井垣清明の書50萬物殷富平成18年(二〇〇六年)五月 釈 文萬物は殷(さかん)にして富(ゆたか)なり。 |
流 水 抄 加古宗也
伊香保温泉
出湯の香に文豪蘆花を偲び秋
出湯伊香保明日は始まる秋祭
時代屋の跡てふ小店昼ちちろ
射的屋のパンパン釣瓶落しの日
湯の街の秋の浴衣は藍の縞
秋暑し暑しと六角堂回す
新民謡聞ゆ伊香保は秋祭
湯の花と云ふ饅頭や栗少し
新涼や伊香保湯の街段の街
鵯叫喚す浮城の上に佇つ
亀趺に乗る墓しとしとと秋の雨
往還の向かうに井筒竹の春
伊吹山
赤とんぼ群れ来圓空発願地
湖は漣一丁潜りまた潜る
ゆつたりと艪臍鳴らして鳰の湖
栗笑ふや小布施に小町九相図
郷宮は軍神祀り冬わらび
芝居小屋閉されしままや小鳥来る
フォックスフェイス生け駐在の大机
朝鮮川といまも呼ばれて草紅葉
光 風 抄 田口風子
笑ひ翡翠一日笑へば九月来る
二百十日雑巾固く絞りけり
小鳥来てをり息災に四姉妹
松浦(まつら)党裔の髯面雁渡し
恵那峡3句
竜潜むなら獅子岩の淵あたり
黄蝶のここにここにも秋まひる
小鳥来る店の三和土にダットサン
遊行寺3句
秋の声聞く一遍の前かがみ
遊行忌の百間廊下に板木の音
蓮の実の飛んで早や閉す遊行茶屋
真珠抄十一月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
処暑の夜の束ねずにおく洗ひ髪 池田真佐子
原爆忌焔を繋ぐ和蝋燭 春山 泉
太き眉上げて案山子の一日目 工藤 弘子
齟齬そのままに異国の人と夜長かな 荒川 洋子
大幅は鬼城の遺墨秋彼岸 濱嶋 君江
力込めトイレを磨く厄日かな 高瀬あけみ
大声を出さざりし母桔梗咲く 池田あや美
秋風や干潟に残る蟹の穴 中井 光瞬
鬼城忌や乙字出会ひの聖橋 関口 一秋
十六夜やゴーヤ佃煮湯気あげて 荻野 杏子
二百十日介護プランの打ち合せ 石崎 白泉
閉店の什器搬出されて冬 飯島 慶子
新米を掬ひわずかな温みあり 髙橋 冬竹
しまひには藪漕ぎとなり大花野 今泉かの子
二百二十日音たてて置く鉄アレイ 川嵜 昭典
松明の煙田を這ふ虫送り 堀場 幸子
赤城野の標高二百蕎麦の花 渡邊 悦子
大気ふと軽くなりけり夜の秋 坂口 圭吾
炎天や郵便局へ行く用事 石川 裕子
白露や赤城の句碑の五十年 平井 香
秋風や墓じまひのこと有郁無郁に 酒井 英子
あさがほや花街に隣る石屋町 堀田 朋子
秋霖や栄舗道の特価市 飯島たえ子
十五夜や窓際に寄す今日の夜具 鈴木こう子
夏痩せや夫認むる遺言書 重留 香苗
己が影踏みて猫行く月の庭 髙𣘺 まり子
科学館親子を抱ふ夏休み 鶴田 和美
郭公を一羽の鵙が追ひ捲る 堀口 忠男
墨堤や震災忌また木歩の忌 鈴木 帰心
露天商の暗算力や茄子トマト 加島 照子
選後余滴 加古宗也
白露や赤城の句碑の五十年 平井 香
赤城山の中腹に文学の散歩道というのがある。入口のと
ころは水原秋桜子の句碑で、「啄木鳥や落葉を急ぐ秋の木々
秋桜子」の句が刻まれている。秋桜子が赤城山に登った
とき詠んだ一句だという。それから少しのぼったところに、
「石人」主宰で群馬俳句協会の会長を長くつとめ、群馬大
学教授でもあった相葉有流の句碑、さらに上がると富田う
しほの句碑「迅雷や黒桧の肩の漆雲」が地藏岳に向って立っ
ている。この句碑は星野魯仁光同人ら若竹前橋支部の皆さ
んの尽力で立ったもので、魯仁光同人が全紙をかついで、
林泉花同人と伴に守石荘を訪れ、うしほ翁に揮毫を依頼さ
れたことがいまもくっきりと思い出される。群馬県は全国
有数の雷県。赤城の最高峰・地藏岳にあれよあれよという
うちに黒雲が湧き、まもなく激しい稲光と雷が鳴りひびい
た。赤城山の句碑周辺の草刈りと清掃は毎年夏に若竹支部
の同人たちがつづけて下さり。北斗星、魯仁光・泉花同人
らが亡くなった後は若竹山紫会の同人たちが引きついでく
れている。掲出の句を見て、あらためてもう五十年か、と
いう思い熱い絆を思う。
笹を薙ぐ泥の刃露の葉で拭ひ
年を経し句碑の寂光秋の山
アキレスの踵忘るる日焼かな
