No.1131 令和8年7月号

井垣清明の書68

氷壺貯秋月

平成27年(二〇一五年)一月
第54回日書学展(東京都美術館)

釈 文

氷壺(ひょうこ)秋月を貯(たくは)ふ。
(蘇東坡七言古詩「贈潘谷」より)

流 水 抄   加古宗也


この郷に勝家のルーツ棉をまく
春風や岬に白きマリア像
野遊びや大和三山低くあり
春分や元禄の鐘突き放つ
春分や尾を振りつ来る秋田犬
暖かや恋路ケ浜の波の音
市史改訂版に「若竹」の歴史紹介さる
新しき市史出て春の縁に読む
ラマ僧の一団と会ふ花の京
梅が香に出て高井戸の水鏡
彼岸墓地閼伽桶に汲む井戸の水
音立てて回る水子の風車
葱坊主生けし貧乏徳利かな
滋賀・渡岸寺
柿芽吹く幹にくくりし塞の神
この坂の上は陶房薮椿
落椿数多名刀祀る宮
大城戸を潜ればすぐに花の城
西尾公園・茶室・旧近江邸
篤姫にゆかりの茶邸花を愛づ
この城は二重堀持ち残る鴨
深吉野・光蔵寺
山寺に淨土てふ庭岩牡丹

光 風 抄   田口風子


貝塚にまた鶯の谷渡り
貝塚の貝踏む音と行々子
夏蝶の吹かるるままに無縁塚
流人墓傾ぐ卯の花腐しかな
梅は実となり指切りの指に傷
延命地蔵延命の鈴若葉光
花は葉に延命の鈴鳴らす子等
マンホール踏む地獄の釜の蓋を踏む
沢瀉の咲けば鎮もる茶祖の寺

真珠抄七月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


葦牙や山里にあるビオトープ     鈴木まり子
天牛の傷跡あまた桜狩り       堀口 忠男
燕来る湯屋あくころの佃路地     市川 栄司
山城や牡丹桜の奥は崖        春山  泉
藤揺れて無口な男語り出す      原田 熙恵
一村を水に浮かべて田水張る     堀田 朋子
老鶯や山に突き出る行場岩      山田 和男
いくさ無き八十余年子供の日     杉本 金男
新樹光千住博の山水図        平田 眞子
青蜥蜴ためらふときのなまめける   大澤 萌衣
絵硝子のかげの抱擁聖五月      大杉 幸靖
蕺菜の干されてをりし蔵の前     関口 一秋
なんとなく覚えし軍歌昭和の日    加島 孝允
標高千の木曽のクレソン苦かりし   酒井 英子
麦秋や笑つて直す気の病       工藤 弘子
南風吹く城も城下も赤瓦       笹澤はるな
繁縷摘む花弁たしかに兎耳      長坂 尚子
涼しさを重ね紅型貸衣裳       安井千佳子
訪ねたる母校や柳絮舞ふ中に     加島 照子
草餅やまずまずといふ褒めことば   奥村 頼子
しのび寄る軍靴憲法記念の日     髙𣘺 まり子
妻と観る隣家のばらは赤と白     石崎 白泉
妻の秋ぽつんとしゃれた洋菓子店   奥野 順子
逆立ちをして見える臍夏盛ん     加納 寿一
仁王にも生命線や山笑ふ       水野 幸子
まだとつてある靴の箱四月馬鹿    石川 裕子
朝まだき蜆しやかしやか洗ふ音    堀田 和敬
故里の港は廃れ鑑真忌        松元 貞子
焙炉場の湯気の向かうにちちの声   重留 香苗
亡き母へ思ひぐるぐる粽解く     今村 正岑

