No.1048 令和元年8月号

抜歯する眼にうつりたる赤のまま うしほ

盆踊り
盆踊りは、各地で昔から行われる夏の行事である。8 月に行われるので、俳句では、盆踊りは「秋」の季語である。地区の広場とか、小学校の運動場などで行われる。刈谷市の小垣江地区では、毎年、この時期になると、地区の青年団の人たちが会場づくりをする。会場にやぐらを設けたり、その飾り付けや雪洞を建てたりする、踊り当日の夕刻になると踊りの歌が流れ出す。多くの人たちが集まって踊りが夜9 時ごろまで行われる。途中で子供たちの楽しみでもある、抽選会も行われる。刈谷市小垣江小学校にて。
写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


東大寺
金の鴟尾見えきて梅雨のいきれ解く
築地塀長し卯の花腐し止む
夕日真赤にガイド涼しき眼を持てり
手に触れて意外に硬し袋角
飛火野や血の色にじむ袋角
竹皮を脱ぐ大和棟雨の中
梅雨いきれ抜け大仏の大き鼻
美しき丹の廻廊や若葉雨
五月雨や本地垂迹説を説く
若葉寒来て十六の化仏さま
優曇華や化仏が囲む盧舎那仏
創建千二百年鹿の子鳴く
六月は雨多き月傘を買ふ
六月や水の噴き出すマンホール
あぢさゐやホームの隅の喫煙所
六月の花嫁赤きルージュひく
木の香土の香六月の築地塀
北條美喜栄同人逝く
坊守の即ち碑守若葉雨
薫風や園丁が生む白沙灘
みな美しき茄子トマトズッキーニ
西尾歴史公園句碑まつり
青芝に寝そべる幸や鳥語句碑

真珠抄八月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


夏蝶の影一瞬をてのひらに       田口 風子
草笛や幼子にふと男の目        高橋より子
余所行が野良着にされぬ更衣      岡田 季男
万緑や声の明るき人と居る       三矢らく子
荒梅雨や搦め手道の閉鎖さる      石崎 白泉
茅花流しや正造の黒袴         工藤 弘子
麦秋の夕日背にして帰りけり      烏野かつよ
雉鳴くや朱に彩色の救現堂       春山  泉
年ごとに麦稈帽に顔なじむ       鶴田 和美
五月尽休みがちな人のデスク      中野こと葉
たんぽぽの絮つむ指にくずれ落つ    鈴木こう子
六月や降り出せば雨降り過ぎて     服部くらら
御巣鷹の尾根を遠目に青嵐       新部とし子
ソーダ水乾きし喉に突きささる     岸  玉枝
痛き歯に舌のそひゆく梅雨の夜     長崎 公子
パレットに水すこし足し春爛漫     山本 節子
原発や島根半島初蛍          中井 光瞬
黒南風や鼡返しの登呂遺跡       山田 和男
小満や空の塩つぼ砂糖つぼ       深谷 久子
穴あきのジィーンズ見慣れ夏座敷    磯村 通子
芍薬の玉解く雨のひとしきり      桑山 撫子
寺巡る大樹を巡る愛鳥日        堀田 朋子
麦秋や後部座席のバスの揺れ      平井  香
正造の意地巾着に蟻のぼる       渡辺 悦子
ジャム一瓶ほどの同棲麦の秋      大澤 萌衣
令和祝ふ長蛇の先の柏餅        水野  歩
鐘つけば犬も呼応や麦の秋       荻野 杏子
はつ夏や妊婦の座る狐塚        山科 和子
立夏来て桜は材もさくら色       阿知波裕子
六月の風靴下を脱ぎ捨てる       川嵜 昭典

