No.1126 令和8年2月号

井垣清明の書63

天 保

平成24年(二〇一二年)五月
第47回北城書社展(上野の森美術館)

釈 文

天爾(なんじ)を保定す、亦孔(またはなは)だ之(こ)れ固(かた)し。
爾をして單厚ならしむ、何の福(さいわい)か除(ひら)かざらん。
爾をして多く益さしむ、以(もつ)て庶(おお)からざる莫(な) し。……(『詩經』小雅・天保)

流 水 抄   加古宗也


冬の鳥飛び大寺のご縁日
小春日和や落慶の稚児お練り
霜晴や転読僧の眉凛と
小春日や烏帽子傾ぐもめでたくて
落慶の庫裡方丈や霜晴るる
小鳥来てをり釈迦堂の桧皮葺
高井戸を覗けば光り柿の秋
小春日和や瓢の実をポケットに
茶の花や稚子のお練りの長々と
神在月お社はみな海へ向く
巡礼や参道で売る蜂屋柿
また時雨きて立つ三十三度石
奥三河二句
猪垣やいまも戦国悲話のこす
猪垣を遺し神君狩場跡
高崎龍広寺
横たはる露兵の墓や曼珠沙華
霜月や少林山に大達磨
追分に忠治地蔵や霜を置く
霜月も始めや畝をならしをり
大ぶりな熊野の柿の届きけり
落葉溜りや竹箒よく跳ねる

光 風 抄   田口風子


のんほいパーク六句
河馬を見てゐる三人の耳袋
縞馬の縞の色濃きクリスマス
ライオンの鬣弛ぶ冬日向
冬日向鬱々屈むオラウータン
冬日しかと手を揃へ立つミーアキャット
象遠すぎて一葉づつ枯葉踏む
十二月八日誰もゐぬ懺悔室
冬西日磔像に打つ釘四本
椅子食み出して数へ日の何でも屋
駅ピアノ子が弾いて子が聖樹置く

真珠抄二月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


初雪やほのと温とき宗祇水     磯貝 恵子
熊撃ちの話おのづと児は正座    大杉 幸靖
寒灯の紐をゆらせり遠い地震    工藤 弘子
柿もみぢ造化の妙と言ふべけむ   荒川 洋子
ひなた道呉須の陶片踏みて冬    髙𣘺まり子
柊や静かな庭の静かな香      烏野かつよ
白秋も訪ひし詩の街黄落期     平井  香
欄の硬さを肘に落葉川       堀田 朋子
寒雀坂の途中のジャズ喫茶     渡邊 悦子
二つ三つ妻が持たせし紙懐炉    鈴木 帰心
休館の図書館暗し蔦紅葉      石川 裕子
棟梁のよく徹るこゑ秋高し     坂口 圭吾
木枯らしや樫ぐね消えし郷となり  堀口 忠男
ちゃっかりと猫の居座る干布団   新部とし子
今年こそ強気に生きむ雑煮腹    石崎 白泉
夜明け前一人占めする冬の星    松岡 裕子
灰汁ぬきは秘伝栃の実石臼に    青山 靜山
ジーパンを逆さに干して石蕗の花  稲吉 柏葉
心根を真つ直ぐにして大根引く   加納 寿一
牛の藁高く積み上げ冬に入る    春山  泉
はしご酒追ひかけてくる冬の月   今村 正岑
もう少し頑張れるかも返り花    鈴木 玲子
人はふと上を向くもの日短か    堀田 和敬
切り出されみごと聖樹となりにけり 大澤 萌衣
冬帽に残るや夫の被り癖      新井 伸子
持ちやすき手帳を探す十一月    鶴田 和美
キオスクにも熊よけの鈴置いてあり 磯村 通子
V字渓谷紅葉の襟を重ねたる    池田真佐子
輪島塗師いまだ仮設に年用意    天野れい子
冬ざれや木地師千軒跡地標     池田あや美

