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井垣清明の書69杜牧詩「清明」平成27年(二〇一五年)十二月 釈 文清明の時節雨紛紛、路上の行人魂を断たんと欲す。 |
流 水 抄 加古宗也
卯の花や眼下に千曲川流れ
輪になつて草笛を吹くここ小諸
小諸なる古城址に吹く草の笛
四間道を抜ければ五條夏燕
この辺り駄菓子屋街や夏つばめ
掛川に葛布織る店走り梅雨
ざらざらとざらめらつきよを漬け込めり
城垣に咲いて地獄の釜の蓋
足尾いまも禿山ばかり薄暑光
梅雨上がるらし夕焼に鴉飛ぶ
上州はとことん広し青山河
後から口笛聞え青葉風
声ばかり妙に大きく雨蛙
巡礼や青葉雫に肩濡らす
青葉冷ふと身に壷坂霊験記
首塚は忠治のものよ青葉冷
東照宮祀る郷寺青葉濃し
物干台の妻に声掛く柿若葉
夏つばめ鳴海は坂の町なりし
藍暖簾つづく鳴海や夏つばめ
卯建立つ絞りの町や夏つばめ
光 風 抄 田口風子
辛辣も涼し鬼城の句評読む
腹押して泣かすキューピー桜桃忌
卯の花腐し六角の如光堂
花菖蒲指先で読む蓮如の碑
迎へ梅雨うがひ薬にミントの香
南風吹くインド更紗に孔雀の目
箱庭の一人に赤き傘持たせ
紙魚ひとつ遊ぶ傘連判状
二拝二拍手一拝日傘立て掛けて
青葉雨海坂藩の石畳
真珠抄八月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
寄席太鼓打ち終へ前座水を打つ 市川 栄司
歩くたび海せりあがる晩夏かな 大澤 萌衣
夏立つやまつすぐギター負ふ少年 加島 照子
春愁やロシアケーキの赤きジャム 石川 裕子
草笛や平手でたたく牛の尻 中井 光瞬
点滅の蛍に呼吸を合せみる 工藤 弘子
粗塩を盛る二番方初鰹 高濱 聡光
緑さすダム湖や下に水没林 春山 泉
花柚子やいつしか声も母に似て 水野 幸子
仮小屋の芝居春の夜r満員に 坂口 圭吾
地下街にほうじ茶香る夏の宵 長表 昌代
三丁の鎌研ぎて待つ麦の秋 野中のり子
自らに聴かせるやうに草の笛 堀田 朋子
緑蔭に妻と見せ合ふ歩数計 杉本 金男
リハビリにやつと行く夫更衣 重留 香苗
モノクロ映画白靴の際立てり 鈴木 帰心
結局はふたりの暮し夕薄暑 加納 寿一
片陰の長々続く宿場町 和田 郁江
藤揺れて無口な男語り出す 原田 熙恵
口遊むひばり情話や青林檎 渡邊 悦子
ジョンウェンに似てなくもなしサングラス 平井 香
短夜や不眠症には酷な朝 石川 桂子
縁側に寝茣蓙気ままに横になる 服部 喜子
母の日や紙飛行機のよく飛べり 堀田 和敬
メーデーや冷し中華の出る頃か 水野由美子
老犬の寝てばかりいる扇風機 新井 伸子
鉄風鈴夢の中まで音鳴らし 松元 貞子
母の日やつなぐ母の手ささくれて 加島 孝允
蛍火を掌の中に入れ慈しむ 福本めい子
濃紫陽花並べ宿場の犬走り 堀場 幸子
選後余滴 加古宗也
濃紫陽花並べ宿場の犬走り 堀場 幸子
「犬走り」というのは「軒下」のこと。そこに紫陽花の
鉢植えを並べたというのだろう。宿場町ゆえに幾つもの鉢
が並べられて、心やすらぐ景をつくっている。犬走りには
よく竹矢来が並べられたりして、宿場町など洒落た風情を
つくり出している。竹矢来は本来、犬が小便を家にかけな
いように作られたものだが、片脚を上げて、竹矢来に小便
をひっかける。宿場ゆえに軒がつらなり、紫陽花もたっぷ
り花を咲かせている。宿場のちょっとした粋が心地よい。
寄席太鼓打ち終へ前座水を打つ 市川 栄司
「真打ち」が登場する前に「前座」が客の退屈をまぎら
わすために登場するというのが「寄席」のいってみれば段
取りなのだろうが、前座がどれだけいい仕事をするかが、
高座全体の盛り上がりにかかっている。「寄席太鼓」を打
つのも前座の仕事というのもなるほどと思う。「打つ」「打
ち」の繰り返しが前座の忙しさを思わせると同時に寄席の
勢いというものの大切さも自然に語らせているところがう
まい。
