No.1062 令和2年10月号

井垣清明の書1

求 精

釈文
精(精巧・精緻)を求む
(『論語』学而第一・朱熹集注)

 

 

流 水 抄   加古宗也


蜂屋柿参道に売る結願寺
短日や長き影持つ百度石
日いよよ短かごろごろ後生車
結願の柱の鯉に触れて冬
雀来てをり冬日さす長庇
短日や足元ばかり見て下る
霜晴や古代瓦に刀一字
陶片は奈良三彩や小春凪
神旅にあり塔芯の根巻石
落葉吹き溜る廃寺の塔心礎
大基壇ま青に囲み冬蓬
国分寺跡とや時雨虹かかる
神旅にあり叩き弾く津軽三味
落葉踏みたくて上りし女坂
落葉坂来て北條の三つ鱗
裸木の高きに巣箱らしきもの
木枯や段戸の裾に水の神
寄鍋や少し辛目の三河味噌
粕汁や少し厚目に鮭を切る
椎の実の音たてて降り高家の忌
同人会長・牧野暁行氏
令和元年十二月六日逝く 享年八十七歳
生涯を和に生きし人日向ぼこ

真珠抄十月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


剣豪の木刀軽し梅雨晴間        山田 和男
原爆忌広島の児の意志強き       阿知波裕子
神輿渡御強訴のごとく街を練る     市川 栄司
手渡されそのあと困る蟬の殻      堀田 朋子
足輪付け巣立ち間近き鸛        堀口 忠男
蟬時雨止み一瞬になごむ村       鶴田 和美
鯖鮓や口に広ごる利尻昆布       渡辺 悦子
新道の果て引き返す散水車       長村 道子
梅雨の夜や教祖のやうなリハビリ師   山科 和子
背高泡立草駅までが遠い        大澤 萌衣
夏の川坊主頭の地元の子        田口 綾子
がちやがちやと汲んでたつぷり墓洗ふ  岡田 季男
生コンを打ちて親方三尺寝       関口 一秀
トンボ玉づくり見てゐる避暑の昼    白木 紀子
炎昼やコンコースには駅ピアノ     髙柳由利子
リビングに大きな簾吊しけり      鈴木美江子
振返る鴉に余裕大暑来る        成瀬マスミ
秋燕や七里飛脚の役所跡        石崎 白泉
秋立つや脇にたばさむ本の嵩      深谷 久子
俳誌曝すおほかたは父のもの      鈴木 帰心
西日さすチャペルの椅子に✕印     鈴木 玲子
記念樹と名札つけられ山法師      和田 郁江
白南風やトロ箱たてて終る市      村重 吉香
空蟬の六肢に残る力かな        髙橋まり子
患者等を元気付けいし大夏木      高相 光穂
鳰潜く二百十日の貯水池        田口 風子
堂涼し千手千眼光る闇         渡邊たけし
向日葵や織田幹雄が得た金メダル    竹原多枝子
ちょい悪の爺のハーレー青田道     加島 孝允
帰省子に馴染の店のナポリタン     天野れい子

