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井垣清明の書65禳盗(じょうとう)刻石之二平成24年(二〇一二年)五月 釈 文(つみをなさしむなかれ)罪。(さすれば)天はこれを利さん。居りて孝を欲(ほつ)せ、貞廉(ただしくきよらかを)思へ、衆に率(さきん)じて善を為(な)せ。(さすれば)天はこれを利さん。身体毛膚、父母の生む所、慎んで毀傷(そこなう)なかれ。(さすれば)天はこれを利さん。 |
流 水 抄 加古宗也
長屋門くぐれば真赤柿紅葉
銀杏散る矢田姫様を祀る寺
穭枯れをり軒下に水禍跡
庄内は雪催ひなり周平忌
神帰ります風見鶏回り出す
鹿垣に電気を流す峡の村
常滑の名工・平野佑一氏を訪ねて
口切や舌に二度浮く茶の旨み
古常山作てふ急須霜月茶
坂師走スケボーよどみなく滑る
街師走老いにかなひし電動車
街師走繰り出してくるチンドン屋
土管坂下れば大扉冬の猫
蹲踞の水涸れてをり冬の鵙
籏に冬日や瀧田家は笹の紋
大滝渓谷
門水の歌碑ありかつと冬紅葉
岡崎・天恩寺
尊氏が開基の一宇雪婆
箸置は梅の小枝や土瓶蒸
大壷が得意の陶師実南天
近衛邸・抹茶接待
臘梅を活け大壷は紐づくり
筧水音たてて落つ冬木賊
光 風 抄 田口風子
神の楠騒めきのまま春に入る
響きあふ鳥語二月のあかるさに
観梅も途中にけふの一万歩
吽像の前に春雨傘たたむ
縞馬のたてがみも縞風眩し
笑ひ翡翠笑ひすぎたる建国日
河馬の耳くるるる春の水弾む
春の鳥先づ鳴きに来る隣家の木
ミモザ咲く庭や子の子の誕生日
スマホの絵文字跳ねる合格通知来る
真珠抄四月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
後輩の定年を知る年賀状 鶴田 和美
炉話や袋から出す柿の種 鈴木 帰心
渡良瀬の野焼の炎風を呼ぶ 新井 伸子
山笑ふ鬼師に似たる鬼瓦 堀場 幸子
尉鶲雌雄別かれて餌探す 堀口 忠男
記念樹のそよぎに寒の明けにけり 工藤 弘子
水洟や店主蕎麦湯も自慢して 高濱 聡光
大沼や公魚釣りのにぎわしく 関口 一秋
大寒や我を励ます紅を差す 加島 照子
もう少女にあらず早春のたいくつ 大澤 萌衣
重ね着を脱ぎ半日の山歩き 池田真佐子
大凧の辺野古の風に唸るかな 安井千佳子
列をなす総合案内流行風邪 磯村 通子
風花や右ポケットに缶ココア 金谷柚子花
寒鰤に漁師の言葉添へて出す 中井 光瞬
法要のあとの語らひ葛湯吹く 堀田 朋子
選挙カーの声のくぐもる雪催 白木 紀子
僧座して雅楽を奏づ牡丹雪 鈴木まり子
久闊のまづ目が笑ひ暖かし 平田 眞子
豊かさの意味いま一度昭和の日 飯島 慶子
木杓子の焼き印飛騨は寒の底 荻野 杏子
鳥礫頭上をかすめ士郎の忌 辻村 勅代
秋気澄む礼拝堂の畳敷き 梅原巳代子
鉛筆にもう歯形あり一年生 加納 寿一
寺町に抜け道多し水仙花 米津季恵野
トンボロは隠れし道や鴨の群 神谷 光彦
屋根ごとに違ふかたちに残る雪 今泉かの子
大寒や鮪裂く刃は骨に沿ふ 市川 栄司
寒晴や白煙太き火葬場 奥野 順子
夫おらぬ日は夜更かしと炬燵酒 琴河 容子
選後余滴 加古宗也
大寒や我を励ます紅を差す 加島 照子
女性にとって口紅は特別の意味を持つようだ。紅を差す
ことは女性という自覚を強く持つことであり、それはおの
ずと自負につながってゆく。紅を差すことによって、体の
内側から心地よい力が漲ってくるのだろう。「大寒」は一
年で一番寒い日。心が折れそうになったとき紅を差すこと
によって、不思議に力が湧いてきたのだろう。「我を励ます」
が言い得て妙だ。
鳥礫頭上をかすめ士郎の忌 辻村 勅代
「士郎の忌」は文豪・尾﨑士郎の忌日。二月十九日。そ
れは雪のそぼ降る日であったそうだ。尾﨑士郎の代表作と
いえば『人生劇場』で、その最初の「青春篇」は士郎の故郷、
横須賀村(現在の西尾市吉良町)が舞台で、早稲田大学入
学までと、学生時代を中心に物語が進む。士郎没後すぐに
始まった士郎忌は「瓢々忌」と呼んで現在も吉良俳句の会
(鈴木帰心代表)に受けつがれ続いている。
「鳥礫」が士郎の化身であるかの如く、活写されている