選後余滴  加古宗也


いくさ無き八十余年子供の日   杉本 金男
昭和二十年(一九四五)八月十五日、太平洋戦争は、日
本がアメリカなどの連合国に無条件幸福することによって
終結した。ポツダム宣言の受諾である。つまり、今年の八
月十五日が来れば終戦から八十一年になる。したがって正
しく言えば、五月五日は八十年と何か月ということになる。
俳句ではそれほど厳密にいうこともないのだが、この年は
日本国の歴史が大きく変わった年であると同時に私の生ま
れた年なのだ。日本国の歴史の大転換の年に私が生まれた
という事実は、私の人生をいやおうもなく決定づけるもの
だった。それから八十年余り、日本国は積極的に戦争にか
かわったことはなかった。つまり、掲出の句は、正しく言
えば「いくさなき八十余年」ではなく、「八十年余」だ。
私は日本国憲法の、それも「前文」が好きだ。「平和主義」
を高らかとうたいあげた「日本国憲法」は誇り高い。作者
の世代は「日本国憲法」の精神を血とし肉としている世代
で、それをありがたく尊いと思っている世代だ。下の句「子
供の日」は、子供から孫の世代まで、久しく平和国家・日
本であってほしいという作者の願いが込められている。
憲法記念日無人の里の忠魂碑 金男
明治維新から先の大戦の終局まで、日本国は富国強兵の
歴史だった。いまは無人となってしまった里に忠魂碑がぽ
つんと立っている。忠魂碑の前に立って日本の未来に思い
をめぐらしている。「日本国憲法」の指し示した理念を反
芻しながら…。
昭和の日三島由紀夫を紐解けり   堀田 朋子
「楯の会」そして、東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地における
三島由紀夫の割腹自殺。『潮騒』は三河湾に浮かぶ漁業を
生業とする漁師の島・神島を舞台にした小説で、三島自身、
学生時代にこの島で夏休みを過ごしている。そして、この
島で書かれた『潮騒』によって文壇にデビューした。島の
頂に「監的哨(かんてきしょう)」があり、そこで生まれ
た恋がテーマだ。三河湾と太平洋をつなぐところで、島の
頂上には灯台守がある。
『英霊の声』『金閣寺』など日本文学史にのこる傑作を多
く遺している。自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで演説を
する三島の姿がいまも鮮明に思い出される。
老鶯や山に突き出る行場岩   山田 和男
山岳宗教、中でも山伏たちの修行の場としての山道には、
ところどころに岩の谷へ突き出したところを利用して、胆
力を鍛える行場岩というのがある。腰に綱を巻いて体を半
ば岩場の外へ押し出すもので、これは胆が冷える。行場の
緊張感と鶯のゆったりとした鳴き声のアンバランスが面白
い。山男なればの把握が楽しい一句だ。
麦秋や笑つて直す気の病   工藤 弘子
作者はこの春、少々気鬱な時期があったようだ。そして
気鬱から抜け出すのに最もいい方法は「笑うこと」だと気
づいた、というのだろう。そういえば「笑い飛ばす」とい
う言葉がある。普段何でもなく使っている言葉も、いざ落
ち込んでしまうと忘れてしまうようだ。私の一年のうちで
一番好きな季節は「麦秋」のころで、気温もほどよく暖かく、
意外にからっとしていて心地よい。先年、前橋の「山紫会」
のメンバーと吟行したとき、広大な麦畑のつづく景の中に
誘われて、その心地よさをあらためて思ったものだった。
日清製粉の大きな工場を見て、やはり山紫会のメンバーと
吟行の途次、群馬県庁の前で、美智子様と出会ったことを
懐かしく思い出した。ほんの数メートルの距離で見た美智
子様は、あきらかにオーラを発して美しかった。弘子さん
も元気になられて、うれしい。
春服選る白髪の母に似合ふ色   池田真佐子
母親の服を選る、という行動の母娘の愛情を最も素直に
表現したのもだと思う。「白髪の母に」が母と娘の関係を
見事にきわだたせている。
母の日や指輪は母の黒真珠   池田あや美
「黒」はときに「喪の色」でもある。母の日に亡き母親
を偲んで一日、母親の形見である黒真珠の指輪をはめたと
いうのだろう。母娘の情が美しく表現されて過不足がない。
青蜥蜴ためらふときのなまめける   大澤 萌衣
青蜥蜴は、全身で異様な雰囲気を発している。青蜥蜴そ
のものが毒の塊のようにも見えるからだろう。逆に青蜥蜴
が飛び出してきたものの人間の気配にふと止まったときの
様子を「なまめける」ととらえたところが面白い。青蜥蜴
の異様な色と光沢がなまめいて見えたのだろう。青蜥蜴に
は妖艶さがあり、それが自分を守るための姿なのだろう。

木漏れ日の小径  加島照子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(五月号より)


