No.1119 令和7年7月号

井垣清明の書57

臨刑徒甎八幅 その①

釈 文

元和三年(86年)九月七日、弘農(郡)盧氏(県)
(今の河南省盧氏県)の完城旦(かんじょうたん)
(刑罰名)の史仲、死(しかばね)は此の下に在あり。

流 水 抄   加古宗也


溪流に吊り橋架かり花わさび
蔦若葉碌山館の出入口
八咫烏祀る宮あり夏薊
夏萩や藤村堂に冠木門
薮中に陶房のこり今年竹
三ケ根は師碑立つところ青嵐
駅薄暑どつとスクランブル渡る
薫風や藁の馬立つ妻籠宿
吉良
この山に石舞台あり新樹光
河骨や座禅石置く心字池
薄暑寄せつけず圓空の団子鼻
ここ高女跡とやどつと樗咲く
天童に香車の根付さくらんぼ
雨粒に片目をすぼめ蝸牛
梅雨入や傘立てに傘溢れ出す
落柿舎に簑傘かかり梅雨鴉
野間大坊
大塔婆刺さる血の池菖蒲咲く
黒南風や音たて回る摩尼車
三ケ根に殉国の碑や七変化

光 風 抄   田口風子


茶舗に二つも古さうな燕の巣
貝塚に貧乏徳利も夏鶯
貝殻を踏めば足裏の夏固し
竹の秋風貝殻小さきはう拾ふ
有松宿絞問屋
軒深く緑雨の傘をたたみけり
卯の花腐し土壁のおくどさん
麦秋や黒電話置く電話室
どの店(たな)も卯建の上る旧端午
夏初月絞問屋に腕木門
括り女の手蜘蛛涼しく括りけり
※ 手蜘蛛は絞りの技法

真珠抄七月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


公園は雀の時間のどけしや     奥村 頼子
春の日の覗けば暗き舟屋かな    池田真佐子
稽古着で帰る少年つばくらめ    重留 香苗
春愁や自画像ばかり並ぶ壁     山田 和男
春の闇臓器切り取りつつ生きる   堀田 朋子
風光る棟梁の指示歯切れよき    加島 照子
落し文ひろふ一つの国に時差    大澤 萌衣
引越しの荷解きの窓夕桜      平井 香
天皇の御世を鑑み昭和の日     工藤 弘子
兄弟の時に疎し黄沙降る      池田あや美
裏口に廻る付き合い葱の花     米津季恵野
どの家も庭持つ里の花つつじ    竹原多枝子
朝刊の昼着く秘湯虎鶇       市川 栄司
初夏や柱に売れる筌三つ      橋本 周策
兄の田へ続く水口畦を塗る     中井 光瞬
藺草一尋湿りほどよき粽解く    酒井 英子
麦の秋隣りの婿は早起きで     濱嶋 君江
潮騒になじみ鳴き入る青葉木菟   堀口 忠男
藤房のやはらかき揺れ漂ふ香    笹澤はるな
税金を払つた帰り風涼し      田口 綾子
青嵐関八州をひとつ飛び      鈴木 玲子
今朝立夏反抗期なら私にも     磯貝 恵子
大夕立おととい洗車したばかり   飯島 慶子
押入に空箱しまう昭和の日     田畑 洋子
春眠や新聞店の灯消ゆ       奥野 順子
入学の三日目ちょっと無口な子   鈴木 恵子
ひらひらと舞ふ花びらを鳩の追ふ  鶴田 和美
土筆煮て母の齢に近づけり     水野 幸子
母の日や息子の帰り心待ち     松元 貞子
教会の簾巻きあげ弥撒つづく    田口 茉於