選後余滴  加古宗也


六月や降り出せば雨降り過ぎて     服部くらら
晩春から盛夏にかけて、長雨がよく降る。菜種梅雨・竹
の子梅雨・卯の花腐し・走り梅雨・梅雨。五月雨は梅雨と
同種だが、陽暦では六月にほぼ当たる。雨が欲しいなあ、
と思っていてもなかなか降らない。降り出したと思うとな
かなか上がらない。天候不順とはこういう時をいうが、今
年の六月はまさにそうだった。「降り過ぎて」に程よいユー
モアがあり楽しい一句になっている。
是もままごと爼皿に初鰹     三矢らく子
陶芸界の巨匠二人を指して、陶芸ファンはよく「東の魯
山人、西の半泥子」という。魯山人は北大路魯山人、半泥
子は川喜多半泥子のこと。二人とも陶芸は素人ながらプロ
をも凌ぐ作品をものしたことで、驚きとともに熱烈なファ
ンを持つようになった。魯山人は京都の神官の子として生
まれたが、幼少にして口減らしのため奉行に出される。そ
して、若くして書家としてその天分が開花。つづいて料理
人、さらにその流れの中から陶芸家への道を同時に歩むと
いうまさに芸術の天才として人気をほしいままにしてき
た。おそらくこの俳句は魯山人展を鑑賞したことによって、
作者のこれまた芸術的感性に火が着いた俳句といえるので
はないか。「是もままごと」に魯山人の天才ぶりをたたえ
る作者の熱い思いが伝わる。じつは、私も俎皿(まないた
ざら)が大好きだ。俎皿は俎のような形をした焼物の大皿
をいう。おつくりを乗せても焼き魚煮魚を乗せても、盛り
合わせにしてもいい。陶芸家・辻清明、エッセリスト・白
洲正子らはよく「遊びせんとや生まれけん」といった。芸
術を愛する者の究極のありようだ。
夏蝶の影一瞬をてのひらに     田口 風子
「夏蝶」即ち大型の蝶である「揚羽蝶」をいう。作者は
一瞬、夏蝶を捕えようとしたのかもしれない。しかし、夏
蝶の動きは早い。てのひらに映った影はほんとうの影なの
か、あるいは夏蝶そのものなのか。判別つきかねる瞬間に、
じつは詩が宿っている。
昼糶の蛸袋ごと立ちあがる     酒井 英子
この句、三河湾の日間賀島での光景だろうか。日間賀島
はふぐとともに蛸の水揚げが多いことで知られている。蛸
はうっかりするとすぐあの長い脚で逃げ出す。それを防ぐ
ために網袋に入れて糶にかけるのだ。「袋ごと」に滑稽感
とともに作者の驚きが見て取れて面白い。
渡良瀬に滅びのむかし花うつぎ     工藤 弘子
渡良瀬川といえば足尾鉱毒事件の舞台として日本近代史
に負の遺産として刻まれている。田中正造は生涯を鉱毒事
件との闘いに賭した。この句「滅びのむかし」が厳しくも
的確で心にひびく。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のたと
えのように平穏な日々につい大きな過ちも忘れてしまいが
ちになる。福島原発事故の教訓も生かされているかどうか、
はなはだあやしい。
立夏来て桜は材もさくら色     阿知波裕子
夏は生物の成長を最もうながす季節だ。そして、それぞ
れ最もらしさを見せる時でもある。「桜は材もさくら色」
というが、なるほどそうなのかと思った。もうかなり昔の
話しになるが、岩波新書の一冊でもある『血液型の話』の
著者・古畑種基博士の夫人が私の教室に俳句の勉強に見え
ていたことがあった。初老の美しい人で、草木染を本格的
にやってみえた。あるとき個展をやるというお招きをいた
だき、楽しませていただいたことがある。草木染も私の想
像を越え、多種多様で、化学染料で染めたものとも、見事
に一線を画するものだった。そこには自然という安らぎの
世界があった。その時、夫人から桜の木で染めたというネ
クタイを頂戴した。それが驚くほど美しい桜色だった。無
論、いまも大切にしている。
御巣鷹の尾根を遠目に青嵐     新部とし子
御巣鷹山といえば、日航ジャンボ機の墜落事故が思い出
される。このとき『上を向いて歩こう』などの大ヒットで
人気を博していた坂本九が死んだ。「尾根を遠目に」は現在、
尾根を遠くに眺めているというだけでなく、その心は、墜
落事故の追憶にも向かっている。そして、「青嵐」に追悼
の念が過不足なく伝わってくる。
穴あきのジーンズ見慣れ夏座敷     磯村 通子
その昔は、ジーンズに穴があいたら捨てるものと決まっ
ていたが、いまは、捨てるどころか、真新しいジーンズに
わざわざ穴をあけて売るのが流行っているらしい。「見慣
れたる」に抵抗をとっくに通り越して、あきらめがのぞい
ている。ヤレヤレとは中年の溜息なのか。
寺巡る大樹を巡る愛鳥日     堀田 朋子
バードウィクにはよく探鳥会が開かれる。小鳥たちは大
樹のあるところ、静かな所を好む。「寺巡る大樹をめぐる」
がごく自然のなりゆきのようで的確な把握だ。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(六月号より)


