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井垣清明の書62夔(き)一足平成24年(二〇一二年)一月 釈 文夔(き)は一にして足る。(『呂氏春秋』察伝) |
流 水 抄 加古宗也
米津句碑まつり
句碑の肩たつぷり濡らし初しぐれ
うしほ典子苑女と並び初しぐれ
句碑建ちて四十八年初しぐれ
寒蕨穂に出て郷の句碑を守る
句碑に手を当て秋声を聞くことに
碑苑掃かれあり椎の実のまた落つる
産土神に軍馬の碑跡初しぐれ
転寝の枕は『辞林』暮の秋
神の留守雨の参道一人来る
からからと鳴る神鈴や神の留守
今宵在祭ちゃんちきおけさ聞く
時雨華やぐ釈迦堂は檜皮葺
ここ稲荷山お茶の花ほつほつと
茶の花や頂上に立つ常夜燈
幼児を膝の上に置き十三夜
鹿垣は設楽へつづき雨もよひ
木犀や堅田にうまき佃煮屋
木犀や寺門閉しある本福寺
吉良町東條
山茶花や郷寺在家造りにて
山茶花の根廻り十尋在家寺
光 風 抄 田口風子
時雨虹猿石並ぶ城の道
撞木館
座布団の二つふくらむ冬日向
白内障術後
銀杏落葉踏む退屈の一日目
岡崎城
神君に名刺を貰ふ神の留守
多治見修道院
聖域の広さとぶだう枯る広さ
聖水に触れ初冬の薬指
整然と寝墓落葉降る落葉踏む
冬日明るし聖堂の二階窓
幸兵衛窯
神の旅ラスター彩のをんなたち
一弦の琴一弦の小春かな
真珠抄一月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
走り根に落葉を寄せて神の留守 米津季恵野
疎水より遣り水引けり松手入 市川 栄司
秋の日に温もる太き幹を抱く 石川 裕子
新刊書の匂ひはうまし秋灯 鶴田 和美
使ひよき鉛筆揃へ冬に入る 工藤 弘子
資源ごみの正しき種分け文化の日 堀田 朋子
母の手の豊かなる知恵夜なべかな 坂口 圭吾
敬老日ぜいたくな暇持て余す 加島 照子
狐火や風硬くなり重くなり 大澤 萌衣
星流るSF好きは皆老いて 高濱 聡光
紅葉狩天狗の寺へくねり道 春山 泉
秋灯やともせば透ける奈良格子 奥村 頼子
句碑に供ふ句徒が作りし秋野菜 髙橋 冬竹
妹は歌ふのが好き小鳥来る 水野 幸子
毬のごと水面とび出す鳰 堀口 忠男
舌先の火傷は昨夜の根深汁 飯島 慶子
窯朽ちて煙突のこる十三夜 和田 郁江
今朝の冬竹の青さに囲まれて 平井 香
心根を真っ直ぐにして大根引く 加納 寿一
釣瓶落し昔話に終りなく 加藤 典子
父の本一トンを売り秋旱 梅原巳代子
秋寒や足湯巡りに精を出す 松岡 裕子
母乳止め今日は我が子も新酒汲む 山科 和子
鱈汁や風がうがうと日本海 今村 正岑
啄木鳥やペットボトルで名水を 長表 昌代
友の訃報に泣きながら切る九条葱 鈴木 恭美
ハロウィンの飾りあふるるジャズの街 乙部 妙子
師弟愛句碑に学びて秋深む 濱嶋 君江
神留守のピカソの描く貞奴 天野れい子
大根煮るあひだを何も考へず 田口 茉於
選後余滴 加古宗也
疎水より遣り水引けり松手入 市川 栄司
京都・南禅寺周辺には、古くして閑静な豪邸が、ひっそ
りと立ち並んでいる。高い塀がめぐらされており、われわ
れ庶民は簡単に中を覗くことができない。たまにテレビ局
が何かの折りに庭を紹介するのみで、運がよければ、テレ
ビカメラを通じて、豪邸の中庭を見る事ができる。『広辞苑』
は「寝殿造(しんでんづくり)の庭園などに水を導き入れ
て流れるようにしたもの。(宇津保物語)」と紹介している。
琵琶湖から水を引き込んで京都へ流す水路を琵琶湖疎水と
いうが大津市内に取水口があり、南禅寺の境内を流れる。
その疎水の景観がまた美しく、京都の名勝の一つになって
いる。その疎水から豪邸の中庭に水を引き、その流れを遣
り水(やりみず)という。最高の贅をつくした庭だ。「遣
り水」も「疎水」によっていよいよ桁外れだ。「松手入」
もやはり、贅沢の極み。庶民も松手入をしなくはないが、
少しずつ松葉をむしりながら通気よくする松手入はやはり
贅沢といえば贅沢な庭手入れの一つといえるだろう。
敬老日ぜいたくな暇持て余す 加島 照子
