井垣清明の書47学んで時に之を習ふ平成16年(二〇〇四年)一月 釈 文学んで時に之を習ふ、また説(よろこ)ばしからずや。 |
流 水 抄 加古宗也
宵の明星土風鈴の音の優し
車椅子停めて涼しく会釈さる
鉈一つ持つ茂山は入会地
膝組んでコスプレの娘の扇風機
滝飛沫まともに顔を濡らしけり
那智大社前の茅の輪をくぐりけり
名古屋・白鳥公園
睡蓮や迫り出してゐる能舞台
禅林へ一歩河骨花をあぐ
河骨の池あり金剛力士立つ
河骨や池の真中の座禅石
尾張藩祖廟三句
甚五郎の猫ゐて蟬の殻いくつ
藩祖廟までの坂道油蟬
みんみんやちんまり丸き殉死墓
土用三郎奥歯もて噛むするめいか
卯建立つ絞りの町や夏燕
夕虹や絞りの町の大卯建
京都・大原
法然の腰掛け石や蟬しぐれ
味噌蔵のいまはめし処虎魚焼く
醤油蔵抜ければ木橋百日紅
秋燕や白く眩しき味醂蔵
柳散りまた散り二連水車鳴る
光 風 抄 田口風子
真ん中を凹ませ父の夏帽子
閻魔の目窪み十王堂は梅雨
時の日の傾いてゐる業秤
遠会釈緑雨の傘を傾けて
孫曾孫浴衣を縫うて母逝きぬ
一人つ子二人来て吹くしゃぼん玉
百合蝶と化すベネチアンガラスペン
駅に行く点字ブロック青葉風
老鶯の山の水引くビオトープ
山の水引いて冷たき代田かな
真珠抄八月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
螢見や瀬音たしかな橋渡る 高橋 冬竹
黒南風や自転車ゆつくり倒れけり 荒川 洋子
軒下に日傘立て占ひ師 天野れい子
夜泣きの子乗せて短夜のドライブに 飯島 慶子
反芻の牛の健やか聖五月 堀田 朋子
ががんぼの夜這ひの脚の落ちてをり 市川 栄司
桶回す桶屋の足裏夏来る 堀場 幸子
自転車でめぐる史跡や閑古鳥 堀口 忠男
梅雨深し図書館にある書見台 工藤 弘子
緑さす磨きあげたる硝子窓 新部とし子
桐はもう咲き終はつたと京の人 石川 裕子
身だしなみ忘れてをりぬ羽抜鶏 髙柳由利子
終点も始発も麦の秋の駅 水野 幸子
夕焼けや記憶は遠きほど澄みて 稲吉 柏葉
椅子二つ青葉の会話聴くために 池田真佐子
更衣母に名入りの服届け 村松みどり
田水張りたちまち山の近くなる 堀田 和敬
六月や雨の重さを傘に受け 和田 郁江
三鬼の忌熟成肉を炭で焼く 梅原巳代子
上棟式終へ夏燕飛ぶ伊豆尾 安藤 明女
入梅を前に片付く親の葬 高濱 聡光
梅雨晴を使い切ったり家事数多 斎藤 浩美
六月の風歩くのが楽しくて 烏野かつよ
鳥語にぎやか燕子花群生地 鈴木 帰心
七変化声色使ふ紙芝居 鈴木まり子
ストローは忽ち底の氷吸ふ 竹原多枝子
白玉や仕草似て来し嫁と食ぶ 新井 伸子
青葉若葉メタセコイアは風に立つ 橋本 周策
氷菓食ぶ八丁味噌の粉かけて 黒野美由紀
夏帽子飛んだ親不知の断崖 鈴木 恭美
選後余滴 加古宗也
軒下に日傘立て占ひ師 天野れい子
「日傘」は「ひからかさ」と読む。『広辞苑』には「貴人
や子供などの外出の際などに用いる長柄の大きな日がさ」
とある。時代劇や花街を舞台にしたドラマなどにときおり
登場する。「傘」は普通「かさ」と読むが、「からかさ」と
読むこともある。例えば、村上鬼城の「傘にいつか月夜や
ほととぎす」がそうで、ちなみに、鬼城の句の中で、最初
に碑に刻まれたのがこの一句で、長く富田うしほ邸にあっ
たが、現在は、東京都町田市の富田家の親戚の庭に座って
いる。
占い師と日傘はどういうわけか、ぴったりの取り合せで、
日傘の下に座る占い師なら、その占いは当たりそうな気が
してくるから面白い。この頃、あるデパートに占い師が店
を出していたが、やはり、日傘を立てていた。
入梅を前に片付く親の葬 高濱 聡光
「片付く」とぶっきらぼうな言葉を使っているが、それ
が逆にとどこおりなく親の葬儀をおえることができた安堵
感を作者流の表現で言い切った、というべきだろう。作者
の生家は日本で年間の降水量が一番多いといわれる三重県
尾鷲。加えて、長男という重荷をいつも、どこかでかかえ
ていたように思う。ふるさとから遠く離れたところに就職
した彼にとっては、「長男」の重さが双肩にかかっていた
