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井垣清明の書56抱 甕平成23年(二〇一一年)七月 釈 文子貢(しこう)、南のかた楚に遊び、晋(しん)に |
流 水 抄 加古宗也
春や確かに浦波はささら波
深き堀めぐらす城址梅盛り
冴返る老年兵と云ふ言葉
春炬燵寝転んで読む虚子句集
縄文の土器(かわらけ)拾ひたんぽぽ野
ヤンマーのトラックが来る花菜畑
養花天妻が押しくる車椅子
春の波屁ひりが浜といふ浜辺
雨上がるや高塀伝ふはらみ猫
当麻寺
陀羅尼助煮る大釜や春の猫
美しき中将姫や春灯
草の餅くるんでくれし男かな
吉良花岳寺
華蔵寺に隣る花岳寺春筍掘る
郷寺のお庫裡蓬を籠に積む
路地急に石段となり恋の猫
飛石の一つは礎石花の雨
尊氏が創建の寺つつぢ咲く
竹秋や声出しうたふ万葉歌
牡丹の崩るるさまにたぢろげる
尊皇と云ふ名の地酒あさり蒸し
光 風 抄 田口風子
竜天に登る墨俣一夜城
千成瓢箪(せんなり)の初めの一つ竜天に
孕雀破風のあはひを鳴きながら
残り鴨羽搏く出世橋の下
下萌や欠けて寄せらる五輪塔
日溜りの流れのゆるき猫目草
紅梅の香も白梅の香も枝垂れけり
涅槃西風レースの襟も眩しめる
囀近し匙ながき抹茶パフェ
お隣の椿切らせてもらひけり
真珠抄五月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
友逝きて二月は逃げるやうに過ぐ 奥村 頼子
春疾風竹のしなへるだけしなふ 石川 裕子
雛売り場用なき今も立ち止まる 市川 栄司
水温む両脚立ちのフラミンゴ 平井 香
核のなき星はいづこに花あせび 堀口 忠男
冴返る地下に未完の裸婦置きて 工藤 弘子
白梅や母の墓標は朱を抜かれ 堀田 朋子
壬生念仏菓子屋は大戸開け放つ 辻村 勅代
春雪の思はぬ嵩に足取らる 鈴木 玲子
牛小屋に牛の鳴き声春の雪 中井 光瞬
春北風に髪を乱して伊勢参り 竹原多枝子
儺追笹負ふ褌の柔道部 堀場 幸子
蜆採る舟より長き竿を立て 大杉 幸靖
お蚕時雨奥間に稚の深眠り 関口 一秋
電車つ子はホーム先端春を待つ 鶴田 和美
残雪の飛騨国分寺一位の木 荻野 杏子
町医者のくれし頓服春の風邪 斎藤 浩美
アンケート答へてもらふ種袋 奥野 順子
建国日庭師じっくり話し込む 内藤 郁子
延竿の引きの鋭き鰻かな 長澤 弘明
シャツの柄気にいつてをり春を待つ 中野まさし
生き物の何もゐぬ砂洲春浅し 長坂 尚子
長靴の似合ふ尼僧や揚雲雀 鈴木まり子
少年の夢は保育士卒業す 黒野美由紀
大和雛飾つてありし島の家 安井千佳子
座席まで積み込む土産春野菜 春山 泉
木の芽晴奇岩せり出す妙義山 笹澤はるな
雛納め姉妹ばかりの寄り来る 高濱 聡光
春暁や車の街の動き出す 松元 貞子
春光や古民家カフェの門構え 鈴木こう子
選後余滴 加古宗也
残雪の飛騨国分寺一位の木 荻野 杏子
飛騨高山は私の最も好きな町で、青年時代から幾度も訪
れている。街の中央に飛騨国分寺があり、境内に巨木が立っ
ている。また、高山は一位の木で作った彫刻が有名で年が
たつにしたがって美しい光沢を放ってくる。高山祭りは余
りにも有名だが、宮川沿に出る朝市がまた有名で楽しい。
高山近辺の農家から毎朝新鮮な野菜が持ち込まれる。朝市
は高山陣屋前にも出る。高山は「下々下の下刻」と呼ばれ
た時代から、辛抱強い人が多い。一位の彫刻とともに近年
は「飛騨牛」が「松阪牛」に負けない人気を得て、高山市
街にも「すき焼き」のうまい店がある。この句「残雪」が
高山の風土を見事に表現している。高山で暮した作家で俳
人の瀧井孝作(俳号・折柴)の句に「峠ニハ マダ雪消ズ
水芭蕉」がある。
じつは、高山経由で、奥飛騨温泉郷まで足を伸ばすのも
いい。
電車つ子はホーム先端春を待つ 鶴田 和美
「乗り鉄」とか「撮り鉄」とかいう言葉があるが、鉄道
マニアというのは意外に多い。そして、鉄道マニアは子供
の頃から親の影響で、という人が多い。作者のお孫さんも
そうらしく、作者自身もお孫さんをつれて、鉄道を見にゆ
くらしい。上掲の句など、まさに電車が大好きな子供の行