今年の猛暑は尋常ではなかった。それにもかかわらず句
碑周辺の清掃が実行された。師系はこうしてつながれ、育
てられてゆくものだと思う。赤城句碑の連作を繰り返し読
み直すとき、赤城山に立っているかのような感覚になり、
真正面に見える赤城山容が美しく甦ってきた。
松明の煙田を這ふ虫送り 堀場 幸子
晩夏から初秋にかけて、農作物に集まる害虫を追い払う
ための行事で、松明をかかげ、斉藤別当実盛の人形をかか
げて畦道を行進する。村人だけでなく子供たちも参加する
ことで、村の楽しい行事になっているところもある。「煙
田を這ふ」に実感があり、作者自身も村人ともに楽しんで
いることがうかがわれるのがよい。
大気ふと軽くなりけり夜の秋 坂口 圭吾
今年の夏の暑さは、やはり地球温暖化のためなのだろう
か。ただ「温暖化のせいだ」と他人ごとのようにいってお
れない異常さだった。十月に入っても、昼の気温が二五・〇
を超えるようでは、暑いねえ!ではすまされない。政府も
困った困ったといっているだけでは何の対策にもならない。
墨堤や震災忌また木歩の忌 鈴木 帰心
ここにいう「震災忌」は「関東大震災」のことで、大正
十二年九月一日。大震災によって、多くの家屋が倒壊し同
時に大火災が発生、未曽有の死者を出した。この日、墨田
川の堤防で、俳人・富田木歩は焼死した。即ち、「震災忌
また木歩の忌」なのだ。富田木歩と富田うしほは生前交流
があり、というより、うしほが、村上鬼城を訪ねた帰路に
度々、木歩を訪ね、俳句のアドバイスをしたり、援助をし
たりしていた。そのことは、村山古郷『大正俳壇史』(角
川書店)にふれられている。
閉店の什器搬出されて冬 飯島 慶子
コロナの大流行は、日本人の心身にわたっておおきな傷
跡をのこした。中でも、食品街・呑み屋街の傷は大きかった。
地方都市の打撃は大きく、休業から廃業に追い込まれたと
ころも多かった。「什器搬出されて冬」からは、傷口をえ
ぐるような傷みが伝わってくる。それだけにとどまらず、
中小零細業者の傷口は深く、日本経済のことに庶民の暮し
がいつもとに戻るのか、何とも心の痛むことだ。
あさがほや花街に隣る石屋町 堀田 朋子
花街と石屋町、はなやかな街と墓碑の生産が主たる石屋
町が隣り合せであるところが、意外であるようで、そうで
もないように思われるところが面白い。生と死、繁栄と貧
困、そんな相反するかのような世界もじつは人の世の当り
前の真義であることに、ふと気づくことがある。「あさがほ」
という季語の斡旋が見事。
大幅は鬼城の遺墨秋彼岸 濱嶋 君江
昭和十三年十二月に第一回の「村上鬼城翁追悼句会」が
西尾で行なわれ、翌年から鬼城翁の命日、九月十七日を中
心に追悼句会が行われてきた。戦中も戦後もそれは一度も
中止されることはなく続けられ、富田うしほの逝去(九月
十九日)によって、鬼城・うしほ忌として、さらに、富田
潮児の逝去によって、三師の忌として続いている。
上掲の句、今年の追悼句会の折り、大幅を当日展示した
ことからこの句が生れたのだろう。
宇治の茶、万古の急須、相馬の茶碗、美濃の柿
伊香保の盆、かぞへ来たればなかなかに匆體なし
新茶して五ヶ国の王に居る身かな 鬼城
木漏れ日の小径 加島照子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(九月号より)
くるぶしにからむ流れ藻夏の果 市川 栄司
賑やかだった夏の終りを表すのにくるぶしにからむ流れ藻
とは、実に象徴的な一景としてうまくとらえています。
作者の言葉選びは何気ない様にみえて深い意味を感じさせ
ます。自分の中でも色々あったひと夏の出来事を振り返り、
じっくり考えさせられる句として、とても共感を覚えた一句
として印象に残りました。
いまもある論語朗誦円座積む 酒井 英子
江戸時代前期に岡山藩により庶民の為に開かれた「閑谷学
校」は、現存する世界で最古の公立学校です。今も生涯学習
の場として利用され、孔子像の前で論語を朗誦されているの
