No.1052 令和元年12月号

駅に立てば二か寺の見ゆる枯野かな うしほ

大鏡餅奉納
 名古屋市の熱田神宮の大鏡餅は、新年の五穀豊穣、無病息災を願って毎年12 月30 日に白い鉢巻、白い法被姿の奉納者の人々によって大小五つの大鏡餅が参道を練り歩き、木遣り唄の先導で、拝殿に担ぎ込まれる。大鏡餅は、直径1.5 米ほどの五段重ね、重さ400 キロで、奉納日の四日ほど前に作り上げる。所在地・名古屋市熱田区、熱田神宮。名鉄名古屋本線神宮前駅下車すぐ。問合せ・☎ 052-671-4151 熱田神宮。 写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


長崎 五句
ジュリアンの肖像に笑み冬の雨
時雨降りそそげばマリアにも涙
冬鴎鳴いてピエタを抱くマリア
外海(そとめ)真青に待降節に入る二日
ロザリオはザビエルのもの時雨寒
十二月八日耳立つ門の犬
祖父のこと曽祖父のことおでん酒
寒晴やまつすぐに立つ香煙
けふ吉良忌元禄の鐘一つ撞く
侘助や老僧が召す糞掃衣
門口に水甕置かれ冬の菊
よく似合ふ南木曽猫てふちやんちやんこ
百舌鳥猛る閉されしままの太鼓楼
けふはハロウィン提灯蔵閉され
沓脱に草履が二足石蕗の花
石人はいつも一対鵙くぜる
花石蕗や石人の立つ煉瓦書庫
矢作川河口にて
神君の開きし大河鳥渡る

真珠抄十二月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


風船を飛ばし運動会果つる       田口 風子
男湯を女湯に替へちちろ鳴く      中井 光瞬
出水予報運び上げたる古書数冊     荒川 洋子
覚えなき鍵のいくつか蚯蚓鳴く     工藤 弘子
発車ベル色なき風を置き去りに     鈴木 玲子
建て替えの残土に埋もれ杜鵑草     松元 貞子
一年をうかうか過しさうな秋      成瀬マスミ
小鳥来る指の覚えし鶴折れば      高橋より子
廃線となりし線路のいま花野      鈴木 恭美
薄紅葉水ためはじむ八ツ場ダム     堀口 忠男
ちちろ鳴く研究室に子の白衣      山科 和子
ふるさとで鵜匠継ぐ女(ひと)雲の秋  市川 栄司
露葎ゴム長といふ優れ物        服部くらら
片目開かぬ達磨も秋の達磨寺      乙部 妙子
秋の朝一等賞の握り飯         岡本たんぽぽ
茶が咲けり大和に多き段畠       沢戸美代子
まつ白な河床まつ白な霧流る      酒井 英子
秋うらら初宮の嬰をあやす禰宜     高橋 冬竹
星月夜あす朝猫の来るといふ      堀田 和敬
秋の日に透して選ぶ手漉和紙      加島 照子
身に入むやオルガン弾きの深き礼    鶴田 和美
ペットボトル持ち虫売の帰る家     田口 茉於
こおろぎに明る過ぎたる都会の灯    桑山 撫子
鬼灯を鳴らせぬままに喜寿まぢか    加島 孝允
わさび田の小石を透かす水澄める    原田 弘子
葛咲くや匂はぬ鼻を持つ愁ひ      久野 弘子
大提灯過ぎれば大根蒔く支度      岡田 季男
朝寒や夜具はいいかと夫に聞く     神谷つた子
居待月抹茶はしかと啜りきる      三矢らく子
秋声や微妙に会話すれ違ふ       天野れい子

