No.1116 令和7年4月号

井垣清明の書55

曲 肱

平成23年(二〇一一年)一月
第50回日書学展(シアター1010ギャラリー)

釈 文

肱(ひじ)を曲げる。(『論語』述而第七)

 

流 水 抄   加古宗也


輪島には古き友あり風二月
北窓を開ければ白き雲流れ
風二月尖塔の上の風見鶏
北窓を開く南木曽は木地の里
鳶の輪の上に鳶の輪風光る
任侠の心を温た ずね瓢々忌
額に入るお蝶の写真暖かし
尾﨑士郎の墓
東光の文字美しき瓢々忌
春光や岬の上に立つ劇場碑
我ここに存す草の芽つんつんと
士郎忌の更地となりし生家跡
大嚔して身の内の鬼を吐く
染寺の染井を囲み寒あやめ
当麻寺へまつすぐな道蓬生ふ
菜の花を供華とし辻の地蔵堂
安曇野に二連の水車猫柳
水沢うどんたつぷり入れし蕗の薹
里寺に角力塚あり紅椿
尊氏が開基の一宇囀れる
梅茶屋の床几や厚き緋毛氈
落柿舎の裏に墓あり春の霜
浅春や指をもて読む英治の書

光 風 抄   田口風子


街道のどの玄関も吊し雛
雛の間の奥に湯殿と雪隠と
本陣の女中部屋まで雛の間
草芳しき丸く並べる丸木椅子
駒返る草に寝墓の一つ増ゆ
駒返る草を踏んだと嬉しさう
葡萄芽吹く日曜の午後の弥撒
春浅し弥撒の大扉の閉されをり
ポケットの手を淡雪へ淡雪へ
そこの春コート吊橋揺らさないで

真珠抄四月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


雛飾る男の書斎狭めては       荻野 杏子
昼神の湯屋守様や雪もよひ      堀田 朋子
立てて売る鮪の頭寒戻る       市川 栄司
まう見えず手袋持ちて追ひたるに   工藤 弘子
伊勢よりのしぐれはまぐり建国日   辻村 勅代
二ン月や日没急に遅くなる      石川佳弥子
スニーカーの寒行僧に追ひ抜かれ   磯村 通子
街に出て伊吹颪の交差点       和田 郁江
秋晴や犬を黙らす猫パンチ      梅原巳代子
ゆつくりと歩けば寄りて寒雀     内藤 郁子
水仙の花より低し海女の墓      稲吉 柏葉
一夜漬とて大根の皮旨し       池田真佐子
白鳥の飛び交ふ沼や初白根      堀口 忠男
ご近所と話したくなる冬の雷     田口 綾子
蜜柑鈴生り発電所に隣る庭      山田 和男
立春や雀ぱらりと来て着地      三矢らく子
なまこ食む忘れし老いの喉仏     中井 光瞬
純白の葛や吉野の寒ざらし      青山 青山
地吹雪や越後潤す信濃川       加島 孝允
箒に暇なし山茶花散り急ぐ      髙𣘺まり子
せせらぎの光まぶしむ二月かな    笹澤はるな
樫ぐねや屋敷稲荷の午祭       渡邊 悦子
湯の里の銀座通りの農具市      鈴木 玲子
知多へ行くバスや背に貼る紙懐炉   重留 香苗
寒北斗吾を見初めし義母逝けり    堀田 和敬
節分や路地駆け抜けて追いかけて   高濱 聡光
猿曳や相棒の猿死んだふり      白木 紀子
子の去りし部屋しんしんと雪の音   桑山 撫子
どんど組むまず一本の真竹据え    竹原多枝子
夫逝きてのち嫁が君訪ね来ず     江川 貞代

