井垣清明の書49鹿 鳴(ろくめい)平成18年(二〇〇六年)一月 釈 文呦々(ようよう)として鹿鳴き、野の苹(へい)を食(は) む。 |
流 水 抄 加古宗也
水位標立つ長堤や赤とんぼ
頂上の夕日に生まれ赤とんぼ
アトリエは夢二のものや赤とんぼ
新涼や汐木を焚ける海女の小屋
ななふしの身構へてをり乳鋲門
城跡に天狗倉あり昼の虫
佐久島
塩焼きし名残りの土器や赤のまま
車前草を摘みきて姉妹草相撲
虎杖や白根に強き硫黄臭
焙岩道をのぼれば火口濃竜胆
心地よく木道はづみ大花野
木道に榻あり秋のきりん草
深吉野に水場多くて鹿の声
大皿に盛り上げ猪の肉と味噌
蛇穴に入る砦跡荒れしまま
みたらしをたつぷり焼いて地蔵盆
うしほ忌やゆつくり扇たたみ座す
よく熟れし無花果供へ良敬忌
丈六のお膝はまるしちちろ虫
落し水鞍掛山にひびきけり
落し水し吹きて四ツ谷千枚田
光 風 抄 田口風子
膨らまぬままの風船盆の月
水平に雲の流るる今朝の秋
雨粒のふくらみきれぬ今朝の秋
精霊ばつた張りぼての岩に穴
漫ろなる君よ八月のひまはり
立つて寝る馬に無数の夜這星
次々に別れ鴉の来て鳴けり
棗の実拾うて日照雨にあふ
名古屋市科学館・毒展
八月の赤は蠑螈(いもり)の怒(いか)る色
秋声やキングコブラの骨無数
真珠抄十月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
ハワイアン流し続けて夏終る 高濱 聡光
山門に沢蟹高く待ち構ふ 竹原多枝子
原爆忌老婆一人の白き椅子 中井 光瞬
向日葵の焦げて俯く広島忌 池田真佐子
蜜豆やマニキュアはまだ生乾き 加島 照子
炎天下羽音重たき鴉飛ぶ 鈴木 玲子
虹消えて遠くなりたる故郷かな 水野 幸子
夏落葉ふと違和感のやうなもの 堀田 朋子
針の先ほどに小さき目高の眼 笹澤はるな
村道のバス浮き沈み晩夏光 工藤 弘子
肩出しの衣装涼しきジャズライブ 髙𣘺 まり子
朝蟬のここに古墳がありと鳴く 岡本たんぽぽ
星ひとつ葉書に飛ばし夏見舞 三矢らく子
八月や防空壕といふ記憶 稲吉 柏葉
夏の果生きたいと夫医師に告ぐ 服部 喜子
盆の月父持ちてゐし吾が写真 荻野 杏子
水底は涼し鯰は鰭を振る 平井 香
卓袱台ですます絵日記夏休 加島 孝允
むくみ足残る暑さの影を踏む 内藤 郁子
鱒を釣る男ら群れず夏の霧 鶴田 和美
巻藁船通す夜空へ橋跳ねて 堀場 幸子
妻と行くドラッグストア秋のなゐ 鈴木 帰心
リハビリに使ふ塗り絵よ涼新た 石崎 白泉
妹は桃の剥き方違ふなり 田口 茉於
海の日や今日はバイトの初日なり 鈴木こう子
夏霧や切間に見ゆる蒸気噴 山田 和男
朝沸かす従業員の冷麦茶 松岡 裕子
鱧食うて好きな音楽聴く夜かな 堀田 和敬
夕立の嬉しくもある仕事道 川嵜 昭典
炎昼や工事の指示は外国語 鈴木美江子
選後余滴 加古宗也
村道のバス浮き沈み晩夏光 工藤 弘子
バスが浮き沈みするのは、道路舗装がしっかりしていな
いせいだ。かといって、高速道路のようにすっと走っては
楽しくもない。この矛盾した感覚が人間にはあるが、だか
らこそ面白いのだ。むかしの歌に「田舎のバスはオンボロ
ぐるま」というのがあったが、オンボロゆえにたびたびエ
ンコしたものだ。ちょっとした坂道に入ると動かなくなっ
たりして、乗っていた人達が降りて後ろから押す。いまだっ
たら、乗客たちが怒り出すところだろうが、その頃には、
それを許す心が多くの住民、市民にあった。そんな田舎の
人達が私は好きだった。
山門に沢蟹高く待ち構ふ 竹原多枝子
沢蟹は危険を感じると身体を起して、爪を上に挙げ戦闘
体勢に入る。じつはただ構えるだけで、人間は無論のこと
動物たちもそれを見て怖がったりはしない。人の場合はそ
れをかわいらしい所作として好もしく思うくらいだ。山門
の真ン中に構えた蟹に流し目をくれながら、さっさと山門
をくぐるのだ。この句、「高く」という表現がじつに好も
しい。
妹は桃の剥き方違ふなり 田口 茉於
兄弟姉妹というものはじつに面白い存在だ。兄や姉がほ
