No.1055 令和2年3月号

桑解くや頬を打ちたる枝力  うしほ

乾坤院涅槃会
陰暦 2 月15 日は、釈迦入滅の日。その 1 ヶ月遅れの 3 月15 日に近い日曜日に知多郡東浦町の乾坤院では、涅槃会が行われる。乾坤院の涅槃会は特に盛大で多くの参拝者が訪れる。参道には多くの露店が並びたいそうな賑わいも見せる。もちろん、この時にしか見られない涅槃会のお開帳が見られる。所在地・知多郡東浦町大字緒川字沙弥田 4 。武豊線緒川駅より徒歩15 分。問合せ・☎ 0562-83-2506 乾坤院。 写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


綿虫のゆつくり飛んで真日に入る
清張を読んで時雨るる窓に寄る
寒替りたり十余枚干鰈
風花や僧が出てゆく発心寺
御霊屋の裏は椎の木笹子鳴く
堰落つる水音優しく猫柳
湖に向け開く大扉や春の鴨
前田孝二君逝く
孝ちゃんの声耳朶に憑き梅二月
二十六聖人祭(二月五日)
保武の祈りが聞こえ致命祭
信篤き人こそ男瓢々忌
士郎忌の閻魔やさしき目を持てり
御殿雛組む豪商の勘定場
市川と呼ぶ梅茶屋や味噌おでん
足助には蔵持ち多し古代雛
畑中に小さき工房土雛
はこべらや蛸壷を積む船溜り
葦牙や艪音心の凝りほぐす
豊田
守綱の裔とや梅の一枝持つ
老僧の藩祖を語り梅二月
鐘楼に高き階あり梅の風

真珠抄三月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


お揃いでありし湯湯婆一つ出す     岡田 季男
定位置に仕舞ふ漆器や松納       新部とし子
日蝕を見そこなひたる時雨かな     堀口 忠男
二駅で夕日なくなる枯野かな      中井 光瞬
寒月の心の隙間見逃さず        堀田 朋子
負けん気の子の二人ゐる絵双六     田口 風子
小三治を聞きて年暮る池の端      市川 栄司
歌かるた姫と坊主と偉い人       荻野 杏子
はふることできぬ軽さに冬の蝶     大澤 萌衣
男らのエプロン厚地大根切る      鶴田 和美
冬日さすどれも無人の観覧車      鈴木 恵子
訃を悼む寒中見舞書き終ゆる      荒川 洋子
二日はや暮れてしまひぬ酒を出す    川嵜 昭典
何も見ず何も聞かずに海鼠かな     鈴木 恭美
集落があれば墓あり冬の梅       酒井 英子
それらしき風となりたり小晦日     阿知波裕子
疲れたとつぶやいてゐる年の暮     磯貝 恵子
聖夜間近やゴスペルを教室で      鈴木 帰心
口中に白子の甘味年酒受く       天野れい子
駅伝の敗者を讃へ明の春        工藤 弘子
初旅の戸惑ひ特急の遅延        奥平ひかる
どんど待つ新陰流の発祥地       春山  泉
いつもの時間に宅配の来る大旦     山田 和男
買初にきれいな花の絵蝋燭       川端 庸子
人日や生命線の筋なぞる        鈴木 玲子
登り窯今もそのまま菜花咲く      桑山 撫子
松過ぎて隣家の主婦はジーパンに    奥村 頼子
綿虫の綿より小さき銀の翅       高柳由利子
大江戸に小判を降らす初芝居      白木 紀子
ポインセチア親指ほどのサンタ置く   神谷つた子

