No.1115 令和7年3月号

井垣清明の書54

荘子語

平成22年(二〇一〇年)一月
第28回日書学春秋展(銀座・松坂屋)

釈 文

古(いにし)えの道を得たる者は、窮するも亦(ま)た楽しみ、通ずるも亦た楽しむ。楽しむ所は窮通に非ざるなり。(『荘子』譲王篇)(金谷治訳)

流 水 抄   加古宗也


曹洞の一寺や寒の水仕事
寒替る日も曹洞の古道場
冬桜愛でて小原の紙漉場
寒風が抜け東條の虎口跡
菜切鉋丁並べ寒九の水に磨ぐ
一刀彫工房の前雪達磨
雪しんしんとしんしんと降り流人小屋
冬の虹高々架かり奥琵琶湖
高山にて
雪踏めば雪鳴るここは三之町
野沢菜の歯切れうれしきけふ寒九
息白く来て用件を早口に
奥嵯峨に雪折れの音響きけり
落柿舎に蓑掛けてあり霜の声
節分や北斗の下の煙出し
寒の底なれば鍋とす鬼おこぜ
当麻寺の表参道柊挿す
当麻にはすまふの起源柊挿す
参道に蹴速塚(けはやづか)立ち柊挿す
豆打つや西尾藩主の祈祷寺
追儺会の土産やでかき福熊手
生姜湯を沸かし追儺の接待所

光 風 抄   田口風子


筆始鬼といふ字は書きにくき
日脚伸ぶ幽霊飴を子に買うて
窓開けて散らしてしまふ寒雀
三寒のバス競走馬輸送中
六波羅蜜寺2句
清盛の半眼三寒四温とも
空也吐く四温の息の六阿弥陀
雀色どき人のかたちの影冱つる
掘割の青凍つ江戸の古地図かな
雪だるま立たされしまま溶けはじむ
九十の括り女クリスマスローズ咲く

真珠抄三月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


流氷の来し夜の眠り浅かりし     大澤 萌衣
文机の上を二日の掃除かな      荻野 杏子
絵手紙にやさしさ貰ふ年の暮     池田あや美
短日や人と向かはぬ席選ぶ      加島 照子
義足にも履かす靴下寒の入      市川 栄司
読初に彼の日の星の王子さま     工藤 弘子
鈴菜清白庭のもの足して粥      服部くらら
三日早や出荷準備の人畑に      米津季恵野
潮入川鳰海までは出て行かず     堀田 朋子
探鳥会終へ社にて屠蘇を酌む     堀口 忠男
霜柱立つ人の息猫の息        中井 光瞬
枝に吊る片手袋の落し物       新部とし子
鮟鱇鍋つつきつ腹のうち探る     坂口 圭吾
元朝や風の音色の鳶の笛       水野 幸子
冬ぬくしチェリスト指で弾き始む   鶴田 和美
人日や母知る人と話しこむ      酒井 英子
沈丁花風が教へてくれにけり     飯島 慶子
鉄橋の塗り直されて冬の晴      石川 裕子
数え日の叔母の電話は母のこと    池田真佐子
流行風邪混める医院の駐車場     田口 綾子
飲み薬十種超えたる十二月      浅野  寛
本開き閉ぢては開き冬ごもり     烏野かつよ
冬あたたかお迎へ鐘の柔き音     山田 和男
同じ冬帽同じ笑顔の双子かな     奥村 頼子
山城の女房落ち径梅探る       大杉 幸靖
母の命日初咲きの水仙花       高山 と志
撫で牛の体中撫で初詣        黒野美由紀
寒鴉群れずに黒き羽根広ぐ      岡本たんぽぽ
時折の亀のまばたき春を待つ     今泉かの子

