No.1112 令和6年12月号

井垣清明の書51

帰馬放牛

平成18年(二〇〇六年)六月
第41回北城書社展(上野の森美術館)
(個人蔵)

釈 文

馬を帰(かえ)し牛を放つ(『書經』武成)

流 水 抄   加古宗也


秋声や琵琶湖疎水の取水口
郡上八幡
橋一つ越えれば鳰の湖光る
枯葦や艪臍また鳴る手漕き舟
行く秋や佃煮を売る橋袂
酒少し欲しやたね屋の菊膾
秋に門開けあり近江兄弟社
小春日やむかし楽市楽座立つ
艪の音ににじむ哀調鳰の湖
落葉坂のぼりまたぎの里に入る
唐津
冬立てる日も唐臼の鳴りどほし
四阿は一本柱枯蟷螂
平積の本に目落とす文化の日
早や霜を置き丈草の座禅石
熊野にも富有柿あり甘かりし
お茶は熱点て床花は西王母
平刷毛に糊たつぷりと障子貼る
風呂吹や何はさておき八丁味噌
城茶屋や味噌でんがくの大皿を
艪音水音一丁潜り貌を出す
馬防柵立つその奥は大枯野

光 風 抄   田口風子


紫蘇は実に湖より暮るる隠れ里
盗人萩馬場まで小石混じる道
雀いろどき水占の水澄めり
手を繋ぐ子がゐて葛の花日和
蚯蚓鳴く夜や紅志野に般若湯
星月夜奈良町の灯の消えはじむ
大樹寺3句
貫木の間や秋のこゑどこからも
八代の墓小鳥来て小鳥鳴く
色変へぬ松反り美しき多宝塔
西行の泉に秋を惜しみけり

真珠抄十二月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


神の留守切れ味のよき裁ち鋏     新部とし子
自動ドア開くたび散る熱帯魚     加島 照子
月渡る東国一の古墳群        関口 一秋
温もりの残る堤防秋夕焼       竹原多枝子
関門は今日も雨降る彼岸花      中井 光瞬
葛咲くやもの恐ろしき温暖化     堀口 忠男
柘榴真赤や日参りの鬼子母神     池田あや美
芒穂に出て木道は風の道       工藤 弘子
奥飛騨へ向かふ車窓の稲架襖     荻野 杏子
その中に移住の人も村芝居      堀場 幸子
大耳の愚痴聞き地蔵萩の花      奥野 順子
震災忌墨堤下に木歩の碑       市川 栄司
水神に栗を洗いて供えけり      高濱 聡光
藍瓶に藍の眠れる白露かな      水野 幸子
雨音の中に妻ゐて夜の長し      中野まさし
声かくれば庭師は女松手入      江川 貞代
湖に向く夢二の画室水の秋      黒野美由紀
コスモスや仕度不用の小さき旅    斉藤 浩美
湿布貼りやる祖父の手や秋夜長    鈴木 恵子
角鑿で開けるほぞ穴花八手      長表 昌代
盂蘭盆会母に聞くことまだありぬ   平田 眞子
リハビリのゲームは輪投げ秋高し   石崎 白泉
昔話尽きることなき夜長かな     奥村 頼子
暴れ川奇岩を今に秋澄めり      今泉かの子
秋蟬のすがりて鳴ける鋳物墓     近藤 竹児
ふかしいも昔どの家も子沢山     髙瀬あけみ
迷ひなく銀の秋刀魚を真二つ     稲石 總子
泥流跡月こうこうと照るは悲し    石川 桂子
からくりや技と誇りの山車まつり   青山 静山
藤の実のたわわベンチは四人掛け   堀田 和敬