今日は敬老の日。ふだんやっている炊事、洗濯、その他
「私がやります」と子供たちに取り上げられてしまうと、
これがまた、ありがたいような、ありがたくないような、
だ。こんなときふと「貧乏性」という言葉が口を突いて出
てきて、まあいいか、ともなるのだが、いよいよ「老人如
何に生くべきか」と真剣に考えなくてはならない時代に
なっている。さてさて「定年延長」は人間にとってほんと
うに幸福なのかどうか、を本気で考えなくてはならないと
思う。
走り根に落葉を寄せて神の留守 米津季恵野
掃き溜めた落葉もちょっと風が吹くと見事に散らばって
しまう。せっかく掃き溜めたと思っても風にはかなわない。
あわててまた掃き寄せることになる。落葉を走り根に寄せ
るという行動はいってみれば生活の智恵で、ゆえに「神の
留守」という季語が面白く働いた一句だ。「神だのみ」の
行動がいかに日常に多いかをふと思い出させる。
狐火や風硬くなり重くなり 大澤 萌衣
狐が口から焔を吐くという俗説にもとづいたものらしい
が、私は二度ほど、夜中に見たことがある。土葬のまだの
こっていたころ、墓地で、もう一度は矢作川の堤防で短い
時間だが見た。まさに肝をつぶす、といった驚きだったが、
「火の玉」という現象も子供の頃、五六人で同時に目撃し
たことがある。怪奇現象というものは、誰れもが納得しが
たいもので、テレビ等では、すっかり取り上げることが無
くなった。
犬の死骸が昔はそのまま放置されることが多く、その骨
が雨の降る夜など骨の中の燐が燃えるといわれた。怪奇も
の、あるいはお化けといったものは、あっさり否定されが
ちだが、よくわからないもの、あるいはよくわからないこ
とが多くあることは楽しいことでもある。
資源ごみの正しき種分け文化の日 堀田 朋子
その昔はゴミなら何でも一緒にゴミ袋に入れて捨てたも
のだが、やがて「資源ごみ」という区分が出てきて、一気
にややこしくなった。さらに、その資源ごみも、瓶だ缶だ、
何だかんだとややこしく、よほど勉強しないと、見事に仕
分けできない。ことにこの「正しき」という言葉が「アヤ
シイ」。
秋の日に温もる太き幹を抱く 石川 裕子
大樹・巨樹はそこにあるだけで、人に安心をくれる。太
い幹を両手で抱き、耳を幹に押し当ててみると楽しい。温
みが全身に伝わると同時に、ふと樹幹をのぼる水が聴こえ
ることがある。そんなとき、この木は生きているという実
感が伝わってくる。
紅葉狩天狗の寺へくねり道 春山 泉
「天狗の寺」というのは群馬県北部にある武尊山(ほた
かやま)のことをさしているのだろう。標高二一五八メー
トルと意外に高い。山頂付近に寺があり、おそらく日本一
の張子の大天狗が祀られている。この山の名前は日本武尊
(やまとたけるのみこと)の東征伝の故事に由来するとい
われ、実際にのぼった感覚よりも高い。先師・富田うしほ
も愛した。この大天狗と同型と思われる大天狗が沼田城址
にも祀られており、沼田祭のときには繰り出される。私は
紅葉の頃に尋ねたことはないが、紅葉の美しさは十分想像
される。そして、紅葉狩も一度してみたくなる一句だ。「く
ねり道」が実景とぴったりであり、折れ曲がるたびに紅葉
山の景が変化する様が具体的に描写されて過不足がない。
母乳止め今日は我が子も新酒汲む 山科 和子
酒というものは母乳の中に入るということを、あらため
て知らされた。そして、酒好きというのは、たまらなく新
酒が恋しいものだということをこの句から教えていただい
た。そして、この句。「新酒」が恐ろしいまでに決まって
いる。こんなとき下戸であることがせつなくなる。
木漏れ日の小径 加島照子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(十一月号より)
風待つや小さき翅ある草の絮 工藤 弘子
「草の絮」は風を待って飛び立つ存在で、「翅ある」と言う
言葉が詩的で生命の微かな意思を感じさせます。小さな命が
自然の大きな風に身を委ねる、そんな季節の哲学的な思いが
込められていて、とても繊細で美しく何かが起こる前の時間
