井垣清明の書29壊(こわ)すなかれ平成8年(一九九六年)一月 第14回日書学春秋展(銀座・松坂屋)(個人蔵) 釈 文 壊すなかれ |
流 水 抄 加古宗也
都鳥島に西港東港
島の路地入れば漁具小屋海鼠裂く
綿虫や露地行灯に火の欲しき
高井戸はいつも水湧き冬の梅
枯野には枯野の匂ひたもとほる
早外出や枯野の風は頬を刺す
二三日すれば冬至や柚子もらふ
時雨寒来てや湖北の朱唇仏
冬の虹鞍掛山にかかりけり
鞍掛(くらがけ)山は入会山よ冬木風
駅頭に傘売る小店小夜時雨
一輪の有楽椿の一枝折る
素裸のまま雪を着て大欅
舌からめ取られし寒の練りわさび
寒四郎は気まぐれ牡丹雪降らす
初伊勢やおかげ横丁の伊勢うどん
浮鴨の群鉄壁の静けさを
ぐひ呑みに少し寒九の水を飲む
鳶飛んで来て枯色にまぎれけり
寒禽の下枝移りに日の出待つ
真珠抄二月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
案内は島の名ばかり冬鴎 酒井 英子
熊鷹の首百八十度みぎひだり 渡邉 悦子
一山隙なし冬もみぢ冬ざくら 堀田 朋子
南極の石はざらざら空つ風 長村 道子
飛ぶが好き鷹匠ヘリの操縦士 平井 香
山小屋の道は崖沿落葉掻く 山田 和男
懐かしき丸文字の癖林檎着く 春山 泉
紫の青みて榛名山眠る 坂口 圭吾
熊鷹を腕の男鋭き目して 工藤 弘子
十二月八日のランチ基地カレー 新部とし子
鶫群れゐる菩提寺の椋榎 堀口 忠男
芭蕉忌や投句する子のちび鉛筆 梅原巳代子
身のぬくみ移して冬の蝶はなつ 大澤 萌衣
夜神楽や大蛇(おろち)退治の時を待つ 生田 令子
数へ日や速達の来る午前午後 田口 風子
子育ての頃の匂ひの柚子湯かな 水野 幸子
わが家にまれの客人石蕗の花 大山 双葉
木の橋に木の湿りあり小六月 三矢らく子
裸木と言ふには二三葉の残る 川嵜 昭典
抱いて来てごろりと寝かす大根かな 岩瀬うえの
宅配の弁当届く夜業の灯 磯村 通子
鴨の池水は重たき色なせり 鈴木 玲子
家族みな仕事勤労感謝の日 山科 和子
落葉踏む子等の音には追ひつけず 重留 香苗
枯木越し雲の切れゆく大浅間 髙𣘺 まり子
返り花生糸の街は詩の街 関口 一秀
自転車の空気入れ足す冬休み 加島 照子
山茶花や疲れし時は庭を見る 烏野かつよ
寒鴉いつしか仲間増えにけり 中野まさし
おなもみの堤防ブルーインパルス 鈴木 恵子
選後余滴 加古宗也
裸木と言ふには二三葉の残る 川嵜 昭典
ある歳時記を見ると「枯木」の傍題として「裸木」がある。
そして、その解説には「冬になって葉を落し尽くした木」
とある。それでは葉を落し尽していないものは「裸木」と
は言えないか、というと即座に首肯しかねる。その辺の間
隙を突いた面白さがこの句の核心だ。そして、それは理屈
ではなくほのぼのとした温もりを読み手に届けてくれてい
る。俳句は作者そのものだと先人は言ったが私もそう思う。
案内は島の名ばかり冬鴎 酒井 英子
作者は松島へ旅をされたようだ。掲出句のすぐ前に《松島
の松の内なる冬桜》があることからもそのことがわかる。松
島といえば《松島やああ松島や松島や》が余りにも有名だが、
実際たくさんの島がつらなり、一年中松が美しい。「案内は
島の名ばかり」というのも確かだろうし、島を縫うように飛
ぶ冬鴎は旅情を惜しみなく旅人にくれる。この句はふんだん
に冬鴎の声が聞こえてくる光景が、かなりリアリティを持っ
て迫ってくる力がある。つい「ああ松島や松島や」と声に出
してしまう。
熊鷹の首百八十度みぎひだり 渡邊 悦子
十一月末、山紫会の吟行会に久しぶりに参加したとき、
全くの偶然だったが鷹匠の師弟とばったり出会った。鷹匠
が気さくな男であったことが幸いして、かなりの時間、歓
談することができた。そこを悦子さんは一気に連作にまと
めて、本号への投句となったわけだが、「この一気に」が
鷹匠を詠むスタイルに見事にかなったといえようか。「首
百八十度」の把握もごく近い間隔にいないと読めない距離
であることに注目すべきだと思う。吟行の醍醐味はじつに
こんなところにある。
一山隙なし冬もみぢ冬ざくら 堀田 朋子