たんぽぽの地べたに咲いて御忌の寺   江川 貞代
春の最も庶民的な花とも言える「たんぽぽ」を「地べたに
咲いて」と低い位置から見ている事で、華やかさではなく地
に足のついた、祈りや慎ましさが出ています。「御忌」は、
法然上人の法要を思わせる季語で、どこか民衆に近い宗教性
があります。そこへ名花でなくたんぽぽを置いた事で、寺の
荘厳さよりも人の暮らしに寄り添う様な温みが感じられま
す。土の匂いや人間の生活感や、低き者への眼差し等飾ら
ず、優しさが感じられる句だと思いました。
湖風の耳削ぎにくる余寒かな   工藤 弘子
「余寒」の肌感覚をとても独自に捉えていて、特に「耳削
ぎにくる」が湖風の冷たさを、単なる寒さでなく薄く身体を
削っていく様な感覚として迫ってきます。海風程荒々しくな
く、山風程乾いていない湖特有の湿りを含んだ冷気が、「余
寒」とよく合っています。鋭い感覚の句だと思いました。
摺り寄りて猫の仕草や余寒なほ   髙橋 冬竹
冷えの残る空気と、猫の体温を感じる様な仕草が、「余寒
なほ」に自然に響き合っています。「摺り寄りて」で動きが
生まれ、「猫の仕草」が具体的なので、読み手の身体的感覚
に共感が得られます。春になりきらない寂しさや、人恋しさ
まで滲みます。猫がただ可愛いだけでなく、寒さの残る季節
の感じがよく伝わる句だと思います。
幾とせを夫と有りしか春疾風   重留 香苗
「幾とせを」の詠嘆が、単なる年月ではなく数えきれない
程の時を振り返る響きがあります。長い年月を共に過ごした
夫婦の自問が、「春疾風」と言う激しい季語によって、一気
に現在に吹き寄せられる様に感じました。「春疾風」は春の
訪れの中にある不安定さや荒々しさを含みます。共に乗り越
えて来た時間や介護の現実、それでも傍らの夫に懐古と敬愛
が自然に滲みます。読み手に深く共感を得られる一句です。
蝶結びほどけば風の光りだす   大澤 萌衣
「蝶むすび」をほどくと「風」が「光りだす」、この転換が
美しいです。現実は見えないのに「光りだす」と感じた瞬間
の解放感があります。卒業、旅立ち、あるいは心の解放迄読
めます。説明していないのに感情が動いています。リボンや
靴紐等読み手によって色々像が揺れ、その曖昧さが詩の広が
りになって詩情が深く余韻となっています。
囀や互ひにわからぬ胸の内   髙柳由利子
互いに分からぬとしたのがいいですね。「わかってもらえ
ない」では一方的な嘆きになりますが、「互いに」と置いた
事で人間同志は結局どこまで行っても、完全には分かりあえ
ないと言う普遍的な寂しさになります。鳥達は賑やかに囀っ
ているのに人の胸の内は通じ切らない、その対照が面白いで
す。春の明るさの中にふっと孤独が立ち上がる感じがありま
す。互いに分からぬが軽い諦めではなく、相手を思いやった
上での言葉に聞こえ、優しい孤独の一句に感じました。
梅まつり「思いのまま」はまだ三分   白木 紀子
「思いのまま」は、紅白を咲き分ける事もある華やかな梅
ですが、その名自体が人間の感情を含んで聞こえます。「ま
だ三分」で、思う様には咲ききらない人生の様です。梅まつ
りと言う賑わいの場でありながら「まだ」と言う言葉に、待
つ気持ちや人生の未完、あるいは期待と諦めの入り混じった
感情が滲みます。この咲ききらない「まだ三分」が、巧くて
句の余韻となって、とても面白い一句に仕上っています。
うららかや山羊のすり寄る鳴きに来る   岩田かつら
春の陽気の中で山羊が近づいて来る情景に、ゆったりした
時間が流れています。すり寄る鳴きに来るが面白いです。山
羊の甘える様子と、実際に触れ合っている感じがあり、体験
の実感が読み手に伝わってくる楽しい句になりました。
本棚の一段を空け内裏雛   田畑 洋子
昔ながらの雛段ではなく、暮らしの中の限られた空間に雛
を迎える。現代の住まいと季節行事が自然に重なっていま
す。生活の中に春を迎え入れて心の余白を作る。そんな感じ
があります。本棚と言う知的な日常の棚に、年中行事の雛が
入ってくる違和感が現代の俳句らしく、派手さはないのです
が暮らしの季節感を丁寧に掬った優しい句だと思いました。
浅蜊舟船尾ずしりと戻り来し   中野まさし
浅蜊を積んで戻る舟の重さが、視覚だけでなく身体的感覚
として伝わってきます。「船尾ずしり」が素晴らしいです。
単なる寄港ではなく一日の労働を終えた充実感もあります。
この句は漁の喜びも、生活の重みも船の姿だけで見せてい
て、印象深い一句になっていると思いました。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