を捉えていて、自然への優しいまなざしが素敵です。
絵筆を銃に替へし青春身にぞ入む 酒井 英子
理想や夢を抱いていた若者が、時代の波に抗えず戦場へ向
かった、そんな歴史の悲哀や宿命を感じさせます。戦没画学
生慰霊美術館「無言館」は、長野県上田市の山の中にあり、
まさに無言で語りかけてくる絵には「身にぞ入む」と言う季
語が絶妙です。心に響く悲しみや時代の残酷さ、青春の純粋
さの対比が胸を打ち、心に残る一句になりました。
抗へぬ国防色や敗戦忌 鈴木 帰心
個人の意志ではどうにもならない時代の流れ、国防色は当
時の軍服や物資を象徴する色です。単なる色彩ではなく時代
そのものの重苦しさや、一色に染められた社会を暗示してい
ます。「敗戦忌」の季語には戦争に巻き込まれた人々への鎮
魂の思いが深く響きます。沈黙の抗議と人間の哀しい思いが
静かな一句に詠み込められています。
なで肩の秋の蛙を笑ひをり 大澤 萌衣
蛙の体つきを人間の様に見立てた比喩が面白く、作者の観
察眼と遊び心が感じられます。蛙を「秋の蛙」とした事で、
夏の勢いを失い、やや寂しげに見える季節感が加わり、滑稽
味の中に哀れも滲みます。秋の静けさの中に生き物への共感
と優しいユーモアが漂い、ほほえましく余韻の残る句です。
長考の棋士の手遊び秋扇 髙𣘺まり子
「長考の棋士の手遊び」この表現が緊張感をよく描いてい
ます。将棋盤の前の沈黙と、その間を埋める様に扇をいじる
仕草、その一瞬を切り取った観察が見事です。使い慣れた
「秋扇」が思索や勝負の行方、時間の経過を暗示し、人間味
と季節感が静けさの中に共存している深い句となりました。
白萩やひらがなばかり八一の碑 奥村 頼子
白萩の清らかさと「八一の碑」に刻まれた「ひらがなばか
り」と言う柔らかな印象が静かに響き合っています。「会津
八一」は、書家、歌人として知られ万葉調の仮名遣いを大切
にした人です。一音一音をかみしめる様に詠む「ひらがな」
書きは、歌の調べを大切にしている八一のこだわりです。そ
の碑に気付く作者のまなざしに優しさが溢れています。
稲雀電車如きに逃げもせず 鈴木 恭美
「稲雀」が広々とした秋の田の風景を思わせます。電車の
轟音に慣れきって平然としている稲雀、のどかさの中に文明
への軽い風刺や皮肉、そして小動物への温かい気持ちが読み
手にも伝わります。「逃げもせず」がすっきりと収まり、余
韻が感じられる楽しい句になりました。
秋晴や犬を黙らす猫パンチ 梅原巳代子
秋晴れの下、犬と猫のやり取りがくっきり見える様です。
犬を黙らす猫パンチと言う表現が絶妙で、動きのあるユーモ
アが生きています。私も犬と猫を一緒に飼った時、猫にいつ
も勝てない犬の優しさを思い出しました。勝ち誇った猫の姿
も想像できて、明るい季語と可笑しみのある洒落た句です。
来し方を語る友いる良夜かな 加藤 典子
人生を共に歩んで来た友と過ぎし日を語り合う。穏やかな
回想の時間が伝わります。人生の円熟と友情の温かさが滲ん
で上品な余韻が残ります。「良夜」と言う季語が月の冴えた
秋の美しい夜を思わせています。私も古い友人を大切にして
いきたいと思いを新たにしました。
天を突く向日葵どっと空焦がす 岩田かつら
真夏の太陽に向かってぐんぐん伸びる向日葵の勢いを、
「天を突く」と言う表現が雄大です。「どつと空焦がす」も、
比喩の迫力があります。熱気や圧のある夏空に群生する向日
葵のエネルギーが、空を焦がす様に感じるとは、写実を超え
て夏そのものの力を描いています。勢いと詩的な熱量が合わ
さっている力強い句になりました。
目を凝らし耳を澄ませて秋探す 田畑 洋子
「目」と「耳」と五感の内二つを丁寧に重ねた表現が美しく、
作者の素直で豊かな感受性を感じます。目で見える変化だけ
でなく音や気配で感じ取るもので、派手な季語や比喩を用い
ず、心の姿勢そのものを詠んでいるので、透明感のある素敵
な句として印象に残りました。
十七音の森を歩く 鈴木帰心
夢に会ふ時は壮年明易し 西村 和子
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