選後余滴  加古宗也


月渡る東国一の古墳群          関口 一秋
スケールの大きな句だ。山紫会の折、群馬県は全国屈指
の古墳の多い国だと聞いた。これまで、山紫会の句会場と
して訪ねた県立・土屋文明記念館の裏にも大きな古墳があ
り、公園として整備されている。私が学生時代に読んで感
動した本『幻の旧石器時代を求めて─「岩宿」の発見』の
岩宿もそうだ。そして少林山達磨寺の裏山の古墳。さらに
前橋市内にもいくつかの古墳が遺っており山紫会の吟行会
の折りに親しく案内していただいた。そもそも「群馬県」
という名前も人間と馬との共同生活、それもたくさんの馬
との共同生活があった証しのような名前だ。
この句「月渡る」という季語の斡旋が心地よい。
自動ドア開くたび散る熱帯魚        加島 照子
この熱帯魚はどこかのオフィスの入口に置かれているの
だろう。波多野爽波の句
金魚玉とり落としなば舗道の花  爽波
をふと思い出させる切れ味のいい一句だ。
桃吹くや吾にまだある好奇心   照子
の「桃吹く」という季語の斡旋のうまさ。「桃吹く」とい
うのは「棉の実」が爆ぜたときの姿が桃の実の形に似てい
ることから生まれた季語だが、この季語を生み出した人も
なかなかのロマンチストだと思う。
葛咲くやもの恐ろしき温暖化        堀口 忠男
葛は最も生命力の強い植物の一つだ。ゆえに今年も葛は
花を咲かせたのだろう。地球温暖化はいまとなっては、わ
れわれ庶民の力では何ともならないところへ来ている。少
しばかり車に乗ることを制限したからといってどうにもな
らないのではないか。国連でこの問題を取り上げてはいる
ものの、様ざまな利害とからまって、何とも先が見えてこ
ない。
小誌「若竹」に「とりごよみ」を連載中の高橋伸夫さん
から電話をいただき、最近の鳥たちの動向が、地球温暖化
によって、大きく狂ってきている、という。つまり、歳時
記と鳥の実際の行動とが大きく違ってきているというの
だ。したがって、観測の報告をしても季語と噛み合わなく
なっている。日本人の美意識の結晶ともいうべき歳時記も
地球温暖化によって現実と大きなギャップが生まれてきて
いるというのだ。さてさてどうしたものか。
芒穂に出て木道は風の道          工藤 弘子
鬼城忌全国大会の折に榛名山の近くの花野に遊ぶことが
できた。これまで何度も訪ねているが、やはり「花野」と
呼ぶにふさわしいところだと今回も思い楽しんだ。「夕す
げの道」と地元では呼んでいるようだが、少々、荒れ気味
でこれも温暖化のせいだろうが、この句「木道ば風の道」
が面白い、芒の穂の揺れるさまが見えている。
関門は今日も雨降る彼岸花         中井 光瞬
この句「関門は」という詠い出しが、まず心地よい。そ
れは「かんもん」という音がもたらしてくれる効果がまず
あげられよう。それに続いて渦潮に代表される関門海峡の
スケールの大きさが、読者の胸をわしづかみにしてくる。
もう一つ、轟々と流れる関門海峡の流れと斜めに降る雨
のコントラストの美しさ。そのすべてを彼岸花が受け止め
ている。
大耳の愚痴聞き地蔵萩の花         奥野 順子
地蔵様にはいろいろある。水掛け地藏・水子地藏・刺抜
き地藏、ちょっと目線を変えると六地藏。ところが「愚痴
聞き地蔵」という地藏ははじめて知った。ありがたいお地
蔵様がいるものだと感心した。耳が大きい、というのだか
ら、なるほどなるほど。そして、昔の人はこういう地藏を
生みだして、ストレスを解消し、生き抜いていく知恵とし
たのだろう。順子さんはこんな俳句の素材を見つけ出すの
がうまい。楽しみな俳人である。
湖に向く夢二の画室水の秋         星野美由紀
群馬県榛名湖畔に画家であり、詩人でもあった竹下夢二
のアトリエがある。現在のものは復元されたものだが、ア
トリエがあることで、夢二がいかに榛名を愛したのかがわ
かる。夢二は伊香保と榛名を行き来して創作に打ち込んだ
ようだ。湖畔の小公園に、かつて高峰三枝子が唄って大流
行した「湖畔の宿」という曲が、カリオンとして設置して
あり、鳴らして楽しむことができる。

木漏れ日の小径  加島照子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十月号より)