選後余滴  加古宗也


一年をうかうか過ごしさうな秋     成瀬マスミ
日本に暮すありがたさの最高のものは、春夏秋冬という
四つの季節がしっかりと存在することであると思う。この
春夏秋冬というメリハリが農作業をはじめ、日本人の暮し
に欠くことのできないものだといえる。同時に、生活のリ
ズム、それも精神的なものまで含めてかけがえのないもの
になっている。ところが、ここ何年かの異常気象は、日本
人の暮しに重大な、例えば災害という予期せぬできごとと
なって、日本列島に襲いかかってきている。
この秋の暑さはいつまでも半袖暮しをわれわれの生活に
押しつけてきたし、これまでになかった台風の度重なる襲
来と異常を超える大雨は、堤防の決壊を招き、未曽有の大
水害をもたらした。そして、山崩れ崖崩れの多発で多くの
人命を奪われたばかりか、その損害は、はかりしれないも
のになった。そんなあいつぐ天災と異常気象によって、わ
れわれは暮しの方向性すら見失いかけている。
この一年、私はどう生きてきたのか、私の周りで何が起
きつづけてきたのか、つい頬をつねってみなければならな
い日々が続いている。これまで天災と呼ばれてきたものが
じつは今日、人災であることに人類は気づきはじめている。
個人的な事情と人数の大問題が重なり合った秋だった。
雪解水もてコーヒーを秋の昼     酒井 英子
柿田川湧水、忍野八海など富士山の周囲の湧水は富士山
の雪解水であることを、NHKの映像であらためて知った。
富士山によって濾過された水はうまい。その水でいれる
コーヒーはうまい。ここに登場する雪解水は木曽駒ヶ岳の
それだが。木曽駒の麓にはその美しく旨い水を利用して、
養命酒が生み出されている。作者は自然からもらった最高
の恵みをコーヒーによって体感したのだ。「秋の昼」とい
う季語の斡旋が、コーヒーの旨さを、完璧に捕らえてはな
さない。
ふるさとで鵜匠継ぐ女(ひと)雲の秋    市川 栄司
岐阜市の長良川で古くから鵜飼が行なわれている。鵜飼
はもともと朝廷へ献上するための漁であったらしく、鵜匠
はそもそも宮内省のお役人でもあるらしい。そんな鵜匠に
数年前、女性の鵜匠が誕生したというので話題になった。
しかも、なかなかの美人なのだから世間がほっておかない。
テレビ局も鵜飼のシーズンになると、美人鵜匠にカメラレ
ンズの砲列を向ける。昔から「鵜の目、鷹の目」という言
葉があるが、作者は間違いなくこの鵜の目になったように
思われる。「ふるさとで」といい「雲の秋」という季語を
斡旋することで見事に俗を払った。
覚えなき鍵のいくつか蚯蚓鳴く     工藤 弘子
私たちはときに鍵束などを持ったりするが、いつの間に
やら鍵は溜まってくるものだから面白い。そして、その中
に「覚えなき鍵」がでてくる。これはちょっとしたミステ
リー。簡単にその鍵を引き出しに入れようなものなら、
ちょっとした事件に発展しかねない。鍵は本来、けっして
失くしてはならないものを大切に保管するための道具。そ
して、「蚯蚓鳴く」という季語もミステリアスな季語。蚯蚓
には発声器官がないから鳴かないはず。「ケラ」が鳴いたの
を間違えて蚯蚓だといったという説があるが、わたしにとっ
てはそんな説は面白くない。ミステリアスのままがいい。
薄紅葉水ためはじむ八ツ場ダム     堀口 忠男
「八ツ場ダム」は「やんばだむ」と読む。群馬県に建設さ
れた大型のダムで、かつて民主党政権下で「仕分け」が行
われたとき、無駄遣いの最たるものとして、民主党の攻撃
材料になったが、自民党が政権を奪還してから何年も経っ
ていないのに、多くの国民の意識から消え失せてしまった。
そして、堀口氏の投句によってふたたび私の意識の中に甦っ
たが、あの騒ぎは何だったのだろうかと思うばかりだ。「薄
紅葉」が妙に皮肉ぽく思えるのは、私だけだろうか。
風死する窪や長崎爆心地     平井  香
暑さを体感するときの頂点として表現の一つに「風死す」
というのが私の中にある。長崎は広島のすぐ後に原爆が投
下された街だ。広島・長崎はアメリカによる原爆の威力を
ためすための街として選ばれ、投下された。長崎への投下
は一説によればどこでもいいから投下したのだという。た
めに、むごたらしい何万もの犠牲者が出た。広島だけでな
く長崎も「原爆許すまじ」の思いは燃えるように強い。「風
死する」の季語によって、この世の「生地獄」がより強く
伝わってくる。
私は長崎へはすでに六回ほど訪ねている。長崎はキリシ
タン禁令による弾圧と原爆というじつに理不尽な歴史を
持っている。長崎を訪ねる度にかならず訪ねるのは、この
爆心地と舟越安武が全身全霊をかけて制作した「二十六聖
人」のレリーフだ。遠藤周作の『沈黙』の舞台である外海(そ
とめ)の海は、いつ行っても青々として美しい。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十月号より)