選後余滴  加古宗也


流氷の来し夜の眠り浅かりし       大澤 萌衣
流氷の近づく様は、地球そのものが動くかのような感覚
と言っていいだろう。その感覚を、「夜の眠り浅かりし」
と人間の意志を超えたところで捕えていて面白い。誓子の
句に
流氷や宗谷の門波荒れてやまず  誓子
があるが、萌衣さんの句には、女性らしいナイーブさが
大きくひろがっていて、独自な流氷になっている。「眠り
浅かりし」には流氷の持つ神秘さすらひろがっている。
絵手紙にやさしさ貰ふ年の暮        池田あや美
年の暮にはその忙しさのために何かといらだつことが多
い。そんなとき、絵手紙を受けとって、ふと心がなごんだ
というのだろう。孫から届いた手紙なのか、友人から届い
た絵手紙なのか。いや、文字だけの手紙と違って、そこに
絵が描かれていることで、どんなに心がいやされることか。
じつは、絵が描かれているということは、差し出す人にたっ
ぷりと心のゆとりがあることで、そのゆとりが、受け取っ
た人の心をいやしてくれるのだ。
からくりのはじめは鼓冬木の芽       今泉かの子
この句を読んで、ふと思い出したのは、岡崎公園のから
くり時計だ。電動式の大きなからくり時計が、鼓の音とと
もに始まる。家康らしき人形がするすると舞台に出てきて、
能を舞う。その始まりが、鼓の音なのだが、あの「かんか
ん」とも「きんきん」ともいう音が見ている人々を一気に
注目させる。あの高音で鋭い鼓の音が冬木の芽起しをうな
がすようだ、と感知している。この感情が心地よい。
短日や人と向かはぬ席選ぶ         加島 照子
喫茶店かあるいはレストランか。坐った席の前に人がい
て何とはなしだが、目が合ってしまう、のは気まずいもの
だ。自分の席と前の席との間に見えないしきりが欲しい。
人間の心理がさりげなく、しっかりと表現できていていい。
席を選ぶわずかな時間にそれが行なわれるところが、女性
らしい感性というべきか。
読初に彼の日の星の王子さま        工藤 弘子
『星の王子さま』とは、かつて世界的な人気を誇った童
話のことだろう。子供に読み聞かせた『星の王子さま』は
じつは弘子さんにとっても癒しになった童話であった。ふ
とそんなことに気づいて「読初」としたのだろう。それは
過去へのタイムスリップでもある。
鈴菜清白庭のもの足して粥         服部くらら
「鈴菜清白」は春の七種の中の二種。「せり、なずな、ご
ぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ…これ
ぞ七種(七草)」と数え唄のように諳んじて楽しんだものだ。
最後の「すずな」は「大根」、「すずしろ」は「蕪」のことで、
この二つは野草というよりも野菜として、畑や門畑で栽培
される。七種摘みに出て、足りないものは門畑で採ったと
いうのだろう。、まず俳句のリズムがいい。そして、結句
に「足して粥」と、種あかしのように読んでいるところが、
ベテランのうまさだろう。
枝に吊る片手袋の落し物          新部とし子
公園などで時折り見かける風景だが、「枝に」吊ってお
くというのは意外にいいアイデアだ。手袋が枝に吊ってあ
ると、「あれ!何だろう」とたいてい人の目につく。落と
し主を探すのに意外にいい方法だ。ふと気づいて本人が探
しにきても、枝に吊ってあれば…
山城の女房落ち道梅探る          大杉 幸靖
山城には、落城の際、女や子供を先に逃がすための道が
つくられていたようだ。「女房落ち道」の発見がこの句の
眼目で、武将もまた、女房、子どもを大切にする、つまり、
男の戦に巻き込んではならないという思いがあったことが
具体的にわかる。「梅探る」という季語がとてもよく効い
ており、梅の本意が心地よく詠み込まれている。「梅探る」
は「観梅」と違う。梅が咲くのを待ち切れずに梅を見たく
て出かける。「探梅」という季語は最も俳人好みの季語だ。
というよりも梅の咲くのを待ち切れずに探しにゆく、この
せっかちさが、俳人のいい意味での魅力だと私などは思う。
つまり、普通では気づかないところに、冬の梅は咲くと作
者は承知している。この好奇心こそ俳人に最も欲しいもの
だ。
鮟鱇鍋つつきつ腹のうち探る        坂口 圭吾
ふぐちりもいいが、鮟鱇鍋もこれまたうまい。中でも「あ
んきも」とも呼ばれる鮟鱇の肝は、熱いものをふうふう吹
きながらいただくと、たまらなくうまい。
「うまいうまい」とそのうまさに気がゆるんで、つい本
音をもらす。そこをねらいとする鮟鱇鍋だ。俳句の「俳」
を思い切り身近かに引き寄せた一句。

木漏れ日の小径  加島照子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(一月号より)