被爆樹も死す八月の爆心地          中井 光瞬
爆心地から二キロ以内に、被爆の惨禍を生き抜き再び芽吹
いた被爆樹は約一六〇本程残っています。熱戦と爆風による
深い傷跡をとどめたまま生き続けており、生命の尊さを語り
かける生き証人となっています。被爆後生きる気力を失って
いる人々に勇気と希望を与えてくれます。それでもこの猛暑
や樹齢に耐えられない樹木も残念ながらあったのでしょう。
平和の尊さをこれからも強く願わずにいられません。
鳳仙花はじけるまでを少年と         荻野 杏子
細長い笹の様な葉を持ち、色鮮やかな赤・白・ピンクの可
愛いい花を咲かせ、心地良い香りを放つ鳳仙花は熟すと種子
をはじき飛ばす楽しい花です。成長は楽しみなのに成長して
離れてゆく一抹の淋しさも垣間見え、少年と二人でどんな会
話をしていたのか興味をそそられる句に思えました。
よき畑や虫ゐて楽しもろこし剥く       三矢らく子
店先の野菜には虫が付いていないのが当り前の昨今です。
自然の生態系の農業は、虫の働きや自然の力を借りて成り立
つものです。土や虫達には生態系を豊かにする為の役割があ
り、そして人は楽しい収穫の喜びを味わえるのです。
朝顔や子の絵日記の主役なす         鈴木 玲子
種子を植えてから伸び出す蔓の巻き方や蕾のねじ巻き、開
く花弁と次々に描く対象が変化して毎朝楽しみになり、じっ
くり観察していくのも良い習慣になっていきそうです。
背の伸びる少年少女休暇果つ         斉藤 浩美
成長期の子供は驚く程身長が伸びる時期があります。特に
夏休みで色々な体験をする事で身長だけでなく心の成長にも
大きく影響し、びっくりする位頼もしくなっていきます。楽
しく充実した時間がよく言い表わされている句です。
子との距離少し縮まる夜寒かな        飯島 慶子
日中は感じられない寒さが夜更けに感じる頃、親離れした
子とのふとした仕草に寄り添っている微妙な親子関係を詠ん
でいます。誰しも共感が得られる句と思われました。
バリトンの声優しくて夏の夜         荒川 洋子
バリトンは「テノール」と「バス」の中間音域で、高過ぎ
ず低過ぎずの心地良い声域は、特に女性はその声を聞いてい
るだけでうっとりします。大人の落着きと渋さはまだまだ暑
い夏の夜の一服の清涼剤になり安らぎを与えてくれそうです。
鉤万燈消えて麓は盆の闇           乙部 妙子
九〇〇年の歴史を持つ西尾市の夏の風物詩です。
法螺貝の合図で鉤形の「スズミ」に松明が一斉に点火され、
夜空に浮かび上り幻想的な雰囲気に包まれます。そんな余韻
にひたっていたのに火が消えると闇の深さが一層増して感じ
られる実感がとても良く伝わってくる句に思いました。
土用三郎パエリアに残る芯          天野れい子
パエリアはスペインのバレンシア地方の郷土料理で、魚介・
野菜の具材をたっぷり使いサフランで色付けした炊き込み御
飯です。大きなパエリア鍋で米から炊くので芯が残る事もた
まにあります。夏の土用入りから三日目の土用三郎との取り
合わせがとても巧みで面白い句になっている印象を受けまし
た。パエリア鍋から皆でスプーンで直接すくって食べるのは
にぎやかで美味しいに違いありません。
いもづるを食べた記憶や終戦日        濱嶋 君江
戦時中は芋が食べられず芋蔓を食べた話は私も姉から聞か
されました。食べ盛りの頃にさぞひもじかっただろうと思っ
ていました。ところが芋蔓には食物繊維を始め栄養が豊富な
事を後で知って驚きました。今は溢れる食材に囲まれて食べ
過ぎに注意しなくてはいけない皮肉な時代になりました。
鈴虫に家族の会話さらわれる         岩田かつら
家族の会話をさらわれる程の鈴虫の鳴き声に聞き惚れてし
まう事は私にもありました。猛暑にうんざりしていた頃に、
ふと夜聞こえる鈴虫の声にはほっと救われる瞬間です。
いつまでこの暑さが続くのかと思っていても、自然の営み
は静かに動いていたのだと嬉しくなる時でもあります。
お帰りと擦り寄る猫や夜の秋         中澤さくら
犬のように尾がちぎれる程の陽気な出迎えはありませんが
飼主を待っているのは犬も猫もきっと同じ気持ちだと思いま
す。派手な出迎えをしない代わりに足元に擦り寄ってくるだ
けで嬉しくなります。うだる様な日中と違い晩夏には夜にな
ると秋の兆しが感じられます。丁度猫がそっと擦り寄って来
る様なそんな雰囲気が季語とよく合っている句となりました。

