流 水 抄 加古宗也
鬱林(うつりん)や迦葉(かしよう)の山の大天狗
大庫裡の奥に池あり蓮の花
松園に情念の色水中花
山坊に句座を設けて仏法僧
河鹿笛渓音と和し延命湯
熊の鈴鳴らす杣道栗の花
首塚の辺り最も蟬鳴けり
首塚を囲み数多の蟬の穴
安騎男てふ老俳人の目や涼し
梅雨寒や梯子はづさる女中部屋
松に蟬爪立て台嶺殉教地
けふ処暑の食卓に乗る茹で卵
鶏めしは上州御用さるすべり
土用三郎発電水車動かざる
深吉野は闇深き里恋螢
鮎の友釣り四万十川に沈下橋
大津絵の鬼の牙折れ土用干
昼寝楽し拓郎節を聞きながら
かつてここに川番所あり大旱
光 風 抄 田口風子
炎心の色に吸はるる夜の秋
きこきこと自転車漕ぎ来生身魂
象の鼻ぬっと八月十五日
八月十五日田にたつぷりと山の水
盆東風や舟のかたちの石祀る
芙蓉咲く夫の細身の傘差せば
どの家も箱に朝顔大須路地
象亀の息八月の動物園
山間の影よりも濃き秋の蝶
黒揚羽色なき風に翅震はす
真珠抄十月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
涼しさや千畳敷と云ふ岩場 山田 和男
わが家の見えて掴まる夕立かな 工藤 弘子
炎天の起重機鉄の腕二本 坂口 圭吾
折鶴に八月の息吹き込みぬ 中井 光瞬
蟷螂の仔が居間にゐる溽暑かな 堀口 忠男
公園の芝Tシャツの背を刺せる 石川 裕子
隙のなき文章に倦み夏の夜 鶴田 和美
穴惑ひ頼りなき尾をかくしをり 大澤 萌衣
梅雨晴れや盲導犬は耳を立て 加島 照子
曝書より父のくせ字のエアメール 髙𣘺 まり子
星の降るうちに朝刊露涼し 平井 香
榊挿しあり新涼の巫女溜り 市川 栄司
鵜飼舟舳先の裏に貼るお札 堀場 幸子
ゴミ出しの母を手伝ふ夏休 松岡 裕子
良く笑ひ良く泣く稚へ天瓜粉 水野 幸子
和宮寄りたる清水水細し 和田 郁江
新しき卒塔婆匂ふ盂蘭盆会 新井 伸子
八月や祈りと怒り混在す 石崎 白泉
祭り街浴衣の女子はスニーカー 中澤さくら
先生と呼ばれ振り向く卒業期 梅原巳代子
大旱遠くの池の水を田へ 鈴木美江子
追ひ越して片陰にまた入りたる 金谷柚子花
夏期講習面白かつたと子ら帰る 荒川 洋子
けふ母は近くにをりぬ蟬時雨 鈴木 帰心
戦争展出て八月十五日の空 江川 貞代
四番目の受付を待つサングラス 高濱 聡光
道場のすみで号泣夏終る 鈴木 恵子
蟬しぐれ序の口帰る下駄の音 池田真佐子
虹立つや神様はいると言う主治医 琴河 容子
秋暑し括りて捨てぬままの本 酒井 英子
選後余滴 加古宗也
蝉しぐれ序の口帰る下駄の音 池田真佐子
相撲人気はいますさまじいらしい。ここ何年も会場には
毎日「満員御礼」の垂れ幕が下がっているように思う。「巨
人・大鵬・卵焼き」の時代から、「若貴時代」そして、今
は「大の里とモンゴル勢」といったらいいだろうか。だい
たい午後六時少し前には「本日の打ち止め」となる。私も
時間が許せばテレビ観戦する。わが西尾市からも力士が誕
生して、応援に力を入れているが、幕下あたりで上がった
り下がったり。フアンも疲れるものだ。ところで、巻頭句
の中でも、「蝉しぐれ」の句は心魅かれた一句で、事実の
報告であって、それだけではない、相撲取りの厳しさが詠
み取られていて厳しい一句になっている。勝負師の世界の
厳しさを時間帯で詠み取ったところも新味だった。
秋暑し括りて捨てぬままの本 酒井 英子
「括りて捨てぬまま」に愛書家の心情が過不足なく活写
されている。一方で、その本が亡きご主人のものとすると、
ご主人との絆を切り捨てるような思いにかられて躊躇する
のもうなづける。「秋暑し」の季語がピタリと決まった。
隙のなき文章に倦み夏の夜 鶴田 和美
「隙のなき文章」の典型は学術論文だろうが、そうでい
なくても、全く遊びの無い文章を書く人がいる。この手の
文書は「楽しむ」というのとはかけ離れてしまい妙に肩が
凝る。若い頃はともかく年を取ってくるといよいよ「隙の
