No.1053 令和2年1月号

土間の炉に突っこむ足やスキー宿   うしほ

舟だんじり
三重県の紀北町長島地区では毎年1 月中旬に「舟だんじり」が行われる。紀北町は、三重県南部にある自然豊かな町である。大漁祈願の祭、舟だんじりが1 月中旬の土曜日に行われる。カツオの一本釣りを模した舟の山車(だんじり)が町内を、男子小中学生が釣竿を持って乗り込み所々でカツオ釣りを演ずる(写真)、餌のイワシに見立てた飴をまきながら行う。最後は長島神社に着くと餅撒きを行って終わりとなる。所在地・三重県北牟婁郡紀北町長島・紀北町観光協会。問合せ・☎ 0597-46-3555 紀北町観光協会。
写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

 

 

流 水 抄   加古宗也


一月や真一文字に鳥礫
長き藁もて白菜の首くくる
吉良義央毎歳忌
元禄の鐘撞き時雨華やげる
飯桐の房垂れ吉良の毎歳忌
山茶花のほろほろ吉良忌修す寺
影堂へのぼる石段冬日影
影堂の開け放たれて義央忌
句碑裾の白侘助も華蔵界
ばんぺいゆ李朝箪笥に細き鍵
荷揚場の跡とやけさは初氷
ぼろ市やカラカラを売る大男
うしろから肩叩かれし除夜詣
迎春や南蛮壷に松と梅
宝船枕の下に夢を見ず
淑気絞りぬ常山の紫泥茶器
買初の一つに小さき可盃を
餅花や拭き艶しるき太柱
伏見には酒蔵並び鳥総松
知多路には溜池多し梅探る

真珠抄一月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


江戸足袋や文木で計る足の寸      江川 貞代
音もなく十一月の来たりけり      川嵜 昭典
ひやかしの筈がとりこに村芝居     加島 照子
文化の日父の歩幅で見ゆるもの     鈴木 帰心
後出しのジャンケンの如酔芙蓉     岡田 季男
柿はたわわに美濃源氏発生地      石崎 白泉
冬浅し鳥の翔ちたる潦         工藤 弘子
ラガー一蹴こめし時間の伝はり来    鶴田 和美
高音の何時か抜けきし虫時雨      堀口 忠男
小鳥来てをり七人の小人像       新部とし子
釣瓶落しや同胞は吾ひとり       加島 孝允
猪垣の並びに鉄の檻据える       深谷 久子
憂国忌靖国通りを市ヶ谷へ       鈴木 恭美
咳ころし声をころして電話口      鈴木 玲子
散る銀杏追へば日溜り移動して     中井 光瞬
掌の中に溢るる光今年米        渡辺 悦子
鬼の子と遊んで岩瀬文庫かな      水野 幸子
爽やかにリストラのこと話す友     中野こと葉
箪笥にも下駄にもならず桐一葉     村上いちみ
晩秋や検査結果にふとめまい      鈴木こう子
神迎へとも畳屋の招き猫        田口 風子
硯這ふ硯師の眼や秋澄めり       堀場 幸子
明日香路を色なき風に導かれ      服部 喜子
高原の牛乳の濃し草紅葉        和田 郁江
秋曇り弾痕のある赤レンガ       田畑 洋子
顔見世を教へ子と見る齢かな      荒川 洋子
花魁の八の字歩き秋を遣る       柳井 健二
初時雨生徒に祖父の死を伝ふ      山科 和子
三日月やソプラノサクス一人聴く    黒野美由紀
プレゼントを配るサンタの髭は綿    岡本たんぽぽ