風光る蓑曳鶏の鶏冠に     池田あや美
蓑曳鶏(みのひきどり)は蓑羽(みのばね)と呼ばれる腰
の羽が長く美しい天然記念物の鶏。掲句、とさかではなく、
けいかんという硬質な読み。風光るにふさわしい響きです。
美しく立派な蓑曳鶏の鶏冠に明るくきらめくような春の風。
山笑ふ虚々実々の爺と婆々     牧野 暁行
敵も然る者、長年一緒に居れば相手の腹はみえてくるもの。
その駆け引きのたのしげな感じが伝わります。季語「山笑ふ」
が二人のやりとりを大きく包んで、ドラマの中の老夫婦のよ
うにも感じます。年季の入った間柄ならではの諧謔味の一句。
七宝のぼかしを学ぶ春愉し     渡邊たけし
七宝焼き体験をされての吟。七宝焼きは二人の「なみかわ」
が有名ですが、ここはあま市。実際に色を選び、釉薬を乗せ
ての作品作りです。筆を使ってしばし学び遊んだ春の日。で
きあがったのは、実はかわいいブローチ。まこと春愉し。
信玄橋砦橋越えひばり野へ     深谷 久子
ここは私にとって実はお馴染みの道。奥三河から長野への
一五三号線。信玄橋、砦橋があるのは根羽村。山の道を抜け、
空の広がる信州を目指して、雲雀の声へ。句末に広がる余韻。
堅香子や歩ける幸を踏みしめる     深見ゆき子
堅香子のうつむき加減に咲く花の様子に、普通に歩けると
いう幸せを感受する作者の胸の内が託されています。踏みし
めるの措辞に、実感に裏打ちされた重みが伝わってきます。
一人居の友亡き庭の花万朶     重留 香苗
声に出して読むと快い。流れるような五七五のリズム。
「の」が絶妙に効いています。下の語を修飾する「の」のは
たらきが、つなぎとなって焦点化され、結句は体言止めでくっ
きりと。今を盛りと咲く桜の花へ追悼の思いが重なります。
串焼のキッチンカーや飛花落花     乙部 妙子
声に出して読むとまたまた心地よい。何と、カ行音が六音。
ほぼ三割。串焼きのかぐわしい匂いをさせた移動販売車と爛
漫たる桜の花びらが舞い散る様と。愉悦の春の光景です。
春深む大事に使ふ竹箒     濱嶋 君江
大竹耕司氏への追悼句。平成を貫き通したかのように、平
成最後の年、最後の月に逝去されました。守石荘句会では天
賞として竹箒を持参されたり、茶杓を参加者全員に配られた
り。それは物を通して物だけではない『わすれられないおく
りもの』。素直な詠みに追悼の意がそのまま素直に伝わりま
す。
残雪の富士山を背に音楽堂     天野れい子
遠景として残雪に輝く富士の山。その富士を背景に近景と
して建つ音楽堂。背(そびら)という読みから、歴史のある
古い木造の建物が連想されます。一句の中から美しい旋律が
聞こえてくるような、やさしくも格調高い作品。
銀化せし涙壷春逝かむとす     江川 貞代
凛々しい一句。銀化とは、長い間土中に埋もれていたガラ
スが、化学反応を起こし美しくきらめくような色へ変化する
ことだそうです。涙壷とは涙をためるための壷。古代ローマ
時代、戦地へ赴く夫を思って、或いは亡き夫の石棺に垂らす
ために。また、イランでは霊薬として病気を治すために。美
しい命名の壷に漢語調の凛然たる響きが緊張感を生み句意に
も適っています。時のつくり出した妙なる色の涙壷も、今ま
さに過ぎ去ろうとしている春も、全ては時の神に委ねられて。
観音の頬濡らしたる花の雨     喜多 豊子
この観音様は白衣観音。高崎の大観音像でしょうか。その
大きなお姿の頬に焦点をあて花の雨を詠んでいます。頬を濡
らす雨は静かでやさしい雨。そこには涙のイメージも。やや
うつむき加減のお姿に柔らかに降る花の雨です。
お互ひに耳遠くなりエープリルフール     岩瀬うえの
これこそがエープリルフール。嘘を言ったとて聞いたとて、
確と伝わったのか、伝わらなかったのか。お互い様のおあい
にく様。この良い加減な軽さに合う季語の流れるような軽さ。
揚雲雀野面の地蔵目をあけて太田小夜子
お地蔵様の目は普通閉じているか、半眼が多いとか。この
野においでのお地蔵様は目をあけて、春の日差しの中、揚雲
雀の囀りを泰然として聞いてみえるようです。ピーチュルル。
芹摘めり未だ指輪を知らぬ子等     高相 光穂
指輪は身を飾る装飾的な物。また一つの約束、うるわしい
縛りとしての象徴。それらから今はまだ遠い存在の、芹を摘
む無垢な女の子達。摘んだ芹の独特の香気が漂います。
根生姜も笊で商ふ苗木売     近藤くるみ
こちらは土の匂いのする一句。笊で売られているのはひね
生姜。若い葉をつけた苗木を売るのも、古い生姜もともに商
う、ここは活気ある賑わいの場。苗木売の生業の場。