のが心地よい。「梅三分士郎忌の句座里にあり」も、作者
の尾﨑士郎に対する敬愛の念とともに、吉良人たちの心根
を的確に一句に仕立てて過不足がない。
後輩の定年を知る年賀状 鶴田 和美
年賀状の中に「今年定年になりました」という一文が書
き込まれていたのだろう。後輩の定年を知ると同時に、自
分がさらに年を重ねたことにいささかの感慨が流れたに違
いない。時はいやおうなく過ぎる。「年賀状」がじつによ
く効いている。この辺りが、俳句ならではの、また、俳句
のしたたかさというべきものだろう。
記念樹のそよぎに寒の明けにけり 工藤 弘子
「記念樹」は何の「記念樹」だろうか。私は何となく「卒
業記念樹」のように思われる。記念樹の前に立ったとき、
おのずと青春が甦ってくるのが卒業記念樹で、私の卒業し
た中学校の跡地には現在、せんだんの大木が、八方に枝を
広げている。西尾駅のプラットホームに立つと眼下に見え、
夏になるといよいよ若葉が広がって美しい。自ずと「せん
だんの木蔭は、我を呼ぶふるさと…」という母校の逍遥歌
が聞こえてくるような気がする。私のせんだんの木は薫風
の季節だが、弘子さんのそれは「寒の明け」。記念樹には
作者の思い出とともに様々な相(かお)があることも楽し
い。「寒の明け」に独特の感性を見る。
法要のあとの語らひ葛湯吹く 堀田 朋子
「法要のあとの語らひ」には死者を懐かしんでいる感じ
があり、少なくとも三回忌、あるいは七回忌の法要かとも
思えたりする。つのってくる淋しさを、葛湯があたためて
くれる。熱い葛湯をフーフーと吹きながらいただく。「フー
フー」によって、じつは家族の絆を確かめられる。
寒鰤に漁師の言葉添へて出す 中井 光瞬
寒鰤を最初に釣り上げた人の言葉を添えたのには強烈な
インパクトがある。よく「手応え」という言葉を使うが、
最初に鰤をつかまえた漁師には釣り上げた瞬間に、この鰤
がうまいか、そうでもないのかが直感的にわかるのだ。「添
へて出す」言葉もまたご馳走だ。
炉話や袋から出す柿の種 鈴木 帰心
作者は何度も富山県の合掌集落・五箇山を訪ねている。
五箇山は加賀前田家の領地で、流刑の地であった。合掌家
では、馬糞などを使って、硝煙が作られたところでもあっ
た。家に入るとすぐに囲炉裡があり、大家族が暮したとこ
ろで、団欒の間でもあった。二階では養蚕が行なわれてい
たようだ。五箇山の作品群で、若竹俳句賞を受賞している。
この句、「炉話」と「柿の種(柿の種に似た餅菓子とピー
ナツがまざった菓子)」の配合が見事に決った。
豊かさの意味いま一度昭和の日 飯島 慶子
「豊かさ」という言葉は長く、経済的な意味で使われて
きた。それに対して最近では心の豊かさが強調されるよう
になっている。かつて、本多勝一という朝日新聞の記者が
『貧困なる精神』と題するシリーズを矢つぎ早やに発刊し、
ベストセラーになったが、いま、心の豊かさが確保された
か、と問われれば、素直に「された」とは言い難い。
つまり、昭和時代の豊かさと、平成、令和の時代の”豊
かさ“とはそこに求められているものが変っているように
も思う。
トンボロは隠れし道や鴨の群 神谷 光彦
三河湾の東幡豆町にトンボロといわれる砂洲の道があ
る。大潮のときには向いの兎島まで干潟ができ、小潮のと
きはすっかり見えなくなってしまう。「鴨の群」がいい。
木漏れ日の小径 加島照子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(二月号より)
凩やダム屹立の影深し 堀田 朋子
「凩や」で一気に冷えが体感的に立ち上がります。乾いた
風が吹き抜け、身のすくむ様な空気感で、その後巨大な構造
物「ダム屹立」が効いています。単に立つのでなく動かぬ重
さや圧があり、そこへ「影深し」と視覚的にも心理的にも深
い寒さを感じます。寒さと構造物の重みがまっすぐ伝わる、
骨太の一句だと思いました。
石仏に遇ふ早春の磐余道 市川 栄司
「磐余道」は奈良盆地に位置する桜井市から飛鳥に通じる
古代の道です。「石仏に遇ふ」が見かけた、見たではなく、
遇然と必然が重なった様な歩く者の心の動きが感じられま