選後余滴  加古宗也


江戸足袋や文木(もんぎ)で計る足の寸     江川 貞代
江戸足袋屋という今となっては珍しい店をのぞいたとき
に生まれた句だ。「足の寸」の「寸」は「寸法」の「寸」
で物の長さを計るときの単位をいっていると解するのが自
然だ。足の長さを計るときに用いるのが「文木」で、そう
いえば、足の長さを何文ということを思い出し、思わずに
やりとしてしまった。私など小学生の頃が最後ですつかり
足袋をはかなくなってしまった。七五三祝いの七歳のとき、
学生服を着て記念写真を撮っているのだが、足元は下駄に
足袋だ。和服と洋服が混在していた時代の象徴的な写真と
して今では貴重だ。ところで足袋の寸法は「文木」という
道具で計るのだと知って、作者が多いにはしやいでいる姿
が見えてきて楽しい。「懐しさ」「珍らしさ」もまた俳味に
なることを教えてくれる一句でもある。
顔見世を教へ子と見る齢かな     荒川 洋子
「顔見世」は江戸時代に始まったものらしく、翌年度興
行すべき顔ぶれを定め、一座で十一月に初めて興行するこ
とをいう。東京の歌舞伎座、京都の南座、名古屋の御園座
などいまでも大変な人気だ。若竹同人でつい先月急逝した
成瀬早苗さんは大歌舞伎にゆかりの人で、父親の豊澤重松
さんは市川団十郎一座の囃方の中心で、三味線の名手中の
名手。松尾賞なども受賞していた。富田潮児は鳴り物が大
好きで、重松さんの太棹の演奏を何度か聴かせていただき
大喜びだったことが懐しく思い出される。
ところで掲出句は「教へ子と見る」がポイントで、先生
と教え子との間柄が、年齢を重ねるにしたがって師弟では
なく友人に近づいてくることを暗に伝えていてほほえまし
い。そして、すっかり友人になってしまったというのだろ
う。そして、それもまた嬉しく楽しいことなのだ。
文化の日父の歩幅で見ゆるもの     鈴木 帰心
帰心さんは何はさておき親孝行である。親孝行であると
いうことは単純に親と子、つまり肉親であるゆえにと単純
にくくってしまうのは、実体にそぐわない。父親、鈴木い
はほさんは多くの若竹同人、会員に慕われている。そうい
う父親を尊敬すると同時に、そういう父親の生き方に学ぼ
うという強い思いがそこに流れているからこそ心地よい。
十二月号「同人13人が選ぶ、若竹この一年の成果」で多く
の同人が帰心さんの句を選んでいる。
若き日の父の句帖や文化の日
漱石と同じ背丈と知る小春
「父の歩幅で見ゆるもの」つまり、父親の歩幅と合せる
ことで見えるものがあるのではないか、という思いである。
それは父の生き方を自分なりに問うてみようということで
もある。
遺跡いま埋め戻されて蛇穴に     石崎 白泉
工場建設などで、遺跡などにぶつかると、工事は直ちに
中止されることになっている。そして、慎重に発掘調査が
行なわれ記録される。特別に重大な発見があった場合には
工場建設が中止されることもある。だが多くは調査のあと
埋め戻されるが、この埋め戻すという作業が遺跡の保護に
最も有効な方法なのだそうだ。「蛇穴に」と蛇は遺跡の埋
め戻しに呼応するように穴に入り、冬眠する。遺跡ととも
に、あるいは埋蔵文化財とともに。
蓮の実を手に遊ばせて蚤の市     加島 照子
木の実、草の実の中でも、蓮の実は最も原初的なものの
ように私には思われる。子供の頃、蓮の実をおやつとして
よく食べたせいかもしれない。「蚤の市」は別に「ぼろ市」
あるいは「我楽多市」などと呼ばれて、掘り出し物を見つ
けることもあれば、全くのがらくたを掴まされることもあ
る。これが蚤の市の面白さなのだから何とも楽しい。「蓮
の実を手に遊ばせて」が微妙な措辞で、蓮がいつも仏たち
と一体のところに多く存在するという日本の文化がこの句
を微妙に面白くしている。
神迎へとも畳屋の招き猫     田口 風子
神迎えをする招き猫。この展開が何とも面白い。俳味と
はこういうことだと真正面から突きつけてくるようだ。そ
ういえば畳屋には招き猫が似合うし、よく置かれているよ
うな気がする。
箪笥にも下駄にもならず桐一葉     村上いちみ
「桐一葉日当りながら落ちにけり 虚子」の句が、その
後俳人たちに「桐一葉」という季語を使つて詠むことをた
めらわせている節がある。久しぶりの「桐一葉」だ。その昔、
女の子が生まれるとその子がお嫁に行くときに箪笥を作っ
て嫁入り道具にしようと庭内や近所の氏神様に土地を借り
て桐の苗を植えたものだ。ところが、十八年や二十年では
なかなか箪笥を作れるほどの大きさにならない。いや、な
るという人もいるので断定的には言えないが。「桐一葉」
は初秋の季語。桐の大きな葉が他の樹木に先がけて落ちる
ことをいう。大きな葉はゆっくりとゆったりと地上に落下
する。掲出句は「ならず」がほどよい俳味になっている。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十一月号より)


