりと呉須秋深む
秋興や濃筆握る女の手
秋気澄むや濁手に浮く草花文
山茱萸は実にコバルトの釉凝れる
新走り注ぎ唐津の皮鯨
行く秋や唐子が踊る呉須絵鉢
大川内山
おんぶばつた飛び登窯五連房
やや冷えてきし濁し手の猪口に酒
有田皿山赤あかとからすうり
鯥五郎跳ねたり有明海小春
蓮根掘ほつほつ佐賀は真平ら
風子同人の甥・江口英樹君(佐賀県庁課長)が三日間休暇を取って東京か
ら駆けつけガイドを買って出てくれる。深い教養に裏打ちされたガイドに
一同感激
爽秋や好漢英樹目の澄める

真珠抄一月号より珠玉三十句 加古宗也推薦


桜落葉一葉一葉に強き色     竹原多枝子
草虱いっぱい付けて役終る    久野 弘子
丹波路や霧の太らす豆畑     今井 和子
炉話の育む遠野物語       市川 栄司
猪垣や双方生きるため必死    三矢らく子
小座布団ならぶ駅舎や風花す   鈴木 玲子
神鶏の斜め歩きや黄落期     田口 風子
秋興や叩き唐津は石で受く    山田 和男
使ふ手が育てる器秋澄めり    今泉かの子
秋薔薇色濃し藩窯関所跡     江川 貞代
秋惜しみけり大きな木小さな木  川嵜 昭典
笛を吹く少年に落葉ふる    荻野 杏子
時雨華やぎスーパーの肉売場   牧野 暁行
美食佐賀陶箱膳に秋の彩     金子あきゑ
浅間山の裾広大にして眠る    丹波美代子
冬銀河お伽の国に居るここち   濱嶋 君江
父の背の頼もしかりし酉の市   荒川 洋子
冬枯れの園に駱駝の大ゆばり   高橋 冬竹
山影を出て初鴨の勢ひづく    服部くらら
幼子は姉に蜜柑を剥いてやる   田口 茉於
皆で来て一人の外湯残る虫    米津季恵野
行く秋やこの踏む石も城名残   阿知波裕子
棋士に勝つ人工知能文化の日   斉藤 浩美
秋の夜母のぼたもちほめし喪主  鶴田 和美
茶の花や踏み心地よき磴のぼる  深見ゆき子
冬木の芽わが町つひに無人駅   高柳由利子
冬近し二段構への北虎口     石崎 白泉
米粉パン売る柊の花ざかり    岡田つばな
故郷へ命のしぶき鮭のぼる    浅野  寛
山の端の落日追へる零余子かな  工藤 弘子