動を適確にとらえて過不足がない。
冴返る地下に未完の裸婦置きて 工藤 弘子
未完の裸婦、というのが、どきっとさせられる。彫刻の
基本は人間の裸であるといわれるが、人間を素材とすると
き、例えばデッサンが少しでも狂っていると、直ちにそれ
は彫刻家でなくても見抜くことができる。それは見る人が
人間だからだ。地下にアトリエを持つ彫刻家が意外と多い
が、作者はそれを見たのだろう。「冴返る」という季語が
怖ろしいほど効いている。
壬生念仏菓子屋は大戸開け放つ 辻村 勅代
壬生念仏の無言劇は筒、太鼓、鉦といった楽器で、物語
をつづってゆく。その日は終日、壬生はにぎわう。はねあ
げ式の大戸で、店の開け閉めをするところが多い。店の中
まで鉦の音が届いてくるようだ。出演者は世襲で同じ役を
演じる。「一子相伝」に似たこの方法は簡単に説明しきれ
ない不思議な力を感じる。
牛小屋に牛の鳴き声春の雪 中井 光瞬
牛小屋の中から牛の鳴き声が聞こえてくる。牛が何を
言っているのか、牛が何を訴えているか。牛飼いにしかわ
からないことだが、牛は確かに春を引き寄せているように
聞こえる。春の雪はとことん明るい。
長靴の似合ふ尼僧や揚雲雀 鈴木まり子
テレビのドキュメンタリーで、山寺に住む尼僧主従の生
活ぶりを折り折りに紹介するという番組がある。まさに質
素倹約を旨とする主従、分相応の暮しを大切にして、しか
も、屈託のない人柄と暮しを明るく紹介している。「長靴
の似合ふ」とは、贅沢を拒否しているということであり、
働き者である証左だ。この明るさが魅力で里人がたびたび
訪ねてくる様は、人の幸せとは何かをさりげないが、適確
に示唆してくれるドキュメンタリーとして魅力にあふれて
いる。青つむりが美しい尼僧二人だ。
友逝きて二月は逃げるやうに過ぐ 奥村 頼子
短い二月。いよいよ心が真白に過ぎた。
白梅や母の墓標は朱を抜かれ堀田 朋子
生前に建てた墓標は文字に朱を入れるのが多くの墓のあ
りようだろう。朱を入れることで長生きを願うという意味
もあるようだ。「朱を抜かれ」に、落胆の大きさがストレー
トに胸に迫る。
蜆採る舟より長き竿を立て 大杉 幸靖
蜆舟の竹竿は舟を移動させるためだけに使うのではな
く、水の深さ、蜆の居場所まで見分ける道具にもなってい
るようだ。長良川河口には蜆舟が多い。まさに風物詩といっ
ていい。蜆舟は桑名湾に集まって競りにかけられる。無論、
はまぐりも水揚げされ競りにかけられる。その競り風景は
独特で楽しい。
座席まで積み込む土産春野菜 春山 泉
在所帰りの風景だろうか。持てるだけ持ってゆく。新鮮
な春野菜を喜ぶ母の姿が想像されて心地よい。
延竿の引きの鋭き鰻かな 長澤 弘明
釣りの醍醐味が過不足なく表現されて心地よい。釣りの
楽しさが詠み手にもストレートに伝わってくる。
木漏れ日の小径 加島照子
青竹集・翠竹集の作品鑑賞(三月号より)
追羽子や今も置屋の輪違屋 市川 栄司
新選組ゆかりの「輪違屋」は、京都の古き良き花街の島原
にある置屋です。以前訪ずれた時は近藤勇や桂小五郎の直筆
や、「傘の間」や「紅葉の間」等歴史そのままを今も見る事
が出来て驚きました。今は太夫の育成や宴会の場として営業
しています。追羽子の季語が巧みに効果を出して、花街の華
やかさを思い浮かべる事が出来ました。
萩焼や休雪の手に雪深む 中井 光瞬
山口県の萩焼は、飾り気のないシンプルで独特の優しい風
合が魅力的です。絵付がなく「土」本来の美しさや人肌を思
わせる様な手触りや感触を楽しめます。中でも「三輪休雪」
の作品は純白に近い釉薬を使用して、まさに雪深むと詠まれ
たのも頷けます。手に取るとほっとする温もりを感じさせる
焼き物に出会えた嬉しさを味わいました。
車椅子漕いで加わる初句会 髙橋 冬竹
卒寿を超えても尚俳句に前向きに向かう生き方には、尊敬
の念に堪えません。人生を精一杯謳歌されているエネルギー
や情熱は、多くの句友達の大きな励みになります。今後も
日々句を読み続ける姿を見せて下さると嬉しいです。
六花「麗子」と過す美術館 渡邊 悦子
岸田劉生は、娘の麗子をモデルに描き続けた孤高の洋画家