ように思う。遠距離を足しげく、親の健康を見舞っていた。
「片付く」に痛いほど、つらい作者の思いが伝わってくる。
自転車でめぐる史跡や閑古鳥 堀口 忠男
史跡めぐりには自転車がぴったり、というのが、何とな
く私の思いである。ゆっくりと巡ることで、思わぬ大発見
をすることも時にある。私は青年の頃、相沢忠洋の『「岩宿」
の発見─幻の旧石器を求めて』を読んで強い感動をおぼえ
た。そして、それはいまも私の愛読書だ。相沢忠洋は群馬
県桐生に住み、自転車で豆腐を売りながら、好きな考古学
を自らの足を使うことで、世紀の大発見に辿りついた。一
行商人であるために、様々ないじめ、邪魔、圧力を受けた
がそれに屈せず、頑張り抜いたその精神力は「すばらしい」
の一言に尽きる。
作者は野鳥を愛する人だと聞いていたが、史跡にも関心
を持っておられたことを初めて知った。と同時に、愛鳥家
の在りようと史跡への関心は一線上のもののようにも思わ
れる。
「自転車でめぐる」に史跡めぐりの基本的姿勢が言いつ
くされている。
先年、山紫会(工藤弘子代表)の吟行会で、相沢忠洋記
念館を訪ねることができた。そして、その時、相沢夫人と
もお会いできたことをいまもうれしく思い出す。
桐はもう咲き終つたと京の人 石川 裕子
「五三の桐」「桐の花」「桐箪笥」と「桐」といえば格調
高い、という思いが自ずと湧いてくる。そして、格調を語
るとき、京都(京)をおのずと思うのはどうしてだろう。
京において、長く磨き込まれた文化は、物だけでなく、そ
こに生きる人々の生活の中にも深く根づいている。
「桐はもう咲き終わった」といいながら、逆に桐の花の
最も美しい時を想起させる。そして、「京の人」という簡
潔な表現によってじつに自然に雅を備えた京の人をたたえ
ている。
椅子二つ青葉の会話聴くために 池田真佐子
青葉の頃、緑の中に五体を晒すことは、じつに心地よい
ことだ。そして、薫風が生む青葉の音もじつに心地よい響
を持っている。風が生みだす「葉音」を「青葉の会話」と
聞き取っているところがおしゃれだ。そして、「青葉の会話」
を聴くことは一人でいいはずなのに、「椅子二つ」なのが
この句の眼目、即ち素敵なものは一人占めしてはもったい
ないのだ。この微笑ましい優しさがいい。
草茂り植物図鑑注文す 荒川 洋子
「草茂り」は「草花」を指しているだけでなく、むしろ「雑
草」を示しているのだろう。これまで、見たことのない草
を見つけて大いに興味をもったのだろう。「雑草のように」
という言葉があるが、それは雑草であってそれ以上の何も
のでもない、というニュアンスがある。言葉を変えれば取
るに足りないもの、ということになる。常識ではつまらな
いこと(もの)も人それぞれによって、強い関心を持つこ
とがある。そこが俳句の面白さなのだ。俳句の新鮮さはこ
うして紡ぎ出される。
梅雨晴を使い切ったり家事数多 斉藤 浩美
「梅雨晴」といえば、まず洗濯物。家事は女房まかせの
私には、あと何があるのか、わからないが、梅雨晴の時の
家族の動きを見ると、その忙しさは十分に想像できる。「使
い切つたり」が、それで十分足りたのか、足りなかったの
かしっかりわからないところが「俳諧」になっている。「使
い切つたり」に主婦の迫力、とでもいうべきものが感じら
れて圧倒される。
木漏れ日の小径 加島照子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(六月号より)
行く春や魚の眼も食ぶ小昼時 高橋 冬竹
魚の眼を食べるとは通の極みですね。目玉の回りのゼラチ
ン質には豊富な栄養(ビタミンB1、DHA、EPA)が含
まれているので生活習慣病予防にはもってこいなのです。鮪
が有名ですが少し抵抗があれば鯛の煮付けから始めると良い
ようです。理屈で分かっていても私自身は未体験なので、こ
れを機に挑戦してみようと思いました。
今も飛ぶ落花は平家の厳島 中井 光瞬
今や国内外からの観光客で大賑わいの厳島ですが、現在の