選後余滴  加古宗也


昼神の湯屋守様や雪もよひ         堀田 朋子
「昼神の湯屋守様」といえば、長野県昼神温泉湯守りの
神様を詠んだものだろう。私も一度訪ねたことがあったが、
名古屋からもそんなに遠くなく、宿の前で朝市なども開か
れて、地採りの新鮮な野菜が並ぶ。近年は、星の観察会が
盛んに行なわれるところとして人気を集めているところ
だ。中日ドラゴンズの落合選手(のちの監督)がシーズン
オフに個人的な自主トレをする温泉として、知る人ぞ知る
温泉場だ。「雪もよひ」の季語によって、さすが山間、朝
夕の寒気をさりげないが適確に伝える一句。「湯屋守様」
がなんとも心あたたまる。
古書店のひとり商ひちやんちやんこ     加島 照子
古書店のオヤジというのは、たいてい独特の風格という
ものを持っている。多くの古書店主は何となくインテリ臭
く、同時にいかにも物臭さそうな顔つきをしている。
新刊書の店員がパチパチパチとレジを打って、おいくら
です。ありがとうございましたとスピード感で本の売買を
するが、古書店のオヤジはゆっくりと表紙裏の正札をはが
したり、中には鉛筆書きした値段をめんどくさそうな顔を
して読み取ると「〇〇円です」とこれまた元気なく売値を
言う。場末の古書店のオヤジはいかにもちゃんちゃんこが
似合う。
雛節句男の書斎狭めては          荻野 杏子
男尊女尊というと少々、封建制度がそのままのこってい
るようにみえるが、日本にはまだまだ男性を優先した暮し
方をしている人がいる。そんななか雛節句が近づいてくる
と一変、女の子中心の暮しが展開する。ことに女の子の多
い家庭では、お父さんはいよいよ家の隅に追いやられる。
この句「書斎狭めては」ではなく「男の書斎狭めては」と
わざわざ「男」が登場してくるところが面白く、この季節
ばかりは攻守ところを入れ変えるといった表現が面白い。
お父さん大好き。でも雛節句のときだけはご免ね、とい
う声が聞こえてくるところがいい。
ちなみに、わが家は、女の子がいないため、私の趣味の
木彫雛(三河一刀彫)を一ヶ月ほど棚に飾って、雛の季節
を楽しんでいる。
夫逝きてのち嫁が君訪ね来ず        江川 貞代
「嫁が君」はねずみのことで、正月に使われる。いかに
もかわいらしい呼び方で、正月にふさわしく私は好きだ。
ところで、この一句、夫が亡くなった後、ねずみがわが家
を訪ねてくることがなくなった、といっている。どうして
訪ねてこなくなったかについて、何もいっていない。いな
いが、「ねずみも夫が好きだったんだ」という答えが聞え
てくるのが楽しい。
立てて売る鮪の頭寒戻る          市川 栄司
「立てて売る」といわれて初めて意識したが、確かに魚
市などで売られる鮪の頭は立てて売られている。どうして
かと考えてみるに、寝かされた頭は遺体の一部という感じ
で、立ててあると切り目から下が首につながっているよう
に思える。目の錯覚には違いないが、遺体と生きている物
体では、その意味はおのずと違ってくる。「寒戻る」によっ
て、その鮮度がさりげないが確保された。
まう見えず手袋持ちて追ひたるに      工藤 弘子
忘れものの手袋を見つけて、急いで追いかけたがみつか
らなかった、というのだ。「手袋持ちて」というのは、そ
の手袋を忘れていった人を追いかけたというのだろう。手
袋を忘れた人が去った後の時間と手袋を見つけるまでの間
の時間に差があったことを、何となく示唆している。「ま
う見えず」とがっかりした作者の思いが愛しい。
立春や雀ばらりと来て着地         三矢らく子
「ばらりと来て」がいい、春になって雀たちも、それぞ
れ気ままな行動をするようになってきたのだ。しかも、ぴ
たりと着地も決まっている。はるののびやかさが、心地よ
く表現されて過不足がない。
箒に暇なし山茶花は散り急ぐ        髙𣘺まり子
山茶花は散り始めると散り切るまで散りつづける。「掃
いても掃いても」というところを「箒に暇なし」と言い取っ
たところが面白い。
西尾市吉良町の宝光院には樹齢四百年といわれる山菜花
の大樹がある。十一月になると一勢に花が咲き、樹の周り
は花弁で見事に埋まる。この寺の先代は若竹同人で、この
寺に吉良東條句会の同人が集まって月例句会が開かれてい
た。うしほ・潮児・銀波・里山の句碑とともに鈴木いはほ
さんら吉良東條の青年俳人の合同句碑があり、句碑苑を形
づくっている。

木漏れ日の小径  加島照子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(二月号より)