掲句の「壮年」の措辞に俳味と、いくばくかの切なさを感
じる。
いつの間にか自分も年を取ってしまった。人生も後半を過
ぎて、「壮年」でさえ、自分には若い姿に映る。夢に出てく
るあの人の姿 ― それは、青年ではなく、壮年。
あの人の姿が、青年から壮年に移行するまでには、いく年
月かが経過している。だが、その年月が刹那のように感じら
れたことが、季語「明け易し」からうかがえる。
先生を畑に訪ぬ帰省の子 名村早智子
(『俳句四季』十一月号[巻頭句]より)
この「先生」は、すでに退職された方で、「帰省の子」は、
その先生を慕う教え子だろう。帰省して直ぐに、先生のお宅
を訪ねると、家の方が出てきて「畑にいます」と言われたの
だ。先生は退職後、畑仕事に精を出している。ドラマのワン
シーンを見るような句だ。また、この句から、「羅須地人協
会」の黒板に書かれた「下ノ畑ニ居リマス 賢治」(註「賢治」
は宮沢賢治)の文字もふと思い出した。
異邦人と朝の勤行秋気澄む 長町 淳子
(『俳壇』十一月号「白砂の庭」より)
外国の人も加わっての朝の勤行。その人が手にする経本は
アルファベット表記。だが、発せられる音声(おんじょう)
は、皆、同じ。ぴたりと声とリズムが揃い、心をひとつにし
て世界の平和を、自身の幸せを全員で祈る。季語「秋気澄む」
からその祈りの清らかさが伝わってくる。
鵙鳴くや叩きては干す夫の服 遠藤千鶴羽
(『俳壇年鑑 二〇二五年版』より)
もちろん「叩きては干す」のは、服の皺を伸ばし、型崩れ
を防ぐためだ。しかし季語「鵙鳴く」の斡旋により、この句
をもう少し深読みしたくなった。掲句から、韓国民俗村で現
地ガイドから聞いた話を思い出した。ガイドは、会場にある
砧を手にして、「昔は、姑と嫁が向かい合って、砧で布を叩
いていました。二人は、どんな思いで叩いていたのでしょう
ね」と言ってほほ笑んだ。
この句の鑑賞 ― もうこれ以上は書くまい。とんでもない
見当はずれな事を書いてしまいそうだからだ。ともかく、中
七下五が秀逸。なんとも言えぬ俳味がある。
何処となく煮物の匂ふ秋の暮 鈴木やすを
(『俳壇年鑑 二〇二五年版』より)
「何処となく」という措辞が得も言われぬ郷愁をそそる。
路地を歩いていると、何処からともなく煮物の匂いがす
る ― このような情景は、日本に限らず、いずれの国におい
ても、平和で穏やかな生活のひとこまだ。
季語「秋の暮」から、とりわけ日本のノスタルジーが感じ
られる。
淋しさのひとりにひとつ大花野 日下野由季
(『俳句四季』十一月号[巻頭句]より)
花野を歩くと力をもらえるし、心も癒される。それで、花
野を歩く人は、淋しさを胸に秘めている人が多いのかも知れ
ない。
上五中七に共感。
一番に親方の来る松手入 名村早智子
(『俳壇』十一月号「マスカット」より)
この親方の職人気質、上に立つ者の責任感が、この一句に
余すことなく描かれている。
吟行のはずがいつしか栗拾ひ 山本 潔
(『俳壇』十一月号「はらりと」より)
このようなゆるい吟行、大好きだ。「この吟行で何句詠ま
なければ」などと自分を追い込むような吟行よりも、心遊ば
せて、自由気ままな吟行の方が楽しいし、結果、いい句が拾
えることが多いように思う。
鶏鳴はいつも正調冬ぬくし 松田 𠮷上
(『俳壇』十一月号「禁足地」より)
辞書によれば「正調」とは、「伝統的に受け継がれてきた
歌い方」とある。作者は、鶏が、生真面目なほど同じ鳴き方
をしていることに気づき、鶏の健気さに心和んでいるのだ。
季語「冬ぬくし」の斡旋がほのぼのしていていい。
冬日向俳句は老いの服を着て 桑原 三郎
(『俳句年鑑 二〇二五年版』より)
「俳人は流行を追い求めるより、少し時代遅れくらいな方
が良い」とは、我が師、加古宗也主宰の言葉。このご指導の
おかげをもって、気負うことなく、焦ることなく俳句を詠ん
でいる。結社の先輩方は、古希を迎えた筆者を「まだまだ、
若い」と言って笑う。
「老の服」の着心地はすこぶるいい。老の時間の豊かさ、
味わいが季語「冬日向」から伝わってくる。