冬もみじと冬ざくらが一分の隙もなく広がる光景は、
ひょっとしたら愛知県の奥三河。今は平成の大合併によっ
て豊田市に入ったように思うが、旧小原村だ。小原村は和
紙の里として知られたところで、碧南市出身の藤井達吉の
指導で工芸和紙に活路を見い出した山里だ。冬さくらの里
として近年、人気の観光地にもなっている。この句「一山
隙なく」がいい。大胆不敵な措辞だがそれでいて少しの不
自然さがない。それは小原が工芸和紙の里として発展して
いることとどこか響き合うところがあるからに違いない。
数へ日や速達の来る午前午後 田口 風子
「数へ日」とはいうまでもなく、十二月の終り、つまり、
年末も押しせまった数日を指す季語だ。心身ともに忙しい
とはこのことで、それは誰しもができるだけ多くの事柄に
年内結着を、という思いがあるからだろう。この句「速達」
を登場させたところがすこぶる新味。そして、「午前午後」
に何ともいえない滑稽感がはじけた。
おなもみの堤防ブルーインパルス 鈴木 恵子
昨年、秋。愛知県政百五十周年を記念して、自衛隊の曲
芸飛行部隊のブルーインパルスが愛知県の上空を飛んで話
題になった。昭和三十九年、東京オリンピックのとき祝賀
飛行して、東京上空に五輪のマークを描いた。その祝賀飛
行はその美しさにおいても不滅の光彩を放ったが、その感
動を再びというのが、昨秋のブルーインパルスの再飛行
だった。県民の多くが見のがしてなるものか、と身構えた
ようだが作者も、おなもみが蔓延していることに気づかず、
あるいは気づいていてもかまわず堤防に駈けあがったのだ
ろう。この野次馬根性がじつにすばらしい。俳人らしい俳
人といっていい。あらゆることに強い関心を持つことが俳
句の出発点であり到達点だ。ちなみに昭和三十九年の秋、
東京に見事な五輪を描いて、どこへともなく飛び去ったと
きのことを今もくっきりと憶えている。恵子さんはおなも
みを一つ一つスカートから取るのに、どれだけの時間をか
けたのか。それでも、この句からは少しの後悔も見えてこ
ないのがうれしい。
飛ぶが好き鷹匠ヘリの操縦士 平井 香
鷹匠とのひとときに、山紫会のメンバーは鷹匠の秀句を
いくつものこしている。この句もその一つ。何といっても
「飛ぶが好き」が言い得て妙だ。それに違いないと思った。
鷹匠がヘリの操縦士であるということは、鷹匠は「飛ぶが
好き」であると同時に「飛ぶものが好き」なのだと合点し
ただろう。香さんの柔軟な感想が好ましい。
抱いて来てごろりと寝かす大根かな 岩瀬うえの
何の説明もいらない一句だが、この単純さが、大根の本
意にかなっている。大根の移動はやはり抱くのが一番てっ
とり早いし、玄関に、台所に、あるいは隣家の縁側に到着
すれば、ごろりと寝かすよりほかはない。大根の魅力はこ
んなアカヌケの無さだと思う。
竹林のせせらぎ 今泉かの子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(十二月号より)
口ついて般若心経黄落す 工藤 弘子
般若心経は、般若経の心髄を簡潔に説いた二百六十二字か
らなるお経。黄落の中にあって、その一節が思わず口から出
た、それは作者にとって自然な唇の動きだったのでしょう。
はらはらと落ちる黄葉も、自然に沿うもの。いつも身ほとり
に、信じ尊ぶ気持ちがある作者の暮らしを思いました。
輓馬スタート客も飛び出す秋暑し 酒井 英子
スタート、飛び出す、畳みかける勢いが生む臨場感。輓曵
(ばんえい)競馬は、鉄製の橇を引かせ競う北の大地の競馬
です。数百キロの橇に重量のある荷を曳きながら障害の坂を
登る、過酷なレース。世話をしている家族はもちろん、観客
も巻き込んで、踏みしめる力強さに声援を送るのです。慈し
んで育てた思い入れの篤さ、見つめる人々の熱気、そして繰
り広げられる熱戦の、「秋暑し」です。
赤のままざつくり踏んで仔牛見に 田口 風子
「ざつくり」にある大づかみな感じと、背後の空や草原の
広々とした風景としての遠景が、不思議に繋がっていくよう
です。大いなる自然のただなか。幼い小さな牛を見に行くと