選後余滴  加古宗也


原爆忌広島の児の意志強き         阿知波裕子
昭和二十年八月六日、アメリカ軍のB29から、広島市に
原子爆弾が投下された。一発の原爆によって約七万人とい
う人々の生命が一瞬にして奪われた。そして、わずか二日
をおいて九日、長崎市に再び原爆が投下されている。原爆
による直接被害だけでなく、原爆症による死者はその後も
続き、数十万人の死者に及ぶといわれている。毎年八月六
日には、広島の平和公園で、式典が開かれている。その席上、
広島の中学生による作文の朗読があり、今年も国民の多く
から共感の声が寄せられた。広島の子供たちの平和を希求
する心が、全国民の心を強く打った。それは政治家たちの
優柔不断な態度に対する強烈な批判であり、平和希求への
強烈なメッセージでもあった。
新道の果て引き返す散水車         長村 道子
今回は散水車の連作で、その軽快な詠みぶりがまず心地
よかった。道子さんの持味といっていい。掲出の新道の句
などは何ともいえないユーモアすら感じられて、いよいよ
楽しい一句になっている。大型散水車のあの動きの面白さ
も過不足なく描写されている。
梅雨の夜や教祖のやうなリハビリ師     山科 和子
リハビリ師とはそもそも患者に信頼される存在でないと
いけない。そこで「教祖のやうな」と言ってのけたことに
まず敬意を表したい。そういえば「信じる者は救われる」
という言葉もあった。
涼しさは奥より来たり多度の山       田口 綾子
多度神社は作者の住む桑名市にある。伊勢神宮・明治神
宮・熱田神宮といった権威を背負った大社と違って、どこ
かゆったりとした雰囲気をいつもかもしている。先年訪ね
たときには野猿が数匹、神殿の上を散歩する姿を見ること
ができた。何しろ、ゆったりとした余裕を感じさせてくれ
るのがうれしい。そんな雰囲気が自ずと「涼しさは奥より」
という的確な描写になった。
剣豪の木刀軽し梅雨晴間          山田 和男
「剣豪」といえば豪傑というイメージを持つ。大男で力
瘤が見事に盛り上がり、立派な髭をたくわえている、とい
うイメージだ。作者はたまたまその剣豪が使ったという木
刀に触れる機会を得たのだろう。握った木刀で素振りをく
れたところ、じつに軽い。先入観が真正面から打ちくだか
れた瞬間だ。多くの人間が先入観で生きているようなもの
だ。例えば教養というものもそうで、教養で武装すること
で生き方に自信を持っている。掲出句の「木刀軽し」はそ
の真逆のカルチャーシックだ。
がちやがちやと汲んでたつぷり墓洗ふ    岡田 季男
「がちやがちや」というのは水道が十分に普及しない頃、
井戸に組みつけられたもので「がちやぽん」などとも呼ば
れた手漕ぎの井戸ポンプだ。古い田舎の寺、あるいは共同
墓地などでいまも時折り見かけることができる。盆の墓参
りの折りに触れたがちやぽんが、何とも懐かしく楽しく
なっている作者だ。水をたっぷり使って、墓をしっかり洗
う前に、水を汲むことを楽しんでいる作者だ。
神輿渡御強訴のごとく街を練る       市川 栄司
「神輿渡御」とは簡単にいえば、お御輿が街をワツショ
ワツショの掛け声とともに練り歩くことで、法被と白足袋
という若衆の姿も格好よく祭の人気イベントの一つだ。こ
の句、「強訴のごとく」が意表を突いている。為政者に対
して徒党を組んで批判することで、かつて百姓の生きるた
めの最後の手段だった。祝事に対して負のイメージの言葉
を比喩として使っているが、掛け声をあげながら激しく練
り歩く姿は「強訴」というイメージとぴったり重なる。
鯖酢や口に広ごる利尻昆布         渡辺 悦子
福井県は小浜市を中心に鯖料理が盛んに作られている。
小浜湾に揚った鯖は、俗称、鯖街道と呼ばれる街道を通っ
ていち早く一大消費地京都へ運び込まれる。「鯖の生き腐
れ」という言葉があるように、外目には新鮮そうに見えて
も時に腐っている、などということもあり、そこで考え出
された食材の一つが鯖酢だ。これがうまい。その旨さの源
を調べてゆくと酢とともに昆布味に行き当たる。福井県敦
賀は日本一の昆布の集散地。しかも、日本一旨い昆布とい
えば北海道は利尻産だ。何とも贅沢な鯖酢であることか。
トンボ玉づくり見てゐる避暑の昼      白木 紀子
トンボ玉とはカラフルな硝子細工、それも丸い形状のも
のをいう。蜻蛉の眼に似ているところからその名が付いた。
ちょっとした避暑地には一つはこのトンボ玉を売る店があ
る。ちなみに古墳から見つかったものもあるとか。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(八月号より)