選後余滴  加古宗也


男らのエプロン厚地大根切る     鶴田 和美
あっという間に〝河馬の和美さん〟という呼び名が定着
した鶴田和美同人だが、次に男の料理がじつは得意、と思
わせる俳句が登場してきた。以前から百姓が得意といおう
かライフワークであることを洩らしていたが、今号にはズ
バリ《大根引き農事暦の染む身体》の俳句が出てきて、そ
の尋常でないことを明らかにした。つづいて、収穫した大
根をじつは料理するのだ。いや料理が得意なのだと告白し
ている。かつて男の料理教室というのがあちこちで開講さ
れて、ちよつとしたブームの時代があつたが、本来、男は
料理好きではないかと私は思つている。「エプロン厚地」
によつて和美同人の料理への入れ込みとキャリアが見えて
くる。そして、男の料理は少々乱暴であることを白状して
いる。
冬日さすどれも無人の観覧車     鈴木 恵子
朝日カルチャーセンター名古屋校で講師をするように
なってから早いもので三十年を超えた。その栄教室はマル
エイ・スカイル十階にあり、その教室の窓から観覧車がま
ともに見える。観覧車の中を覗くのにもちょうどよい高さ
のためもあって、ついつい教室のことを忘れて、そちらを
見てしまう。そして、掲出句を見たとたんに「どれも無人の」
が確信となった。冬日が当ってきらきら光ってはいるが確
かにどこにも人が乗っていないのだ。やがて本格的な春が
やってくると恋人たちと家族連れが観覧車の多くを埋め
る。
負けん気の子の二人ゐる絵双六     田口 風子
絵双六は複数の人が、さいころの目の数だけ前に進め、
早くゴールにたどりついた人が勝ちというのが普通だ。さ
いころを振るたびにおのずと振る人も参加者もエキサイト
するが、負けん気の子がいればいるほどエキサイトの度合
が高くなる。二人いればいよいよ高くなり、周囲まで思い
きりエキサイトしてくるものだ。「二人」が過不足ない人
数といえようか。
大江戸に小判を降らす初芝居     白木 紀子
作者は芝居ものの題材を得意としているが、しばらく低
迷をよぎなくされていた。それは、あまりにも素材に馴れ
過ぎたからだろう。ところが、今回、見事にクリーンヒッ
トを打ってきた。掲出句も、芝居の面白さを素材のまますっ
きりとつかみ取っている。作者は無論のこと読者も舞台に
飛び出していって小判を拾いたくなるような迫力がこの句
にはある。
何も見ず何も聞かずに海鼠かな     鈴木 恭美
海鼠には目もなければ耳もない。したがって何も見えな
いし聞えることもない。かといって何ら苦労しているよう
にはとても思われない。村上鬼城の句に《何もかも聞き知
つてゐる海鼠かな》があり、富安風生に《何も彼も知つて
をるなり竈(かまど)猫》がある。ちよっとしたことであ
たふたするのは小心のせいかも知れない。
駅伝の敗者を讃へ明の春     工藤 弘子
作者の住む群馬県前橋市では正月一日、実業団の全国駅
伝大会が開かれる。駅伝は日本だけで行なわれるスポーツ
らしいが、長距離走でありながら一人で走る競技ではなく
何人かの選手が襷をつないでゆき、そのトータルで競われ
る。この〝襷をつなぐ〟というところがいかにも日本的と
いうものなのだろう。個人のタイムだけにこだわらず、そ
の努力、頑張りを讃えるというところが日本的で、駅伝が
愛されるゆえんなのだろう。「敗者を讃へ」ることも当然、
日本人的美学なのだと思う。
定位置に仕舞ふ漆器や松納     新部とし子
漆器は日本人の生み出した工芸品として世界に誇るもの
で軽くて美しい。しかも、古くなればその上から塗りを加
えてやれば見事に再生され、しかも長持ちする。漆工芸の
ことを「ジャパン」と外国人が呼ぶのは、日本の工芸品の
中でも突出した美を外国人が感じるからに違いない。一つ
の物を作り上げるのに何回もの行程があり、たいへんな時
間がかかる。ゆえに高価にならざるを得ない。何かお祝い
事があれば使うが、さもなくば大事に納戸にしまわれる。
この句「松納」という季語が心地よく決まっている。
人日や生命線の筋なぞる     鈴木 玲子
年を取るにしたがってだんだん生命線のことが気になりだ
す。つまり、寿命のことだが、私は寿命は寿命であって、残
生を気にすることはかえって長寿をさまたげるのではない
かと思っている。富田潮児は百二歳まで現役俳人をつづけ
たが潮児の坐右銘は「生涯現役」だつた。実際、年のこと
を口にすることはなかつたし、いつも前向きな話題を絶や
すことはなかつた。作者は生命線のことがちよっと気になっ
たというのだろうか、余り気にするのはかえってよくない。
ちなみに、私の生命線は極めて短かく、手のひらの真ン中に
も達していない。にもかかわらず体調は快調そのものだ。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(一月号より)


