No.1036 平成30年8月号

朝顔の開く幽韻ありにけり   うしほ

地  蔵  盆
地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日で、旧暦の 7 月24 日に行なわれる。しかし、実際には、一月遅れの 8 月24 日に行なわれているようだ。寺院に祀られている地蔵ではなく、道端や街角のお地蔵さん、いわゆる道祖神の祭りである。この日には、地蔵のある町内の人々が地蔵の像を洗い清めて、供物を供え、新しい前垂れに掛けかえたりして、祀る。多くの子供がお参りに来る、子供たちには、お菓子がふるまわれたりする。写真のお地蔵さんは、刈谷市御幸町 2 丁目の角にあるお地蔵さん。 写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


浦島草竿のべ保美は流刑の地
海霧深ければ舟唄が口をつく
八百の石段鳳来百合に佇つ
かなかなや金鳳石は肩で彫る
いま釣つてきし鮎といひ藻の香り
秋興や神体いつも濡れてゐし
秋暑ければ小羊の肉を焼く
初秋やオカリナ息をゆるく吹く
榛名湖畔
一位の実含み夢二の画室訪ふ
かなかなを追うかなかなや日照雨過ぐ
沼田公園
城鐘のいまは時鐘に雁渡し
佐久島
灯台に赤と白あり防災日
開門のけふ閉されあり防災日
防災日ひつぱたき聞く古ラジオ
寺の子のなだるる萩に隠れけり
幸福の鏡とんぼのホバリング
きちきちや大和三山遠眺め
きちきちの畝傍耳成ひとつ飛び
ぐひ呑は唐津と決めて温め酒
眠られぬ夜は馬追に耳あづく
高崎龍広寺
石人の向き向きに立ち萩の寺
草津温泉
秋声や賽の河原に尻を置く
すいつちよや少しぬるめの伊香保の湯
川場湯やいとど跳びたる化粧鞍
鬼城忌の帰路は花野に遊ぶべし
爽やかにカスタネットはタンゴ打つ
山門をくぐり鬼城忌うしほの忌
鬼城忌や口角泡の鬼城論
舌に粗塩秋茄子の一夜漬
通し土間抜けかまつかの袋庭
暑さより寒さ鬼城忌真潮忌
発掘はしやがんでなんぼ赤とんぼ
二百二十日ゆつくり回す湯揉板
芋茎干すや山羊飼つてゐる馬籠坂
瓢箪の尻なでてをり小縁側
窓辺まで届く潮騒夕化粧
灯火親してのひらに乗る豆句集

真珠抄八月号より珠玉三十句 加古宗也推薦


時鳥棚田に水のゆきわたる       市川 栄司
沢蟹に退かぬ決意のありありと     竹原多枝子
白鷺や観察員の計数器         烏野かつよ
坩堝てふ実験道具夏盛る        堀田 朋子
一本の蛇を乗せたる浮葉かな      荻野 杏子
美しき新樹家守る散居村        米津季恵野
背のファスナー届かぬ夜の新樹かな   岡田つばな
若葉冷かすかに湯気の立つ茶碗     中村 光児
潮風に顔をあづける卯月かな      田口 風子
句碑の肌青くて茅花流し吹く      金子あきゑ
フライングしても勝馬草競馬      今井 和子
黒南風や切なきものに間引絵馬     工藤 弘子
薫風や手をつなぐなど久しぶり     奥平ひかる
雷々雨去りてあやしき明るさに     江口すま子
梅雨寒や雨の版画を返信に       荒川 洋子
鹿の子の乳吸ふ時は脚交はし      阿知波裕子
根切虫親の仇の如探す         岡田 季男
六月の柔らかさうな木のベンチ     近藤くるみ
おしっこの目量をして浅き夏      牧野 暁行
靴みがく子つばめの声聞きながら    丹波美代子
初恋は半分青い檸檬かな        木村 和風
更衣いまだ確かな糸切歯        石川  茜
三種五本苺の畝の防鳥糸        原田 弘子
物忘ればかりしてゐて蚊に刺さる    高橋より子
袋角牝鹿子鹿の先頭に         池田あや美
聖五月ゴリラが胸を叩く音       水野由美子
風鈴や芭蕉を語る美術商        渡邊たけし
同期会最後か春の天城越え       東浦津也子
郭公や黒く鎮もる寺と塀        春山  泉
紫陽花やうつらうつらと雨を聴く    稲石 總子