菊枕母の手際を貰ひ受け           服部くらら
干した菊の花を入れて作る菊枕は、その匂いや風情と共に
頭痛や目の病いに薬効があるとされて来ました。菊枕を縫い
ながらお母さんの思い出にも浸っている光景が目に浮かびま
す。香りに包まれた寝心地は最高の睡眠薬になりそうです。
松本清張の短編小説「菊枕」の中に、そのモデルとなった
杉田久女が、高浜虚子に贈ったと言われる菊枕、そして久女
の人生が興味深く描かれていた事が思い出されました。
火焔土器炎の踊りたる神遊          江川 貞代
どきっとする程面白い縄文土器は立体感、装飾の裏側や細
部に込められているエネルギーが素晴らしい半面、高温で
しっかりと焼かれた訳でもない中途半端な焼締めの陶器で
す。これが何千年もの時代を壊れる事もなく地中で眠ってい
た奇跡、私も始めて見た時は驚きで声が出る程でした。正に
神様が炎の中で踊っている様なデザインに魅了されました。
灰でなふ縄の話や炉をひらく         荻野 杏子
灰で縄を綯うなんて不可能と思うのが普通ですが、それを
可能にする話に興味を持ちました。赤穂に今も伝わる昔話な
のです。塩を作る時の苦汁を藁に染込ませ、その藁をよく打
ち縄を綯い油を塗って火を付ければ、縄は崩れずに灰になり
ます。その知恵は孝行息子の父親にあったので当時の悪代官
の御触にある老人を山に捨てる事等を改めたそうです。その
様な話をしながら炉を開くと詠む作者が楽しげです。
アコーディオンから小春噴き出す円頓     池田真佐子
「小春噴き出す」と言い切り方がとても新鮮です。確かに
アコーディオンは蛇腹の「鞴(ふいご)」と「鍵盤」の操作によって演
奏する楽器で、手風琴とも呼ばれます。一台で主旋律と和音
伴奏を同時にこなし、立奏や歩きながらも可能な風情たっぷ
りの音色で親しまれています。身近な楽器に着目した作者の
感性がとても素敵に感じとれました。
惜しむ間もなく秋は往き過ぎる        石崎 白泉
年毎に夏が長引いていますが、昨年は一年の四割以上を夏
日が占め、異常気象はもはや新たな普通となりそうです。
紅葉はまだかなと思っている内に雪が降り秋の消滅はすぐ
そこまで来ています。そして消えるのは秋だけでなく春もと
言われて、四季は二季になるかも知れないのです。短くても
惜しまれる秋を大切に味わいたいものです。
海棠の根元気づかず返り花          神谷つた子
海棠の花は四〜五月頃にピンクの花を咲かせる花木で、か
つて中国の楊貴妃を例えた程の美人の代名詞になっていま
す。今頃どうして咲くのか、寒空に咲く返り花はまだ伝えた
い事があるのかといつになく愛しく感じられます。
今年こそ腹八分目初鏡            飯島 慶子
「腹八分目に医者いらず」と昔から言われていますが、も
う少し食べたい所で止めるのは至難の業です。満腹中枢が刺
激されるのは食事を始めてから、十五〜二〇分位かかるので
早食いの人は腹八分目を感じにくいそうです。取りあえず今
年はゆっくりとよく噛む事から始めたいと思っています。
小面にたちまち女人秋灯し          平井  香
能は室町時代から続く仮面劇・扮装劇ですが、六五〇年を
越える歴史の中で独自の様式を受け継がれており世界にも稀
な演劇は驚きです。能面の目の穴が小さくて視野が狭く、口
の穴も本当に小さくしか開いてないので、一種の極限状態で
役に入り切って演じるのは実に難いと思います。小面は代表
的な若い女性の面で頬のふっくらとした可愛らしさが印象的
で最も親しまれています。
豊漁の笊売り嬉し初秋刀魚          大石 望子
不漁続きで秋刀魚がすっかり高級魚の仲間入りしてから、
わが家の食卓から姿を消しました。豊漁の知らせに笊売りと
は願ってもない事で嬉しい限りです。また来年も豊漁に沸く
事を期待したいと思います。
床屋の香を引き摺る夫や初時雨        安井千佳子
床屋から帰ったばかりの男性が、いつもと違う良い香りを
漂せて、はっとする一瞬は私も同感です。そんな気付きを初
時雨のそこはかとなく冬が来た事を感じさせる季語との、取
り合せがよく合っていると思いました。
手拭のあずま袋や縫始            長表 昌代
手拭を切らずに二箇所縫うだけで、初心者でも僅な時間で
作れるあずま袋は、私も作った事があります。手拭を二枚又
は風呂敷を使えば大判も出来て、柄の組み合せを考えると楽
しいエコバッグの完成が待ち遠しくなります。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