宿帳に漱石の字も白椿            市川 栄司
漱石は転地療養の為修善寺温泉「菊屋」に二ヶ月程滞在し
ました。病状は一時危篤状態に陥ったものの少しづつ回復に
向かいました。この間同宿して治療をした医師に対しての想
いは格別で、人によって生かされているという事実に目覚め
漱石の後期の作風に重みを増す大きな影響をあたえた言われ
ています。季語の「白椿」が格調高く句を引締めています。
神鹿のもてる白息見てをりぬ         荻野 杏子
「神鹿」は奈良の春日大社が有名です。古くから鹿を「神
の使い=神鹿」として大切にしており、今も奈良公園には
一二〇〇頭のニホンジカが保護されています。あどけない眼
を見ながら神へつながる素朴な想いを感じ、白息に焦点を当
てた作者の感性が素晴らしく、優しい表現方法にも好感がも
てました。
冬雀神に真向ふ村舞台            堀田 朋子
江戸時代中期頃、神社に奉納する地芝居として始まった「小
原歌舞伎」は、農村の少ない娯楽、地域芸能として今も保存
会の人達により受け継がれています。境内にある舞台には自
前演者、女性や子供の活躍を見る事も出来、又楽しい演目も
一見の価値がありそうです。冬雀の取り合せもさすがです。
小春日を象のふじ子と遊びけり        水野 幸子
岡崎市東公園に行くと象の「ふじ子」に会えます。スリラ
ンカから来て一人で生きて五十六才になりました。繊細な足
裏と高い知能で最も賢い生き物のひとつです、姿は全く違え
ど実は象は人に近く、喜びや悲しみ等の感情を持っており、
仲間の心に寄り添う共感力もあります。そんな象とゆっくり
過ごしている作者の気持ちに共感しきりです。
をちこちを病みし句友やちやんちやんこ    重留 香苗
綿入れの袖なし羽織は冬の防寒着としてとても重宝です。
旧友との再会に病気の話題は世代的に同感です。年を重ねる
毎に体調の不安はついて来ますが、久し振りに会えた喜びに
季語の「ちやんちやんこ」が作者の優しい思いやりを感ぜず
にいられない一句と思いました。
師走来る刃物研ぎ屋の御用聞き        松元 貞子
私が幼い頃はよくご用聞きが家に来ていました。その中に
研ぎ屋がシャカシャカと研いでいるのを横からじっと見てい
た事を思い出しました。最近では手頃な研ぎ器もありますが
砥石で研いだ物とは比べ物にならない出来上りです。懐しい
御用聞きも来ず、今は夫が俄研ぎ師となって我が家の刃物を
光らせています。
時雨るるや少し熱めの道後の湯        清水みな子
日本最古の温泉の道後温泉は、歴史、美人の湯と言われる
泉質、そして風情の一つ「刻太鼓」の音色と見所満載の地で
す。至る所に投句箱がありまさに俳人の聖地とも言えます。
聖徳太子・漱石・子規も馴染みの湯として知られ、少し位熱
くても何度でも訪れて湯につかりたいと思っています。
鍔に彫る小さき十字や露こほる        橋本 周策
切支丹ゆかりの栄国寺の境内にある切支丹博物館には、マ
リア観音や、踏絵等の当時のままの姿で保存展示されて、
人々の苦悩が偲ばれます。隠しながら必死に信仰を守る気持
ちを無惨に処刑してしまう時代背景に憤りを覚えるのは、こ
の地を訪れた誰もが感じてしまう事だと思いました。
冬ひざし布袋坐像の腹の照り         奥野 順子
京都宇治の萬福寺の布袋像は、七福神の唯一実在の人物と
言われています。大きな袋を担いで国中を旅していた先で、
貧しい人々に袋の中から必要な物を与え、救われた人がお礼
を袋に入れ再び旅に出る。そんな繰り返しで袋はどんどん大
きくなりました。優しい笑顔やふくよかなお腹から暖かな人
柄が伝わってくる様で楽しい一句になりました。
ヘルパーは八十路よ勤労感謝の日       田畑 洋子
仕事に励む人に感謝するだけでなく、働ける事に感謝して
自分にも役割が与えられ社会に貢献できる喜びは、何才に
なっても大切な事です。八十才を過ぎても他人様の世話に回
れるなんて何と素晴らしい、人生百年時代と言われても実際
に百才迄元気で過ごす事は難しいですが、働ける喜びがあれ
ば何よりも生活に張りをもたらしてくれると思います。
数へ日や昭和九十九年も果つ         長表 昌代
昭和は一九二六年に始まり「戦争の時代」「成長の時代」
「縮少の時代」と大きく変化しました。振り返ると懐かしい
思い出は山程あり感慨もひとしおです。忘れる事が増え新し
く覚える事も増えました。もう一頑張りしたいものです。