す。まだ寒さの残っている時季、草も出揃わぬ頃の道、その
中で石仏と向き合う事で祈りや、時間の堆積が自然に浮かび
ます。「早春」が効いていて印象に残る句だと思いました。
浮寝鳥島を離れる船追はず 中井 光瞬
水面に身を委ね眠る様に漂う鳥、無心・無為の姿が島を離
れる船に自然に対比されます。船追はずと結ぶ事で感情をあ
えて出さず、執着も別れのドラマも置かない抑制が読み手に
余白を残します。島を去る船を追わないのは浮寝鳥ですが、
見送る人の心情にも読めます。何かを手放した後の静けさが
優しく立ち上がり、心に沁み入る句の様に感じました。
法衣の父に手を引かれ七五三 春山 泉
「七五三」と言う晴れの行事に僧である父の姿を、そのま
ま重ねる事で華やかさよりも静かな敬虔さが出て来ます。袈
裟の重み、所作のゆるやかな様まで想像が出来ます。手を引
かれる子の視線が自然に立ち上がり、七五三の賑やかさより
も家の歴史や信仰、親子の距離感を感じさせます。凜とした
空気感や温かさ等、読み終えた後に余韻が残ります。
高僧に頭撫でらる大根焚き 重留 香苗
土から抜かれ白く丸い「頭」を持つ冬の代表格の大根だか
らこそ、頭撫でらるが無理なく映像になります。仏教の慈悲
が人にも物にも等しく及ぶので、ありがたさと素朴さの落差
がユーモアとして感じられます。軽みがありつつも芯のしっ
かりとした句が楽しく読み手に伝わります。
二人よりふたりに戻るこたつかな 稲吉 柏葉
「二人」と「ふたり」の差を説明せず、表記だけで距離間
や体温や呼吸まで語っている様です。「こたつ」の季語がそ
の変化を無理なく受け止めて、同じ温もりを共有する場所で
す。大きな出来事でなく日常の関係が静かに切り取られてい
ます。感情を言わず事情も言わず、それでも人生の一場面が
はっきり立ち上がり、読み手に余白を委ねている一句です。
捨畑を裾に抱きて山眠る 大杉 幸靖
「捨畑」が荒れた忘れられた土地でありながら、切り捨て
られるのではなく、「抱きて」と受け止めている。山が人の
衰えや断念迄も包み込んで眠っている感じがします。裾とい
う位置が視覚的に、上は大きく静まり返る山、下に人の手が
及んだ名残り、上下の対比が自然と浮かび上がります。すべ
てを抱えたまま眠りに入る山が静かに深く感じられます。
冬山家木地師の爪に漆染む 松岡 裕子
人里離れた工房での厳しい自然の寒気と静寂を思わせます。
木地師の爪に漆染むと焦点を当てたのが巧みです。爪に入り
込んだ漆は簡単には落ちません。一時的な作業ではなく長く
続く生業。身に沁みついた職人の時間を感じさせて、華やか
さはないが深い生活感と誇りがあります。心に残りました。
鍵穴を伝ふ寒気や朝コーヒー 中澤さくら
鍵穴という一点に集中した事で、外の冷えが家の内部へ忍
び込んでくる感じが伝わります。寒気に対して温もりの象徴
を静かに置いた取り合せ、対比がくっきりしていて日常の始
まりの静けさがよく出ています。冷えを受け止める所作に流
れが自然で説明臭さがなく、寒い朝のまだ言葉の少ない時間
がよく出ている句だと思いました。
将軍の位牌背比べ館冷ゆる 田畑 洋子
歴代の将軍の位牌が並び、その高さを「背比べ」と捉えた
所が面白いです。人の栄華も今は位牌となりただ冷気の中に
並ぶ、そんな無常感が感じられます。権力の終着点の静けさ
に歴史の冷気が伝わる印象深い一句だと思いました。
宗祇水の庇残るる今朝の雪 石川佳弥子
郡上八幡のシンボル宗祇水は、街の歴史と深く関わって重
みを感じます。庇が今も残っている事で過去と現在を静かに
つなぐ「今朝の雪」が、変わらぬ物の上に変わり続ける物が
あり、説明をせず景だけで語り、余韻が長く残る一句です。
一句一会 川嵜昭典
初蝶のどこへ逸るるも日にまみれ 横澤 放川
(『俳句四季』二月号より)
まだ初々しさの残る初蝶の飛びようは危なっかしく、かつ
物陰へ隠れるということも知らない。小さなボートが大海原
に漕ぎ出したのと同じで、『どこへ逸るるも』という言葉が、
これからの自然の厳しさを暗示しているかのようだ。一方で
「日に」の表現は、太陽の日が蝶を祝福しているようにも感