選後余滴  加古宗也


坩堝てふ実験道具夏盛る     堀田 朋子
「場内は興奮の坩堝と化した」という表現は度たび使われる
が、具体的で、その場の状況がじつにわかりやすい。もとも
とは物質を溶かしたり、灼熱するための器で、化学実験では
多く白磁製のものが使われる。製鉄工場などでは、溶鉱炉か
ら取り出される高温の液体状の鉄を受ける器のことをいう。
鉄は一〇〇〇度を超えてくると赤から黄へ、さらに白へと色
を変え煮え滾る。掲出句は夏の暑さとあいまって、坩堝を見
たとたんに、実験中の坩堝の煮え滾る様子が甦ったというの
だ。と同時に猛暑を強く意識している。焦点をしっかり据え
ることで、一句に強い説得力が生まれた。
一本の蛇を乗せたる浮葉かな     荻野 杏子
「浮葉」は「蓮の浮葉」のことで夏の季語。即ち、蛇と浮葉
と二つの季語が入っている。しかし、そのいずれをはずして
もこの句は成立しない。蛇のことを「くちなわ」とはよくいっ
たもので、さらにきわめてクールに「一本」といったところ
に作者らしい切り取り方があって好もしい。しばしば杏子さ
んの大胆な措辞には驚かされるが、同時に痛く楽しい心持に
させられている。
美しき新樹家守る散居村     米津季恵野
富山県西部に位置する砺波平野には散居村という珍しい集
落がある。広い田んぼの中に点々と立つ家には、それぞれ防
風林があり、家の四面を囲んでいる。田植時には、張られた
水の上に散居集落が映し出され、美しい景観を見せる。新樹
の季節には緑が田の面にも映り、いよいよ美しかったのだろ
う。私は残念ながら初夏に訪れたことがないので、想像の域
を出ないが、「美しき」と言い切っていることで、その美しさ
は確信として映像化することができる。
薫風や手をつなぐなど久しぶり     奥平ひかる
「手をつなぐなど久しぶり」といわれると、自分はいつだっ
たっけ、と首をかしげてしまう。そもそも手をつなぐという
行為は子供の頃の友情の証しであったり、恋人時代のそれ、
新婚時代のそれと、たどってゆくと、何を「久しぶり」であっ
たか、ということになってしまう。「久しぶり」ゆえに、じつ
は何ともうれしいのだ。そして、それぞれの時代にタイムス
リップしている自分に気づいたのが「薫風」なのだ。
沢蟹に退かぬ決意のありありと     竹原多枝子
つい先日、近江に吟行した折りに大音という小さな集落を
流れる疎水に沢蟹を見つけ久しぶりに少年時代に立ち返った
気分にさせてもらった。同行した句友もまたそうで、しばし、
沢蟹の追跡をやめなかった。多枝子さんもまた同心らしく、
沢蟹に大接近を試みたのだろう。あるいは捕まえようとした
のかもしれない。とたんに爪を挙げ威嚇大勢に入ったのだ。
沢蟹にも「退かぬ決意」があることを見据えたのは見事。そ
れはまた、沢蟹への愛着でもあるのだが。
黒南風や切なきものに間引絵馬     工藤 弘子
ここにいう「間引き」とは、いうまでもなく、口べらしの
ため親が生児を殺すことをいう。「間引き」は「堕胎」以上に
切なきものに違いなく、絵馬には何とも言えない哀しみが表
れている。「間引絵馬」を見つけたときの衝撃が「黒南風」と
いう季語に過不足なく表現されている。それは女性なればこ
そ受け止めることのできるもので、次の《涼しさは駆込寺の
門構へ》にも通じている。「駆込寺」は「縁切寺」ともいい、
女性の方から婚姻を解消するための、江戸時代の数少ない方
法の一つだった。三行半(みくだりはん)はたいてい男の方
から女に渡して縁を切るものだが、縁切り寺では、女の申し
立てによって、男に三行半を書かせたようだ。御法に真正面
から逆らわず事を成就させる方法として、面白い方法を考え
ついたものだと思う。
フライングしても勝馬草競馬     今井 和子
全ての競技にフライングは御法度だと、たいていの人は思っ
ている。ところがこの句はそれが「全ての競技」ではなかっ
たことを教えてくれた。「草競馬」がそれで、思わず苦笑が洩
れる。そこに上質の俳味がある。つまり、見事に常識を打ち破っ
ているところが面白い。
雷々雨去りてあやしき明るさに     江口すま子
すさまじい雷々雨が去ると突然に天空は明るくなる。さっ
きまでの暗さが嘘のようだ。それでいて快晴の日の明るさと
どこかが違う。「あやしき」とは言い得て妙だ。
梅雨寒や雨の版画を返信に     荒川 洋子
版画に雨を描くことは当たり前のようで、じつは当り前で
はなかった。安藤広重は「東海道五十三次」の中で、線を描
くことで雨を表すことに成功した。私たちは、それを当り前
のように思い込んでいるが、そうではなかったのだ。この「当
り前」と思わせたところが広重の画家としての突出した才能
であり、広重を鬼才といわしめたところだ。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(六月号より)


