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井垣清明の書66陳毅詩青松平成25年(二〇一三年)九月 釈 文大雪は青松を圧するも、青松は挺(ちからづよ)くかつ直(ちょく)なり。要(もし)も松の高潔を知らんとするならば、雪の化(と)ける時の到るを待つべし。 (清明訳) |
流 水 抄 加古宗也
老人が自転車を押す師走坂
紙芝居来てをり街の師走路地
アーケード師走バナナの叩き売り
多喜二忌の小樽運河に鴎の群
有刺鉄線めぐらす獄舎虎落笛
蒼天のすぐ曇天に冬港
シスターの売店は上冬薔薇
駅師走一番線に鳩群るる
海猫鳴いてをり蕪島に強き北風
冬の海見つめ男が歌ひ出す
十二月十四日
霜晴や元禄の鐘突き放つ
釈迦堂に火頭窓あり雪螢
アグリコの墓にひびあり義央忌
けふ吉良忌腕しなはせて鐘をつく
忌の鐘のぐをんぐをんと大枯野
冬桜咲かせ一切経の蔵
人は淋しき真夜中の虎落笛
長崎
冬の夜や造船所いま明るき灯
造船所の灯(あかり)まばたき虎落笛
天空を駆ける灯のあり木枯す
光 風 抄 田口風子
風神の袋の中の春一番
竜天に登る螺髪を掠めては
蜷の道混み合つてゐて交はらず
初蝶の吹かるるよりも早く飛ぶ
ゴッホ展
あたたかしファン・ゴッホ家の会計簿
船頭の丁髷頭花見舟
啓蟄やお尻より出る躪口
左巻く螺髪のかたち鳥帰る
三月の日差しに喜寿を祝はれて
陽炎のバスに木乃伊を見し人と
真珠抄五月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
黒靴を白靴に風光りだす 堀田 朋子
耕して耕して土いのち継ぐ 加納 寿一
草萌や夫に生きるといふ仕事 重留 香苗
菜の花や軽トラの行く沈下橋 石川 裕子
絵硝子に透ける聖人春の雪 工藤 弘子
撫牛の背にうすうすと春の塵 水野 幸子
親鸞も蓮如も男ミモザ生け 山科 和子
娘には娘の一徹のあり雛飾る 髙橋 冬竹
樏を履きて氷湖に踏み入れり 山田 和男
春愁や古き手紙を読み直す 鶴田 和美
雛店を出て八丁の田楽屋 高濱 聡光
守一の猫の絵春の心地して 堀田 和敬
菜の花や東門入る登校班 春山 泉
寒すずめ人に懐かず人を恋ふ 原田 熙恵
遠足の子の大仏に手を合はす 池田真佐子
まづ目玉くすぐり始む杉花粉 堀口 忠男
レヂ袋さげて日永の立話 新部とし子
廃線のレールの匂ひ犬ふぐり 和田 郁江
花衣にかくす反戦のプラカード 大澤 萌衣
土産屋の名は「よりみち」やうららけし 鈴木 帰心
ふる里の春を喜ぶ素手素足 堀場 幸子
サウナ出てチキン頬張る春の昼 松岡 裕子
母の声聞こえぬふりし春夕焼 加藤 典子
立て続く友の着信あたたかし 平田 眞子
愛犬に赤きバンダナ雛の日 松元 貞子
霾や鼻先欠けし兵馬俑 加島 照子
春キャベツ山積みされし道の駅 岡本たんぽぽ
斑鳩の里に遊びし遅日かな 安井千佳子
木の芽風子象の鼻はよく動く 中井 光瞬
啓蟄の土ふかぶかと掘り起こす 奥村 頼子
選後余滴 加古宗也
黒靴を白靴に風光りだす 堀田 朋子
「白靴」は夏の季語。「黒靴」は季語に無い。「風光る」
は春の季語。つまり、季語・季感のニュアンスを巧みに組
合せることで、一句を面白く仕立てた。歳時は春夏秋冬を
ばっさりと切り分けて分散してあるが、「季感(季節感)」
はそう単純なものではない。そこのところを、つまり、歳
時記の矛盾を巧みに組み合わせて、一句を構成している。
それをより効果的にしたのが「風光りだす」という下の句
の使い方だ。
木の芽風子象の鼻はよく動く 中井 光瞬
動物園の一番の人気といえば象だ。ほんのこないだまで
パンダだったが、パンダが中国に帰国してしまって、ふた
たび象が人気者の中心に返り咲いた。下の句「鼻はよく動
く」が何でもないように見えるが、よくよく観察しなおし
て見ると象は鼻で様ざまなことをこなす。器用だからとい
うよりも、生きてゆくためには鼻に様々な作業をしてもら
わないと生存にかかわるのだろう。そのことに感心すると
同時にせつなさをおぼえるのは私だけだろうか。
啓蟄の土ふかぶかと掘り起こす 奥村 頼子
「啓蟄」は二十四節気の一つで、だいたい三月五日ごろ