秋澄むやビルに足場の影混みて     工藤 弘子
建設現場の景ながら、そこに工事の騒音は聞こえず、むし
ろモノクロの静かな世界を感じます。組まれた足場にくっき
りとした影を落としている、何本かの直線。「秋澄む」の季
語が静謐さをもたらし、さらに「影混みて」の確かな描写に、
大気の澄んだ秋の一景が立ち上がります。
秋暑なほ庭師饗庭の塩を持つ     酒井 英子
はじめ「饗庭」から近江、饗庭氏(「故郷の廃家」の著者)
に関係した所と思いましたが、吉良町の地名。饗庭塩(あい
ばじお)として塩田製法が受け継がれている土地でした。秋
暑の中、戸外での作業は水分塩分補給が欠かせません。伝統
製法に基づく塩なら、きっとミネラル分も含まれているはず。
格調ある調べに、職人のもつ気質や郷土への思いを感じます。
捨て生えの朝顔日々を絶えず咲く     高橋 冬竹
今年の暑さはいつまでも長く、朝顔のこぼれ種が、十月半
ばまで拙宅の庭にも咲き続けていました。直径、数センチほ
どの小さな花。きっと作者も私と同様、目にした朝顔に元気
を貰っていたのではないでしょうか。自力で咲き継ぐ朝顔の
もつ命の逞しさ、健気さに心を動かされたのだと思います。
牛乳に落とすシナモン九月来る     服部くらら
一読、白い牛乳に茶色の粉がぱっと散って浮かんでいる様
子が見えるようです。「落とす」「来る」という動詞に、逆に
そこからシナモンの香が立ちのぼってくるようにも感じま
す。まだまだ暑いとはいえ徐々に凌ぎやすくなって、落ち着
いた心もちでなにか、事に臨めそう。そんな九月がやってき
ます。
入浴券栞にしたる月夜かな     荻野 杏子
本、小雑誌、或いは日記でしょうか。栞として挟んだのは、
入浴券。一枚の紙きれなのに、何だか湯上がりの心地よさが
呼び起こされ、柔らかな月明かりとも呼応しているかのよう
です。なんとも艶やか、麗しい今宵の月です。
倚りかからず生きる強さよ秋ともし     池田あや美
かつて岩瀬文庫で展示されていた、茨木のり子の椅子を見
たことがあります。権威や既成概念を退け、「倚りかかると
すれば それは 椅子の背もたれだけ」という矜持。そして
鮮烈なる「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」。
流される日々に、ふと自らを省みる「秋ともし」です。
門前にむかし小鳥屋ことり来る     三矢らく子
前に取り壊した山の家に、「西尾市中町鈴木まさよし」と
記名された鳥籠がありました。土地も名字も特にゆかりはな
いので、長い間ずっと不思議に思っていましたが、この一句
で思い当たりました。かつて西尾の中町には小鳥屋があった
のだそうです。小鳥屋の遠い昔も今も、小鳥は変わらずやっ
てきます。ひらがなの「ことり」がやさしい音の響きのよう
で、奥三河と西尾の線がつながり、ことりと腑に落ちました。
根笹の紋掲げ九月の礼拝堂     清水みな子
上州吟行で訪れた安中市は、新島襄の出身地。安中教会は
大谷石による石造りの壮麗な建築で、正面玄関には新島家の
家紋である根笹のレリーフが飾られていました。格調高い句
の調べもまた、堂々たる外観にふさわしい、挨拶の一句。
音は魂澄みてフジコの「カンパネラ」     阿知波裕子
「少しくらい間違えたってかまやしないわ。」そうつぶやく
フジコの日本デビューは、二十年ほど前。その壮絶とも数奇
ともいえる人生に、当時資料を集めた記憶があります。バー
ンスタインに認められながら、リサイタルの直前、極寒極貧
による難聴となり、デビューを果たせなかったフジコ。顧み
て「悪魔よ、悪魔がいるのよ」と語っていましたが、今では
日本を代表する人気ピアニストの一人です。超絶技巧の「カ
ンパネラ」は幾多の苦難を乗り越え「音は魂澄みて」の境地。
好物をととのえくれし敬老日     鈴木 里士
それは何よりの敬老日。自分の好みをわかってくれる人が
いて、きちんと用意してくれる、それこそ最高のお祝いです。
人に恵まれていることは、きっと何よりの財産と思います。
残業の子を待つ庭や月明かり     小川 洋子
月明かりに照らされた庭の縁台にでも座っているのでしょ
うか。しみじみとした「庭」の心地よさが伝わります。仕事
に精一杯励む子と、その帰りを待つ、この時間と空間に充ち
足りた心持ちも窺えます。今、ここ、母としての一句。
われにまだ残る未来や鰯雲     廣澤 昌子
作者の年齢は存じ上げませんが、まだまだやれそうな明る
い明日を感じます。未来への前向きの姿勢。人生百年時代、
心の健康年齢も伸びる、美しい鰯雲の広がる秋の空です。