威容を構築したのは平清盛で、栄華を天下に示す卓越した発
想からなのです。海を敷地に見立てた独創的な構成と、平安
時代の建築美(寝殿造)の様式は他に類をみない神社です。
以前訪ずれた時は干潮時で鳥居の足元迄歩きましたが、荘厳
な社の印象は今でも心に深く残っています。
春光や鋼鉄日時計正午指す 池田あや美
春の柔らかな光を鋼鉄製の日時計の針にしっかり焦点を当
て、更に正午指すと言い切る潔い表現がとても生き生きとし
ています。のどかなデンパークを訪れた際の一瞬の時を心に
留めた素直な気持ちを好ましく感じました。
小学二年児今は俳友チューリップ 三矢らく子
かつての教え子が今は俳友とは、何と素敵な繋がりをお持
ちなのでしょう。愛らしいチューリップの季語を詠まれた光
景が、読み手の心を明るくなごませてくれます。
誕生日を教え子に祝ってもらえるのは、教師の仕事を一生
懸命続けてこられ慕われていた証なのでしょう。
それではとギターをかかへ花月夜 大澤 萌衣
それではとの書き出しから読み手は引き込まれて、何が起
きるのかとわくわくします。得意のギターを持って出かける
のが花見の宴で、皆で手拍子する様な楽しい曲か、じっくり
弾き語りをする曲なのか等と、曲名迄勝手に考えてしまいそ
うな花月夜の過ごし方を、空想が次から次へとふくらんでい
きます。
春宵や寂しきときは句を友に 水野 幸子
年を重ねていくと人にはそれぞれの別れがあり、寂しく感
じる事も多々あります。春宵の季語にはどことなく艶めいて
華やぎを感じられる意味を持っています。きっと俳句を読む
ことによって、寂しい時が楽しい時へと変化してゆく心の動
きに、寄り添ってくれる頼もしい友となり、これからもずっ
と心の支えになってくれると思います。
どう見ても舌は一枚四月馬鹿 石崎 白泉
二枚舌と言うと人を騙し良くない印象がありますが、必ず
しも悪くなく「本音と建前」「内面と外面」等、人は使い分
けをして生きています。二枚舌の人が嫌われないのは上手に
使い分けているからで、空気を読んだり大人対応する等のコ
ントロールがうまく出来ればきっと嫌われないでしょうが、
信頼関係を保つ為には誠実が一番と今も信じている私です。
チェリストの揺れれば吾も揺れて春 烏野かつよ
チェロのコンサートに酔いしれて、思わずリズムに乗って
揺れる作者の心象が良く表現されています。チェロはヴァイ
オリンの仲間ですが、男性の声の様な中低音が特徴で音域が
人間に近い為、歌を歌っている様な心地良さが魅力的です。
さくら見に今日も昨日も一昨日も 髙瀬あけみ
俳人の多くが桜の句を詠んでいますが、どれも共感を得ら
れるのは桜を愛してやまない日本人気質にあるのかとも思わ
れます。私も桜の季節になると毎日の様に出掛けます。
開花から満開、散り際そして落花へと句材に事欠かない桜
は本当に見飽きない花の代表格と言えます。
参拝は素足が習い湖北春 浅野 寛
滋賀県菅島の須賀神社では長い登り坂の参道の最後に、こ
の参拝の指示があり私も戸惑いました。昔からよくある「お
百度参り」も境内の百度石から社殿迄裸足で往復します。強
い祈願の気持ちを表す為に必要な作法なのかもしれません。
窓あけてタンポポの風入れにけり 岩瀬うえの
桜の開花と同じ頃足元で春を彩るたんぽぽの太陽の様な明
るい黄色は一気に心を明るく元気にしてくれます。
綿毛の頃には又別の愛らしさも見せてくれます。ふわふわ
の軽い綿毛は一〇㎞以上の距離を飛ぶ事も出来るのです。所
嫌わずどんな所にも飛んで根を下ろし花を咲かせるたくまし
さや、力強さに人は惹かれるのでしょう。たんぽぽの風の心
地良さを読み手はきっと感じていると思います。
一句一会 川嵜昭典
梅雨寒や何も持たざる手を重ね 山田 佳乃
(『俳句四季』六月号より)
周りの近しい人が大きく飛躍しようとしているときや、世
の中に大きな災いなどが起きたとき、自分のできることは何
だろうかと考えさせられる。そして自分の力の無さを意識せ
ずにはいられない。両手を開いてその掌を見つめてみても、
そこにあるのは自分一人分の、小さな力だけだ。その小ささ