一句一会     川嵜昭典


長かりし一年を来て観る桜          小倉 蒼蛙
(『俳句四季』二月号「この世の眺め」より)
「まだあのときから三か月しか経っていないのか」など、
何か大きな出来事や、人生においての大きな決断があったと
き、そこから起算する年月は、とても長く感じられることが
ある。そんなことは人生で数えるほどしかないかもしれない
が、また人生において必ずあることも確かだ。掲句の「長か
りし一年」はそんな、作者にとっての大きな一年だったこと
に間違いなく、そしてまた桜というのは、どの花にも増して
一年が経ったことを感じさせてくれる。そこにはさまざまな
感情が入り混じるが、確かなのは、その期間を何とか生き抜
いてきたという実感と感慨だろう。一年の長さは毎年等しい
かもしれないが、そこに生じる濃淡は違うものだ。
十薬の刈るには惜しき白であり        伊東 法子
(『俳句四季』二月号「袈裟着けて」より)
雑草ならば何の迷いもなく刈ることができても、真っ白な
花を咲かせたどくだみを刈るとなると、少し勇気がいる。花
というものに、実用以上の意味を見出しているのは人間だけ
だそうだが、それが人間というものだろう。いずれにしろ、
殊にどくだみの白は、白ゆえに尚更ためらいが生じ、自分の
心を逆に見られているような気もする。
箔押の残る古本憂國忌            菊池  健
(『俳句四季』二月号「饒舌な闇」より)
自分が若かったせいかもしれないが、昔の本には重厚感が
あり、どこか特別感があったように思う。文庫になった本と
同じものでも古本屋で立派な箱入りのハードカバーなどを見
つけると、中身がだぶるのを承知でつい買ってしまう。掲句
のような箔押のある本が今ではあまり見かけなくなってし
まったのも、本の価値が少し変わってきてしまっているから
だろう。そういう意味での「憂國忌(三島由紀夫の忌日)」
の季語は、文字の情報は溢れているのに文字の価値は軽く
なっている現代において、意味のある斡旋だと思う。
オーボエに十一月の木のにほひ        矢野みはる
(『俳句四季』二月号「遊ぶ」より)
オーボエと同じ木管楽器で、ピッコロを吹いていた自分と
しては、楽器から木の温かみを感じるということはよく分か
る。金属で作られたフルートを吹くときとは少し違って、木
でできた楽器に息を通すというのは、木と会話しているよう
な気になる。ただ、掲句のように、木で作られた楽器に匂い
がある、匂いを感じるというのは考えたことがなかった。
オーボエは、主にグラナディラという黒い木でできている
が、これは同じ黒い木管楽器であるクラリネットやピッコロ
でもそう。おそらく作者は、十一月にオーボエを吹いたと
き、他の季節からは感じられない温もりを音から感じられた
のだろう。殊に「木のにほひ」という観点からすれば、確か
にこの十一月、というのは動かないような気がする。オーボ
エの黒い色というのは、それくらい冬の兆しに似合うような
説得力がある。意表を突いているが共感が持てる句。
木の芽雨そのまま雪となりにけり       高田 正子
(『俳句四季』二月号「ぽつちりと」より)
もう春になるという喜びもつかの間、また寒さがぶり返
す。ただ、春になるというのはこの繰り返しだと思うと、こ
の雪にも希望が感じられる。外で木を見ながら、一人佇んで
詠んでいるような句だが、木と会話しながら自身の心とも会
話をしているというのは、俳人独特の心情であると思う。
どのバスに乗つても行先は枯野        髙橋 健文
(『俳句四季』二月号「月が追ふ」より)
枯野には枯野の美しさがあると教わったのは、他ならぬ俳
句からだ。掲句は、冬の季節の状況でもありながら、また誰
もが到達する人生の冬をも感じさせる。ただ、それはそれで
幸せだろうと感じるのは、俳句における「枯野」だからだろ
う。季語の持つ力を感じる。
凩や二両電車の型違ひ            望月  周
クリスマス成人映画名作選          同
(『俳句四季』二月号「白線」より)
「凩や」の句。二両しかないのだから車両の型は揃いそう
なものなのだが、そうではない面白さと、そのちぐはぐさに
凩が吹き寄せるようすは少し物悲しい。とはいうものの堂々
とその違いを見せながら電車が進む姿には力強さがある。
「クリスマス」の句。世の中がずっと潔癖になって、以前
は少し角を曲がればそこにあったような雑多さ、猥雑さがな
くなってしまった。一方で、人は、どこまでいってもその中
に矛盾を抱えながら生きているものである。掲句もそんな、
本音と建前のような、上五と中七下五との対比が面白い。こ
れはこれでクリスマスの一つの在り方のような、もしくは人
の本質の一つを言い当てているような説得力がある。
どちらの句も、今の世の中から排除されそうな野性味を感
じさせ、読んでどこかほっとする。