にあたる。冬眠していた蟻や蛇や蛙のほか、地虫なども穴
を出てくるころをいう。「ふかぶか」によって地中深くで
眠っていたものまでも地上へ出してやろうと思いやりすら
見えてくるところが面白い。「啓蟄」が来ると一気に春の
陽気が進む。
絵硝子に透ける聖人春の雪 工藤 弘子
教会の美しさの一つに、ステンドグラスを透けてくる光
がある。ここに見える「聖人」というのは聖書に登場して
くる神々のことか、あるいはずばりイエスキリストのこと
なのかもしれない。ステンドグラスを透けてくる春の雪の
気配がとことん厳粛な気分をただよわせる。
娘には娘の一徹のあり雛飾る 髙橋 冬竹
雛壇の雛の並べ方一つにしても、それぞれ思いがあり、
娘は娘で、けっしてその飾り方をゆずらないというのだろ
う。というよりも、雛飾りだからこそ、娘はゆずらないのだ。
雛に対する強い愛着がこの「一徹」によっていよいよ面白
くなった。
遠足の子の大仏に手を合はす 池田真佐子
この句「大仏に手を合はす」が子供の心理を見事につか
まえていて過不足がない。道の辺のお地蔵さま、墓道にあ
る六地蔵などに手を合わせている子供をあまり見たことは
ない。ここは「大仏」がポイントで、大仏ゆえに子供はそ
の大きさに圧倒されて思わず手を合すのだ。遠足の子ゆえ
に、子供の動きが映像化されて見えてくる。そこがこの一
句を一層、面白いものにしている。
菜の花や軽トラの行く沈下橋 石川 裕子
私の好きな歌謡曲に高知県を流れる大河・四万十川(し
まんとがわ)を歌った一曲がある。ほれぼれとする美声で、
しかも、よどみのない流れるような歌声はまさに四万十川
にふさわしい。その歌の一節に「沈下橋」というのが出て
くるがじつに、矢作古川に架かった沈下橋が私は好きで、
歩いて何度も渡ったことがあった。「があった」というこ
とは即ち、今は無い。安城市と西尾市をつなぐ大橋で、小
川橋という木橋だった。ちょっと川が増水すると濁流に呑
み込まれてしまったり、流されてしまったりしたもので、
現在のような巨大な鉄筋の橋に架け替わってしまったの
だ。新しい橋が架かると元の端は取り壊さなければならな
い決まりのようだが、決まりというものは、とことんつま
らないものだ。西尾市の美しい景観が、あっさりと取り壊
されてしまったのは残念という他はない。小川橋のことを
思っていたら、ふと「矢切の渡し」という歌が思い出された。
レヂ袋さげて日永の立話 新部とし子
つい見落しがちの景だが、じつに心なごむ景だ。かつて
「下町」という言葉が愛された時代があったが、失われて
ゆくものをどうかして守り抜かなければという思いが私に
はあるが、どうだろう。
守一の猫の絵春の心地して 堀田 和敬
「春の心地」がぴたりと言い当ててゆるぎない。リトグ
ラフを飾っている友人を何人か知っているがうなずける。
耕して耕して土いのち継ぐ 加納 寿一
「天地返し」という言葉があるが農耕地は耕すことによっ
て大気を吸って甦る。「いのち継ぐ」が見事な把握。
木漏れ日の小径 加島照子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(三月号より)
追伸のごと風花のふたみひら 工藤 弘子
手紙を書き終えたあとにもう一言添える心を、風花に見た
てている発想が新鮮です。遠くの雪が舞っているどこか儚く
軽い雪の風花を「追伸」という言葉と、とてもよく合います。
「ふたみひら」の余韻には、知的で静かで説明せずに柔らか
さがあります。取り合せが印象的で余情がたっぷり感じられ
る一句になりました。
人日や寝たきりの娘を抱きにいく 酒井 英子
人日は一年の無病息災を願う日です。抱きに行くと言う行
動だけで、娘への思いや祈る様な気持ちの心情が表われてい
ます。写生と言うより「真情の句」として読み手の心を動か
す力があります。言葉数は多くないのに心に深く残る句とし
て、とても印象的で優しさのあふれる句に出合いました。
出迎へのおさなに耳の凍てゆるぶ 池田真佐子
外の寒さと出迎えてくれる幼子の温かさが対比されていま
す。「嬉しい」「可愛いい」と言わずに「耳の凍てゆるぶ」と、