剥きくれし人にいま剥く夏蜜柑     東浦津也子
時の流れとともに人との関わり方も変わってきます。かつ
ては自分のために剥いてくれたであろう人に、今は自分が剥
いてあげるのです。立ち位置が逆転した場面は、子の成長に
つながる親の老いであったり、或いは体の力に依るところで
あったり。夏蜜柑の皮は固く厚く、それなりに力を要します。
また、実は樹上で冬を越し、摘み取るのは翌年。実がなって
から熟成までに時を要します。暑さをはらう涼味とともに、
少し苦みもある夏蜜柑。切なさも少し含んだ夏蜜柑です。
山笑ひをり余呉川の唄ひをり     石崎 白泉
山が笑い川が唄う、このうきうき感。待ち望んでいた春と
いう季節、その到来を喜び、寿いでいるかのようです。琵琶
湖へと注ぐ余呉川は、菜の花と桜の堤でも知られています。
畳みかけるリズムの軽やかさに、里山の艶やかさ、耳にする
せせらぎのやさしさが伝わります。近江の春の明るい空気感。
燕の巣藁一本を垂らしをり     神谷つた子
泥と藁に唾液を加え、捏ね上げてつくられるツバメの巣。
風にゆれる一本の藁から、親燕の勤勉ともいえる巣作りの様
子にも思いがいきます。巣は命を守る砦。一本の藁に始まる
物語のような話が、きっとそれぞれ巣ごとにあるのでしょう。
松はみどりに氏郷の背割町     阿知波裕子
氏郷とは、松坂を整備し豪商のまちとなる礎をつくった蒲
生氏郷のこと。信長、秀吉に仕えた、文武両道の名将です。
町の境に整備したのが背割排水。町屋の裏と裏に下水が流れ
る仕組みです。「松はみどりに」松の新芽がこぞり立つよう
な勢いと四百年の時を経て、雨水排水として今も機能してい
る背割排水。町の佇まいに歴史の重さを感じての吟行詠。
屋上に棄てプランター花なずな     小柳 絲子
なずなの花は雑草の代表。そのたくましさを、屋上に放置
されたプランターのナズナの花に見たのです。なんとか根を
伸ばした土も、乾いていたかもしれません。小さな花の生命
力。発見の驚きとともに温かい眼差しがそこにあります。
意外に好きかも虎杖の噛み心地     池田あや美
「意外に好きかも」なんて言われると、そうかもしれない
とつい試してみたくなります。このざっくばらんでありなが
ら措辞の新鮮なこと。八・五・五の破調のリズムと句意が絶
妙に合っています。虎杖は山菜として食用することから、春
の季語とされています。実は山奥に生まれながら、未だ噛ん
だことがありません。来春、是非実際に噛んで、その噛み心
地を実感したくなりました。
回覧板渡してほめて桜草     稲吉 柏葉
隣から隣へ毎月回す回覧板は、地域コミュニティーの橋渡
し役。手渡す際、庭先かプランターに咲く桜草を目にして、
一言ほめられたのでしょう。日常のさりげなさと桜草の可憐
さ。多年草として、毎年花をつける息の長さに、ご近所さん
とのおつきあいの様子もうかがわれます。
甥っ子と一晩すごす春休み     安藤 充子
親子ほどの濃さはなく、世代も異なる、甥っ子というワン
クッションおいた血縁関係。夏休みほど大々的でなく、冬休
みほど家庭の行事が多くない春休み。宿題もなく、進級や進
学の開放感もあります。ほどよい距離感のある、かわいい甥っ
子と過ごす一晩。ともに食べ飲み、話す若やいだ雰囲気の夜
と、のびのびとした春休みの季語が響き合っています。
この辺りかつてはビル街つくしんぼ     茂原 淳子
普通なら、「いまはビル街」とくるところ。かつてという
ことは、今は廃れてしまった街の通りでしょうか。つくしが
地面から生え出る様は、小さな虫から見れば高層のビル群と
映るのかも。そして案外、近い将来、普通に見られる光景と
なっているのかもしれません。
春筍や本家分家の間柄     犬塚 玲子
今年は筍の当たり年と聞いています。地下茎で繋がり、伸
びてゆく筍と、大きな家としての絆につながれている本家と
分家。土地を相続し、お墓を継承する本家にはそれなりの責
任も伴います。人の世にあって、つながりは時にしがらみ。
地下茎と同じように、簡単には切れない、固い絆の間柄です。
葉桜や別るるときのありがたう     田口 茉於
花が終わり、見頃を過ぎた桜の木にある一抹の淋しさ。や
がてそれは、枝の若葉が色を深め、風にそよぐ葉桜へと移る
活力となります。力を蓄え青葉を茂らせてゆく過程は、内面
の充実へ向けて時を過ごすかのようです。人もまたいくつも
の別れとともに成長します。別離と感謝の念は、薄緑色の葉
桜がやがて清々しい木陰をつくるように、きっと様々な経験
とともに人を豊かにしていくものなのでしょう。

