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井垣清明の書67隙 駒平成26年(二〇一四年)五月 釈 文隙駒(げきく) 。(光陰箭(や)の如(ごと)しと同義) |
流 水 抄 加古宗也
西尾市幡豆町鳥羽・国無形文化財「鳥羽の火祭」三句
火祭を待つ寒風の心に立ち
猫頭巾かむり炎へ火の祭
頭から水浴び鳥羽の火の祭
強霜や畦に太々タイヤ痕
地ねぶりのもうもうとたち春立てる
一陽来復ノーベル賞の被団協
浅蜊船尻に大きな船外機
恋果したる猫土間に蹲る
春の雪降る栄や乱歩旧居跡
三叉路にタイヤ痕あり冴返る
丼で菜飯を八丁味噌の汁
足助路やショーウィンドーに享保雛
足助路や七厘で焼く草の餅
笹鳴きや足助に馬頭観世音
うぐひすや街中を縫ふ塩の道
探梅のところどころに木のベンチ
魯山人写しの菓子器草の餅
斑雪野や渡岸寺と云ふ里に入る
観音を埋めし秘話や残る雪
人誰も嘘つくものよ亀の鳴く
光 風 抄 田口風子
風に散る花水音の句碑の前
外に出てみればあたたか歩き出す
八卦見に呼び止めらるる啄木忌
襟足の似てゐる二人新社員
読み聞かす本も旅の荷花の宿
うぐひすのこゑ三方に名無し山
啄木忌長屋はいまも袋道
風の湧く地獄の釜の蓋あたり
リラの雨バスに人形劇一団
尿前の関の暗さに蝮草
真珠抄六月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
入学の子へたつぷりの散らしずし 池田真佐子
先頭よりしんがりが好き山笑ふ 鶴田 和美
山笑ふその懐に石舞台 安井千佳子
春めくや友の訛りの戻り来て 加島 照子
マリア像片手は春の星へ伸ぶ 工藤 弘子
たんぽぽの背の高さまで屈み見る 高濱 聡光
あけぼのや男雛の頬の淡き紅 石川 裕子
国境は人間のもの鳥帰る 加納 寿一
三河路の風のにほひの蓬摘む 水野 幸子
里山のはや目覚めたり檀香梅 堀口 忠男
若葉して行き交ふ人の明るさよ 烏野かつよ
父の日やつくづく吾は父さん似 飯島 慶子
手首足首太きは達者豆ごはん 堀場 幸子
春の夢音楽室の肖像画 堀田 朋子
細枝を大地へこぼす巣組みかな 春山 泉
二匙の九重味醂蕗の味噌 鈴木 帰心
イノシシが道を横切る万愚節 山科 和子
てふてふがころげころげておほぞらへ 今村 正岑
桜並木レールの先の先までも 石川 桂子
鯛の骨刺さりて暗き三が日 梅原巳代子
トンボロの砂浜長し浅蜊掘る 山田 和男
落花追ふアヒルに似たる襁褓の児 和田 郁江
啓蟄の店頭防虫グッズかな 平井 香
花盛り遠回りする入浴車 松岡 裕子
春うらら声のする方向く赤子 原田 熙恵
子と探す大三角形春の星 新部とし子
雑巾を固く絞りて卒業す 水野由美子
欄に達磨ゐる橋春の雪 金谷柚子花
蟻穴を出づ吉原大門跡 市川 栄司
帰途につくバスの正面山笑ふ 梅田けい子
選後余滴 加古宗也
花盛り遠回りする入浴車 松岡 裕子
村上鬼城の俳句を評するとき、たびたび使われる言葉の
一つに「心の俳諧」というのがある。俳句として最上のも
のは素材に対して深い愛情を持って詠む、ことの大切さを
言ったものだ。デイサービスの一つである入浴車が、巡回
の途次、わざわざ遠回りして、花盛りの山、堤防などに立
ち寄ったというのだ。入浴車の運転手、看護士なども花見
がしたいと思うのは自然のこと。少しの遅れはかんべんし
て下さい、というわけだ。日本人の花好きはいつから始まっ
たのだろう。介護の基本がさりげなく一句に詠み込まれて
いるのがうれしい。
二匙の九重味醂蕗の味噌 鈴木 帰心
蕗のとうを刻み込んだ味噌のことを蕗味噌という。その
味噌の中にほんの少しだが味醂を入れるとこれがまた一段
と旨味を増す。「九重味醂」というのは愛知県碧南市にあ
る味醂製造業者のことで、大浜港の一角にある。味醂の原
料を港から直接、工場にあげるためだ。蕗味噌の旨さをい
うと同時に大浜へのしゃれた存問句になっている。
先頭よりしんがりが好き山笑ふ 鶴田 和美
「優等生」「我鬼大将」、いずれもそのグループの上位に
あるものを指す言葉だ。戦後も早や八十年を閲するが、そ