俳句常夜灯   堀田朋子


春野菜その切なさの緑・白
この眠気恐しくなる蝌蚪の紐      大牧  広
あゝと言ひあとは無言や花の下
(『俳句界』六月号「闘病」より)
氏は、今春四月二十日に永眠されたと知る。闘病の最終章
に詠まれた五十句より三句をとらせて頂いた。共通している
のは、斡旋された季語が強い生命感を持っていることだ。
人は死を予感した時、柔らかいもの・癒しに繋がるような
ものに惹かれるのではなかろうか。けれど氏は、その予感か
ら逃げることなく、俳人としての命を全うされたのだと思う。
春野菜の緑と白の瑞々しいコントラスト。目覚めることがで
きないかも知れない恐怖に配した『蝌蚪の紐』の命の塊の重
量感。「あゝ」のあと、来年は見ることが叶わないだろうと
いう口にしなかった言葉は、万朶の花が呑み込んでくれたよ
うに感じる。氏の心の強さを讃えたい。
どういう最期になるかは、自死以外で選ぶことはできない。
死病を得ることで命に向き合う死にざまは、もしかしたら僥
倖なのかもしれないとさえ思えてくる、そんな句の数々だ。
永遠に嬰産む土偶明易し     宮坂 静生
(『俳句四季』六月号「季語を詠む」より)
遮光器土偶や縄文のビーナスが思い浮ぶ。豊かな乳房・妊
娠した腹部・大きな臀部などから、胎児や妊婦の安全を祈願
するために作られたと考えられている。作者は縄文の土偶が
出土して、現代の自分が目にしていることの不思議に至り、
土偶は数千年の時間を連綿と出産し続けていることを発見し
たのだ。新鮮な視点にウキウキする。土偶の本意と人類の永
遠の祈りを諾う、作者の健やかな心が感じ取れる。
昨今は人権意識が重視されて、人類も産み継がなくては滅
びるしかない動物のひとつだという実感が薄れているよう
だ。かつて日暮れと共にあった本物の闇は、科学の発展に押
しやられている。季語「明易し」の斡旋は、夏に殊更の短い
眠りへの現代人の焦りのようなものが、含まれていて巧だ。
この世から一抜け二抜けシャボン玉     佐藤 成之
(『俳句四季』六月号「薔薇の雨」より)
童謡作詞家・野口雨情の『シャボン玉』に「屋根まで飛ん
でこわれて消えた」という歌詞がある。シャボン玉は、何は
ともあれパチッと弾けて消えるのが本質なのだろう。雨情は、
生後間もなく亡くした長女への想いを託して作詞したとい
う。
さて掲句は如何なる心情で詠まれたのだろう。一連の同時
発表句から、やはり、喪失の句であるように思う。しかし打
ち拉がれるだけの心情ではないようだ。心に負った傷より流