選後余滴  加古宗也


兄弟の時に疎し黄沙降る 池田あや美
兄弟は「男のきょうだい」、姉妹は「女のきょうだい」を
いう。「しまい」という言い方もある。そして、女性が男のきょ
うだい、つまり、兄とか弟を指すとき、兄の場合も、弟の
場合も「きょうだい」という。少々ややこしいが、男のきょ
うだいも女のきょうだいも、いずれも「きょうだい」と呼
ぶことになっているのはどういうことだろうか。つまり、
同性も異性も「きょうだい」という。じつは、この欄の重要
なテーマは、そんな呼び方の違いをいうことにあるのでは
なく、女性が異性である「兄弟」のことで、ふと理解し難
いことが、ときに起きることを言っているのだ。「きょうだ
い」はときに同胞(はらから)ともいうが、それでいて異
性の「きょうだい」にはわからないことがある。そして、「きょ
うだい」であることが疎ましく思われることがあるといっ
ているのだ。その辺りの心のもやもやを「黄沙降る」とい
う季語で表現したところが、何ともはっとさせられた。「黄
沙」は「霾ぐもり」「霾天(ばいてん)」「黄砂」などともいう。
引越しの荷解きの窓夕桜 平井  香
引越しは暮しの拠点を移すという人生の大事だ。引越し
の荷解きのとき、ふと窓辺から見えた桜、それも「夕桜」
によって、引っ越しの成功をふと思ったというのだろう。
それは「安心」ということでもある。
潮騒になじみ鳴き入る青葉木菟 堀口 忠男
「潮騒になじみ」が面白い。青葉木菟は山の方から海辺
の方へやってきたのだろう。「なじむ」ことは「安心を得る」
ことで、青葉木菟の声が大きく、また、何度も鳴いてくれ
たのだろう。高い木の天辺で。
春の闇臓器切り取りつつ生きる 堀田 朋子
手術といえば、その代表的なものが臓器を切り取ること
だろうが、ずばりこう詠まれると、いささかたじたじとし
なくもない。私も友人にあるいは兄弟に切り取った者がい
るが、「切り取りつつ生きる」といわれると妙に納得して
しまう。あからさまに表現されることで逆に大事が小事に
思われてくるのも不思議だ。
兄の田へ続く水口畦を塗る 中井 光瞬
「兄の田へ続く」というのは、兄弟で田を分けたという
ことなのだろう。「田分」という言葉があるが、そんなこ
とを考えると少々せつなくもなる。農作業に不都合が生じ
ない、ぎりぎりのところまで細く削られた畦。即ち耕作地
をぎりぎりまで広くしようとした結果、畦が崩れないよう
に塗るのだ。
お百姓の何代にもわたる厳しい生き様が、農作業の一つ
一つに生きているのだ。
朝刊の昼着く秘湯虎鶫 市川 栄司
大新聞の多くは、朝出勤前に読んで出かけたいという読
者の要望でたいてい早朝に配達される。その朝刊が届くの
が昼になるというのは山奥の里の温泉地なのだろう。「虎
鶫(とらつぐみ)」はつぐみよりもやや大形で、一面に三
日月形の黒斑を持っている。日本・中国で繁殖し、冬は南
へ帰る。昭和から平成にかけて、若竹夏山句会という夏季
鍛錬会が、よく志賀高原の登り口、地獄谷温泉の一軒宿・
後楽館で開かれたが、その折り、深夜になると虎鶫(とら
つぐみ)の声が聞こえるといわれたものだ。虎鶫は「ヌエ」
とも呼ばれ、得体不明のもののけや、動物の鳴き声ともい
われ怖がられたものだ。
麦の秋隣りの婿は早起きで 濱嶋 君江
「隣りの婿」という場合、いわゆる昔風の言い方をすれば、
「ご養子」なのだろう。働き者の嫁も自慢の種になるが、
働き者のご養子はその家にとっては、自慢であると同時に
ラッキーなご縁をいうべきだろう。即ち「早起きは三文の
得」という言葉があるように、隣家の幸運をたたえると同
時に、少々、うらやましい気分も漂ってくるのが面白い。
税金を払つた帰り風涼し 田口 綾子
税金は国民の義務。かといってせっかく稼いだものを、
何だか取られるような気がしてうれしいことではない。複
雑な気分ではあるが、税金を払い終ってしまうとほっとし
た気分になるのも事実。「風涼し」の季語がいい。
今朝立夏反抗期なら私にも 磯貝 恵子
「立夏」と「反抗期」を見事に配合した佳句。「私にも」
の措辞によって孫を、あるいは子供をかばっているかに思
える。そこに親の、あるいは祖母の熱い思いが見えて心を
打つ。
青嵐関八州をひとつ飛び 鈴木 玲子
上州は関八州のど真中。国定忠治、木枯紋次郎などで有
名だ。玲子さんに、二葉百合子のCD「一本刀土俵入」を
もらったことがある。

木漏れ日の小径  加島照子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(五月号より)