〈訂正とお詫び〉十二月号「竹林のせせらぎ」
犬塚房子→犬塚玲子でした。訂正してお詫び致します。

一句一会    川嵜昭典


子を先に歩かせてゐる夕涼み     津川絵理子
(『俳句』十一月号「練習船」より)
普段生活するような住宅街では、小さな子を先に歩かせる
というのは勇気のいることだ。夕方の、少し気を抜いてもい
いような時間帯に、頃合いを見計らって子を歩かせる。それ
だけで、子と親らの間には、まさに「夕涼み」と呼べるよう
な優しい時間が流れる。
猫じやらし道を一本違へけり     甲斐のぞみ
(『俳句』十一月号「藩主の間」より)
正しい道を通っても猫じゃらしはあるのだろうが、すんな
りと正しく目的地に行ってしまったときには、きっと周りに
ある猫じゃらしには目が留まらない。むしろ間違えてしまっ
たからこそ猫じゃらしのような、普段は目にも留めないよう
なものに心が動く。そして親近感がわく。普段生きていく上
で、進むべき方向を少し違えてしまったようなときにも、意
外と面白い気付きがある。面白がれるのが俳句のいいところ
だ。
遠雷や並木の一本目の細さ     髙勢 祥子
(『俳句』十一月号「地下通路」より)
外で遠雷が鳴るのを聞くと、不安定な気持ちになる。まだ
大丈夫という安堵と、早く帰りたいという焦りと、近づいて
くる不安とを抱えながら歩く。そして少しでも気持ちを寄せ
られるような建物や物影が欲しくなる。掲句は、そんな状況
で、心を寄せられると思った木が、予想に反して細かったの
であり、作者の不安は更に増す。一方で、そんな木に、どう
も引っ掛かるものも感じたのだ。それは、木も自分と同じよ
うな気持ちになっているのではないかという同情心でもあ
り、また、仲間を見つけたという安堵でもある。何気ない暮
らしの中でのちょっとした引っ掛かりから俳句が生まれる。
冬落暉巨船のみこむところかな     間中惠美子
(『俳壇』十一月号「琅玕色の沼」より)
俳句を読んでいて、大きな景を詠んでいる句に出会うこと
は、俳句を読む醍醐味の一つだ。作者の個性があるので、大
きな景の句、身近な、小さな景の句、読んでいてそれぞれに
面白さが違うが、それでも大きな景をゆったりと詠み込んで
いる句というのは、読者側もゆったりとした気分になる。掲
句の、人間から見れば「巨船」と感じる大きなものを、やす
やすと飲み込む冬落暉というのは、それだけで自然の大きさ、
地球の大きさを感じさせる。同時に、十七文字でこれだけの
大きなものを表現できる俳句という形式に、改めて感嘆させ
られる。
切ればその名残りのいろぞ冬瓜は     佐藤 麻績
(『俳壇』十一月号「一緒にあゆむ」より)
好きな人にはもちろん、冬瓜と言えば料理が一番なのだろ
うが、包丁を入れる前の、丸く不貞腐れたような姿には、や
はり捨て難い魅力がある。転がっているさまを愛で、重さを
愛で、形を愛で、色を愛で、えいやっと包丁を入れれば、た
ちまちに冬瓜の愛嬌のある姿が消えてしまうかのような感覚
は、他の野菜ではなかなか味わえない。これほど人間臭い野
菜も稀かもしれない。掲句は、切ってしまった冬瓜を「名残
りのいろ」と表現し、後は調理されるがままの冬瓜の、どこ
となく哀愁を帯びたさまを詠んでいる。妙な親近感を味わわ
せてくれる句だ。
竜淵に潜むと双の髭しなやか     檜山 哲彦
(『俳壇』十一月号「脚嘴せはし」より)
竜は霖旱を支配すると言われる。霖は雨、旱は日照りのこ
とで、雨と日照りを操ることができるということだ。そして、
その竜には、「春分に天に昇り、秋分に淵に潜む」という言
葉もある。春分に田に水を満たして稲作の準備を始め、秋分
になると田から水を落とし、稲の収穫ができるのも、雨と日
照りを操ることができる竜のおかげということなのだろう。
作者は、その竜が淵に潜むころ、その竜の髭が「しなやか」だ、
と感じたのだ。つまり、今年も無事に稲の収穫が終わり、ま
たとない実りある秋が訪れたということだ。そしてそこには、
爽やかな風も吹いていただろうことが、その表現から想像で
きる。「竜淵に潜む」はもちろん想像上の季語だが、その想
像上の季語から確かな実感のある句が生まれている。
風の盆だな山手線とろとろまはる     小川 楓子
(『俳壇』十一月号「まはる」より)
風の盆を詠んだ句はいくつもあるが、掲句は、目の前で行
われる風の盆を詠んだのではなく、東京で詠んだ句。それは
例えば、故郷を離れた人が、いつもの忙しない生活の中でふ
と風の盆を思い出し、懐かしく思う、そんな情景だろう。風
の盆そのものは目の前で行われていないとしても、その人が
そのときに感じた風やざわめきは、直感的に風の盆と結びつ
いたのだ。「とろとろまはる」に、そのときだけはいつもの
忙しさから脱却して、ゆったりとその景や時間に浸る、そん
な感慨を感じる。