れ出る血からでも、花を咲かせることができるのだと感じる。
「この世から一抜け二抜け」の軽妙な表現には、喪失を乗り
越えて行く萌芽がある。気負いのない明瞭な表現によって、
季語の本意を突けば、句の背後はこんなに豊かになるのだ。
打水をやめてくださるまた歩く     原   英
(『俳句界』六月号「そろそろ」より)
生活の中で出会う一コマを、時系列に逆らわないで素朴に
詠むことで、返って新鮮さが増している。地面の火照りを鎮
めるための「打ち水」という季語が清々しい。
「くださる」の一語が、途上の作者と水を打つ人とが、互
いを制止し合うことで生じた心模様を表現して周到だ。申し
訳なさとありがたさが、二人を目礼させただろう。人と人と
の何気ない触れ合いを、すれ違いざまに散った蝶の鱗粉のよ
うな煌めきを感じさせる句にされた。その力量が羨ましい。
あをあをと山の暮れたる更衣     井上 康明
(『俳句界』六月号「新作巻頭3句」より)
「あをあを」という修辞が力を持つ句だと思う。日中は汗
ばむような日だったのだろう。自然界の成長を促す程よい湿
りを含む一日がとっぷりと暮れてしまった。自宅より望む山
に下りた夜の帳の底には、五月半ばの日増しに緑を重ねてい
る木々の蒼さが確かに潜んでいるのだ。「暮れたる」の完了
と断定に、目で皮膚で季節の細やかな状態を受け止めている
作者の精神の余裕が感じられる。
季節の変化にそろそろと促されるように「更衣」をする。
これからの季節に備えていこうとする前向きな心持ちがしみ
じみするのは、「あをあを」と呼応しているからだと思う。
貝がらを溢れて虎が涙雨     黛 まどか
(『俳句界』六月号「親子響詠」より)
仇討に人生を賭ける男がいれば、その陰で泣く女人がいる。
鎌倉初期、旧暦五月二十八日、曽我兄弟は父の仇討に成功す
るも命を落とす。兄の曽我十郎は幼少期よりその一念を育て、
なんと十七年後の二十二歳での決行である。自身も死ぬ覚悟
の仇討のため、正式な結婚はしなかったらしい。愛人であっ
た虎御前が十郎の死を悼んで流したのが「虎が涙雨」と言う。
掲句の素晴らしいのは、「貝がら」という道具立てにある。
二身に別れた一方の貝がらは、別れと片方を思慕するイメー
ジに重なる。窪みを空に向けた小さな貝がらでは、「虎が涙雨」
を受けきれないのだ。雨に打たれて震える貝がらの写生が鮮
明だ。その雨に俳人は虎御前を想い、自身の失った恋を思い
出したりもするのだろう。豊かな情趣が溢れている。
貝がらの内側の色は美しい。雨に濡れると余計に際立つ。