葬送の道なりに咲く白木槿     川端 庸子
朝開き、夕べにはしぼんでしまう木槿。粛然とした葬列に
手向けられたかのように、道なりに咲いています。人が行く
道の果てにある死。その人なりに歩んできた現世の道を閉じ
る、野辺の送りです。一日花のはかなさと共に、清浄なる白
い木槿が、静かな追悼の意を伝えるように咲いています。
葛切や老ゆれば今も京訛り     高橋 冬竹
葛切は透き通った清涼感のあるお菓子。「訛り」は方言、
とはいえそこは歴史に培われた古都の京都弁。年を重ね、根っ
から身についた言葉、京都弁が口をついて出たのでしょうか。
はんなりとした京都弁と涼やかな葛切。京都の風土に根づい
た言い回しと、つるりとした口当たりの良さ、ひんやりとし
た心地。響き合う言葉が一句の奥行きを深めています。
吾をよぶ夫の声欲し月の宿     監物 幸女
妻を呼ぶ夫の呼び方は、各々固有のもの。その人ならでは
の声の響きが、亡くなった後も、作者の耳にしかと残ってい
るのでしょう。明るい月の光が差すこの宿、我が元へ届けて
ほしい懐かしい声の響き。幽玄なる月の夜。
つかへつつ「一つだけの花」夏休み     烏野かつよ
夏休みの宿題でしょうか、国語の音読練習です。読んでい
るのは戦争をテーマとした物語。出征を見送る幼い我が子に
父は、一輪のコスモスを手渡し、「一つだけのお花だよ。」と
言葉を残して、そのまま帰らぬ人になりました。作者は戦中
派の今西祐行さん。今はまだ、ごつごつした読み方でわかり
にくくても、「戦争」の話を音読する、夏休みの一場面。
女とか自律神経とか辱暑     大澤 萌衣
辱暑の鬱陶しさをこんなに大胆に、あるがままに言い放っ
て、爽快でさえあります。季語も句意も大きく違いますが、
勢いのよさは「四十七人の刺客義士の日とは笑止」にも匹敵。
生きているとは血が流れ息をすること。体感覚からの辱暑。
三姉妹三人三様さくらんぼ     奥村 頼子
さくらんぼの季語が動きません。幼い三姉妹ならその愛ら
しさが、成長した娘ざかりの三姉妹なら、ルビーのような華
やかさが伝わります。そしてやっぱり、サ音の連なりの快さ。
白南風や門司に迎への人力車     奥平ひかる
日本が近代国家として歩き始めようとした、明治時代。そ
こにタイムスリップしたかのような場面設定に心が躍りまし
た。きっと作者は本州の下関から九州へと渡ったところ。人
力車が待っているとは、豪勢な旅です。空は夏の到来も間近
な、梅雨明けの明るい空。輝くように吹き渡る白南風に、文
明開化の頃を思わせるような場面の切り取りが効いています。
すぐ昼となりたる二人冷奴     米津季恵野
全くもってその通りと共感の一句。ふと気づいたら、もう
お昼。お昼は簡単にすませましょう。の象徴が冷奴。そこに
は二人暮らしの気安さが。気楽な間がらに手軽な一品、冷奴。
たかが空洞されどダイソン扇風機     天野れい子
なんだか可笑しい。弱いんだか、強いんだか。あてになら
ないような、でも堂々としているような。なんたって画期的
な羽根のない扇風機、しかもダイソン。名前からして強そう
です。「空洞」の頼りなさを「されど」と頼もしい社名で返し、
扇風機を修飾。この曖昧さのおかしみ。諧謔味。
蟻還し残る巣箱に穴三つ     川嵜 昭典
ヒトのホモサピエンスとしての誕生は約二十万年前。蟻の
社会が完成したのは約五千万年前。(村上貴弘氏)蟻は、長
い時間をかけ、分業による複雑な社会を構築してきました。
しばらくの間蟻を飼っていた作者。また、元の場所へ還した
のでしょう。巣箱、飼育箱の中でどんな蟻の営みがあったの
か、わかるのは残された箱の「穴三つ」。掲句「蟻還す」と
カットが切れるのではなく「蟻還し」連用形のつながりは、
自ずと下五の「穴」に誘導されます。還してみると三つの穴
があった、というような。そこには空虚な寂しさも感じま
す。さらに「巣箱に残る」ではなく、残るは巣箱にかかり、
蟻の構築した社会はそこに残されたまま。不在となった巣箱
に、蟻の実在を証す穴。眼前の、その事実だけを捉えた客観
の一句。
疎開地は字の名消えて終戦日     太田小夜子
疎開という実体験の重みを感じます。大字、小字という昔
ながらの区分が消え、今は統合された地名にどんどん変更さ
れていくご時世。時の流れと共にそこには一抹のさびしさも。
白足袋のこはぜきっちり夏座敷     近藤くるみ
「白足袋」の清潔感。「きっちり」の納め整えられた感じ。
その身ごしらえと、夏座敷の風を通す涼しげなしつらえが、
まことマッチ。立派な調度品なども置かれた格のある夏座敷。
冷やすもの冷やしておくも盆用意     犬塚 房子
簡単なことのようでいて、それ相応の時間のかかること。
先祖供養の用意はもちろん、墓参りの後の冷たい果物や来客
の飲み物、あれこれ。前もっての準備が大事な主婦の盆用意。