浅草に検番通り夏燕 市川 栄司
「検番」というのは「待合、料理屋への芸者の取り次ぎ
や玉代の計算を取り扱ふ「事務所」のことで、浅草にはそ
んな遊び場が多くあるのだろう。作者は某大企業の営業マ
ンであったと聞いたことがある。胃を切ったとか切らな
かったとかいう話しもあり、その働きぶりは尋常なもので
はなかったようだ。
「浅草に検番通り」といきなり核心に迫るところが栄司
風で面白い。
歩くたび海せりあがる晩夏かな 大澤 萌衣
大波小波を「海せりあがる」と受け止めたところが面白
い。「海無し県」に住む作者なればの感性が楽しい句でも
ある。「歩くたび」に心のはずみが心地よく表現された。
鉄風鈴夢の中まで音鳴らし 松元 貞子
鉄風鈴の脳天にひびくようなあの音を「夢の中まで」と
表現したのは面白い。鉄風鈴のあの高音は現実を超えたど
こからか響いてくるかのような音だというのだ。
夏立つやまつすぐギター負ふ少年 加島 照子
ギターは女性の裸の姿を模したものだという説がある。
したがって、ギタリストは女性を抱くようにしてギターを
つまびく。ギターの音は女性の声のようでもあり、ギタリ
ストは女性に語りかけながら爪弾く。
ギターを背中から負って、自転車で行く少年。そのとき、
ちょっとした高揚感を少年は持つ。
仮小屋の芝居春の夜満員に 坂口 圭吾
唐十郎のテント芝居をふと思い出した。ちょっとした広
場があれば、そこにテントを張って芝居をする。演技者と
観客との一体感はおのずと強いもので、濃密な空気感を生
み出す。
私の青年時代には、そんな演劇が流行したが、演技者と
その親の世代とは、どうにも歯車が合はず、会場は悲劇的
な空気感に包まれてしまったことがある。
大人の世界感と青年の世界感は何年たっても埋めつくせ
ないものがあるが、それは当然のことなのかもしれない。
草笛や平手でたたく牛の尻 中井 光瞬
どこかの牧場を訪ねたときの一句だろう。「草笛」によっ
て心の開放感が心地よく表現された。
「平手で」とあるが、平手でなければゲンコツというこ
とになろうが、「平手」によって優しさが一句全体を包む。
三丁の鎌研ぎて待つ麦の秋 野中のり子
もう何年か前になるが群馬県の山紫会の仲間と一緒に足
尾の鉱毒事件その後、とでも言うべき吟行会を作っても
らったことがある。そして、群馬県に広大な麦畑があるこ
とを教えていただいたことがある。この句「三丁の鎌」が、
強いインパクトのある措辞で感心した。上州の俳人らしい
切り口が心地よい。
緑蔭に妻と見せ合ふ歩数計 杉本 金男
朝散歩の折りの小休止での一駒だろうか。自づと緑蔭に
身を入れるところが、じつに自然で心地よい。口で言うの
ではなく、互いの歩数を見せ合っているところがとてもい
い。
木漏れ日の小径 加島照子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(六月号より)
牡丹剪る金婚記念のその朝 荻野 杏子
五十年という長い歳月を重ねてきた夫婦の落ち着きや、生
活の実感が感じられます。「金婚記念のその朝」が、式典や
祝いの席ではなく、その日の朝の何気ない日常を切り取った
所に好感が持たれます。牡丹を剪るという所作に、五十年の
歳月を託したしみじみとした一句が印象に残りました。
入り彼岸亡き人にもの問ふてみし 酒井 英子
「亡き人にもの問ふてみし」という表現に、何を問うかを
明かしていない為読み手はそれぞれ、亡き父母や夫、友等そ
れぞれに返事が来るとは思わないけれど、思わず問いかけて
しまった。そんな切なさや人間らしさが滲みます。「こんな
時あの人なら何と言うのだろう」と思う気持ちが、静かに伝
わってきます。彼岸という季節だからこそ生まれる心の動き
を素直に捉えて年齢を重ねた読み手には深く響く一句です。
背びれ見せ泥はく乗込鮒幾つ 辻村 勅代
「乗込鮒」は、産卵期を迎えて浅場へ集まる鮒達が、「背び
れ見せ泥はく」と視覚的にも動きのある描写によって、実際