められればうれしいが、同時に自分も同じようにほめてほ
しいと思う。兄や姉がおこられれば、自分も一緒に悲しく
なる。それでいてこのくそっと思う。姉が上手に桃を剥く
のを見て、自分も上手に剥きたいと思う。でも同じ剥き方
ではいやなのだ。
向日葵の焦げて俯く広島忌 池田真佐子
昭和を語るとき、けっして忘れてならない数字がある。
それは「八月の六・九・十五日」だ。八月六日は「広島原
爆忌」、九日は「長崎原爆忌」、そして、八月十五日はいう
までもなく「敗戦忌」である。おだやかな表現を使えば
「終戦忌」ということになるが、実態は少しも変わること
はない。二月に連合国によって発せられたポツダム宣言を
無視した日本はその後、大都市を中心に、大中都市への
B29による無差別爆弾投下によって三〇〇万人の日本人の
命が奪われた。わずか半年余りの間のことだ。「日本は神
国だ。かならず神風が吹いて大逆転が起きる」とほんとう
に信じていたのだろうかと思う。
ハワイアン流し続けて夏終る 高濱 聡光
昭和三十年代は海外旅行といえばハワイ、というくらい
一番人気だった。同時に、ハワイアンが夏の風物詩として
欠かすことのできない音楽だった。ハワイアンの人気はい
まも根強く、好きな人は一日中、CDをかけつづけている
ようだ。「ハワイアン」は季語になっていないが、日本人
には十分夏の季感をもっているように思われる。
夕立の嬉しくもある仕事道 川嵜 昭典
夕立という雨はいろんな意味で面白い雨だ。突然に降り
出してあたり一面をびしょ濡れにしたかと思うとさっと上
がる。そして、すぐに心地よい爽涼感をくれる。一仕事を
終えたあとの夕立は何ともうれしいものだ。
蜜豆やマニキュアはまだ生乾き 加島 照子
「蜜豆」は夏の風物詩。よく冷えた蜜豆は口当たりもよく、
それを食べると頭の回転がよくなるような気もして好きな
人にはたまらない夏の味覚だ。蜜豆を卓上に置いてマニ
キュアをつけたものの、目の前の蜜豆の引力に心の動揺が
隠せない。甘い食べ物では他に甘酒があるが、こちらも夏
の季語であることに要注意。甘酒を冬の季語と思い込んで
いる人が意外に多いが、俳人は、いつも季語の本意をしっ
かり押さえる努力をおこたってはならない。
肩出しの衣装涼しきジャズライブ 髙𣘺まり子
「肩出しの衣装」即ち「ノースリーブ」ということだろ
うが、ジャズの面白さは演奏の自由さ、自在さが命だ。肩
を見せることで、視覚的にも解放感が楽しめる。「ジャズ」
のもとは「ソウルミュージック」さらにいえば「黒人霊歌」
が出発だという。ふと「何々からの解放」というフレーズ
が心に浮かぶ。
八月や防空壕といふ記憶 稲吉 柏葉
戦中の子供にとっては「防空壕」は忘れることのできな
いもの。空襲警報が発令されると、みな防空壕に飛び込ん
だ。防空壕は、心の中にこびりついた言葉になっている。
炎中や工事の指示は外国語 鈴木美江子
これは外国での見分ではなく、日本における工事現場で
あろう。すっかり外国人労働者が増えた。
木漏れ日の小径 加島照子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(八月号より)
ふつふつと藍の泡浮く薄暑かな 酒井 英子
発酵と名の付く通り甕の中で藍は生きています。微生物の
働きによって染まり、空気中の酸素に触れて発色する染色技
法。天然藍染の鍵をにぎるのが灰汁です。液の表面に浮く「藍
の華」の立ち方や匂い、色を確認する為に甕を覗く事から始
まり、触れてみて液の粘りを確認したり、最後は舐めて確か
める等、正に張り詰めた根気のいる作業に頭が下がります。
電話には半音上げて出る薄暑 池田あや美
電話の印象は声で決まります。高い声は明るく低い声は暗
くそして柔らかい口調は優しそうな印象を与えます。
LINEやメールが日常的になる現在でも、親しい人との電
話のやり取りが心の支えになっている事も確かです。
見えない相手に好印象を持たれるには普段より半音上げるの
が丁度良い様で、会話が弾めば更に楽しくなりそうです。