のことは全く変っていないように思う。つまり、競争社会
に変りはない。優等生は一見、立派に見え、楽しく生きて
いるかのように見えるが、かならずしもそうではない、と
いうのだろう。「山笑ふ」の季語が強烈に決まった一句。
入学の子へたっぷりの散らしずし 池田真佐子
散らしずしは比較的調理しやすく、量も適当ですむ、そ
して、何よりも子供たちが好きなご地走だ。「たっぷり」
がいい。
トンボロの砂浜長し浅蜊掘る 山田 和男
大潮のときに出現するもので、陸と島とをつなぐ砂の洲
のことをトンボロという。ここに登場したトンボロは、西
尾市幡豆町で大潮のとき見られる現象、先年、俳人協会環
境委員会の企画で、トンボロを渡るイベントが行われ好評
だった。そして、このトンボロ周辺は、浅蜊の産地として
全国一の出荷量を誇る。トンボロは三河大地震のとき、海
が隆起してできたものだという。
国境は人間のもの鳥帰る 加納 寿一
国境は人為的に作られたものであり、鳥たちは自由に往
き交っている。私の師の富田潮児は十七歳のとき失明した
と聞くが、そのことについて一切、愚痴らしいことを言っ
たことはなかった。あるとき、句会の最中に停電して、会
員が騒いだことがあった。その時、「目明きというものは、
不自由なものですね」と笑いながら、どこからか、臘燭を
持ってきて、すんなり騒ぎをしずめたという。人間はいつ
も自由な心を持ちたいものだ。
イノシシが道を横切る万愚節 山科 和子
「イノシシが道を横ぎる」などということは、本来あっ
てはならないこと。それが近ごろは時折り、あったりする。
地球温暖化のせいなのか、どうなのか。これまでの常識が
通用しない情況が生まれてきている。「万愚節」という季
語の斡旋が意表を突いて面白い。
春の夢音楽室の肖像画 堀田 朋子
ソファーにもたれていたとき、ふと眠りに誘われてし
まったのだろう。その夢は中学校の音楽室の風景で、音楽
室にはバッハ、ベートーベン、シューベルト、ショパンな
どの作曲家の肖像画がたくさん飾られている。そして、そ
の肖像画から彼らの作曲した音楽が流れ出てくる。やがて、
心地よい春の夢から現実にひき戻されてゆくのだが、音楽
室の夢には不快感はない。余談だが、中世の作曲家たちは
皆かつらを被っていたと聞いたことがあり、何か彼らのお
しゃれ感覚が面白く思われる。
たんぽぽの背の高さまで屈み見る 高濱 聡光
何となく読んでしまうが、よくよくこの光景を考察して
みると、地に伏してみないことには、「たんぽぽの背の高
さ」にはならない。つまり、顔を地面につけたとき「たん
ぽぽの背の高さ」になるのだ。そして、地に伏したとき、
たんぽぽはとてもかわいらしく見える。
あけぼのや男雛の頬の淡き紅 石川 裕子
女雛は赤き口紅が美しい。ところが男雛には化粧は無い
ものという先入観を意外に持っているものだが、そうでは
ないことをこの句は言っている。男雛の頬にほんのりとつ
けられた紅によって、男雛に生気が宿るのだ。つい見落し
がちなところに注目した作者の写生力に拍手を送りたい。
「淡き紅」がぴたりと決まった。
木漏れ日の小径 加島照子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(四月号より)
我が山河の慟哭と聞け雪解川 市川 栄司
「我が山河」と大きく出て、個人の感情を越えて地域その
ものの歴史や痛み等を感じさせます。「慟哭」という語が重
く、ただの雪解川ではなく、抑えきれぬ声としての川が立ち
上ってきます。雪が解けて勢いを増した水の音のイメージが
慟哭とよく響き合っています。この句には大きなスケールと
激情がストレートに届く強さがあり魅力的です。
阻まれてをり守られてをり雪の村 今泉かの子
同じ対象の「雪」に対して、外界から閉ざされる「阻まれ
て」と、内を包み込む「守られて」と言う二面をきちんと捉
えて、雪国の実感がよく出ています。閉ざされた孤立感と守
られる安らぎが、同時に立ち上がる良い構成になっていま
す。雪の本質を静かに詠んだ対句が印象に残りました。
春立つや兄を探した爆心地 中井 光瞬