いう楽しみな様子も明るく、それでいて「踏んで」行く行動
を通して、足元の赤のままの存在感もあるのです。
浅草に女幇間夏の月 市川 栄司
幇間は花柳界にあって宴席を盛り上げる、座のプロフェッ
ショナル。男芸者ともいわれ、それだけに女ではなかなか務
まりにくい仕事です。以前テレビで見たのは、師匠について
回る修行中の若い女性でした。浅草で、おもてなしのさりげ
なさや心意気を、受け継いでいくのでしょう。夜の帳が下り
た空には、夏の月が上がっています。赤みを帯びた月が、涼
しくなった夜の大気に美しく輝いているように思います。
冷まじや神馬羽目板蹴つてをり 川端 庸子
神馬は神様が乗られる馬、神に仕える馬です。神聖な馬で
すが生きている馬。生きている以上、壁に張られた羽目板を
蹴ることもあるでしょう。「羽目板を蹴って」から「羽目を
外す」へ誘引されるおもしろみが潜んでいます。因みに羽目
は馬銜(はみ)の転で、羽目を外すとは、馬銜を外された馬
が勝手に走り回る意からの言葉。晩秋の冷然とした雰囲気の
中、生きた神馬の姿が活写されています。
日矢の差す池塘のきらや大花野 渡邊 悦子
一種、ここは神々しい世界。人の手が入っていない野原に
は、秋の花がさまざまに咲き乱れ、池には雲間から日の光が
差し込んで、きらめきを放っています。日矢は、別名天使の
はしご。大花野の池と天上界を結ぶ光の筋。それは、天から
の恵みのようにも、天へ上ってゆくようにも見え、やがて迎
える衰退の季節を前に、ひととき光芒を放っているのです。
小鳥来る下がりしままのシーソーに 平井 香
辺りにひと気はなく、作者も遊具の置かれた場所を遠くか
ら眺めているのでしょう。子どものいなくなったシーソーに
乗る小鳥。小鳥の軽さでは動きませんが、そこに遊び心のよ
うなものも感じられます。小鳥がとまったのは、シーソーの
下の方、警戒心から上の方、それとも真ん中辺り?自分が小
鳥ならと、ふと想像します。そんな広がりを感じる一句です。
夜長楽し夫は寝言でも笑ひ 神谷つた子
思わずにっこり。いいですわぁ。「夜長」のこんなほのぼ
の俳句に出合えて、読む側にも無条件に幸せ感が伝わります。
夜の夢につながるのは、昼間の和やかさ。そして穏やかに流
れている日常。秋の夜長のたのしさが、ともに過ごした年月
の長さとも相まって、満ち足りた人生にも思いが及びます。
夢の中に眠る人にもかたわらに眠る人にも、麗しい夜長です。
カピバラの沈思黙考秋闌くる 小柳 絲子
小さな目、のほほんと見える表情。一見何も考えていない
ように見えるカピバラですが、実は案外思索にふけっている
のかも。そう捉えるのもちょっと楽しい、実りの秋の豊かさ。
深秋の候、静かに内面と向き合う我等生きものであります。
一服のお茶のぬくもり秋の情 濱嶋 君江
句末の「情」のストレートな表現にぐっときました。「い
はほ隆子氏の俳句展」での吟。お茶処、西尾のお接待として、
お茶が振舞われたのでしょう。ご子息帰心さんの手厚く、心
のこもった企画展。一服のぬくもりに託して詠まれた、夫婦
の情、親子の情が、しみじみと伝わってくるようです。
捥ぎ取りし柿に硬さと日の温み 近藤くるみ
たった今枝から捥いで手にした実感が、リアリティーをもっ
て伝わります。硬さを追熟させられる日にちの恵みと、お
日様の恵みの温みと。整った一句の調べに柿も輝いています。
半分の南瓜笑顔に見えてくる 生田 令子
そういわれてみれば確かに。真ん中の綿と種の部分が口角
の上がった笑顔です。この南瓜なら煮てもほっこり甘く、スー
プやスイーツにしてもおいしく滑らかに仕上がりそうです。
一句一会 川嵜昭典
茸山人呑み込んでしづかなり 鈴木 直充
(『俳壇』十二月号「山の香」より)
茸というのは不思議なもの、というよりも人間から見れば
少し近寄りがたいものであると思う。その生態も形も、なん
となく一つの意思を持っているようで、少なくとも、動物や
植物とは一線を画している。そんな茸山に入り込み、そのよ
うすを「しづかなり」と形容している掲句は、茸を採ってい
るつもりの人間が、逆に茸山に取り込まれ、帰ってこられな