選後余滴  加古宗也


ひなた道呉須の陶片踏みて冬   髙槀まり子
佐賀県有田町を訪ねて生まれた連作のうちの一句。一口
に「有田・伊万里」と言ってしまうが、磁器の産地として
世界にその名をとどろかせた。有田焼・鍋島焼などに代表
される優れた磁器は私も大ファンだ。先年、田口風子さん
の紹介で、佐賀県内の主な産地を訪ねる若竹佐賀吟行会が
企画され、大勢の同人が参加した。鍋島焼の拠点大川内山
では、その風光ととも磁器の魅力を十二分に楽しむことが
できた。磁器の絵付の最もポピュラーなものが呉須で、そ
の青はあきることのない染付といっていい。壊れた窯を利
用してつくられたトンバイ塀は、有田ならではの廃物利用
で、それがなんとも美しい。「踏みて冬」に陶片のきらり
と光る様が、鋭く描写されている。
白秋も訪ひし詩の街黄落期   平井  香
ここにいう「詩の街」というのは群馬県前橋市を指して
いる。前橋市といえば萩原朔太郎が生まれ、詩人として活
躍したところで、いまも多くのゆかりのもの、例えば、朔
太郎が暮らした家などが遺っている。この句、前橋東照宮
での作らしく、境内に白秋と朔太郎が面談したという杉の
木が亭々と立っている。朔太郎といえば前橋、前橋といえ
ば、「詩の街」として前橋市民の矜持になっている。
欄の硬さを肘に落葉川   堀田 朋子
「落葉川」は川面に落葉が流れてゆく様を言ったものだ
ろう。欄に肘を載せて川面を眺めているのだ。いろいろな
ものが次から次へと流れてくる。中でも落葉が一番流れて
くるのだろう。流れてくるものによって、川上の景が何と
なく見えてくる。「欄の硬さを肘に」によって、寒さをさ
りげなく想起させるところがうまい。
輪島塗師いまだ仮設に年用意   天野れい子
れい子さんは輪島塗の美しい椀を愛用している。その椀
を作った塗師(ぬし)が一昨年の地震で家を損壊し、いまだ仮設に
住んだいると聞いてショックを隠せないのだ。年用意をす
すめながら、輪島の年越しの準備はどうなっているのか、
と気になって仕方がないのだ。「いまだ仮設に」が心をへ
こませる。《寒椿挿し垂撥の輪島塗》もある。
二つ三つ妻が持たせし紙懐炉   鈴木 帰心
「一つ二つ」でもなければ「三つ四つ」でもないところ
が数詞の面白さだ。何でもない数字で見えて、じつに過不
足なく決まっている。夫婦の「吽呍の呼吸」とでもいおうか。
そして、この「二つ三つ」によって、夫婦円満の秘訣が見
えてくる。
休館の図書館暗し蔦紅葉   石川 裕子
洋館と呼ばれるものに、一見「日本的」と見える蔦紅葉
がじつによく似合う。世の中のあちこちで「ミスマッチ」
があることの何と楽しいことか。
寒灯の紐をゆらせり遠き地震   工藤 弘子
「遠き地震」がじつに見事に決まっている。村上鬼城は「写
生の極意」について、「じっと見入る。じっと聞き入る」
と言っている。写生に徹することで、「遠き地震」まで見
えてくるのだ。
冬ざれや木地師千軒跡地標   池田あや美
滋賀県に、「木地師の里」と呼ばれるところが今も遺っ
ている。「木地師」は「またぎ」も兼ねていて、その拠点
を順次移してきたという。良質の木が育ちけものが豊かに
棲んでいることが必須の条件で、そのバランスが崩れると
移動をよぎなくさせられる。シンガー・ソングライターの
小椋佳が学生時代の夏休みにここを訪ね、大好きになった
ことから、芸名を小椋佳としたと、テレビ番組で聞いたこ
とがある。小椋佳の作品には、それを合点されられるもの
が多く、作者と同行したときも、あらためて、納得したも
のだった。その昔、惟喬(これたか)親王がこの地へやっ
てきて、木地師の仕事を教えたというが、木地の盆の見事
さにすっかり魅せられた吟行だった。
持ちやすき手帳を探す十一月   鶴田 和美
十一月になると、ぼちぼち翌年の予定が入ってくる。し
たがって新しい手帳を買わなくてはならなくなる。「持ち
やすき手帳」は言い得て妙な把握だ。手帳は毎日開く文房
具なだけに、「持ちやすき」は必須なのだ。
V字渓谷紅葉の襟を重ねたる   池田真佐子
ある年の深秋に、中尊寺や山寺など、奥羽地方の古寺を
訪ねる旅を名古屋を中心とするメンバーでやったことがあ
る。こけしの里を抜けて間もなく、V字渓谷にさしかかる
と掲句そのものの景に出合った。

木漏れ日の小径  加島照子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十二月号より)