選後余滴  加古宗也


秋興や叩き唐津は石で受く     山田 和男
先の若竹日曜句会主催の佐賀一周の旅は当初の予想をは
るかに超える充実したものになった。秀吉が朝鮮出兵に当
たって諸大名に号令して築城したという名護屋城は、大阪
城と並ぶ大規模なものであったことが、全身で感じられる
ものだった。天守台に上がると台風一過も幸いして、壱岐・
対馬を望むことができたし、玄界灘の青さが目に沁みた。
そして佐賀は唐津、有田、伊万里という焼き物の産地で、
有田、伊万里では磁器、唐津では陶器が焼かれ、すでに李
参平によって磁石(じせき)が発見されてから四百年を超
えたというから驚く。しかも、近現代に至っても名工が次
つぎに輩出して、伝統に常に新しさを注入することに努力
を惜しまない。中でも、唐津では中里太郎右衛門、有田で
は酒井田柿右衛門、今泉今右衛門が人間国宝であり、その
一族を中心に、一大磁器・陶器の産地を形成している。当
代中里太郎右衛門は「叩き」「掻落し」を得意とし、今泉
今右衛門は「墨はじき」という独特の技法を持っている。
柿衛門は「濁し手」という白磁を作り出し、それはほかの
白磁の産地を寄せつけない美しさで、かつて、その祖先の
生み出す白磁に魅せられたドイツ国王が、お抱え窯・マイ
センに命じて作らせたが、ついに柿右衛門ら伊万里のもの
に遠く及ばずマイセンは神経を病んで没したともいわれて
いる。今日、マイセンの焼き物は日本でも最高級品として、
超高値だが、柿右衛門らの磁器はそれよりはるかに高い世
界的評価を得ていた。
さて、本題の和男俳句に触れなければならないが、ここ
では「叩き唐津」を取り上げてみた。作者は今回の旅で、
多くの収穫を得ているが、掲出句は、その生き生きとした
表現が心地よい。「叩き唐津」は大型の壺などに適した造
形方法で、粘土を紐状にして積みあげ、外から素手、ある
いは板状のもので叩く。そして、叩きに応える道具として、
石を使っていることを見つけたところに作者のお手柄があ
る。拳あるいは掌で受け止める場合もあるが、大きなもの
は石が使われているようだ。それを知ったときの作者の思
いが「秋興」という季語にぴたりと集約した。《朝寒や風
のぶつかる唐津港》も、玄界灘から吹き込む強風をきっち
り捉えている。唐津港に沿って、唐津には日本三大松原と
いわれる「虹の松原」が遠々と続き、見事な景観となって
いる。そして、その先に、後年造られたという唐津城が見
えるが、それがすっかり景観にとけ込んでいる。
丹波路や霧の太らす豆畑     今井 和子
丹波はこれまた焼き物の産地として知られ、日本六大古
窯の一つに数えられる。やや赤みを帯びた肌色は焼き物愛
好家の、ことに骨董好きにはこたえられない。また、豆の
産地としても知られ、中でも黒豆は「丹波の黒豆」と呼ばれ、
正月のおせちの材料として、人気が高い。丹波篠山城址周
辺も、しっとりと落ち着いた魅力を持つ。
ところで、掲出句のポイントは「霧の太らす」というと
ころで、豆もまた、霧によって大きく甘いものが育つ。お
茶がまた、埴土で霧や靄が立つところがよいとされるが、
豆もまた、それが大切な条件であるようだ。北海道の豆も
おいしいが、黒豆はやっぱり丹波に限ると私も思う。《デ
カンショ デカンショで半年暮しや ヨイヨイ 後の半年
しや寝て暮らす》そして、《丹波篠山山がの猿にや…》と
つづく「デカンショ節」と丹波とどうかかわりがあるのか、
作者にじっくり聞いてみたいものだ。
炉の灰を掻きならしをり初時雨     市川 栄司
急に冷えがつのってきたことを、具体的な行動で表現し
たのが面白い。灰を掻きならして、炉に火を入れる準備に
着手したというのだろう。「炉を掻く」ということにすで
に懐かしさがあり、そこから詩情が立ちのぼってくる。あ
るいは炉開きの日か。
烏瓜奇妙な位置に下がりをり     江川 貞代
これまた、佐賀吟行会での収穫だろう。《秋薔薇色濃し
藩窯関所跡》とは朝鮮人陶工三百人を拉致して、佐賀大川
内山に集めて磁器を作らせた。鍋島藩の藩窯として色鮮や
かな高級磁器を生産した。鍋島藩が関所をつくり、人の出
入り、技術の流出を防いだ関所。掲出句は磁石の出た皿山
での作か。磁石場は荒原としてをり、烏瓜のどこから垂れ
下がってきているのかわからない風情を楽しんでいる。「奇
妙な位置」が実感でありすこぶる面白い。
幼子は姉に蜜柑を剥いてやる     田口 茉於
幼子の行動を鋭く捉えた一句。姉と妹という関係が意識
からはずれてしまうのが幼子で、時には大人ですら驚くよ
うな行動に出ることがある。そして、それが、じつにかわ
いく思われるのはどうしてだろう。
使ふ手が育てる器秋澄めり     今泉かの子
使い込めば使い込むほど深みが出てくるのが器だ。こと
に茶盌はそうで、それがおのずと名盌としての風格になっ
てゆく。但し、大切に使うことが肝要だ。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十一月号より)