川床料理錫の銚釐を遺影前          酒井 英子
銚釐(ちろり)とは酒をあたためるのに使う、筒形の容器。
熱伝導性がよく、ちろり(ちらり)とすぐにあたたまること
から名付けられたとか。ここでは「川床」から、燗ではなく、
氷につけて冷酒として出されたのでしょう。故人の好きだっ
た京都の夏の風物詩、川床料理と好みのお酒。川床はかわゆ
かと読めば鴨川沿い、かわどこと読めば貴船辺り。どちらで
召し上がられたのかわかりませんが、ご遺影を鞄にしのばせ
京へと向かわれた、そのお気持ちを思います。
遠会釈交はして帰る青葡萄          田口 風子
青葡萄の、熟する前の青みがかった緑色。そこには実りの
ときを待つ清々しい美しさがあります。遠会釈の距離感は心
と心のほどよい距離を暗示させ、あいさつの清々しさも呼び
起こします。静かで穏やかな余韻が広がってくるようです。
火袋に灯が入るまで雨蛙           中井 光瞬
こんなところにという発見。小さな雨蛙にとって、灯籠の
灯をともす所はちょうどよい広さ。でも辺りが暗くなれば、
立ち退かなくてはなりません。「灯が入るまで」に「それま
では居ていいんだよ」という作者の気持ちが感じられ、ほの
ぼのとした情感が伝わってくるようです。
竹皮を脱ぐ寺の鐘よく響く          髙橋より子
皮を脱いだ竹とよく響く鐘との因果関係は、あるようでな
いようで、そこが面白いところ。予定調和はつまらないし、
かといって独断の思い込みにはついていけない。程の良さ。
髪洗ふ百日ぶりの句会かな          濱嶋 君江
コロナの影響でやっと開かれた句会。気分も一新、髪を洗っ
て出席されたのでしょう。久々に出会う句友、懐かしく感じ
る先生の声の響き。句会の楽しさを実感、再確認した夏。
ミサの鐘花アカシヤのゆれ誘ふ        新部とし子
教会のミサの時を知らせる鐘の響きと、アカシアの花の揺
れ。聴覚と視覚でとらえたものが一体となり、詩情を生んで
います。聖なる響きに応えているような白い花の揺らめき。
裏山へつづく裏庭著莪の花          堀田 朋子
たぶんこれは実景。著莪は日陰に咲くも実を結ばず、地下
茎で殖える花。明るい表側とは違う、裏庭から地続きに繋が
る背後の裏山の深さ、そして暗さを併せ持つ山ふところの大
きさ。裏の重なりが暗がりの大きさ、奥行きの深さを感じさ
せ、そこに咲く著莪の花を際立たせています。
さはさはと薫風渡る余呉の湖         石崎 白泉
「さはさは」が何といっても気持ちよい。ここは作者のよ
く詠まれる余呉湖。鏡のような湖面を渡ってゆく風の涼しさ。
佇みて媼の笑顔立葵             中村ハマ子
立葵は子どもの頃、よく畑や庭に見た記憶のせいか、なぜ
か懐かしい感じのする花。媼の笑顔と共に郷愁を誘います。
谷川の水たばしるや花山葵          山田 和男
清冽な水のほとばしる勢い。その勢いに乗って花山葵の花
の白さだけでなく、葉や茎のつんとした匂いも来るようで
す。
六月のクボタ眼科に目のふたつ        田口 茉於
なぜか妙に面白い。六月のある日、ふと目を留めた眼科な
らではの看板。象形文字の目と共にかたかな表記のクボタが、
目の形のデザイン性を想起させます。目の付け所も面白い 。
青蔦の喫茶あの日のジムノペディ       平野  文
遠い青春の一ページのような、切なさを含んだ一句。「ジ
ムノペディ」は作曲家エリック・サティのピアノ曲。ゆった
りと哀愁を帯びた旋律で、引き算の音楽とも。心を落ち着け
るBGMとしても使われています。蔦の青さが、今も色褪せ
ない思い出のようにも、あの頃の若さのようにも。共感の一
句。
図書室にはつ夏の風入れにゆく        山科 和子
図書室は普通教室の並びを考慮し、校舎の隅にあることが
多く、下五の行動はまさに実感。多くの書架や生徒等のため
に通す初夏の風。空気感と共に作者の気力、活力を感じます。
ほやほやの列なす早苗透けて見ゆ       岩田かつら
「ほやほや」が言い得て妙。出来立てならぬ、植えたての
苗の列は、実は所々曲がっていて心細い感じに見えるのです。
教会のドア半開き蟻の道           太田小夜子
働き者の蟻の列が教会の中にまで延びているのでしょう。
厳かな教会のどこかに蟻を誘う蜜が潜んでいるのか、職蟻の
列に信心深い人の営みをみるのか、絶妙なる扉の開き具合。
夏椿咲く静けさや雨後の朝          長坂 尚子
今年は夏椿がよく花をつけてくれましたが、長梅雨でもあ
りました。夜来の雨もようやく上がった朝です。白い夏椿の
清浄さが、しっとりと蕭やかな空気感をもって詠まれました。