くなるのではないか、と思わせる、少しの不気味さと多くの
ユーモアを含んでいる。想像力豊かな句であり、茸の一つの
真理を突いているように思う。
銀漢や鉄平石の生きてゐる 矢島 惠
(『俳壇』十二月号「白き狐火」より)
鉄平石は、長野県の諏訪地方など採取される石で、およそ
二千五百万年前の火山活動によって形成されたようだ。板状
に剥離し、建材などに使われている。鉄平石が鉱物ならば、
銀漢もまた、星の固まりという意味であれば鉱物だろう。む
しろ銀漢の中の一つ一つの星が、鉄平石を生み出したのだと
もいえる。宇宙が、人には想像もできないような長い長い月
日をかけ、星から石を生み出すのもまた一つの生命活動であ
り、それを「生きてゐる」という詩的な表現にすると、か
えって具体的な宇宙の重さを感じられるのだ。
鉛筆を削りし匂ひ十二月 松尾 隆信
(『俳壇』十二月号「散り紅葉」より)
十二月というのは、まだ暖かさの残る初旬から、ぐっと冬
めく中旬以降にかけて、だんだんと感覚が研ぎ澄まされてい
く。寒くなって感覚が鋭敏になったとき、それが本当の意味
での冬の到来なのかもしれない。掲句でも、ふと鉛筆を削っ
た匂いが気になったそのとき、あの、冬特有の身の引き締ま
るような思いを抱いたことだろう。また十二月というのは、
クリスマスカードを書いたり年賀状を書いたり、大切な人々
のことを特に考えるときでもある。手に持つ鉛筆の温かな匂
いとその人々への思いを、寒くなった部屋で静かに心に灯す。
ゆるやかに馬柵越えゆけり秋の蝶 栗田やすし
(『俳句四季』十二月号より)
馬と馬柵の上を、秋の蝶がゆったりと越えていく。ただそ
れだけの景だとしてもこの句に惹かれるのは、句全体に流れ
る時間の豊かさだ。馬は馬の時間を、それも秋のゆったりと
した時間を過ごしている。その上に、これまたゆったりとし
た時間を過ごす秋の蝶が飛ぶ。ただ、同じゆったりでも、両
者のそれは違う。馬は馬柵の中の、限られた空間に流れる時
間を過ごすが、秋の蝶はどこまでも越えていく時間を過ご
す。この両者の時間のずれが読み手の心にちょっとした差を
生み出す。一つの景色を想像しながらも、二つの時間を過ご
しているような感覚になる。そこに面白さがある。
石ころを叱りて冬に耕せり 石井いさお
(『俳句四季』十二月号「竹馬」より)
大関松三郎の詩「虫けら」の、〈だが虫けらよ/やっぱり
おれは土をたがやさんばならんでや/おまえらを/けちらか
していかんばならんでや〉という一節も思い出すような、人
間が人間という立場で生きていかなければならない宿命を感
じさせる句。今は、スマートフォンやタブレットなどに夢中
で、身の回りに関心を払わなくなってしまったけれども、物
と対話する、語りかける、というのは、少し前まではよくあっ
た。石に向かって「こんなところにいるんじゃない」という
ようなことを人間の立場で主張し、仕事に精を出すというの
は、むしろそれぞれの立場を尊重しているということだ。あ
まりに人工的になってしまった世の中で、忘れかけていた生
の感情が、この句にはある。
白鳥のあの鳴き声は泣いてをる 高橋 将夫
(『俳句四季』十二月号「命の姿」より)
群れている白鳥はしきりに鳴いている。その鳴き声は、う
まい擬音が見つからないけれども、じっと見つめていると、
確かに鳴き声に一つの波、もしくはフレーズがあるようで、
群れ全体に一つの意思を感じる。掲句の「あの鳴き声は」の
「あの」は、普段から白鳥をよく見ていないと出てこない言
葉だと思う。普段から見ている白鳥に、いつにない声、もし
くは響きを感じた。その響きを目でも耳でもなく、心で捉え
ているがゆえに「泣いてをる」という感性が生まれたのだと
思う。
林檎捥ぐ地球の軸のふと傾ぐ 根来久美子
(『俳句四季』十二月号「林檎捥ぐ」より)
林檎を捥いだときに、少し背伸びをしたのだろう、バラン
スを崩してしまった。しかし作者はそう思わない。バランス
を崩したのは、捥いだ林檎が木を引っ張り、木が地球を傾か
せたせいだと捉える。足元の躓きから、地軸へ移るという発
想の飛躍、またそのスケールが面白い。