白鳳の破顔九州場所おわる     濱嶋 君江
十一月の九州場所は横綱白鳳の優勝で幕を閉じました。以
前は搗ち上げ等、取沙汰された白鳳ですが、やはり堂々の実
力者、一年最後の本場所はにっこり笑顔でおさめました。白
鳳が胸を貸す、同門の炎鳳は動画再生回数一位の人気ぶり。
好角家ならずとも、近頃の小兵の活躍には胸が躍ります。
脚立売り軽トラでくる十二月     桑山 撫子
十二月という月のあれこれを含んだ季語と、釣り合う重さ
の内容の上五中七。拡声器でご近所をゆっくり回る軽トラの
光景が目に浮かびます。家の中の諸事の慌ただしさに、町の
喧噪を含んで、十二月を象徴するかのような作品です。
金秋やクリムトの絵の怪しき眼     嶺  教子
五行説の金は秋にあたることからの「金秋」。クリムトの
多用する金の彩色が呼び起こされます。着衣は、いつも素肌
に一枚だけだったとか。華麗で甘美な雰囲気の絵が多く、そ
の極みは官能的であやしい眼に集約されていくようです。
空海の風信帖や初しぐれ     髙橋より子
「風信帖(ふうしんじょう」とは、空海が最澄に当てた尺
牘(せきとく、手紙のこと)三通の総称をいうのだそうです。
平安時代高僧から高僧へ、しかも弘法大師の名筆になる書状
です。しかしその後、最澄とは袂を分かつことに。降ったり
止んだりの定めない、しぐれの季語が光る、取り合わせの妙。
花石蕗や固い握手で別れゆく     浅岡和佳江
花石蕗の黄色の鮮明さは、固い握手の絆の強さ。この別れ
がたくも潔い別離に、印象的な花石蕗は相応しく、寒い冬を
永く咲く花に、再会を期する思いも託されているのでしょう。
凩や板戸くるりと忍者消ゆ     稲垣 まき
地上の物を吹きさらっていってしまう凩の一陣と、いま目
の前にいた忍者を消してしまう、からくりの一瞬。そして凩
が吹き過ぎ、板戸が閉まれば、また元の静けさに戻るのです。
嚔して玻璃戸なかすは父ゆづり     鈴木 玲子
ちょっと可笑しくて、ちょっと切ない。住み慣れた家屋を
通して父上と暮らした、かつての日常が偲ばれます。遺伝子
を正しく引き継いだ作者の、壮大なる嚔。この上質の俳味。
婚六十年二人三脚草の花     村上いちみ
結婚記念日として最長の、めでたいダイヤモンド婚。ンの
弾む音も数字の並びもたのしく、最後はつつましくかわいい
「草の花」に帰着します。手堅く幸せな人生をこれからも…。
冷まじや焼け跡歩く消防士     斉藤 浩美
焼け跡の荒涼たる中を、職責を全うするが如く歩き検分す
る消防士の姿が浮かびます。白々とした冷たさと目にした凄
まじい光景が相まって、作品を揺るぎないものにしています。
柚子は碑に矜持は胸に農一生     犬塚 房江
句碑の前は勿論、自ら採った柚子を句座にも山盛りにされ
た作者。採りたての柚子は、胸の矜持の如く鮮やかで芳香を
放ちます。対句構成のリズムも快い、三和句碑まつりでの吟。
山霧や良き声の人現るる     水野由美子
霧で奪われた視界の中、まず声が聞こえそれから姿が現れ
たのでしょう。山への畏れや霧に閉ざされた不安感が募る中、
良き声の持ち主登場。安堵しつつも霧が呼んだまれびとかも。
夕焼けに十七階へボタン押す     岩田かつら
夕焼けの、空の火照りにただ圧倒されて、またはその美し
さに近づきたくて、高層階へボタンを押したのでしょうか。
或いは対峙せんとして。中七は「十七階の」ではなく、動き
のある助詞「へ」。全ては大いなる夕焼けの為せること。
頬撫づる金風目に見えぬ金風     加島 孝允
五音四音、五音四音の対句として読むのが、句意にも適う
ようです。「目にはさやかに見えねども」の歌も想起され、畳
みかける心地よいリズムに、秋の風の爽やかさが伝わります。
秋惜しむ夜はライブの半六邸     山田 和男
半六邸とは半田にある江戸時代栄えた海運、醸造業の名家。
中七の措辞に、去りゆく秋を惜しむ情感が、今のこの場を踏
まえ、ライブの夜へむけて、ゆったりと伝わります。
草の実や脳の喜ぶ観察会     平野  文
「脳の喜ぶ」とは?何となく活性化されるような良い感じ
がします。小さくて形も様々な「草の実」と脳の働きを適度
に刺激する観察会。様々に感じ考えるのもきっと脳が喜ぶ?
魚歴書のゆるいコメント秋うらら     浅野  寛
魚歴書とは魚の履歴書。集客のために竹島水族館が、独自
に作ったプレートだそうです。頑張りすぎない脱力系が注目
される昨今、ゆるい手書きポップは、まさに「秋うらら」。