添書のところだけ読み年賀状         足立 幸信
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
筆者のこれまでの「年賀状歴」を振り返ってみると、「手
書き→ゴム版画→プリントゴッコ→ワープロ→パソコン」
と、時代を追うごとに手作り感が薄れていった。これはいた
だく年賀状も同様で、表面も裏面もプリンタを通しただけの
ものも散見する。印刷された新年の挨拶も紋切り型のものが
多い。したがって、唯一、その人の温もりを感じるのは本人
の手で書かれた添書となる。
話は変わるが、句会の楽しさの一つは、回される清記用紙
に書かれた句友の手書きの文字に出会えることだ。パソコン
の文字には無い温もりがそこにはある。
「蘖」と元号定め我れ目覚む         今井  聖
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
我が国はかつて、疫病、戦乱、天変地異といった凶事を理
由に改元がしばしば行われた。それは、時の治世者は元号を
改めることで、凶事を断ち切ることが出来ると考えていたか
らだ。二十世紀は「戦争の世紀」であったが、今世紀に入っ
ても、戦火は至る所で燃え盛り、また、震災によって多くの
尊い命が奪われている。作者は、そのような世の中を見据え、
今こそ、世の中の再生を図るべきだと、強く思っている。そ
の思いが、作者に元号を「蘖」と定める夢を見させたのだ。
「蘖」― 実にいい元号ではないか!
叶ふとき叶はぬときも鞦韆に         明隅 礼子
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
確かにブランコは、心の沈んだ時も、心が弾む時も乗って
みたい遊具だ。友の幸せを我が事のように喜び、友の苦しみ
に同苦する ― 人類(もちろん筆者も含め)は、そんな「鞦韆」
のような存在になれないものか。
老人に通じぬ嘘や万愚節           池田 啓三
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
掲句を二通りに解釈してみた。
(解釈1)長い年月生きてきた老人には、薄っぺらな嘘な
どすぐに見抜かれてしまう。(解釈2)歳をとってきて、思
考が次第に固くなって来た老人。エイプリルフールに、子や
孫が軽いノリで言った嘘を真に受けて激高してしまった。
季語「万愚節」の斡旋から、「解釈2」の方がより俳味が
あるように思うし、幾許かの切なさも感じられる。
落ちながら瀧であったと気付くのか      池田 澄子
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
水にもいろいろな形体がある ―一粒の涙、コップ一杯の
水、蹲踞の水、噴水、豪雨、また、瀧の水。
人は、時々、自分の来し方を振り返る。その究極の振り返
りの瞬間は、この世を旅立つ時であろう。自分の「人生の断
面図」を俯瞰して見る瞬間― それは、自分がこの世で最後
の息を吐く時なのかも知れない。その時、自分は「滝の水」
であったことに気づき、滝壺へと落ちてゆくのだ。
人生の最期への潔さを詠んだ掲句は、次の句と響き合う。
落椿われならば急流へ落つ          鷹羽 狩行
クリップが昔を挟む盆休み          秋尾  敏
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
お盆に本家に集まった兄弟姉妹、その子、その孫たち。ク
リップには、何が挟んであるのだろう?― 亡くなった両親
を囲んだ集合写真、家族旅行の写真、子供の頃の作文、など
だろうか。
それらをクリップから取り外して、交々、眺め合い、見せ
合いながら、幼い頃の思い出に花を咲かせるーそれが盆に集
う全員の年中行事になっているのだろう。
そのクリップも錆びついており、写真にその錆が付着して
いるかも知れない。だが、その錆さえ、共有してきた時間の
長さがにじみ出ているようで、愛おしく思われるのだ。
警備員一歩さがりて咳ひとつ         榎本  享
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
中七下五から警備員の実直さが過不足なく伝わってくる。
周りの人の安全を守るという任務が警備員の仕事。咳一つの
行為にも、周囲に配慮する―その警備員の姿が実に好ましく
感じられる。その人の人柄が伝わってくる句だ。
病む妻にハイと応えて年用意         安部 元気
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
掲句のカタカナの「ハイ」が全てを物語っている。
ひらがなの「はい」であれば、その言葉に「体温」を感じ
るが、カタカナの「ハイ」は、まるで、ロボットのようで、
あるいは、昨今のAIのようで、人の温みを感じない ― と
表向きはそう思う。しかしこの「ハイ」は、実はとても温か
い。
作者は、奥様がお元気な頃は、奥様に「おい」のような、
そっけない応答をされていたのかも知れない。それが「ハ
イ」に変わるまでには、お二人の間に様々なことあったのだ
ろう。
上五中七が切なくも美しい。