です。「内なる美」は写実を越えた神秘性と、娘への愛情表
現と同時に、様々な画風や技法に挑戦する芸術の集大成とな
りました。絵の中に自分の内面を表現し、自分が描きたい様
に描く要素が加わり、見た目の印象は大きく変わりました。
劉生の人間味を感じさせる最高傑作と言えます。私も始めて
「麗子」と出会った時は長い時間立ち尽くしていました。
花びら餅少女に生るる恋心 新部とし子
花びら餅は平安時代にルーツがあると言われ、今もお正月
に長寿を願って食べます。梅の花びらを表現してほんのり透
けて見える淡い紅色には少女の恋の生まれる雰囲気をよく表
しています。淡い恋心を抱いた思春期の頃が蘇った読み手も
多かったのではと思いました。
雪の真夜梁の軋みに目を覚ます 磯村 通子
雪深い地域では屋根の積雪の雪下ろしをしないと、窓や戸
が開かなくなったり、梁の軋みを聞く事が多々あります。
「家鳴り」という現象は倒壊までしなくても、不安になって
くる気持ちはよく分かります。雪下ろしや雪掻が必須の毎日
は高齢者にはかなり負担になります。ただ春の兆しを逸早く
感じ、春には誰よりも喜びを感じる事があると思います。
シュトラウスのワルツ楽しむ年始 平田 眞子
ウィーン楽友会ホールでのニューイヤーコンサートは、元
旦の恒例行事になっており、生中継で世界中に配信されてい
ます。我家も欠かさず見ています。「ワルツ王」と言われた
ヨハンシュトラウスは生誕二〇〇年となり、「美しく青きド
ナウ」を始め多くの名曲が世界中に共有できる心豊かな時間
は、これからも大切にしていきたいものです。
大小の杵浸け置かれ小晦 鈴木こう子
餅搗の準備は前日から始めます。餅米を始め杵や臼も水に
浸けて置きます。これで割れにくく餅が搗きやすくなるので
す。合いの手のリズムも楽しい行事ですが、最近は便利な家
電のせいで見かける事が少なくなり少し残念でもあります。
ベツレヘムの方角知らずクリスマス 乙部 妙子
ベツレヘムはイエスの聖誕地で、パレスチナ自治区のヨル
ダン川西岸にある小さな町です。報道ではガザ地区で軍事衝
突が始まり町は壊滅的な状況になっています。粉争がある地
ではクリスマスを祝うどころか、平和な日常が一日でも早く
訪ずれるのを願っていると思います。平和な日本での私達は
ただ祈る事しかできない歯がゆさを感じています。
アンモニア発電めざす冬あたたか 長坂 尚子
日本は化石燃料での火力発電が、電力需要の八割を支えて
います。地球温暖化の原因となるCO2排出が問題となって
いる為、燃えてもCO2を排出しないアンモニア火力発電が
実証実験されています。資源の少ない日本で様々な課題を抱
えながらエネルギー問題に取り組んでいくのは今後も興味深
く見守っていきたいと思います。
持ち上げる度に目移り福袋 加藤千代美
福袋は江戸時代に越後屋(現三越)が始め、その後同業者
も競いました。新年の運だめしとして中身を想像しながら買
う楽しみは今も続いています。今年はお気に入りの物が入っ
ていましたか?人事ながら気になります。
十七音の森を歩く 鈴木帰心
囀やr は舌を持ち上げて 松王かをり
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
英語には、日本語にはない発音がある。「r」もその一つ
だ。筆者が中学校で初めて英語の授業を受けた時、「rの音
は、舌を巻いて」と教えられた。この音がきれいに出せる級
友は、それだけで注目の的だった。それにしてもこの英語の
「r」、とても耳に響く。確かに「囀」を想起させる音だ。
風船を放ちて嘘に加担せり 今井 豊
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
掲句を読み、中学生の頃、友達の嘘に口裏を合わせた日の
ことを思い出した。あの時の不本意な気持ち、自分が大事に
してきたものが失われた様な背徳感― それは確かに「風船
を放」つような思いだった。
なんだいと近寄ってくる羽抜鶏 辻 桃子
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