鳴雪の話などして良敬忌     辻村 勅代
今年は富田潮児前主宰の七回忌。大正の末頃、東京にいた潮
児師は、内藤鳴雪翁はじめ多くの文人墨客と親交があり、随
分かわいがられたと聞きます。その当時の様子を伝え聞き、
またそうした話題の場に居合わせることで、潮児師からうし
ほ師、そして鬼城師へつながる師系というものを、改めて実
感します。一句のゆったりとした調べに、聖運寺での和やか
な雰囲気が思い出され、しみじみとした趣が伝わります。
一束の芋殻キャビンに島渡船     岡田 季男
芋殻は里芋の茎を干して乾燥させた伝統保存食。水で戻して、
和えたり、煮たり。島へ渡る船のデッキではなく、客室であ
るキャビンに置かれているのですから、乗船者にとっての大
切な食料品。キャビンの響きが、渡し船のもつ情景を明るい
ものにさせ、さらに想像を逞しくすれば、芋殻も昔ながらの
和食ではなく、これから新しい食材として活用されていくの
かもしれません。
竹春の陶房浄き土埃     堀田 朋子
この秋、肥前に窯巡りをした際にも、窯場の神棚に榊が供
えられているのを見ました。風が吹き通る外の作業場。その
うっすらとした土埃に、陶房のもつ神聖さを感じられたので
しょう。竹の葉が落ちてしまう夏の時期から徐々に力を回復
させ、青々とした葉の生気ある様子は瑞々しくもあります。
窯を焚く火の性と竹に備わる水の性。相反しながらも清浄さ
が響き合う作品です。
丈山の隷書に重み男梅雨     嶺  教子
石川丈山は江戸初期の漢詩人、書家。詩仙堂を建てた風流
人でもあります。隷書は、現在でも印鑑や日本銀行券にも使
われ、書体自体は比較的眼にするものの、ここでは五言絶句
や七言律詩など、たくさんの漢字が並ぶ漢詩文を前にされて
の感慨でしょう。漢詩は押韻、対句、平仄などの細かいきま
り事の上に作られ、豊富な語彙力が必要です。独特の書体の
漢字がならぶ、その多さ。言葉の豊富さ。歴史の重さ。折か
ら、梅雨の雨の勢いは激しさを増しています。
秋晴や三猿栄ゆる人の波     春山  泉
三猿といえば日光東照宮。全国各地から集められた名工によ
り平成の大改修が行われ、さらに豪華絢爛、輝きを増してい
ます。三猿は、ご神馬をつなぐ神厩舎の長押にあり、人間の
一生を表した八面の猿の内の第二面にあります。からっと晴
れ渡った紺碧の空に、新しく彩色され、修復された極彩色の
彫刻。立ち止まって見上げ、そして行き過ぎる大勢の人々。
下五の「人の波」がにぎやかな人々や、感嘆の声までも想起
させ、活気あふれる鮮やかな秋の一景が映し出されます。
研ぎ立ての菜切り包丁涼新た     松元 貞子
秋になったばかりの新鮮な冷気が、この一本の包丁から伝わ
ります。季語のもつ鮮度はそのまま「研ぎ立ての菜切り包丁」
へ。包丁は先が尖っていない、刃の薄い菜切り包丁。研ぎ立
てですから、切れ味抜群。軽く押すだけでもよく切れます。
まな板の上には洗ったばかりの青々とした葉物野菜。切れば
ざくざく心地よい音までも聞こえてきそう。見えない物が、
聞こえない音が句の中から生まれてくるようです。
宿題は漢字のけいこ秋灯下     冨永 幸子
子どもの頃のノートがなぜか数冊、本棚に挟まるように取っ
てあり、その中の一冊が百字練習帳でした。あの頃は毎日一
頁百マス漢字を唯、繰り返し書くという宿題が定番でした。
近頃は、漢字の成り立ちや熟語が載ったカラフルなドリルが
活用されていますが、掲句の情景はどこか懐かしさを含んで
います。鉛筆を握っている子の傍らには、その様子を見ると
もなく、新聞でも読んでいる祖父母か親か、大人の姿がある
ように感じます。静かな秋灯の下、ほのぼのとした家庭の雰
囲気が秋の夜を包んでいます。
素秋かな備前の壷に耳二つ     大澤 萌衣
焼き物には(にも)全く不案内ですが、備前焼はごく身近な
花入れとして愛用してきました。釉薬を使わず素材が活かさ
れているような少し沈んだ赤褐色の地肌です。「素秋」は白
秋のこと。壷は匣焼成された白っぽい地肌でしょうか。肩の
辺りに左右一対のように付けられた耳もよい表情なのでしょ
う。備前焼は陶器の冷たさと手ざわりの温かさが同時に感じ
られます。そしてまた秋は、蕭条たる風情と隆盛たる豊かさ
を合わせ持っています。備前焼のもつ素朴な風合いと響きあ
う「素秋」。双耳の壷を前に静かな秋の馥郁たる時間が流れ
ています。
糠床に手形を残し今朝の秋     米津 季恵野
古人が秋の到来を風の音に感じたように、糠に入れた手の
肌に秋を実感されての一句。糠床は、毎日手を入れてかき混
ぜ、そのご機嫌を伺いながら、塩を足したり野菜屑を入れた
りして育てます。今日は立秋。いつものように漬かり具合の
良い野菜を取り出し、面をなだらかにしてから、ぽんぽんと
糠床を叩いた作者。残された手形と共に「また明日」と明る
い声が聞こえてきそうです。きっと絶品のぬか漬けが食卓へ
上がったことでしょう。