俳句常夜灯   堀田朋子


三井の昏鐘秋冷の湖渡る     梅村 半醒
(『俳句四季』十月号「琵琶湖」より)
堂々とした骨格を持つ句。しみじみとした情緒も込められ
ている。歌川広重の『近江八景』にも描かれている『三井の
晩鐘』には、切ない伝説がある。湖の守り神である大蛇は、
かつて助けてくれた男との間に子をなしたが、人間界に残し
て来たという。この鐘の響きは、母の大蛇に子の無事を知ら
せるためのものだそうだ。琵琶湖へと渡っていく必然がある。
掲句では「晩鐘」を「昏鐘」としている。「昏」には単に
夕暮れ・暗いだけでない、哀しみが纏っているのではなかろ
うか。そして琵琶湖は今、蕭蕭として「秋冷」の中にある。
母子は一層お互いを求め合うことだろう。確固とした句柄の
奥に、血の通う切なさが流れているのが感じられる。
蓮田波立ち惑星がすれ違う     秋尾  敏
(『俳壇』十月号「茨城空港」より)
地球と月の間を通過する小惑星は、ひと月に数回は観測さ
れるそうだ。今年七月末にも、『2019 OK』と命名された直
径百メートルを超える小惑星が、かなり接近して通過したと
いう。もし衝突していたら一都市を破壊する力があるらしい。
掲句はその事を念頭において詠まれたのだろう。
何故「蓮田」なのか。大きな葉で覆われて風から守られ、
土中には蓮根を張り巡らした蓮田の水面は、穏やかなもので
はなかろうか。そこに今日は、風もないのに波が立っている
不思議。作者は、地球とすれ違うという小惑星の仕業だと思
い到ったのだ。小さな「蓮田波」と宇宙とは確かに繋がって
いる。その再確認のような感動が、作者に掲句をもたらした
のだと思う。「蓮田」は天上世界と繋がり易いのだ、きっと。
風はもう優しくなれず暮の秋     池田雅かず
(『俳句四季』十月号「暮の秋」より)
外連味のないどこまでも素直な句だと思う。作者の心の状
態が反映されているのだろう。作者は、三秋に渡って変化し
ていく風の一つ一つを、繊細な心と五感で受け止めてきた人
だ。今「暮の秋」、風は冬のものとなる気配を漂わせ始める。
季節は私達の心よりも先を行く。いつも少し遅れて気づか
されるものだが、その気づきは、人の心の滋養のようなもの
になるのではと思う。暮れていく秋への去り難さが掲句を満
たしている。良いことも悪いこともあった秋が行く。さあ冬
がやって来る。新しい気持ちで向かって行かねばならない。
そう風が教えてくれている。
鰯雲より下りてくる牛の群
岬ごと絞り上げたる鷹柱      柴田佐知子
(『俳壇』十月号「存分に」より)