をひっそりと噛みしめつつも、やはりそこから一歩を踏み出
さなければならないと考え直す。とはいえ、やはり自分一人
では、と心細くなって引き返し、問いが心の中でぐるぐると
回る。梅雨寒の日というのは、人を一人に引き戻し、またそ
の小ささというものをまじまじと意識させるものらしい。
人生が寝そべつてゐる花筵 波切 虹洋
(『俳句四季』六月号より)
「人生が寝そべつて」が言い得て妙だ。生きていれば、い
いことも悪いこともさまざまに起きるが、桜という大きな自
然のエネルギーの下で束の間の人生を堪能している姿に、生
きていればいいさ、という楽観的な悟りを感じたのだろう。
その寝ている人一人に焦点を当てることで、花見の、どこま
でも長閑でゆったりとした時間、そしてそれを享受する人々
の姿をむしろ鮮明に思い起こさせる。
糸とんぼ彼の世の使者と思ひたる 花野 くゆ
(『俳句四季』六月号「ゆらゆらと」より)
墓参りなどをしているとき、小さな虫が寄ってくることが
ある。別に気しなくてもいいのだが、何となく追い払うこと
ができない。そんなとき、墓の主が何かを伝えに来たのだ、
とふと思ってしまう。もちろんこれは、生きているこちら側
の勝手な解釈なのだが、それでもやはり、何かがあるような
気がしてならない。掲句の「糸とんぼ」もそんな気持ちだろ
うか。容易な通信手段がいくつもある現代では、「使者」と
いうのは死語に近いかもしれないが、言葉でない何かを直感
で感じることは、とても人間らしく、大切なことなのではな
いかと思う。
放たれておまけの金魚とは見えず 足立 賢治
(『俳句四季』六月号「糸とんぼ」より)
縁日などの出店で、金魚が掬えなかったときにおまけで
貰った金魚だろう。掬おうと思って掬えた金魚ではなく、店
の主が適当に選んだ金魚なので、貰った直後は、その金魚に
はそんなに思い入れがない。しかし、持ち帰って水槽に放っ
てみれば、金魚は生き生きと動き出し、その瞬間、何だか金
魚と心を通じ合えたような気持ちになる。「放たれて」とい
う言葉は何気ない言葉だが、この句の中では、作者と、金魚
とが心を通じ合った、その瞬間を捉えた言葉として力強く響
く。俳句は一瞬を切り取るものだということを再認識させて
くれる句。
またすこし山のふくらむ木の芽晴 新井 大介
(『俳句四季』六月号「独り言」より)
理屈を超えても納得できる感覚。そんな感覚をより良く伝
えるのが俳句なのではないかと思う。山の木に芽が出て、山
が膨らむ。それが事実かどうかは実際には関係なく、目の前
の山にある木々の一本一本を見、その息遣いを感じること
で、その山と作者とが繋がったということが伝われば、それ
で十分なのである。人が忘れかけた、心の奥に秘めて持つ野
生的な何かを感じさせるのに、俳句はふさわしい形式だ。
行者去り沢蟹が這ふ打たせ台 石井いさお
(『俳句四季』六月号「雷鳥」より)
何より、人ではなく沢蟹に焦点が当てられているところ
に、涼しさと俳味が感じられる。人が、自分たちのために
造ったものも、人が少し目を離してしまえば動物や植物たち
の居座る場所となる。この句ではそんなに大げさな時間が
経ったわけではないが、それでも人の世のはかなさと自然の
強さや生命力を思わずにはいられない。
急ぎても水動かさぬ目高かな 長谷川槙子
(『俳句四季』六月号「寄せ書きの絵馬」より)
目高が水面にいて人の影などに驚くとき、さっと身を翻す
が、確かに水面の水を撥ねさせたりしない。すっと水底の方
へ移動する。掲句は目高をじっと観察していないと詠み得な
い句だが、同時に、読者が目高の特性を知らなくても、どこ
か清々しさを感じさせる句。
初蝶も少女のこゑも風に消ゆ 松岡 隆子
(『俳句四季』六月号「水昏れて」より)
蝶と少女と、そしてそれらを遠目に見る作者とを遮る一瞬
の風。その瞬間、作者は取り残されて、こちら側で一人に
なってしまった。今まであったものが急になくなってしまっ
た驚きを捉えている。春に感じる嬉しさと寂しさという、二
つの面を同時に描き出すような句。