お蚕時雨母屋離れを包みたる 工藤 弘子
蚕が桑の葉を食べる時の音は、「シュワシュワ」、「パラパ
ラ」等と、まるで小雨が降っている様な心地良い音に聞こえ
ます。蚕は夜でも食べ続けやがて糸を吐いて繭を作り始める
のです。自然と共にある日本の暮しをこれからも大切にして
いきたいと感じさせる素敵な句です。
芽木明り「はくあい号」はドアを開け 辻村 勅代
輸血用血液は人工的に造る事が出来ず、長期間保存も出来
ない為、献血によって必要な血液を確保し続けなければなら
ないのです。命をつなぐボランティアがこれからも多くの患
者を救うので、若い世代に協力を願うばかりです。
松平郷は水湧くところ草霞む 堀田 朋子
家康の祖先である松平家は、豊田市松平町と言う山間部に
ある小さな集落が発祥です。そこにはゆかりの史跡が多く
残っており、産湯の井戸には今もこんこんと水が湧いていま
す。深い緑に囲まれた神秘的な史跡は、草霞むと詠んだ季語
がとてもふさわしく感じられました。
はつきりと夢に色あり紅椿 中野まさし
夢の記憶は五分以内に半分、十分以内に九〇%が消えると
言われ、更に高齢になる程白黒の夢になるそうです。作者が
はっきりカラーの夢を見られたのはとても喜ばしく、きっと
吉夢の兆候でしょう。読み手迄楽しさが伝わってきます。
あちこちに防犯カメラ目借時 斉藤 浩美
暖かくなり睡魔に襲われる頃、蛙に目を借りられるとは面
白い季語です。不審者対策の防犯カメラは最近増加傾向なの
で目の届かない場所には不可欠となって来ました。古風な俳
諧味のある季語と現代の風潮の取り合せに拍手です。
「饗(あへ)の祭(こと)」終へ地震荒れの田を起こす 安井千佳子
奥能登に古くから伝わる「饗(あへ)の祭(こと)」は、稲作を守る田の神
様を祀り感謝を捧げる農耕儀式です。大地震で荒れた土地を
起こし、日常の生活を戻しつつある能登の人達に私達も出来
るだけの協力を惜しまない様にしたいものです。
和太鼓は腹で聴くもの蕨餅 鈴木こう子
和太鼓は腕だけで叩くものでなく、全身運動で大きく体を
使います。音や響きが重低音で本能を揺さぶり、気持ちを高
揚させる魅力を持っています。歴史は古く生活や信仰とも深
く結びついた存在の太鼓の響きは、蕨餅まで揺らしてしまう
かもしれません。
咲き初めし梅の香りを奮ふ風 笹澤はるな
梅の花の香りは「ジャスミン」に似たかすかに甘い香りで
ほんのりと感じられます。リラックス効果がありストレスも
軽減してくれます。梅が香り出す事を楽しみにしているのに
何と意地悪な風なんでしょう。春先は色々な風が吹きますが
季節を感じさせるには、やはり肌で感じる風が一番ですが、
それより真先に受けるのが植物なのでしょうね。
どの子にも惜しみなく愛つばくらめ 飯島 慶子
燕の子育て期間は約一ヶ月半で、五〜六個の卵から二週間
程で雛になり、それからは雄と雌が協力し合って餌を雛達に
運び、約二週間で親と同じ位成長し飛べる様になるまで、せ
わしなくお腹をすかしている雛を見分けながら与えていま
す。どの子も可愛いいと思う親心は尊いものです。
春あさき陽の差す席を譲らるる 長表 昌代
早春の頃は陽差しの有難味を感じるものです。そんな頃に
陽の差す席を譲って頂けるとは何と嬉しいものでしょう。日
常の何気ない仕草にほっと心が暖かくなる優しい句に出会え
ました。他人に対する思いやりの気持ちはどんな時にも、持
ち続けていきたいと思っています。
利久忌の大徳寺抜けあぶり餅 鈴木 恭美
安土桃山時代の「千利久」は「わび茶」の完成者として知
られています。信長・秀吉に仕えながら茶の湯を追求して茶
聖と言われました。茶の湯と関わりが深い禅寺の大徳寺には
利久の木像が安置されており、そこからあぶり餅を下五に
持って来た詠み手が巧みです。あぶり餅は美味しいですね。
ざら紙の昭和の記録土匂ふ 今村 正岑
藁半紙は明治時代に麦や稲の藁を原料として生産が始まり
ました。昭和初期にはガリ版印刷で作成されたプリントが主
流となり広く使われました。懐かしい手触のざら紙は臘を塗
られた原紙に鉄筆でカリカリと文字を書き、インクを紙に写
し取る方法でした。土匂うの季語は春の芽吹きを待つ土の事
で、ざら紙から進化していく雰囲気が感じ取れます。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