身体で表すのが巧みです。寒さがほどける様な身体感覚が温
かさを表わして、家庭の温もりが読み手にもじんわりと伝
わってきます。
大寒の螺旋の底にゐる心地 川嵜 昭典
一年で最も寒さが厳しい頃を「螺旋の底」と言う表現が面
白いです。ぐるぐると寒い所へ沈んで行く様な感覚が伝わる
大寒と言う極限の寒さと、底にいる様な閉塞感の気持ちがよ
く合って余韻を感じさせます。「螺旋の底」と言う立体的な
イメージと、寒さを深さとした感じがとても独特でした。
雑木みな裸木となり風は哭く 斉藤 浩美
山や林の木々がすべての葉を落とした様子に「風は哭く」
と言う言葉で、冬の風の寂しさや厳しさが強く伝わります。
葉のない枝を吹き抜ける風の音が聞こえてくる様です。ただ
の写生でなく、どこか冬の荒涼感を思わせます。冬の山野の
自然の厳しさを詠んだ情景が、目に浮かぶ様な印象深い一句
となっています。
七草摘む朝日の満つる畑一巡 米津季恵野
冬から春へ向かう早朝の光と七草摘みの素朴な営みが、よ
く響き合っています。畑一杯に朝日が広がる感じが美しく、
静かな喜びと冬の澄んだ光が感じられます。畑をぐるりと歩
きながら七草を探している様子が自然です。派手さはなく生
活の中の小さな幸福を感じさせる句だと思いました。
長生きが素直にうれし日向ぼこ 奥村 頼子
人生のぬくもりを感じ、読む人の心を柔らかくしてくれま
す。長く生きて来た実感から出る言葉で、飾りのない率直な
喜びが伝わります。年令を重ねた人だからこそ言える重みも
あります。冬の日だまりに座りながら、こうして生きて日向
にいられる事が嬉しいと、そんな豊かな時間が見えてきま
す。日向ぼこ出来る幸せに多くの共感が得られるのではと思
いました。
針のごとき月を伴なひ冬夕焼 橋本 周策
「冬夕焼」の広がりの中に、細い月を一点の光として捉え
た所が魅力です。月がきりりと尖って見える感じを「針」と
いう比喩が冬らしい冷たさを感じます。冬夕焼はどこか静か
で透明感があります。その静けさの中に「針の月」一本を、
差し込まれた様な感じで引き締めます。一瞬の美しい空を巧
く捉えていると思いました。
林縁を飛び立ち獲物追ふ鵟 堀口 忠男
静かな林の縁から鵟がふっと飛び立つ瞬間が目に浮かびま
す。鵟が生きる為の本態的な動きが出ていて、ただの風景で
なく生命の営みが感じられます。夜の静けさや神秘的な雰囲
気を持つ鳥の一瞬の野性の動きを捉え、静と動がはっきりと
しています。写生の力強さや迫力のある句に惹かれました。
てっさ喰ひたし呉須赤の皿に載せ 堀田 和敬
「呉須赤の皿」は色彩がとても美しく、赤絵の上に薄く並
べられた「てっさ」が盛られている景が目に浮かびます。料
理だけでなく器の美しさにも目が向いている所が良いです。
目の前の皿を見て思わず食べたいと思う気持ちが、気取りの
ない率直な食欲の期待と嬉しさが伝わります。
寒鴉ここは饗庭の塩田跡 伊藤 恵美
冬の荒れた空の下の塩田跡地に寒鴉がいる景が、印象的に
浮かびます。人の営みが去った場所の寂しさが寒鴉の季語で
強調されています。土地の歴史と冬の寂しさが重なり味わい
深いです。散策の中での気付きが巧みに表現されています。
十七音の森を歩く 鈴木帰心
桜餅君が留守とは詰まらなく 西村 麒麟
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
町を歩いていると、和菓子屋の陳列ケースに桜餅を見つけ
た。その愛らしさにふと恋人のことを思い、桜餅を買って彼
女のアパートに前触れもなく行くことにした。その道中、突
然の訪問に驚く彼女の顔、桜餅を見た時の目の輝き、「お茶
を入れるわね」という弾んだ声、向かい合って笑顔で桜餅を
頬張るひととき、等を思い浮かべながら、ふっと微笑む男。
インターホンを押すと、彼女は不在。「あーあ」とため息
をつき、道端の小石を一つ蹴って帰っていく男の後ろ姿―そ
んな一連のドラマをこの句は見せてくれる。
遠く見るよりは明るき木下闇 安部 元気
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