「なんだい」になんともいえない俳味と親近感を覚える。
歳をとって、髪は白く薄くなり、体型も変わる。でもそれが
「なんだい」。頑張ってきた証なのだ、何か文句あるか。
「周囲は思うほど自分を見ていない」という言葉もある。掲
句の羽抜鶏のように胸を張っていたい。
メモとらぬ会議晩夏のシュレッダー 橋本 輝久
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
「メモとらぬ」「シュレッダー」の措辞で、この会議の様子
は、おおよそ想像が付く。わざわざ集まって話し合うような
議題はなかったようだ。
会議が終わって、配布された資料の一部を抜き取り、残り
はすぐさまシュレッダーにかける作者。外はうだるような暑
さ。掲句から作者のため息が聞こえてくる。
名古屋過ぎひらく駅弁豊の秋 鶴岡 加苗
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
作者はどの駅でどんな駅弁を買い、上り、下り、どちらの
新幹線に乗り、どこに向かったのだろうか?「豊の秋」とあ
るから、この日の駅弁は、少し奮発したのかも知れない。
例えば、九時四十三分広島発、十一時五十五分名古屋通過
の、東京行きのぞみ、駅弁は「広島よりどり弁当」だろうか
― などと、スマホで検索しながら、いろいろと想像してみ
ると楽しい句だ。
旧道をゆるゆるゆけと生御魂 如月 真菜
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
最近、「周回遅れのトップランナー」という言葉を知った。
これは、近代化の波から取り残されたものが、ある時ふと見
方を変えてみると、時代遅れと思えたものに新たな価値が見
いだされ、結果的に今一番輝いている、というような意味だ。
旧道の横にバイパスが開通し、車の流れが大きく変わる。
旧道沿線は、昭和の趣を残す家々がぽつんと立ち並び、時間
が止まってしまったかのよう。しかし、旧道には、よく使い
込んだ道具のように、体に馴染む佇まいがある。「その良さ
を忘れないで。人生は少し時代遅れくらいの方がいいよ」、
と「生御魂」は優しく諭す。上五中七が秀逸。
村芝居大きな日向ありにけり 仙田 洋子
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
幼い頃、祖父の膝の上に座るのが好きだった。親の膝とは
また違う豊かな安心感があった。掲句の「大きな日向」とい
うのは、そのようなものだろうか。
この村の人たちは、毎日、お互い助け合って、笑い合って、
大らかに日々を送っているのだろう。そんな村人が演じる村
芝居― けっして洗練されたものではない。セリフを間違え
たり、忘れたり、しかしそれも含めて皆で楽しんでいる。こ
の豊かなゆとりが「大きな日向」なのだろう。
鍵束に使はざる鍵黄落期 網倉朔太郎
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
季語「黄落期」より、この鍵束の持ち主は、現役を退いた
初老の方かと思われる。「使はざる鍵」は、現役時代に使っ
ていた鍵なのだろう。子供に代を譲った自営の工場の倉庫や
ロッカーの鍵だろうか?
哀愁とノスタルジーを感じさせる句だ。
雑炊や腹ぬくもるは富むごとし 大島 雄作
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
人間の営みは、究極的には、「食事・排泄・睡眠」だろう。
「小欲知足」という言葉もある。一杯の雑炊で人生が満たさ
れる―掲句のような生き方に憧れる。
石あれば石を温めレノンの忌 花谷 清
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
掲句の言外には「人いれば人を温め」の思いがある。周囲
の人たちと心を通わせ、お互いを温め合い、自然環境を慈し
んでいくことが、平和への第一歩なのだろう。
ジョン・レノンと言えば、「イマジン」― 人類の平和を
願ったこの歌と、掲句の「石あれば石を温め」とが心の奥底
で響きあう。