一句一会     川嵜昭典


西向きの部屋に住み古り大西日   名和未知男
先立ちし者は幸せ蚯蚓鳴く     
(『俳壇』十月号「行基の墓」より)
「西向きの」の句。「住み古り」であるから、この大西日と
は毎年のことなのだろう。西日のうだるような暑さを呪いな
がらも、どこか西日と折り合いをつけながらせっせと日常の
生活や句作に励む。それは大きく言えば、地球の自転や公転
の上で、人類がせっせと人類らしい活動に勤しんでいるよう
すを想起させる。地球にとっては取るに足らない地上の生き
物の行為だが、人類にとっては意義のある行為。そんな人類
の宿命のようなものを感じさせる。
「先立ちし」の句。残された者たちの喪失感と「蚯蚓鳴く」
の季語とが絶妙に引き合う。それは現世の生きている者が、
先だった者へもう届かない声を伝えたいという行為と、「蚯
蚓鳴く」のように実際には聞こえないはずの蚯蚓の鳴き声を
聞くという行為とは、聞こえないはずの声を伝える行為とい
う点で一致しているからだろう。今を生きている人間の、浮
世の足掻きのような切なさを感じる。
瀧壺に揉まれ野鯉の黒目かな     田島 和生
(『俳壇』十月号「帰郷」より)
瀧壺はとても涼しげで見ていて気持ちのいいものだが、古
来から瀧壺には瀧の主が住むと言われている。すなわち掲句
の「揉まれ」は、瀧の主に揉まれた、とも受け取れるわけで、
そう思うといっそう野鯉の黒目が荒々しく、また凄みが感じ
られる。また視点が、瀧壺から鯉の体、そして黒目と、順に
絞り込まれていくことで、読者がその凄みにぐっと引き寄せ
られていくようにも感じられる。
空の青けふきはまりて鳥渡る    江崎紀和子
(『俳壇』十月号「空」より)
絵にするならば、まったく何もない空の青にすっと一本の
線を引いたような、極めてシンプルな構図だろう。そしてそ
れだけで十分な美しさがある。何かを決心したとき、また決
心というほどは大げさではないが何かを心に秘めたとき、見
上げた空の青さが胸に沁みることがある。どこまでも広がる
青空に、その心持も広がるように感じることがある。そんな
とき、その心持を後押ししてくれるのはやはり掲句での鳥の
ような、生き物や人だったりする。大きな自然の中に生きる
厳しさとともに、生きる温もりをも感じさせる句。
口開けて貝のころがる旱川         朝妻  力
(『俳壇』十月号「海たる過去」より)
光景として何の説明もいらない句だが、この句に惹かれる
のはそれが自然の厳しさをありのままに詠んでいるからだろ
う。厳しいと感じるのは人や貝の立場に立てばこそのもの
で、自然からすれば単なる現象でしかないのだが、やはり、
その厳しさに一つの感慨を感じずにはいられない。生きてい
く上ではもちろん辛いことや苦しいこともある。それも含め
て人が形作られてきたのであり、辛いことや苦しいことも人
の一部だと思えば何かそれらが受け入れられるような気もす
る。そんなことをこの句を読んで思う。
人満ちて電車無言のまま秋へ    久留島 元
(『俳壇』十月号「終点」より)
毎日を働くのに忙しい人々は、季節が夏から秋に変わった
のも気づかないままその忙しい日々を過ごしている、とも読
めるし、秋の山などに行楽に行く人々を乗せた電車が走る、
とも読めるが、「無言」という言葉から考えれば前者だろう。
もう人々には季節が不要になったのではないかと思えるほ
ど、外を見るよりはスマートフォンに夢中で、毎日が目まぐ
るしく変わっていく。それでも救いがあるのは季節というの
は間違いなく人々を次の時間、次の時間へと連れていってく
れるところだ
手拭ひのすぐに乾ける秋桜   石田 郷子
(『俳壇』十月号「荒鵙」より)
からっとした気候にからっとしたコスモスの花。清々しい
空気感が伝わる。また「手拭ひ」が、例えば家庭内での労働
や畑仕事などの労働で使ったものだとすれば、当たり前の日
常の、それでいて尊い一日であることを想像させる。一日一
日を噛みしめながら生活をしているような句。
山の影山に凭るる秋の暮   石井いさお
毒たつぷり蓄へ蝮穴に入る   同
(『俳壇』十月号「僧兵まつり」より)
「山の影」の句。だんだんと影が長くなり、その影が隣の
山に届く。山は山で、秋の寂しさを紛らわせているような、
もしくは分け合っているような、そんな感慨を「凭るる」と
いう言葉からは感じる。
「毒たつぷり」の句。「毒たつぷり」という表現に、人と敵
対する生き物というよりも、蝮の生き方をそれなりに尊重す
る温かさがある。どちらの句も、その山やそこに住むものの
息遣いや匂いのようなものが感じられて面白い。