一句一会    川嵜昭典


付箋林立あらたまの年のはじめ     池田 澄子
(『俳句』一月号「あるとき」より)
年末年始の切り替わりの気持ちが徐々に薄れていくような
今の世の中だけれども、それでも一年の初めだけは、ゼロか
ら気持ちを新たにしたい、と思う。そんな矢先に、昨年から
残ったままの、やるべきことだけは、既にいくつもある。こ
れを落胆と取るか励みと取るかは人それぞれだろうけれど
も、「あらたまの」という枕詞からも分かるように、やはり
掲句は、やるべきことを励みとし、一年を新鮮な気持ちで迎
えているのだろうと思う。「林立」という言葉が、年が改まり、
背筋が伸びているような印象も与える。やるべきこと、仕事
があるということは、それだけで人を前向きな気持ちにさせ
る。
京の菓子と有田の蜜柑初句会     岩田 由美
(『俳句』一月号「有田の蜜柑」より)
「京」「有田」という固有名詞が効いている。おそらく初句
会ということでもあり、さまざまな地域から俳人が集まった
のだろう。そのときに選ぶ手土産は、新年だからこそ、自分
の土地の産物を選ぶこととなる。京、有田、という言葉自体
の華やぎとともに、各地からの人という華やぎも加わり、色
彩豊かな句となっている。
持ち古りて全集残る漱石忌     高橋 悦男
(『俳句四季』十二月号より)
全集というものに弱い。私も家にいくつか全集があり、絶
対に読もうと思っているけれども、本当に死ぬまでに読める
かというと自信がない。そのうえ、新しい全集が刊行された
となると購入を検討してしまう。おそらく全集というものの
魅力は、そこにその著者の知の、仕事の体系があるというこ
となのだろう。もちろん全て手に入れたいというコレクショ
ン的な要素もある。掲句は、手元の、おそらくは漱石全集を
ほとんど開かぬまま月日を過ごしたという自嘲的な意味合い
に取れる句だが、一方で、人は死んでしまっても、全集は、
つまり漱石の仕事は残っていくという意味にも取れる。俳人
にしても、本人は死んでしまっても、句は残る。『こころ』
では、「記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たの
です」という一節があるが、まさにそんな風にして、書き残
したものは残っていく。それはその人が生き続けていくとい
うことと、ある意味で同義である。
釘箱の重さ残暑の重さかな     吉田 篤子
(『俳句四季』十二月号「霧の家」より)
「釘箱」というのは、おそらく、夏の間に何かを作ろうと
思いながら作れなかったものの名残りだろう。そして、それ
はそのまま心理的な重さとなり、「残暑の重さ」として心に
引っ掛かる。心理的な負担を物質に託し、かつ、夏という季
節を、無機質で冷たい釘の質感で表現することがとても新鮮
だ。
木犀や明日は解体する生家     金井憲一郎
(『俳句四季』十二月号「皿洗ふ」より)
全てのものにいつかは終わりが来る。そうとは分かってい
ながら、実際に終わりが来ることは、普段は考えもしない。
今日まではいつものように生家があって、明日になれば無く
なってしまう、ということを今日、この時点で、生家を目の
前にして考えるというのは不思議な気持ちだろう。その不思
議さに拍車をかけるように、金木犀の香が、ほんのりと揺ら
めく。それは作者を思い出の世界に連れて行く。
罵りの語彙の豊かに秋扇     仮屋 賢一
(『俳句四季』十二月号「手を洗ふ」より)
「罵りの語彙」が「豊か」という表現が、とても意表を突
いている。そして、それを受ける「秋扇」という言葉が、そ
の人の人となりを表し、その人が目に浮かぶようである。きっ
と罵られた人は、憎々しく思いながらも、どこか心の底で憎
み切れず、しょうがない人だなあと笑っているのだろう。ま
た、最近は何でも簡素化し、言葉遣いや表現も簡単に、分か
りやすく表そうとする傾向があるけれども、そうなるとそれ
ぞれの言葉の、微妙な差異に気付かなくなってしまう。そう
いう意味でも掲句の秋扇の人は、その微妙なニュアンスを巧
みに駆使しながら、今日も罵ることにいそしんでいるのだろ
う。俳味豊かで、想像が広がってしまう。
西瓜割る心の中で割つてから     西生ゆかり
(『俳句四季』十二月号「西瓜割り」より)
確かに、と膝を打つ一句。西瓜割りをするときは、恐らく
人々は遍く、その成功を心の中に描きながら西瓜へと進んで
いく。そのときの心の中の、綺麗に割れた西瓜と、現実に割っ
た、もしくは割ることのできなかった西瓜との差異に、大抵
はがっかりするものだが、そのがっかりをまた笑顔で受け入
れることとなる。そう考えると、西瓜割りというのも、非常
に哲学的な、ある意味で人生の縮図のような気さえしてくる。
普段気にさえしていないことを気付かせてくれる句。