に水際で眺めている様な臨場感があります。特に「泥はく」
が面白く、鮒が水底をあさると泥が舞い上り、ただ鮒がいる
のではなく水辺全体が動いている感じが伝わります。
乗込みの盛んな様子を一気に見せて、春の川や泥の匂いま
で感じられます。写生のしっかりした句になっています。
片栗の花や蟻の育てる群生地 山田 和男
片栗の種子は脂肪や糖分を含み蟻の好物です。蟻が種子を
運ぶ事で分布を広げます。まるで蟻達が長い年月をかけてこ
の花畑を作り上げたかの様な見方が新鮮です。人の目には小
さな蟻の働きが、一面の片栗の群生地となっていく。自然観
察から生まれた知的で味わいのある一句だと思いました。
一呼吸おきて又鳴く匂鳥 米津季恵野
「一呼吸」という人間的な表現によって、鳥がまるで考え
ながら鳴いている様に感じられます。鳴いては間を置きまた
鳴く、その静かなリズムが初夏の空気を運んでくる様です。
鳥の姿を見せず声だけで存在を感じさせていて、一呼吸とい
う間の表現が効いていて、読み手もその鳴き声を待つ気持ち
になり、落ち着いた余韻がある句だと思いました。
つなぐ手を離しかけだす入園児 池田真佐子
「つなぐ手を離し」で、それまで親や祖父母に守られてい
た子供が、自分の世界へ踏み出す場面が浮かびます。「かけ
だす」に期待や好奇心や不安よりも先に体が動いてしまう子
供らしさが表われています。門の前で見送る親の少し寂しく
て、少し誇らしい気持ちも想像できます。未来へ向かう力を
感じさせ、希望に満ちた入園の一句です。
風に乗り互ひに集ふ花の塵 松岡 裕子
花の塵は風に吹かれてばらばらになっていくものですが、
この句では風に乗った花びら同志が寄り添い、集まる様子が
「互いに集う」という表現で、人と人との縁や仲間意識迄連
想させます。散る運命ながら最後に寄り添う花びら達、そん
な擬人化された情景がどこか温かく、単なる花吹雪の句に終
らず、春の終わりの寂しさよりも散ってもなお結ばれるもの
への視線が印象に残る一句です。
早喰いを叱る母をり夏の家 梅原巳代子
「早喰いを叱る母」というごく日常的な場面が、そのまま
句になっています。子は幾つになっても母は母、そんな親子
の関係が自然に伝わってきます。また「夏の家」には、帰省
先や実家の空気感まで広がり、読み手は暑い昼下りの食卓や
扇風機の家、家族の声等思い浮かべます。変わらぬ母の姿へ
の愛情と安堵が伝わって、素直に好ましく感じられました。
まだ生きてゐたいと思ふ姥桜 安藤 明女
老いを受け入れながらも、生命への執着や願いを素直に表
現していて、「姥桜」が単なる季語ではなく、作者自身の分
身になっています。老いの寂しさよりもむしろ生への静かな
意志が残り、弱音ではなくもう少しこの世を見ていたいと、
いう穏やかな願いや、率直な思いが飾らない言葉で表わされ
て心に響く一句だと思いました。
落椿みんな上向き吾れもまた 石川とわ子
「落椿みんな上向き」でまず気づきがあり、落ちる物はう
つむいているという先入観に反して、椿達は空を見ている。
その姿に生命の気概や潔さが感じられます。作者も老いても
上を向いて、前向きに生きていきたい。読み手にもそんな気
持ちを思わせる素敵な一句がとても印象に残りました。
一句一会 川嵜昭典
海へ出て探梅行の解散す 白濱 一羊
(『俳句四季』六月号「探梅行」より)
「探梅」というのは実に味わいのある大人の遊びだが、掲
句は少年少女の団体が探梅をしているような趣も漂う。とい
うのも「海へ出て」という言葉は、少年たちが山の中を夢中
になって進んでいたところ、視界が開けて海に出、一気に現
実に引き戻されてしまったような、そんなあっけなさを感じ
させるからだ。そのあっけなさを「解散す」という言葉で更
に引き立てる。つまるところ「探梅」も子供の頃の冒険と同
じような気持ちであり、違うのは歳月を重ねた分だけ、対象
が花や季節を慈しむことに変わったくらいなのかもしれな