立春の明るさ、新しい季節の始まり、そのかすかな希望や
再生の気配が後半の対比を強くしています。「爆心地」と言
う語によって一気に歴史的、社会的な広がりが感じられま
す。春の訪れ(再生)と消えない記憶(喪失)との対比が、
非常に鮮明で読み手に深い余韻を残します。胸に迫る重くて
静かな力を持っており、とても強く印象に残る一句です。
雲置くも払ふも寒の富岳美し 服部くらら
「雲置くも払ふも」がとても巧みに効いています。簡潔で
美しい変化そのものを肯定する視点が良く出ています。
「寒」で季節をぐっと引き締め、「富岳」と格調高く呼ぶ事
で句全体に品位と古典的な響きが生まれています。
自然の移ろいを越えて尚揺るがない美を詠み、堂々とした
風格を感じます。静けさと雄大さがよく調和してとても完成
度の高い句だと思いました。
ほかほかに鋤き返されし春の土 磯村 通子
「ほかほか」がとてもよく効いています。視覚だけでなく、
手で触れた時の温もりや、土の匂いまで感じさせます。体感
的な言葉で読み手を一気に畑の中へ連れて行きます。鋤き返
されしと作業の具体性もあり、「春の土」を結びとして安定
感もある的確な季語で、全体を優しくまとめています。人の
営みと春の生命感が自然に結びついていて、優しさの実感が
この句の魅力です。肩の力の抜けた気持ちの良い一句に感じ
ました。
泥の吐く息を閉じ込む厚氷 春山 泉
「泥の吐く息」が魅力的です。泥を「吐く息」と捉えた事
で、湿地や田の中に潜む生命感や発酵の気配、ぬくもり迄感
じさせます。やや不気味さも含んでいて、読み手の感覚を引
き込む力があります。「閉じ込む」動き一点に収束し、句に
緊張を与えています。「息」と言う動的なものを閉じ込める
事で、時間が止まる様な感覚が生まれています。「厚氷」の
厳しい寒さがよく効いていて深みを増しています。
「だるま糸」に切り込み五ミリ針納め 渡邊 悦子
「だるま糸」の語だけで裁縫の場面や手元の温もりが立ち
上がります。「切り込み」の動作も実際の手の動きが見える
様です。「針納め」の季語が一年の終わりの静かな区切り、
道具への感謝の気持ちが滲みます。日常の小さな所作に宿る
節目の心がよく出ています。私の裁縫箱にも何色もの「だる
ま糸」があり共感しきりでした。味わい深い一句です。
梅の向かう梅また梅の筑波山 磯貝 恵子
視界一杯に続く梅林の様子や重なり合う遠近感と、ほのか
な香りの広がりまで感じさせてくれます。リズムが良くて声
に出すと心地良いです。「筑波山」を据えた事で一気に景が
締まり、広がる梅の先にどっしり構える山。梅の明るさと筑
波山の安定感が調和して、春の光に満ちた一句になりました。
三寒の尺八四温の庭仕事 長表 昌代
「三寒四温」と言う時候を「尺八」と「庭仕事」に割り振っ
たのが独創的です。冷え込む「三寒」に澄んだ音色がよく響
き内向きで精神的な時間の気配。一方「四温」の庭仕事が体
を動かす現実的な土の匂いに営みを感じます。対比が鮮やか
で、寒暖のリズムを生活で捉えているのが巧みです。
初湯殿ちょいなちょいなの草津節 松岡 裕子
「初湯殿」で新年の晴れやかさ清々しさが感じられます。
「ちょいなちょいな」と民謡のリズムが、そのまま句に入り
ぐっと生き生きします。読み手も思わず口遊みたくなりま
す。草津節で温泉の賑わいや湯けむり、観光の気配迄感じら
れます。くだけた調子ですが人のぬくもりをよく表してい
て、実に楽しい一句です。草津温泉に又行きたくなりました。
一句一会 川嵜昭典
冴返るけものの息の残る檻 雨宮きぬよ
(『俳壇』四月号「むつび月」より)
「冴返る」という季語はとても繊細な季語だ。そもそも物
ではないので見つけることはできない。普段から感覚を研ぎ
澄ましていないとその瞬間はすぐに過ぎ去ってしまう。この
感覚は、気配と緊張、と言ってもいい。
そして掲句はまさにこの気配と緊張が生まれる瞬間を詠ん
でいる。「けものの息の残る檻」の、けものの息を嗅いで感
じる緊張感は、昔の人間がかつて自然に持っており、今の人
間にもおそらく僅かに残っている野生を呼び覚ます。その瞬