じられる。いずれにしろ広い空間に小さな命が飛び込んでい
くさまは、少しの不安と大きな希望を感じさせる。また、こ
の句が単なる初蝶賛ではないのは「まみれ」という言葉であ
る。現実の初蝶は、天に地に汚れながら生きてゆく。そのよ
うな意味にもとれる言葉により、初蝶は人の生き方とも重ね
られる。希望の中の現実、そんな人と同じような生き方が初
蝶にもある。
冬が来てゐる神さま仏さま 菅野 孝夫
(『俳句四季』二月号より)
冬が来て「神さま仏さま」というと、クリスマス、大晦日、
そして元旦、ということだろうか。むしろそんな季節柄的な
ことではなく、年末の暮らしをどうしようかということだろ
うか。どちらかといえば私は後者を採りたい。冬が来て、年
末が近づくにつれて今年も無事に終わることができるだろう
か、という不安と、今年も何とかここまでやってこれたとい
う安堵の気持ちが交錯する。それこそ「神さま仏さま」とい
う気持ちで年末を迎えようとする。掲句は「神さま仏さま」
と両者を区別せずに祈っているところに味わいがあり、それ
こそ毎日を一生懸命に生きる人の呟きのように響く。「冬が
来てゐる」という事実と「神さま仏さま」という祈りとの間
には自然に対抗する人間の生活という極めて原始的な課題-
毎日をどう生きていくか-があるように思う。
残る雪すべて踏みたき幼な靴 尾池 和夫
(『俳句四季』二月号「上位段丘」より)
小さな子供の持つ気持ちをそのまま表現した句。面白いの
は、下五が「幼子」などの人ではなく「幼な靴」となってい
るところだ。すなわち、小さな子供が雪を踏むその姿ではな
く、子供が踏んだ足跡に焦点が置かれている。道に残る雪の
上に、点々と小さな足跡が残されている情景はとても微笑ま
しい。
神棚の下も鮟鱇鍋の席 伊藤 麻美
(『俳句四季』二月号「渚まで」より)
どこかくすっとさせられる句。神棚の下に席が設けられる
のは、少し畏れ多いような気もするが、それでも部屋いっぱ
いに席が敷かれる賑やかさには、聖と俗が入り混じり、とて
も人間くさい生活感がある。鮟鱇鍋の湯気や、酒の匂いまで
もが神棚にまで到達するかと思うと、むしろ可笑しみを超え
て温もりさえ感じさせる。すなわち、神もまた天ではなく人々
の生活の中にいるのであり、聖と俗とはそこまで厳格に分け
らるものでもないという、そんな大らかさがあるということ
である。人々が集まるところには笑いも祈りも同居するのだ
と、そんな感慨を抱かせる。
銀河系ほどにマフラー巻きにけり 露草うづら
(『俳句四季』二月号「しかけ絵本」より)
とにかく比喩が面白いのと、マフラーを巻いた姿自体も面
白い句。そしてまた説明もいらない句。とはいえこの句に惹
かれるのは、単なる滑稽ではなく、マフラーをぐるぐる巻き
にしたいほどの寒さと「銀河系」という言葉が不思議に調和
するからだ。宇宙空間における銀河系の寒々とした空気感と、
一方で銀河系に点在する一つ一つの星の温もりは、冬の寒さ
と絶妙に調和する。そう思いながら掲句を読むと、ぐるぐる
巻きにしたマフラーの外側は寒いのに、内側は温もりを感じ
ている、そんな姿に思えてくる。掲句は冬も、ぐるぐる巻き
でいる本人も、どこか優しく肯定している。
一夜だけ門番となる雪だるま 椋 麻里子
(『俳句四季』二月号「万華鏡」より)
雪だるまは作られればその場所に捨て置かれることも多い
が、この句の雪だるまはきちんと門番を務めている。それは
雪だるまにとっても誇らしいことであり、この雪だるまを
作った子供たちが、一夜だけでも家族にしようという、その
優しさも伝わってくる。小さな物語の一ページのよう。
ひと冬に二尋降るてふ茸鍋 広渡 敬雄
(『俳句四季』二月号「冬座敷」より)
茸鍋を一緒につついているときの会話をそのまま俳句にし
たような句。「一尋」が両手を広げたくらいの、およそ一・五
メートル程度なので、「二尋」は三メートル程度。酒を飲み、
鍋をつつきながら、この地域には毎冬、三メートルくらいの
雪が降るよ、と会話をするその場には、どこにも悲壮感はな
く、むしろ誇らしささえ感じさせる。雪の冷たさに対し、酒、
茸鍋、そしてその地の人の温もりが心地よい。