い。冒険することに真剣でいられる時代は過ぎてしまうが、
その余韻は歳を取っても心に在り続けている。
小判草金色なるは崩れどき 小谷 由果
(『俳句四季』六月号「吶吶」より)
小判草という、とても大層な名前がついているが、むしろ
金に色づいてしまうと、ああもうこの草も終わりなんだなと
思ってしまう。そういう意味で掲句の「崩れどき」は実に的
確な表現であり、金色の小判のような、人が価値があると思
う時期は一瞬で、小判草からすれば、そのときには既に盛り
が過ぎようとしており、その人の価値を感じる瞬間と小判草
の盛りの、ほんの一瞬の交錯をこの句は詠んでいる。金色で
ありながらどこか寂しい、そんなすれ違いがこの小判草には
ある。
チューリップ誰かとおしやべりしたくなり 平野 良江
(『俳句四季』六月号「蔦若葉」より)
誰でも知っている花というのはやはり嬉しいもので、
チューリップが咲いていると、隣の人に「チューリップ」と
言うだけで、会話のきっかけになる。また一人でも、チュー
リップが咲いたと誰かに電話で伝えるだけで、お互いに情景
を思い浮かべることができる。掲句はそんなチューリップの
親しみやすさを逆手に取ったような句であり、同時に、誰か
と繋がりたいという、人の本質的な欲求をさりげなく詠んで
もいる。
ゆるゆると果てゆくための繭つくる 山田 佳乃
(『俳句四季』六月号より)
蚕は蛹になり、繭から出て成虫になったとしても、飛ぶこ
ともできず数日で一生を終えてしまう。人間から見れば何と
も儚い一生だが、その儚い生物の命を喰いながら生きていく
のも人間の宿命なのだろう。とはいえ人間も、大きく見れば
「果てゆくため」に生きているという点では同じで、この世
に生を享けた瞬間から、果てに向かって命を使い続けてい
る。ただ掲句は、この果てに向かう過程に「繭」があり、い
わば自分の身を休める居場所がある。それは人に例えれば、
家族かもしれず友人かもしれず、もしくは信仰や趣味かもし
れないが、いずれにしろ、果てに進んでいることは分かって
いながらも、安寧の場所を作るというのは生き物の本能なの
かもしれない。生と死は対立し考えられがちだが、掲句のよ
うな、穏やかな諦念は案外、生の本質なのではないかと思う。
ことば数増えゆく如く初桜 三村 純也
(『俳壇』六月号「吉野」より)
初桜というのはとても面白いもので、一つ見つけたと思う
と、次々に見つけてしまうものである。そういう意味では掲
句の「ことば数増えゆく如く」はまさにその通りだ。ただそ
れと同時に、桜を見つけると、思わず人に話したくなる。花
の数が増えるさまに比例するように、隣の人への口数も増え
る。それは冬の間の少し内に向かっていた心が解けていくよ
うでもある。「ことば数増えゆく如く」は初桜の咲きざまを
表す比喩ではあるが、それだけではなく、季節が冬から春へ
と変わるときの人の心の移り変わりや、それに伴って増えて
ゆく人の言葉をも表しいるようだ。
寒戻る円周率の隙間より 佐怒賀直美
(『俳壇』六月号「円周率の隙間」より)
円周率は無限に続く数字の列であり、本来は隙間などない
ように思われる。「寒戻る」も考えてみれば不思議な季語で
あり、また現象であり、このまま春へと進んでいくかと思い
きや、ぶり返しの寒さが来て、一筋縄でない自然の厳しさを
思わせる。そういう意味で、自然の予測のつかない動きを、
本来は開くはずのない円周率の数字が少し開いた、という比
喩を使ったところにこの句の面白さがある。円周率も寒の戻
りも、人間が理論を求め追求したとしても、その全てを知り
尽くすことはできないものであり、そこに妙な親和性があ
る。掲句を何度か口ずさむと、どこか納得してしまう。
傘立てに忘れ傘かも梅雨晴間 苅田きく絵
(『俳壇』六月号「男傘」より)
「忘れ傘かも」の「かも」に梅雨晴間の、少し浮き立った
心の機微が表れている。どこかさっぱりとして心地よい。