間に感じる緊張が「冴返る」であり、普段の生活ではなく、
大きな自然の中で生きている小さな生き物としての生きる感
覚が心の内側で目を覚ます。「冴返る」は外界から与えられ
るものでありながら、その実、自身の内側に眠る感覚を蘇ら
せるものであるのだろう。
季語というのは客観的なものでありながら、その季語を具
体的に自然の中で感じた瞬間、それは個人的な、内省的なも
のへと変化する。そこに俳句の妙味があり、個性がある。
春星ややつぱり涙脆くなり 伊藤 政美
(『俳壇』四月号「夢の続き」より)
滲んで見える星は、春の星だからか、自分のせいなのか、
と考え、「やっぱり」と納得する。春の星というのは自身に
は全く関係がないのに、経験や思い出をめぐらせ、涙が出て
くるのはとても人間らしい。大人になればなるほど、そして
歳を取れば取るほど、世の中に対する自身の存在は小さく
なっていくように感じるが、その小ささが分かってくる分だ
け、世の中のものを受け入れる度量は広がるのかもしれな
い。そういう意味で、「春星」は、冬の冴えた星とは異なり、
その滲んだ姿は心の緩やかな広がりと響き合う。人は変わっ
ていくものだということを納得させられる句。
春禽の枝から枝へ影ばかり 波戸岡 旭
(『俳壇』四月号「童顔」より)
鳥の声を聞けば姿を探すのが人情だが、どうにもはっきり
と捉えられない。そんなもどかしさがあるが、一方で、その
もどかしさが、春らしい軽やかさだとも感じる。また、その
鳥たちの動く気配と枝の揺れるさまは、春の芽吹きの気配と
重なる。「春禽」という季語を用いているものの、春禽は登
場せず、しかしその不在がかえって、人の世界と鳥たちの世
界とをはっきりと分け、この世の中は一つの世界ではなく、
鳥や人間など、いくつもの世界が重なって存在しているとい
う、世界の重層を感じさせる句となっている。
たかぶれる波に動かず春日傘 吉田千嘉子
(『俳壇』四月号「桜」より)
子供のころ、じっと何かを見つめている人には話しかけて
はいけない、と教えられたことがある。そのころはそれが単
なるルールだからだと思っていたが、大人になってみれば、
そういう意味ではなかったことに気が付く。それは、その人
の内面への配慮であり、孤独を尊重することでもある。掲句
の「春日傘」も、そのようなことだ。外界の「たかぶれる波」
には動じないその孤独の時間は、誰のものでもなく、その人
のものだ。しかしこの句が寂しくないのは「春日傘」という
季語であり、春日傘に当たる柔らかな光は、孤独の温かさと、
そんな時間の大切さを教えてくれる。
絵踏して潮騒を聞く女かな 岩岡 中正
(『俳壇』四月号「円卓会議」より)
不思議な句である。また同時に想像力をかき立てる句でも
ある。字句通り絵踏が行われていたとすると、この句は現在
のことではなく過去のことを詠んだ句ということになる。し
かし、下五の「かな」には過去の意味はないので、「潮騒を
聞く女」は現在の様子と受け取ることもできる。とすると
「絵踏」は比喩であり、絵踏ほどの重い決断を迫られた女を
作者は見ている、ということになる。いずれにしろ、絵踏を
単なる歴史的事実として捉えず、それほどの重大な決断とし
て解釈することによってこの句は普遍性を帯び、「女」を自
分の出来事のように感じることになる。
そうすると「聞く」という能動的な言葉はとても力強い言
葉なのだと気づく。普通、重い決断をしようとすればするほ
ど、その意識は内に向きがちになり、外の世界を遮断しよう
とする。しかし、この句の女は、意識を外に向けており、重
い決断を下そうとしているときでさえ、その芯の部分は強
く、澄んでいるように感じられる。そして、自身を取り巻く
世間の淀みと、人間の力の及ばない自然との間で女は、自身
の信念をどこまでも貫いていこうという静かな決意をしたよ
うに思われる。
「絵踏」という内面に関する重大事と、「潮騒」という外界
の、いつまでも変わらない自然とを捉えたこの句は、その二
つの対比のようでいて対比ではなく、女の内面では両者は一
つの意志で貫かれているように思われるのだ。