引つ張られ眼をむく馬や秋祭   髙橋 冬竹
人の手で強く導かれる場面で、馬の眼に焦点を当て鮮やか
な描写で秋祭の賑わいと動物の呼吸や力感迄入り、迫力を感
じさせます。又秋祭のざわめきが背景に渗んで、素直な写生
で動きや緊張感を一瞬で捉えた句になっています。
閼伽桶の水たぷたぷと秋彼岸   辻村 勅代
静かな彼岸の情景に、たぷたぷと揺れる水音が小さく響
き、秋の気配が感じられます。「秋彼岸」の澄んだ空気と、
先祖を偲ぶゆったりとした時間が句全体に広がり、何気ない
写生ながら温かい供養の心が、読み手に伝わってきます。
聖餐を受くる唇息白し   市川 栄司
聖なる儀式の厳粛さと、息と言う人間的で素朴な現象が並
ぶ事で、祈る人間の姿が温かく浮かび上がります。教会の冷
えた空気や、身を正して聖餐に臨む人の姿が息の白さによっ
て、写生の一瞬が際立ちます。静かな緊張感と敬虔さが見事
に調和しており、透明感のある印象的な句に惹かれました。
傷つくのはここまでにする鳳仙花   堀田 朋子
自分自身にそっと言い聞かせる様な、限界と再出発の境目
を表す言葉、そこに季語「鳳仙花」を置く事で、弾ける種の
性質や、どこか傷付きやすい心の比喩が重なり、強さと脆さ
の両方を持つ心情がよく表わされています。自分を守ろうと
する静かな決意が響き合い、余韻が続く美しい句です。
木犀の香に立ち止まるランドセル   乙部 妙子
金木犀の香りにふと足を止めた小学生、その小さな背中や
香りの方向を向く仕草まで自然に景が浮かびます。子供その
ものを描かずにランドセルだけを前面に置いた所が巧みで
す。子供の純真さに季節の移ろいも重なり、爽やかでほのぼ
のとした一句に仕上がっています。
直弼の茶の湯の井戸や萩白し   橋本 周策
幕末激動期の井伊直弼の人物像が立ち上がって来ました。
重厚な歴史性に対して「萩白し」の季語が絶妙です。
直弼の愛した白萩の清らかさや淡い光を含んだ様な白が、
直弼の井戸の物語性を包み、過去の重みから季節の明るさへ
と導いています。埋木舎を訪れた作者の眼差が静かな映像と
して伝わります。彦根城を訪れた際には、私も必ず立ち寄る
大好きな場所の一つです。ちなみに井戸は七ヶ所あります。
芋虫のこれから先の長き道   川嵜 昭典
芋虫と言う小さな弱い存在が「これから先の長き道」と、
大きな時間の流れを重ねた所が胸に泌みます。芋虫の一生は
短く変態を経て、蝶になると言う大きな転換を秘めていま
す。その芋虫の長き道が作者自身の未来への思いや、人生の
道のりへの考えがうかがえます。小さな生命に優しい気持ち
を注ぎ、じんわり余韻の残る一句に出来上っています。
露の玉くすくすつと笑ふよに   髙山 と志
朝の光を受けて煌めく露に、表情がある様に擬人化してい
る作者の心の動きが、読み手にまで微笑みを誘います。露の
一瞬で消える儚い存在を、笑う様にと言う表現が明るく透明
感のある優しい句になっています。
水引の山都に揺らぐ水引草   今村 正岑
工芸としての「水引」と自然の「水引草」が洒落た景の構
図で、人工の繊細さと風に揺れる草の自然の動きが呼応して
山都の静けさの中に通るわずかな風の感じがよく出ていま
す。言葉遊びにとどまらず、土地の文化と自然の両方を照ら
し出して、印象深い一句に仕上がっています。
十勝川に背黒々と鮭上る   鈴木 恭美
北海道らしい大きなスケールがストレートに伝わります。
十勝川と言う名指しが効いて、冷たく透明な流れと広々とし
た北の景が目に浮かびます。そこに「背黒々と鮭上る」と続
く事で、遡上する鮭の迫力と生命の緊張感や、川面の寒々し
い光まで立ち上がってきます。「背黒々」が特に良く、鮭の
流れの密度や逞しい身体、そして荒涼とした晩秋の気配まで、
強く見せていて迫力のある句になっています。
白雲や流るるままに百日紅   安藤 明女
「白雲の流るる」がとても伸びやかで、夏の終りから初秋
へ向かう高い空の広がりがよく出ています。大きな雲の動き
に対して「百日紅」を置く事で、地上と天上を視線がゆった
り上下に動く気持ちの良い句です。百日紅の明るい紅や桃色
が流れる白雲の涼やかさとは対象的で、季節の気配が自然に
伝わります。雄大さと柔らかさが同時にある爽やかな句で、
心に残りました。