一句一会    川嵜昭典


森の匂い書庫の匂いに似て晩夏     宇多喜代子
(『俳句』十一月号「森へ」より)
森の匂いと書庫の匂いはどのように似ているのだろう、と
考えると、深さ、という言葉に行きつく。それは、世の中の
事物に対して、知らねばならぬ、という思いを抱かせるとい
うことだ。自身にも、身の回りにも、世界にも、もっと奥深
いものが充満しているということを森や書庫は語る。掲句の
「匂い」は、そのような森や書庫の、語らずして語っている
言葉であるのだろう。この匂いによって、作者は、さまざま
な真実や知に耳を傾け、虚心に知ろうとしている。そして「晩
夏」という、知識欲が高まる季節は、いっそう、そのような
森や書庫の言葉を感じられるのではないだろうか。
すぐ消ゆる草の香イワン茶の夜長     津髙里永子
(『俳句』十一月号「サハリン」より)
この「サハリン」十二句には他に「サハリンの慰霊碑秋を
更に白く」という句もあり、作者がサハリンに立っているこ
とが分かる。掲句の「すぐ消ゆる草の香」という言葉から、
作者が、誰かとイワン茶を飲んでいたとしても、必ずしも言
葉の多い夜ではないのだろう。むしろ、ドストエフスキーを
読んでいるときや、ラフマニノフの音楽を聴いているときの
ような、少し寒々とした夜を想像させる。歴史のようでいて、
現在でも解決されていないサハリンの状況を思っているのだ
ろう。サハリンに行ったことがなくても、それでもこの句に
共感できるのは、イワン茶という、その土地特有の言葉によ
るところが大きい。イワン茶とはヤナギランのことで、葉と
蕾を煎じて作る。ロシアと中国とは昔から茶貿易が行われて
いたようで、高い中国のお茶の代用品として、イワン茶とい
う茶が呑まれていたそうだ。そのような、土地固有の言葉を
用いることで、それがいわば季語のような役割を果たしてい
る。風土を詠むことは、俳句の最も得意とするところだ。
手を浸けて指の股まで秋の水     秋山  夢
(『俳句』十一月号「秋の」より)
「指の股まで」という表現が艶やかで、また実感のこもる
一句。水に手をつけて引っ込めると、指先から滴り落ちる水
が、指の股では留まるように滑らかに動く。その水は透き通
るようでいて、艶やかな色を持つ。そんな水の、繊細な動き
と色を捉えている。また、おそらく山や森の中なのだろう、
作者の立つ場所の爽やかな空気、静けさ、そんなものまで伝
わってくる。そう考えると「秋の水」の本意は、意外と水そ
のものではなく、水を取り囲む自然の豊かな息遣いにあるの
かもしれないとも思う。
山は秋いつもどこかに風湧いて     椿  文惠
(『俳壇』十一月号「しんかんと」より)
秋の山といえば「山粧ふ」だが、秋の山とのもう一つの側
面を感じさせる一句。山に起こる風は、その山に住むものた
ちに、そろそろ冬支度を始めるようにと知らせるものであろ
う。山がそこに住むものたちを包み込んでいるようだ。反対
に、人間のような、山に住んでいないものたちに対して、風
を起こして木々を鳴らすことで、もう入ってくるなと警告し
ているようでもある。また「山は秋」という、突き放したよ
うな表現に、晩秋の山の営みとよそよそしさを、客観的に描
写しているようでもある。
夏終る鉛筆削り詰まらせて     伊藤伊那男
(『俳壇』十一月号「小諸宿」より)
夏休み後の子供のことかもしれないし、汗だくになって原
稿を仕上げた後の大人のことかもしれないし、さまざまな想
像を引き起こす句。鉛筆削りを詰まらせるほどのしゃかりき
さの後の、一抹の寂しさも感じさせる。夏から秋への、動か
ら静への移り変わりが、詰まった鉛筆削りというものに象徴
されているようでおもしろい。
暑き日や壁の向かうの中国語     中西 夕紀
(『俳壇』十一月号「こばるとぶるう」より)
暑くて暑くてどうにもやるせない一日。そのやるせなさに
呼応するように、中国語が延々と聞こえる。ただでさえ暑く
て頭が回らないのに、分からない言葉をずっと聞かされてい
ると、全てを投げ出して飲みにでも行きたくなる。と、そこ
まで想像できるほどに「や」が効果的でもあり、投げやり的
でもあり、楽しい。切れ字の力を感じさせる一句。
長き夜や尾のある不思議ない不思議     土肥あき子
(『俳壇』十一月号より)
体というのは、考えれば考えるほど、合理的なのか、そう
ではないのか、分からなくなる。進化の過程で切り捨てたも
のが合理的かといえば、必ずしもそうではないだろうし、こ
の体で生まれた以上は、そのように生きざるを得ない悲しさ
も感じてしまう。とはいえ、生まれてきた喜びもあるわけで、
結局は少しでも努力するしかない、と、思考があっちこっち
するのも夜長だからであろう。人間らしい悩みを感じさせる
一句。