朝顔市着きしばかりの鉢加ふ 市川 栄司
江戸末期から明治にかけて何軒もの植木屋が軒を並べて、
変り朝顔を咲かせて競い合う夏の風物詩は今も続いていま
す。日本最大と言われる東京下町の入谷鬼子母神の朝顔市が
有名です。朝顔が一番美しいのは早朝なので午前五時にはも
う開かれます。瑞々しい鉢が新たに加わる事で更に賑わいを
みせる風景が目に浮かぶ様です。
掃きぐせにほうき曲がりし大野城 桑山 撫子
越前大野城は天空の城と言われ雲海の見られる事で有名。
季節と気象条件が揃うと一Km西の戌山城跡から見る事が出来
ます。周囲を山に囲まれた大野市は霧が溜まりやすく、山の
上にある城がまるで雲に浮かんでいる様に見えるのです。掃
きぐせがつき曲がる迄大事に使い続けている箒が城と共に愛
されている情景の様に感じました。
富太郎の名付けし甘茶藍深し 重留 香苗
額紫陽花と見分けがつかないのが「甘茶」ヤマアジサイの
甘味変種です。葉を乾燥させて煮出すと甘味は砂糖の千倍程
です。牧野富太郎は植物学の父と呼ばれ一五〇〇種類余の植
物の命名をし、植物を知る大切さを教えてくれました。
若夏や仁淀ブルーの水明かり 平田 眞子
高知市にある仁淀川は奇跡の清流と言われ、知名度は
四万十川には及びませんが世界でも希少性の高い川底迄秀き
通るコバルトブルーの流れが素晴らしく、多くの沈下橋もあ
り五感を総動員して自然を感じられます。若夏の色が仁淀川
に反映して鮮やかな仁淀ブルーを作り出しているのでしょう。
富弘逝く「わ鉄」の汽笛谷若葉 渡邊 悦子
星野富弘は中学の体育教師になった頃事故で首から下の自
由を失いましたが、口に筆を咥えて花の絵や詩の創作活動を
続けました。優しさ強さが作品に反映され見た人が共感し、
励まされていきます。私も昔からファンの一人で画集も何冊
か読みました。「辛いという字はもう少しで幸せになれそう
な字」は私の心に沁み入る詩の一句です。
父の日や父の写真は五枚程 松元 貞子
私も父の写真は数える程しかない事に気付きました。母と
は子供の頃からいつも一緒にいる写真が残っていますが、仕
事一筋で無口な父とは会話も少なく、叱られた記憶もありま
せん。もっと話をしたり甘えたかったと思い起す事ばかりで
す。父の存在を改めて考えさせられた一句に出会いました。
糺の森やのぞき見る氷室跡 今津 律子
京都下鴨神社の中に縄文時代から生き続ける森として、糺
の森があります。「源氏物語」の中に光源氏が詠み、神秘の
森として敬まわれてきました。豊かな森の営みや四季折々の
風景は人々の心身を癒してくれます。この世界遺産をこれか
らも、氷室を覗く楽しみも含めて大切にしていきたいです。
若者も加はる結や溝浚へ 笹澤はるな
「結」はもともと小さな集落や自治体における共同作業の
制度で、集落の住民がみんなで助け合い協力し合う精神で成
り立つ「相互扶助」の事です。それが今も若者に脈々と受け
継がれているのは、人や社会地域の繋がりが薄れる現代には
大切な事だと思います。代表的なのは白川郷の合掌造りの屋
根の葺き替え作業があります。
反論をぐつと堪へし蛇苺 磯貝 恵子
蛇苺は蛇の様に地面を這う蔓から名が付いたとか、蛇にで
も食べさせておけば良いとか諸説あります。鮮やかな赤い偽
物の苺に騙されて一口食べた事がありますが、苦い味が口に
広がり美味しくはありませんでした。反論をぐっと堪へしと
は面白い表現で、蛇苺の取合せに意表をつかれました。
一句一会 川嵜昭典
夏帽子はるかに父母の日本海 米田 規子
(『俳句四季』八月号より)
「父母の故郷」と表現せず「父母の日本海」と表現するこ
とによって、父母を生んだその地の息遣いや、父母が見てい
たであろう、どこまでも広がっているような風景を具体的に
感じることができる。一方で、「夏帽子はるかに」という言
葉によって、それはあくまでも父母の土地であり、作者の土
地ではないという、作者の少しの寂寥感も感じられる。今、
この日本海の地に作者が立ってみれば、夏帽子を被った幼い