俳句常夜灯   堀田朋子


太宰忌や太宰嫌ひのひととゐて     遠藤若狭男
(『俳壇』六月号「六月の雨」より)
今年は、太宰治の七十回忌。太宰文学は、今なお人気が高
い。青春期の自己の弱さや孤独感を肯定し、慰撫してくれる
安心感があるのだと思う。数々の重複した恋愛、幾度もの自
殺未遂を散りばめた太宰自身の人生は誠に規格外だ。それで
も回りの人を惹きつけてやまない。太宰を好きか嫌いかの議
論は結構面白く、経験のある方も多いと思う。掲句の二人も、
そんな話で盛り上がった者同士なのかも知れない。互いの心
根を知り合った二人なのだ。女性であろうかとも思う。〝嫌
い嫌いも好きの内〟という。嫌いと言うからには、太宰の文
学・人生を知った上でのことだろう。好きでも嫌いでもいい、
その人の忌日にはその人の事を少しでも心に乗せることに意
味がある。忌を詠むとはそういうことなのだと納得させてい
ただいた。太宰を想う作者の静かな感慨が、鮮明に伝わる。
蛇衣を脱ぐとき少し桃色に     関  悦史
(『俳句四季』六月号「音楽」より)
徹頭徹尾、蛇は苦手。そんな方も多いはずだ。一説には、
人類の祖先が樹上生活をしていた頃、蛇が一番の天敵だった
ため、蛇に敏感に反応する感覚が発達したのだそうだが、決
定打ではないようだ。兎に角、掲句は、蛇嫌いを乗り越えて
惹かれた句である。
蛇にとっても脱皮は、容易いものではないはずだ。リスク
を無事潜り抜け出たばかりの虹は「少し桃色」かかっている
という。見事な観察眼に敬服する。この「桃色」は、血の薄
まった色だと思う。妖しいような、切ないような句だ。一つ
の色を提示するだけで、確かな命の息づきが立ち上がる。俳
句が持つ力を見せつける的確な措辞だ。脱皮直後の映像が脳
内をフラッシュバックして、今も怖くて仕方がない。
花筏底へ潜りたくて鰭     瀬戸優理子
(『俳句四季』六月号「泳ぐ象」より)
水面を埋め尽くす花筏は美しい。一度散っても、再びこの
ような姿で輝くことができるのだなとしみじみとする。時を
忘れてずっと見詰めてしまう。ふと、花筏の一部分が途切れ
て魚の鰭が覗くのに気付いた作者。胸鰭か尾鰭か、「底へ潜
りたくて」大きく身を躍らせる。桜の花びらが最後の静かな
美しさを湛えているその下に、魚は活発な生のエネルギーを
放っているのだ。その対比が面白い。花筏は、魚にとっては
少々疎ましいものなのかもしれない。字足らずに「鰭」と言
切ることで、魚のちょっとした不満が表現されている。こん
な詠み方も「花筏」という季語の本意を言い止めているのだ。
それぞれの空に出揃ふ田打人     龍野  龍