ない文章」は楽しくない。「夏の夜」の読書ではなおさらだ。
唐突な話しだが、今年の初夏から急に本が読みたくなって、
名古屋へ通う電車の中や旅の折りなど文庫本をもって読書
を始めた。短い時間でもこれが楽しい。
夏期講習面白かったと子ら帰る 荒川 洋子
勉強が面白かった、というのは、これは大変なことで、
講習に来てよかったと、子供たちが思ったとしたら、もう
これはすごいことだ。ふだん勉強に追いかけ回されている
子供たちが逆に面白く、満足して帰ったというのは、指導
のうまさを超えた、愛情があったからだろう。
教育の現場はいまトゲトゲしい空気があるように私には
思える。先生にもっと子供たちと遊ぶ時間をつくってほし
い。これは管理職らの度量を問われるところだろう。
炎天の起重機鉄の腕二本 坂口 圭吾
山口誓子は俳句づくりの基本を「即物具象」といい、そ
れをしきりに喧伝(けんでん)しているが、じつはこれは
村上鬼城から学んだものだ。誓子の岳父は浅井啼魚という
大阪の俳人で、村上鬼城の指導を長く受けている。啼魚は
山口波津女の父親で、即ち誓子の妻、波津女は啼魚の娘だっ
た。誓子は啼魚の影響を強く受けながら、「ホトトギス」
第二期黄金時代を水原秋櫻子、阿波野青畝、高野素十らと
ともに牽引してゆく。つまり、誓子の掲げた「即物具象」は、
鬼城の「じっと見入る、じっと聞き入る」をヒントに生み
出されていると私は思う。起重機の「腕二本」が、強烈に
日に灼けているのを感じ取ることができる一句。触れれば
火傷するように灼けていることを感じる描写に成功した。
戦争展出て八月十五の空 江川 貞代
かつて「若竹」の同人であった女流たちの何人かが、名
古屋で戦争展を始めたのはもう三十年以上前になるような
気がする。「ポツダム宣言」から敗戦までの半年間で、
三百万人の日本人が戦争の犠牲になったという。
「日本のいちばん長い日」、八月十五日は晴天であったと
いう。作者も一九四五年八月十五日に一気にタイムスリッ
プしたのだろう。
梅雨晴れや盲導犬は耳を立て 加島 照子
梅雨晴れの日、久しぶりに目の不自由な人が外出したの
だろう。人々が一気に外に出てくる梅雨晴れ。そこには思
いがけない危険が待ち受けているのだ。「盲導犬は耳を立
て」はじつにその間の消息を具体的に表現している。例え
ば、盲導犬は主人のいうことをじつに素直にきく。しかし、
盲導犬の優劣は、この素直さのレベルではかられるのでは
なく、例えば、主人が危険な場面に遭遇したとき、命令に
従順に従うのではなく、主人にさからっても危険回避に命
がけで行動する盲導犬をいうのだそうだ。「耳を立て」と
は周りの様子を必死にとらえようとする盲導犬の行動だ。
先生と呼ばれ振り向く卒業期 梅原巳代子
教員をやめてもう何年もたつのに、「先生」という声が
聞こえると、つい振り向いてしまう。卒業期はことにそう
で、作者の苦笑がふと見えるのは微笑ましく、好もしい。
作者はとてもいい先生だったに違いないと思う。
人間は「自負」を忘れてはならない。
木漏れ日の小径 加島照子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(八月号より)
藍玉や藍屋に藍の茶を賜ふ 酒井 英子
藍玉とは藍の葉を発酵させて作った染料「蒅(すくも)」を、臼で搗
き固め乾燥したもので、藍染には欠かせない材料です。また
藍の葉は薬草としても利用され、健康茶でも安心して飲めま
す。これほど藍色尽しの句には圧倒されました。蒸し暑い夏
を吹き飛ばしてくれそうな、さわやかな雰囲気が醸し出され
ています。
幼子の声が聞こえて青蛙 中井 光瞬
昔から田んぼに親しんできた日本人にとって、蛙は友達み
たいな親近感があります。古くは鳥獣戯画にも描かれ、物語
にも多く登場します。小さくて可愛くぴょんぴょんと跡ぶ姿
も愛らしく、幼子との取り合わせがとてもよく合います。
青梅雨や木つ端で作る仏さま 荻野 杏子
木っ端仏で有名な「円空」は、全国各地で一宿一飯のお礼