俳句常夜灯   堀田朋子


蚊遣してこどもの時に売られしと
醜女にて男つかずと火取虫
あたしや字の書けぬと老妓涼しかり       辻  桃子
(『俳壇』八月号「万太郎書」より)
新内節の老妓を詠んだ三句。新内節とは、浄瑠璃の一流派
で三味線の節にのせ、多くは哀しい女性の人生を歌い上げる芸
能だそうだ。舞台ではなく、花街などの流し(門付け)とし
て発展してきたようで、遊里の女性たちに大いに受けたという。
三句とも、老妓の口をついて出た言葉を切り取るように提
示して句の本幹としている。それに的確な季語を斡旋するこ
とで、句の奥行を深めている。決して幸せとは言えない理不
尽な境遇だが、だからこそ一層、この老妓の新内は人の心に
沁み渡るのだろう。そのことを理解した作者は、安易な同情
心を廃して事実だけを詠まれたのだと思う。俳句は、甘さや
偽善を嫌うもの。三句目の「涼しかり」が作者の得た実感な
のだろう。
青時雨して遺影より肌(はだへ)の香     緒方  敬
(『俳壇』八月号「疫中巷閑」より)
コロナ禍の中、むやみな外出を控えた、自宅での静かな暮
らしが見えて来る。「青時雨」は梅雨でも雷雨でもない、夏
に降る常の雨のこと。戸外は青葉に満ちている。
この遺影は、たぶん奥様なのだと想像する。雨が降り始め
たようだねと、遺影に話しかけるように眼を向けた作者に、
遺影はそのようですねと応えてくれる。そんな在りし日の一
幕を、奥様の「肌の香」を感じさせるほどにリアルに再現さ
せるのは、季語の力ではなかろうか。どこか明るくどこか仄
暗い「青時雨」は、美しい思い出を鮮やかに蘇らせてくれる
季語なのだと思う。
蝶生まれ骨盤いまもシンメトリー       都賀由美子
(『俳壇』八月号「たっぷりと春」より)
蝶の羽化の一部始終を見つめ続けたことがある。生まれる
ということは、恐ろしくて切ないものだと感じた。そうして、
蝶が完全な翅を一杯に広げた時、光射すような嬉しさに震え
たと思う。幼い私にはここまでだった。
掲句の受け止め方はずっと大人だ。自らの身体を支える大
本の「骨盤」で受け止めている。骨盤の形が、単に蝶の形に
似ているというだけではないだろう。女性にとって、骨盤は
宿した命を守る屋台骨でもある。作者は「シンメトリー」と
いう形に、均整のとれた健やかな生命をイメージしているの
ではなかろうか。自然界で繰り広げられる様々な事象を、身
体感覚として受け止める姿勢の重要さを教えられた。それは、
人間の驕りを越えたところのものだと感じるからだ。
致死量のことばレースの小袋に        奥名 春江
(『俳壇』八月号「どうなりと」より)
「致死量」と「レース」という相反する言葉の配合に惹き
つけられる。一見衝撃的だが、あり得る状況だと思えて来る。
作者は、内省的かつ客観的であるゆえに、自己の心中に人を
傷つける言葉を持っていることに気づいている。それが時々
致死量に達していると感じることがある。けれど、その言葉
を吐き出すには躊躇する。誰かを傷つけるのもつらいし、そ
の後自分に返ってくるものにも耐え難いだろうと思う。だか
ら、この上も無く美しい「レースの小袋に」入れるのだ。む
やみに取り出すことのないように。
「致死量」は、インパクトがあり、少しの悪戯心さえ匂う。
季語の「レース」が、句を可愛らしく縁取っているようだ。
昔から掌にある蟬の殻            生駒 大祐
(『俳壇』八月号「探牡丹譚」より)
作者は、昔幼かった頃に「蟬の殻」を掌に乗せた時の感覚
を、今でも大切にしているのだろう。
蟬の殻はとても壊れやすい。足の一本などを指で摘まもう
ものなら、折れてしまいそうだ。やはり誰でもがするように
掌に乗せるしかないのだと思う。そうして眼に近づけてしげ
しげと見つめるのだ。その精緻さに目を見張るだろう。一本
の背中の裂け目から無事に羽化できたことに驚嘆もする。幼
い頃のその感覚を、経て来た年月の中で幾度も反芻して来た
だろう作者がいる。知識ではなく感覚によってこそ、すとん
と納得でき、生涯忘れられないことがある。作者にとっての
「蟬の殻」は、自然界の命の神秘に触れることの原体験となっ
ているのだろう。
何よりも、掲句に漂う少年性に憧れる。
基督か羊飼かな夏野ゆく           岩淵喜代子
(『俳壇』八月号「薔薇園」より)
これは現実のことではないだろう。作者の心象風景なのだ
と思う。あり得ないことが納得できるのは、「夏野」という
季語の力ゆえのことだ。夏草が一面に青々と背丈ほどにも
茂った野原。夏の太陽がてらてらと照り付けて、人を幻惑す
るような草いきれが立ち上がっている。こんな時、人は、無
意識の中に埋もれているものを見る。それはある種の願望と
言えるものかも知れない。
浅い知識ではあるが、イエス=キリストの誕生を真っ先に
告げられたのは羊飼い達である。また、イエスは「私は善き
羊飼いである」とも言われたという。キリスト教者でなくと
も余程の自信家でない限り、自身を〝迷える小羊〟と感じて
しまう時があるのではなかろうか。「夏野」の盛んさゆえに
自身の存在が希薄に思える時、その「夏野」に赦しと癒しの
象徴である基督を見る作者に深く共感する。