(『俳壇』六月号「耳遠き猫」より)
百姓という者の本質に迫る句だ。百姓には身中に自然歴が
ある。春の訪れとともに大地が柔らなくなると、身内に高ま
る衝動に誘われて、各々の田に出て来る。田打ちとは、現在
は耕運機が大勢だが、かつては大変な重労働であった。
掲句から、あちらにもこちらにも何故かある間隔を持って
田打人のいる風景が浮かび上がる。近づくことがあれば、挨
拶も交わすだろう。けれどすぐに自分の世界へと戻って行く。
この田は自分の大地。自分が打たねば稲田にはならない。怠
れば雑草の地と化し、回りの田にも迷惑を及ぼすことになる。
百姓はその責任感と自負心を秘めて、黙々と田を打つのだ。
田打人の一人一人に「それぞれの空」があるとは、そういう
ことなのだと思う。「出揃ふ」という措辞が情景を雄弁に語っ
ていて的確だ。
さくら散る猫百匹の闇へ散る     坪内 稔典
(『俳壇』六月号「コットンのシャツ」より)
夜に散る桜。近頃は何でもかんでもライトアップするが、
この桜は闇に立っている。それも猫の闇に。よって、決して
雅を詠んだ句ではない。この桜の下に広がっている闇の中に
は、「百匹の猫」が百通りの闇を生きているのだ。
折しも猫にとっては、恋の季節。「さくら散る」頃ともな
れば、様々な状況にある猫たちが思い浮かぶ。なお物狂おし
い発情の声をあげるもの。すでに妊娠を果たし、胎児と我が
身を守ることに腐心する孕猫。早々と出産した親猫には、身
二つとなったことの新たな喜びと苦労が始まっているだろ
う。恋にやつれ、戦いに手負い、草陰に傷を舐めるものもい
るだろう。そんな猫たちの営みに、桜はあまねく散りかかる。
慰めるかに、応援するかに。すべてすべて受容するかに。
作者は「さくら散る」ことに、観音のような慈悲を感じとっ
ておられるのだと思う。
断崖に春夕焼の立ち止まる     雨宮 抱星
(『俳壇』六月号「紙コップ」より)
季語「春夕焼」の斡旋に、深い想いが込められているのだ
ろう。「春夕焼」には、夏の夕焼にある荘厳さの代わりに、
人を包み込むような柔らかさがある。先ほどから作者は「断
崖」の切り立った岩肌一面を染め上げている「春夕焼」の美
しさから目が離せないでいる。
作者は齢九十を超えておられる。最近ご入院もされたよう
だ。「断崖」とは、人生において超えて行かねばならないも
のの象徴だろうか。超える前に今しばし「春夕焼」の美しさ
を全身で感じていたい。いや、「春夕焼」に自己を同一視さ
れているのかも知れない。夕焼けの翌日は、晴れるという。
静謐でありつつも生き行く意欲を感じとることができる。