です。渦巻状に編まれた素朴な肌触りの円座に座して、孔子
の教えを読む子供達が頼もしいです。季語の円座積むが情景
をうまく表現していると感じました。
舞妓に会ふ京の老舗の葛切屋 奥村 頼子
京都へは幾度も訪れましたが、一度も出会った事のないの
が舞妓さんなのでとても羨ましく思いました。出来立てを冷
やした葛切は一瞬で食べてしまう程のあっけなさも葛切の醍
醐味です。そんな夏ならではのおいしくて楽しい作者に影響
を受けて早速葛切を買いに走りました。
梅花藻や山磨ぐ水を惜しみなく 池田真佐子
醒ヶ井の地蔵川は梅花藻で有名です。山磨ぐ水と表された
水は水温が低く澄んでいる為、水流中に沈生し流れに沿って
這う様に育つ梅花の様な可隣な白い花が余計に綺麗に見えま
す。地元の方が川の中に野菜や果物を笊に入れ天然の冷蔵庫
として利用していたのも生活の知恵だと感心しました。
月曜の公園蟬の穴数ふ 白木 紀子
月曜の公園は賑わいも少なく静かでゆったりした時間が過
ぎてゆきます。そんな時に蟬の穴を見つけた作者が童心に返
えり、蟬の一生に思いを馳せていたのではと思いました。羽
化してからの一生の僅かな最後の時期、夏しか会えない蟬の
生き方をただ鳴き声がうるさいと言ふのではなく、見方を考
える良い機会を得た様に思いました。
蛍や思ひの丈を一灯に 堀田 朋子
水中から地中へそして成虫となって野外で一週間程の僅か
な間で育まれる儚い恋の物語は、情緒たっぷりの初夏の風物
詩です。満天の星空にも負けない輝きを放つ蛍のステージは
幻想的ですが、命がけの一灯は心を動かされる貴重な瞬間で
あり、心待ちにしている光でもあるのです。
画眉鳥を避けて囀る四十雀 堀口 忠男
画眉鳥は侵略的外来種になっており、在来鳥が減少する原
因にもなっています。奥ゆかしさとは真逆の南国の野性味溢
れる大きい鳴き声ですが、得意技は物真似で他の鳥の囀りを
見事に真似します。雀サイズの小鳥だと縄張り意識の強い画
眉鳥には圧倒されるので、避けて囀っているのがよく分かり
ます。
新野には水音のみの夏の昼 原田 弘子
長野県最南端の標高八〇〇mの新野高原は、美味しい空気
と水とゆったり流れる時間、広々とした自然の中で自由に過
ごすとみるみる元気になっていきそうです。
都会からなかなか抜け出せない日常から贅沢な時間と空間
を味わってみたいとつくづく思いました。
梅雨晴や羅漢に生えし苔光る 杉浦 紀子
浜松の方広寺には五百体を越える羅漢様の石像が設置され
て、訪れる人を優しく出迎えてくれます。中には必ず自分に
似た像が見つかると云われていますが、その中に笑った羅漢
様に出会ったら嬉しくなりますし、羅漢様に生えた苔に陽が
当たり光って見えるのも素敵です。釈迦が亡くなった時に
五百名の羅漢様が集まった事に由来している様です。
田の泥は田水で落とし植ゑ終る 岩田かつら
田植えの経験は無いのですが、田植えが一段落してから田
水で泥を落とすと云う何気ない仕草がとても素直な表現で、
良く言い表わされています。
毎日当り前の様に食べているお米ですが、苦労されている
農家の人の事を考えて一粒一粒大切に頂こうと思いました。
がま口の小銭確かめ児と祭 髙山 と志
お祭に出掛ける前には誰でもする事なのですが、句に詠む
と楽しいお祭の様子迄想像出来て、読み手迄連れ立って一緒
に出掛けたくなる気にさせてれる不思議な魅力があります。
がま口の小銭が庶民的でとても親近感が湧いてきました。
十七音の森を歩く 鈴木帰心
捩花のねぢれ終へたる先の空 笠原小百合
(『俳句四季』八月号「◎にぢゅうまる」より)
捩花がねじれる理由は、よくわかっていないようだ。一説
によれば、花を訪れる昆虫(ハナバチなど)が少ない環境で
は、捩花はねじりを弱め、虫を花に止まりやすくさせること
で自家受粉を促し、種子生産を確保する。一方、訪花昆虫の
多い環境では、捩花はねじりを強め、他家受粉を促すことで、
遺伝子の多様性を高める、とのことだ。