二句に共通するのは、句景の再現性の高さだ。明確な観察
眼と表現の独自性に惹きつけられる。いずれも広々と拡がる
大自然の景だ。そこに牛と鷹が存分にその生を営んでいる。
前句は阿蘇のような広々とした山並みでの放牧であろう
か。草原の高みから群れをなして低地へと移動する牛が、ま
るで「鰯雲より下りてくる」ようだという。錯覚であろうが
現実以上の迫力だ。鰯雲の持つ包容力と牛の躍動感に心を奪
われる。後句は岬の突き出した海辺だろう。複数の鷹が渡り
に際し、上昇気流を得て竜巻状に旋回して登っていく様子が
「鷹柱」だ。その旋回の力強さを、足元の「岬ごと絞り上げ」
と表現している。鷹達のこれから始まる渡りの過酷さへの覚
悟が感じられる。現実を飛び越えるほどの臨場感は、作者の
力量ゆえの事だ。上手に騙されて、気持ちの良い句達だ。
藍甕のぽかと口開け早稲の風     岡崎 桂子
(『俳壇』十月号「蛍袋」より)
藍染は藍師と染師とに分担されるほど工程が長い。藍師は
三月頃に藍の種を蒔いて育て、梅雨明けを待って収穫し乾燥
させる。九月頃から醗酵させて〝すくも〟を作る。染師はそ
のすくもを半年ほど保管した後、「藍甕」の中で〝藍を建て
る〟という工程に入る。
早稲は九月初めには刈り取られる品種なので、「早稲の風」
が気持ちよく吹く頃には、掲句の染師のもとにある「藍甕」
は、まだ空っぽなのだ。「ぽかと口開け」の修辞はコミカル
だ。甕の中へ風が吹き込むのを許すほどに、あっけらかんと
暇を持て余しているのだろう。「早稲の風」が持つ、早々の
実りを約束する豊かな爽やかさが、藍甕をすっきりと乾かし
ている。季語の持つ力によって、農村部にあるらしいこの藍
染工房と染師の清らかさをも想像させるようだ。
鵙の声太子の廟は鉄の柵     山下 美典
(『俳句四季』十月号「巻頭句」より)
昨今、教科書上では厩戸王(聖徳太子)と括弧つきで表記
される太子。存在はしたが、周知の数々の偉業遂行や偉人像
には疑問符が付いているようだ。しかし、掲句の廟が民間信
仰の拠り所として崇敬を集めて来たことに疑いはない。
『三骨一廟』と言われ、一か月の間に相次いで亡くなった
母君と太子と后が葬られていることに痛ましさを感じる。そ
れが、禁忌を思わせる「鉄の柵」への着眼へとつながったの
ではなかろうか。そして、斡旋された季語「鵙の声」が効い
てくる。鵙は百舌鳥とも表記されるように、様々な鳴き声を
持つが、秋の高鳴は、殊更に鋭さを増す。縄張りを侵す者へ
の威嚇のためだそうだ。硬質なものに覆われた掲句は、謎の
多い太子の廟に、何か犯しがたい聖地を感じさせる。