にその場で彫り置いていきました。生涯に十二万体と言われ
る鉈彫りによる素朴な仏像を残し、当時飢えや疫病に苦しん
でいた民衆に安らぎを与えました。「微笑」を特長とした仏
像は彫っていても気持ちが和むに違いありません。
今朝も立つ厨青梅匂ふなり 稲吉 柏葉
青梅の香りは控え目ですが、すっきりとした甘い香りにさ
わやかな酸味を感じさせ、気の巡りを良くしてくれそうで
す。梅干し・梅酒・梅シロップと青梅の効能が色々楽しめそ
うな季節です。今朝一番に感じた繊細な感性が素敵です。
清姫のものかも知れぬ落し文 水野 幸子
安珍・清姫伝説は平安時代の物語で、能や歌舞伎等でも取
り上げられ和歌山県には道成寺が現存しています。安珍への
強い思いが大蛇に迄なって追いかけ最後は釣鐘に隠れた安珍
を鐘ごと焼き殺すと云う悲恋ですが、純粋すぎる清姫の一途
な思いを否定できない半面悩ましい結末になりました。
さらさらと早や青田風頬を撫づ 石崎 白泉
田植えが終わり、青々と育った稲の葉が風になびいて海の
様に波打つ様子は、涼しげで気持ちの良い情景です。
頬を撫でる感触も伝わってきそうで、さらさらと詠む作者
に共感を得られます。素直な表現が読み手の心に寄り添って
くれる優しい一句になっています。
曲尺之手(かねのて)の鳴海歩くやながし吹く 池田真佐子
鳴海は東海道四十番目の宿場町です。芭蕉も幾度も鳴海宿
に立ち寄って、数多くの俳句と足跡が残されています。
曲尺之手は宿場町の中央付近でクランクに曲がっている事
です。敵の侵入を防ぐ為にわざと道を曲げました。私が訪れ
た時にも古い家並みは今でも味わい深く、「ながし吹く」の
季語の湿気を含んだ風の微妙な雰囲気が、宿場町の風情とも
よく合っていて良い取り合せだと思いました。
藍散らす手蜘蛛絞りや夏はじめ 橋本 周作
絞りの技は歴史が古く、同じ技法でも糸の巻き方や染め方
で表情が変わります。代表的な柄のひとつに手蜘蛛絞りがあ
ります。指先で傘の竹骨の様に皺を取りその皺を根元から細
かく糸を巻き上げて絞り、染色すると蜘蛛の巣に似た柄にな
るのです。藍色の染色が夏の始めによく似合い、涼感たっぷ
りの気持ちの良い句です。
いつまでもつかぬ決心ハンモック 大杉 幸靖
気持ちの整理がつかないまま時間が過ぎてしまう事は、誰
にでもよくあります。ハンモックにゆらゆらしている様は、
優柔不断のようにも思えますが、迷っている時間も楽しい事
にも思えます。そんなゆったりした時間も長い人生の中では
豊かでかけがえのない時間かも知れません。
化粧水は手製どくだみの花摘む 加藤千代美
どくだみの花には、抗酸化作用のある成分が含まれており
シミやシワの予防効果があります。優れた美肌効果を持つど
くだみは、生薬として使われてきて万能薬としても利用さ
れ、ひとつで十の効果があるので十薬とも言われる所以で
す。化粧水の使い心地はきっと良かったでしょうね。
夢洲てふ夢に踏み入る夏帽子 松田美奈子
夢洲は廃棄物処分場として埋め立てた人工島ですが、四月
から半年間大阪関西万博が開催されています。世界最大の木
造建築物の大屋根リングを始め見所は一杯です。一周二㎞、
三十分程の散歩をしながら、各パビリオンをゆっくり観たい
と思っています。ただこの猛暑になかなか決心がつかず秋に
なったら、涼しくなったらと楽しみを先延ばしにしていま
す。
一句一会 川嵜昭典
ふるさとに頬杖はあり夏鶯 清水 伶
左手のラヴェルのゆくえ星涼し 同
(『俳壇』八月号「星涼し」より)
「ふるさとに」の句。忙しいさなかに帰省をし、田舎であ
るがゆえにやることがない。頬杖のまま時が過ぎていく。そ
して作者は、学生時分の実家暮らしのときも、忙しいようで
時間はたっぷりとあり、このように頬杖をついていたな、と
昔を思い出しているのではないだろうか。学生特有の、全て
が永遠に続いていくように思えた時間の感覚を、ふるさとと
頬杖とを結び付けて表現しているところが面白くも美しい。