作者が、父母に手を引かれて海辺を歩いている、そんな昔の
光景を思い出したのではないだろうか。「はるかに」という
言葉は、時間も、思いも、それぞれの長い歳月を表している。
師の師の師の好きな泰山木の花 笠原小百合
(『俳句四季』八月号「◎(にぢゅまる)」より)
情報が何より優先される時代である。そしてその情報は素
早く簡単に手に入ってしまう時代である。人との関わりを大
して持たなくても、生きるための情報さえ手に入れれば食う
には事欠かないだろうと思う。ただそれが人間らしいかとい
えばまた別で、隣の人の、その人の息遣いのような情報を手
に入れたければ、人と隣り合うしかない。「師の師の師の好
きな」などという情報は、まさにインターネットのどこにも
落ちていない情報で、外に出て人と接し、すなわち人間の人
間らしい行為をあえてしないと分からない。飄々とした表現
だが、味わい深く、また自分のルーツを探っているようでも
あり、やはり俳句は人と関わるものなのだな、と思わせる。
黒服の女日傘を弄ぶ 佐伯 緋路
(『俳句四季』八月号「蝶逃がす」より)
参列しつつもやることがなく、かといって携帯電話を見る
わけにもいかず、という葬儀の一場面を俳味のある表現で捉
えている。「黒服の女」という言い方が、どの年齢の者なの
か、容姿はどうだろうか、と妙に気になってしまう。湿っぽ
くならないのがこの句の面白いとろだ。
折紙をひらけば手紙夏燕 千野 千佳
(『俳句四季』八月号「崖」より)
他愛もないことなのだが、こういうことも人と人との繋が
りなのではないかと思う。ことに普段、手書きの物がほとん
どない環境で、手紙を書くこと、その紙を折ることの手間と
時間を考えれば、このちょっとした手書きの物でも殊の外嬉
しい。「夏燕」の、すっと一直線に飛ぶようすが、作者の心
にすっと差し込んだ嬉しさと共鳴しているようだ。
船虫の知り尽くしたる浪の音 長島衣伊子
(『俳句四季』八月号「浪の音」より)
どれほど研究をしても、人間が海のことをどれほど知って
いるか。良く研究し、知ったとしても、それを虚心に受け止
める人間がどれほどいるか。翻って船虫は、海に落ちてしま
えば自身の命も危ういということもあるだろうが、どこまで
も敏感に、細心に行動する。まさに「知り尽くしたる」で、
生命というものの原始的な強さとエネルギーを感じずにはい
られない。人間と船虫のいる世界は全く違うものだけれど
も、生命の重さをどれだけ感じながら生きているかと問われ
れば、どうも人間は分が悪いような気もする。
ソーダ水小さき船を浮かべたし 大島 雄作
(『俳句四季』八月号「MISIAの息」より)
ソーダ水をじっと眺めていると、どこか異国に行ったよう
な、もしくは来たような気持になる。夏はやはり、心が一番
遠くへ旅する季節だ。
八月の人悲します空のいろ 山本比呂也
(『俳句四季』八月号「水化して」より)
言い尽くされていることかもしれないけれど、八月はとて
も複雑な月だ。本来は一年のうちで一番生命力を感じ、生き
生きと弾けた行動もしたくなる月だが、一方で戦争やその影
のことを思わずにはいられない。今も戦争や紛争が行われて
いれば、それ猶更だ。またお盆もあり、亡くなった人たちの
ことを考えたりもする。生きるということの喜びと悲しみを
これほど考えさせる月もないのかもしれない。「人悲します
空のいろ」には、そんな人の業のようなものを自然は、宇宙
は知っているかのような印象を受ける。地球という大きなも
のの上で、人は、人なりの生き方をしているということを感
じさせる。
忘らるる身をおもしろく金魚玉 川原真理子
(『俳句四季』八月号「苦界」より)
「金魚玉」は金魚を入れる球形のガラス製の容器。江戸時
代はこの容器で買った金魚を持ち帰ったそう。しばしの間楽
しまれた金魚玉も、金魚の死と共に物置や倉庫に入れられる
ことになる。ただ、そんな境遇をも「おもしろく」と、いつ
か日の目を見るまでまた待つというのも、どこか人間臭いと
ころがある。