チャップリンの言葉に「人生はクローズアップで見れば悲
劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」があるが、その逆
の場合もある。
遠くから見ると闇の塊のような木下闇。少し不気味にも思
え、思わず後ずさりしてしまう。しかし、近くに来て、その
中に入ってみると、意外に明るくて、心地よくもあり、「闇」
のイメージが遠のいていく。
人生にもそのような一面がある。真っ暗闇に突き落とされ
たように思えても、その暗さに慣れ、その「闇」と何とか折
り合いをつけていくと、一条の光が見えてくる。
「鳥の眼」よりも「蟻の眼」の方が、人生が開けることも
ある―そのことを、この句は教えてくれる。
おほかたのお骨はくずれ露涼し 如月 真菜
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
私事で恐縮だが、掲句を読み、筆者の母の骨上げの時のこ
とを思い出した。もともと小柄な母ではあったが、母の骨は
思った以上に少なく、くずれてもいた。病んでいたところの
骨は特にそうだった。しかし、母は生前、「死んだら土に還
りたい」と言っていた。母のくずれた遺骨は、その思いを形
にしているのだと思った。
「露涼し」は、故人への最高の賛辞だと思う。
手の足りてゐて気忙しき盆の家 夏井いつき
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
「手の足りてゐ」るのだから「気忙し」いはずはないのだ
が、季語「盆の家」の斡旋により、合点がいく。
盆は、非日常の期間。親戚の集う本家の者には、通常の来
客の接待とは違う緊張感や心遣いが求められる。とりわけ本
家の嫁であれば、気遣いは一通りではない。子供の手も借り
て食事の準備、墓参の仕度などをするのだが、自分の緊張感
が子供にも伝わり、やることが何となく空回りしているよう
に感じる。そのもどかしさが上五中七から伝わってくる。
駅弁のバランで仕切る夏の数 矢作十志夫
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
夏の駅弁―涼を誘う寒色系のパッケージを開くと、夏らし
い食材が目に入ってくる。それがバランで仕切られ、個々の
食材の主張に適度な「間」を与え、全体として、爽やかな夏
のハーモニーを奏でている。
長谷川櫂氏は、「日本の文化で『間』が大事にされる理由
は、日本の蒸し暑い夏にある。涼しく過ごせるよう、物と物、
人と人との間に十分な『間』をとるのである(趣旨)」(『一億
人の「切れ」入門』角川学芸出版)と述べている。
仕切る―これが、「間」を重んずる日本の美意識だ。
仕切られておでんの鍋のさびしさう 辻 桃子
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
しかし一方で、仕切られることに淋しさがあるのも事実だ。
コロナ禍の緊急事態宣言発令時の外出自粛など、その一例
だ。
おでん鍋の仕切りは、具材が混ざらないためにあるのだが、
そんな「機能面」に抗いたくなる時もある。
世の中にも、おでん鍋のような「仕切り」が、目には見え
なくても存在している。それが、人を差別化し、「管理」を
容易にし、「仕切り」からはみ出る者を白眼視する傾向を強
める。
おでん鍋の仕切り―実は下の方は穴が開いているので、だ
し汁は一体である。それならば、仕切りを取り払って、いろ
んな具材が肩寄せ合って浮かんでいる方が楽しくはないだろ
うか。この句から、そんなことを思った。
冷たき手人に握られればわかる 山本 一歩
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
二つのものの温度の差異は、相対的なもの。相手の手の温
かさによって、自分の手が冷たいことが分かる。それは、心
も同じ。他人の心の温かさに触れて、自分の心が冷えていた
ことに、そして他人の善意の有難さに、気づく―掲句を読
み、そのことに改めて気づかされた。