不協和音漏る早春の楽器店 戸田 正宏
(『俳壇』 五月号「不協和音」より)
掲句を読んで、次のような情景を想像した。
この楽器店に、吹奏楽部員三名が親と一緒にやってきた。
全員、この新学期に中学二年生になる。一年生の間は、学校
の備品の楽器を使っていたが、いよいよ個人持ちの楽器を親
に買ってもらうことになった。それぞれ、試し吹きをする。
当然、不協和音となる。
しかし、この三本の楽器は、この夏には部の他の楽器と一
緒に、見事なハーモニーを奏でることになるだろう。夏には
吹奏楽コンクールがある。「早春」はその助走だ。
母遠しときどき近し春の星 伊藤 政美
(『俳壇』 五月号「春の星」より)
春の星は、宵にどこか潤んだような温かい光を放つ。そん
な星を眺めつつ、生前の母に思いを馳せる作者。
上五中七に共感。
五分咲きの桜をほめて帰りけり 櫂 未知子
(『俳壇』 五月号「まらうど」より)
今年の四月五日に、筆者は、掲句と同じ体験をした。この
日、加古宗也「若竹」主宰の句碑開眼式が、東吉野村の光蔵
寺で挙行された。三年前にも同じ時期に同寺にて、主宰の句
碑開きが行われたが、その時は、桜は満開で、ため息の出る
ほどの美しさだった。一方、今年の東吉野は三月の低温が影
響して、桜は三分ほど。それでも、当地の桜は格別。満開の
ヒマラヤユキノシタや三椏、それに鶯の谷渡りも愛でつつ、
思い出に残る句碑開きとなった。
花どきの問診票に嘘少し 山口 美智
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
「花どき」、「嘘少し」の措辞から、「養花天」、「万愚節」の季
語が連想される。診察前に書く問診票―ありのままに書くと、
それに応じて、診断・検査・投薬が追加されるかも知れぬ。
西洋医学のありがたさはわかっているが、季節は春。ここ
は自己治癒力を信じ、養生を「天」に委ねて、問診票の回答
を少し控えめにしておこうと考えた作者。
俳味もあり、季語「花どき」の斡旋も秀逸。
「つまらないもの」といはれて桜餅 仁平  勝
(『俳壇』 五月号「一幕見」より)
訪問客より桜餅をいただいた作者。その人は「つまらない
ものですが」と言って、その桜餅を差し出した。その言葉
は、謙遜の決まり文句であるとわかっていても、桜餅がそう
呼ばれることに、作者は悲しい気持ちになった。それほど、
その桜餅は愛らしく美味しかったのだ。
百歳は指で踊ってをられけり 安倍真理子
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
昨年、「ちゅらさん」(NHK朝の連続テレビ小説)が再放
送された。番組の最後に、テーマソングと共に、おばあが、
縁側に座ったまま、両手首だけを動かしてカチャーシーを踊
る姿が映った。掲句の「百歳」さんも、おばあも、それだけ
で踊りは十分に堪能しているのだ。
「民謡は、熟(こな)しが肝要」と五箇山の長老から伺った
ことがある。「百歳」さんの指の踊りは、熟しの究極だろう。
頑固とは何のかたまり胡桃割る 木内 怜子
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
掲句を次の二句とともに鑑賞したい。
胡桃割る胡桃の中に使はぬ部屋  鷹羽 狩行
ピーマン切って中を明るくしてあげた  池田 澄子
鷹羽は、この「使わぬ部屋」を「人間の英知を超えた、な
んらかの幽玄不可解な目的のための部分なのかもしれない」
(「自選自解 鷹羽狩行集」白鳳社)と書いている。
「胡桃」を割って自分の小さなこだわりを捨て、「中を明る
く」することで、人生が開けていく。
白鳥の野禽のつばさ折りたたむ 能村 研三
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
「白鳥の水かき」という言葉がある。この言葉は、「華麗に泳
いでいる白鳥が、水面下では激しく水をかいているように、
優雅さを支えるには影の努力が肝要」という教訓として使わ
れる。ただ、実際の白鳥はというと、浮力を利用して、足を
動かさずに浮いている。他の鳥類が木の枝に乗っているよう
な感覚で水面に浮いているのだ。
掲句の「野禽」という言葉に、白鳥は、他の鳥類と同じよ
うに野生動物であることに気付かされる。右に書いた「教訓」
とは無縁の野生の美しさ―それが白鳥の姿なのだ。
捨てるため拾ふ棒切れ十二月  中山 和子
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
この「棒切れ」は、子どものチャンバラ遊びに使うものだ
ろうか?道を教えるために、地面に地図を描く棒だろうか?
そんな気楽な想像をした上で、下五の「十二月」に思いを
巡らせると粛然とした気持ちになった。この「十二月」には
「十二月八日」の思いが込められているのではないか。「捨て
るため拾ふ棒切れ」の象徴するものの重みに襟を正した。