「夏鶯」の季語が、時間の伸びやかさを表しているようだ。
「左手の」句。「左手のラヴェル」は、ラヴェルの「左手の
ためのピアノ協奏曲」のこと。第一次世界大戦で右手を失っ
たパウル・ウィトゲンシュタインというピアニストのために
ラヴェルが作った曲で、ピアニストは文字通り左手だけで演
奏する。印象派と言われるラヴェルだが、ラヴェルの曲には
古典派のような形式的な要素が多く見られる。しかしこの曲
には格式ばったようすはなく、シンフォニー的な響きや行進
曲、ジャズのような即興性のあるパッセージなどさまざまな
音の動きを聴くことができる。そういう意味では聴き手は
「左手」の「ゆくえ」を注意して聴くこととなる。夜空の星は
「星」と一括りで捉えても、実際にはさまざまな星の集合で
あるように、この曲も、様々な種類の音の要素に満ちている。
青葉山そはそのかみの古墳山 清水 和代
(『俳壇』八月号「島の名前」より)
「あおばやまそはそのかみのこふんやま」と、何度でも口
にしたくなるような、流れるリズムがある。どの山でも良く、
山に入ってその山を美しいと思うとき、「そはそのかみの」
と古語的な響きを口にすることによって、古代のその地の
人々と、その山に対する思いが繋がるような気持ちになる。
東京も西のはづれや河鹿の瀬 鈴木しげを
(『俳壇』八月号「一会とも」より)
東京とはいっても西の外れです。河鹿の声が聞こえます。
という句。調べが江戸期の俳諧のようで、それでいて現在の
東京を頭に思い浮かべるとき、東京と河鹿の対比が(もしく
は落差が)大きく、はっとする。一方で、どんなに文明が進
んでも、自然は、もしくは生き物というのはそこかしこに息
づいており、そこに生命の強さ、原始的なしぶとさを感じさ
せる。俳諧のようでいて、しっかりと現代の俳句としての力
強さを持つ句。
一本の花に縁日立ちにけり 名村早智子
(『俳壇』八月号「野の一灯」より)
一本の、おそらく大きな桜の木。そこに集う人々。絵画の
ように情景が鮮やかに浮かぶ。そして美しい。これ以上は説
明がいらないような句だが、考えてみれば、「桜」という言
葉にも「縁日」という言葉にも、それぞれの読者が、それぞ
れの思い出を持っている。そのそれぞれの思い出を自由に句
の情景に重ねられるというのが、美しいだけではないこの句
の強さなのではないだろうかと思う。それこそ季語の力だろ
うし想像力の力だろう。
手につつむ蛍のあかり指をこぼれ 高橋 正子
(『俳壇』八月号「梅雨の月」より)
俳句の調べ、ということを考えるとき、やはり五七五のリ
ズムを言葉の意味とどう結びつけるか、というのが勝負なの
だろうと思う。そういう意味で掲句は、下五を「指こぼれ」
と、「を」を抜かして詠んでも意味は通じるし、五七五にも
収まる。しかし「指をこぼれ」と「を」を入れて六音にする
ことで、蛍のあかりが、ふっとこぼれるような、こぼれたあ
かりを見る作者も、はっと驚いたような、そんなニュアンス
を感じさせる。リズムと言葉の関係性の魔法がある。
風吹けば風より軽き蛍かな 真篠みどり
(『俳句四季』八月号「螢狩」より)
理屈で考えても分からない。理屈通りではないけれど真に
迫っている。俳句はそういうことを詠めるのが魅力だ。この
句もそのような佳句の一つで、考えてみれば蛍が風より軽い
わけがない。軽いわけがないが、このような表現にぐっと納
得してしまう。俳句の力だろうと思う。
返信を待ちつつ崩すかき氷 緑川美世子
(『俳句四季』八月号「大迷路」より)
「かき氷」という、時間との勝負のような食べ物を食べつ
つ返信を待つのだから、ここでの返信は、メールやLINE
での返信だろう。日常会話の延長のようなやりとりというこ
とである。手紙などで使われていた「返信」という言葉が、
メールなどでも使われてきて、その言葉の持つ重さもだんだ
ん軽くなってきている今を、「かき氷」という季語で表して
いるのが俳味があっていいと思う。