マスクして地学教師の叱り下手   大島 雄作
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
掲句を読み、思わず笑みがこぼれた。「地学教師」の措辞
にリアリティを感じたからだ。地学の授業は、地震・火山・
気象・海洋・地層・鉱物・宇宙などを扱う。
例えば、この教師、日ごろから鉱物採集で岩石とは「対話」
しているが、人との対話は少し不得意なのかも知れない。季
語「マスク」が、教師と生徒の間の「距離」を感じさせる。
授業中、生徒が悪戯をした。ここは当然教師として生徒を
叱るべきだが、それは、この教師が一番苦手とするところ。
周囲の生徒が見守る中で、この教師、きちんと当該の生徒を
叱ることができるだろうか。応援したくなる。
滾る湯と青菜きらめき合う平和   池田 澄子
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
イギリスの詩人、ウイリアム・ブレイクの詩の一節に「一
粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天を見る」とある。「平和」
も、ささやかな営みにこそ宿るのだろう。
青菜を茹でる。あぶくとともに鍋の中で動き回る青菜。朝
の光が窓から差し込んで来て、そのあぶくと青菜にスポット
ライトを当てる ― その小さな世界に、人生の安穏があり、
平和がある。
まなざしの散らばってゆく石鹸玉   松本てふこ
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
掲句を読み、幼子たちがしゃぼん玉を飛ばす情景が目に浮
かぶ。
しゃぼん玉は、生まれると風のまにまに、あちらこちらに
飛んでゆく。それを幼子のつぶらな瞳が追う。「石鹸玉」の
動きを「まなざし」の散らばりに投影することで、双方の動
きが鮮やかに見えてくる秀句だ。
ふらここに志村喬の翳拾ふ   森岡 正作
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
「ぶらんこ」に「志村喬」とくれば、黒澤明監督の映画『生
きる』を思い出す。
余命いくばくも無い市民課長(志村)が、自身の最後の仕
事として、役所でたらい回しにされていた市民の陳情を受
け、公園の建設に奔走する。そして雪の降る夜に、完成した
公園のぶらんこに揺られて『ゴンドラの歌』(♩いのち短し
恋せよ乙女)を口ずさみつつ死んでいく ― そんな映画だ。
作者は、ぶらんこに乗りながら、あの映画のシーンを思い
出している。「余生」という言葉も実感をもって受け止める年
齢となり、志村喬のあの姿と自分とを重ねているのだろう。
巣箱懸け覗かぬ日々を夢といふ   鈴木 牛後
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
巣箱を木の幹にかける。それを鳥は少し離れたところから
用心深く眺めている。やがて、その巣箱にその鳥が棲み始め
る。番となり、卵を産む。雛が産まれ、やがて、成長して巣
箱から旅立ってゆく ― それら一連の営みに思いを馳せなが
らも、巣箱を覗かないでいる。「夢を温める」とは、確かに
このようなことかも知れない。
「夢」という抽象的な概念を、具象化して見せた秀句だ。
雛飾る武器と楽器を分けてから   加藤かな文
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
段飾りの雛人形には、随身と五人囃子がいる。前者は、左
大臣と右大臣であり、男雛を守るために儀仗の剣、儀仗の
弓、矢羽根といった装飾的な武器を持っている。後者は、元
服前の貴族の師弟たちであり、太鼓・大鼓・小鼓・笛・謡を
担当する。
平和の象徴と思える雛人形にも、武器を持つ者がいる。こ
の事実に、戦火の絶えない昨今の世界情勢を重ね合わせる
と、慄然とした思いになる。
五人囃子に平和の調べを奏で続けて欲しいと願うばかり
だ。
フェルマータどこかで星の流れけり   藤井あかり
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
「フェルマータ」は、楽譜に用いられる記号で、「音符や休
符を程よく伸ばす」という意味を持つ。
流れ星に出逢うとき、人は願い事を唱える。「願い事を最
後まで言い終えるまで、星よ、ゆっくりと流れておくれ」と
いう思いが、「フェルマータ」の措辞に込められている。
戦地は、いわば、「休符」なき世界。休戦、そして、終戦
という「大きなフェルマータ」が、かの地こそ欲しい。
これまでがこれからを決め去年今年   星野 昌彦
これからがこれまでを決め去年今年
(『俳句年鑑 二〇二六年版』より)
過去が未来を決め、未来が過去の価値を決める。
「これまで」と「これから」が交叉する「いま」、作者は年
頭の決意をこの対句に込めた。