一句一会     川嵜昭典


水音に谷は開けて蕎麦の花   菅野 孝夫
(『俳壇』十二月号「鵙が鳴く」より)
「谷は開け」たと感じるとき、それは普通、視覚によるも
のだと思う。しかし掲句は「水音に」と、聴覚を先に詠んで
いる。作者は、目で見るよりも先にまず、谷川の水の音に風
景の移り変わりを感じ、その次に見えたものが白く広がる蕎
麦の花、そんな光景だろう。同時に読者も、水音から広い空
間へと自然に導かれ、すなわち耳から目へと風景が移動し、
とても清々しい気持ちになる。またこの句からは、谷を歩
き、谷川を歩き、そして蕎麦の花の咲く野を歩き、と、作者
の歩みの逐一も感じられる。読んでいるこちら側も一緒に歩
いているような気持にさせられて面白い。
凍雲のかぶさるままや富士の山   小川 晴子
(『俳壇』十二月号「つごもり蕎麦」より)
富士山はしばしば、雄大であったり、不動であったりとい
うように詠まれるが、この句では「凍雲のかぶさるままや」
と、凍雲が富士山を覆い、むしろ富士山はそんな自然に黙っ
てされるがままになっている、そんな印象を受ける。富士山
にももちろん畏敬の念を抱くが、富士山を黙って従える凍雲
に対してはなお恐ろしく感じる。どこまでも大きな風景で、
人の手が届くような場所にない出来事だけれども、一方でそ
れを十七音で表せる俳句という表現の懐の深さにも感じ入
る。
冬蝶は名残りの影を置かざりし   鈴鹿 呂仁
(『俳壇』十二月号「残日のつれづれに」より)
冬の蝶といえば、はかなく、名残惜しいもの、というのが
本意だろうが、掲句では「影を置かざりし」という、本来残
るべきだった影までもが残らなかった、ということを詠んで
いる。どこの誰か分からない人とすれ違い、そのすれ違った
一瞬でその人のことがなぜか心に残る、ということが人生で
はたまにあるが、この句はその逆で、たまたま出会った蝶が、
その残すはずのものまでも残さないという、喪失感の極みの
ような感触がこの句にはある。ただこの喪失感は、冬という
季節にはどこかしっくりくる。
ひとひらの雪のかたちや相聞歌   長島衣伊子
(『俳壇』十二月号「夜の鏡」より)
「相聞歌」とは万葉集における男女間の歌のやり取りのこ
と。相聞歌の本質は二つの歌(男女間の歌)が寄り添って、
一時のかたちを作る(共鳴しあう)という点にある。掲句の
「ひとひらの雪のかたち」とは、雪の結晶ではなく、降る雪
の、一片と一片が合わさったかたちという意味だろう。こ
の、偶然合わさる一片と一片のかたちが、相聞歌のように共
鳴し、思わぬ美しいかたちを生み出す。相聞歌も雪もはかな
いもので、歌は言葉として消えてしまい、雪も溶けて消えて
しまう。それでもその合わさった一瞬の美しさは確かに存在
し、人の心にずっと刻まれる。思えば人と人との出会いも偶
然であり、また一瞬である。ただ、その偶然が必然であるか
のごとく感じられるところに人の心のやりとりの美しさや人
の心の不思議があるのだと思う。雪と相聞歌のぶつかりあ
い、そしてそれらが共鳴する一句。
山々のひしめく冬の来りけり   井上 康明
(『俳壇』十二月号「伊賀行」より)
さらっと読んでしまいそうな句だが、「ひしめく冬」は、
「ひしめく」と「冬」の間にすこし間があるように思う。文
法的に言えば、「ひしめく」は連体形ではなく終止形であり、
山がひしめいている冬が来たのではなく、山のひしめく実景
に出会った瞬間、作者は初めて冬の到来を悟ったのだと思
う。まさにカレンダーによって知る冬ではなく、実景によっ
て知る冬である。やはり冬は厳しく、重い。そしてそれが身
にのしかかってくる。そののしかかりを、派手な比喩を用い
ず、「ひしめく」と一言で表したところに、この句の太さが
ある。
侘助の恋患ひのやうな白   しなだしん
(『俳壇』十二月号「恋患ひ」より)
「侘助」の、どこか不器用さを感じる姿の花に「白」の言
葉が効いている。通常、白といえば、純粋さや無垢なようす
を表すが、ここでは「恋患ひのやうな」の言葉を添えること
によって、内側に熱を抱えながらも表面には出せないような
白色を想起させる。すなわち、内にさまざまな思いや葛藤を
抱えながらも、目に見えるさまはどこまでも不器用だという
ことだ。内面と外観との対比が面白い。
森抜けて池の明るき神の留守   大西  朋
(『俳壇』十二月号「温かく」より)
やはり森には人の力の及ばない範囲があり、森を歩きなが
ら、無意識にのうちに「何かがいる」という感じを背負って
しまうのだろう。そしてそこで池へ出たときの安堵感はどれ
ほどだろう。「神の留守」の間に森の何かがはびこり、それ
を払拭させてくれる池の面の輝きが鮮やかに感じられる句。