捩花はねぢれて咲いて素直なり 青柳志解樹
すなわち、捩花は自身の置かれた環境に素直に適応し、ね
じり具合を調整しているのだ。
人間も同様だろう。人が「ねじれる」のも、自分の置かれ
た環境で生きるための必然の結果なのだ。逆境の中、あえて
ねじりを強くせざるを得ない場合もあるだろう。捩花が訪花
昆虫を遠ざけるごとく、そのねじれの強さに、他人から距離
を置かれる場合もあるだろう。そんな自分を貫いて「ねぢれ
終へたる先の空」は、美しく澄み渡っていてほしい、と思う。
上気して母は戦後を踊りしか 駒木根淳子
(『俳句』九月号「虹の翅」より)
作者のお母様は、かけがえのない青春時代を戦時中に送ら
れたのだろう。勤労動員に明けくれ、空襲、疎開、食糧難な
どで苦労されたと思われる。戦後、自分の青春を取り戻すか
のように、子供を一生懸命育て、仕事に打ち込み、趣味を楽
しまれたのだろう。「踊りしか」の措辞から、お母様に抱く
作者の敬慕の念が伝わってくる。
どことなく衰へみせて花菖蒲 鈴木しげを
(『俳句』九月号「竹の皮」より)
花菖蒲は、わずか三日間しか開花することがなく、あっと
いう間に咲き終わってしまう。作者は、その開花時期に少し
遅れて菖蒲園に行ったのだろう。吉田兼好は、「桜の花は満
開のときばかり、月は満月ばかりを見るものか? いやそう
ではない」と言ったが、花菖蒲にもそれは言える。
人間も同様。衰えていく姿、老いていく姿には、「老醜を
晒す」と決めつけて欲しくない美しさがある。
今生の残り時間や踊るべし 高橋 将夫
(『俳句』九月号「残り時間」より)
右の二句を踏まえると、掲句が究極の結論となる。踊るべ
し、踊るべし!
海見ゆる席より埋まり夏期講座 山口 美智
(『俳句』九月号「島の夏」より)
海を眼下に見下ろせる丘の上に夏期講座の会場がある。受
講生たちは講座を楽しみにしているが、講座の間に外の海を
ふと眺められたら、とも思っている。それで席は「海見ゆる
席」から埋まっていくのだ。
それは、学校で言えば、グラウンドの見える席が人気なの
と同じだ。授業中、しばし外を見て、自分を解放する瞬間が
あると、かえって、授業にも集中できるのだ。
初夏のシンバルに金色の指紋 佐伯 緋路
(『俳句四季』八月号「蝶逃がす」より)
筆者は中学時代、吹奏楽部員だった。掲句を読み、部室に
新品のシンバルが届いた日のことを思い出した。包装が解か
れ、現れたシンバル―それはそれは、美しく、さながら手塚
治虫の「火の鳥」の羽根のように金色に輝いていた。
「金色の指紋」の措辞が、実に美しく神々しい。
遠足の新人教師いたく疲れ 関 成美
(『俳句年鑑二〇二四年版』より)
教室には、「教師が教師でいられる仕組み」がある―それ
は、教師の背後の「黒板」、全体を見渡す「教壇」、教師と生
徒を隔つ「教卓」など。新人教師は、まず、この教室での「仕
組み」に慣れ、教師・生徒との関係を築いていく。
それに対して、遠足は、そんな教室という閉じられた空間
から、生徒たちを解き放つ。それは、慣れつつある教室での
生徒とのやりとりとは別のスキルを教師に求める。引率力、
危機管理、とっさの判断、等々。それらは新人教師にとって
は「応用問題」的なスキルである。そういったスキルは場数
を踏んで身につけるしかない。
かくて、「新人教師」は「いたく疲れ」るのだ。
抜けきらぬ教師口調やサングラス 櫛部 天思
(『俳句』七月号「素心」より)
職業で身についた所作や口調は、現職を退いてもなかなか
抜けない。教師は管理職からも、同僚からも、生徒からも、
その保護者からも、「先生」と呼ばれる。授業時間内で、ま
とまった内容をわかりやすく説明することが求められ、生徒
たちを時に諭し、時に励まし、時に叱咤しなければならない。
そのような環境にいた教師は、職を解かれた後も、自分の
中に染みついている「教師口調」は抜けず、思わず知らず口
をついて出てしまう。そのことに、気恥ずかしさを感じてい
る作者―季語「サングラス」がその気まずさを代弁してい
る。