No.1001 平成27年9月号

真珠抄九月号より珠玉三十句   加古宗也 推薦

声明の楽譜は符牒さみだるる     今井 和子
美しく寡黙な娘沖縄忌        東浦津也子
風死して城に八角方位盤       天野れい子
緑蔭や耳たぶほどのあぶり餅     酒井 英子
子に合わせしやがめば白し姫女苑   竹原多枝子
骰子の汗ふき首に家を出る      今泉かの子
黴の香やランプ灯りの蔵喫茶     岡田 菫也
車椅子来て片陰をゆずりけり     米津季恵野
家ごとに蝉声もてる大暑かな     荻野 杏子
風鈴にかないし風の生れけり     平松 志ま
この川でなければならぬ行々子    斉藤 浩美
夫をまたひとりぽつちに冷奴     服部くらら
噴水に風向き変る写生の子      早川 暢雪
タンバリン打つ黄のカンナ緋のカンナ 重留 香苗
日盛りの先も日盛り検針夫      桑山 撫子
蒲焼の鯰一本家苞に         松岡  高
花氷言ひたきことのありさうに    工藤 弘子
齢には勝てぬ悔しさかたつむり    深見ゆき子
祭髪うなじ母似の衣紋抜く      辻村 勅代
萱草の咲き継ぐ日々を鬱々と     阿知波裕子
黒き家に黒き猫住む島の夏      甲斐 礼子
ひとしきり山の湯に鳴く雨蛙     折茂 伯石
出雲には美味き焼鯖うねり串     生田 令子
少し歩けば少し近づく大夕焼     田口 風子
傘立は焼酎の甕男梅雨        中村 光児
見覚えのあるシャツ日傘深くさす   大澤 萌衣
野麦越えお助け小屋にかき氷     太田小夜子
夏至の日や門前に売る赤まむし    渡邊たけし
吊忍軽きに換へる夫の夜具      高橋より子
ふかふかの鳰の巣そっと抱きみる   清水ヤイ子

選後余滴  加古宗也

緑蔭や耳たぶほどのあぶり餅   酒井 英子
緑蔭で数人が屯ろして何かゲームでも楽しんでいるのだ
ろうか。あるいは職人さんが小休止をしているのかもしれ
ない。七輪の上には金網がのせられ、餅をあぶっている。
それも小さな耳たぶほどの餅だ。口淋しさをまぎらわす程
度の餅だがそれだけにおいしい。少しの焦げが何ともうれ
しい。素朴なそれでいてすこぶる寛いだ風景がそこにはあ
り、そこに小さな幸せがつむぎ出されている。
骰子の汗ふき首に家を出る   今泉かの子
「骰子の汗ふき」とは、骰子を染めた手拭いのことだろう。
その手拭も粋だが、首に巻いたその姿もいなせだ。祭山車
の勢子衆として家を出ていったのかもしれない。すこぶる
元気のもらえる一句だ。その男を目を細めて見ている作者
もまた素敵だ。
本能寺前の古書棲守宮鳴く   天野れい子
京都京極の本能寺は織田信長が最期をとげたところとし
てあまりにも有名だが、今となっては京都の中でも繁華街
中の繁華街になっている。そんな新京極のアーケード街の
真ん中あたりに古書店があり、三階建てだったか四階建て
だったかの細長い塔のような建物だ。主に浮世絵の版画な
どを扱っておりいかにも京都らしい。何にせ街のど真中だ
から、ほんとうに守宮がいたかどうかあやしいが、京都だ
から居てもおかしくないような気がしてくるところが、俳
句の面白さだ。そもそも守宮に声帯が無く鳴くはずもない
が、それを鳴かせてしまったのも、信長伝説の地だから何
の不自然さも無い。ちなみに「亀鳴く」とか「みみず鳴く」
とか俳句にはあやしげな季語があるが、あやしげなゆえに
真実に近づくということもあるのだ。
一山の涼声明の大音声   今井 和子
「声明」は「しょうみょう」と読む。『広辞苑』には「仏
教の儀式・法要で僧が唱える声楽の総称」とある。大寺の
儀式のときなど大勢の僧侶たちが一斉に唱える声明は、大
本堂に谺して、音楽を聞いているようだ。加えてそれは極
楽浄土にいるかのような心地よい時間・空間が醸される。「一
山の涼」とじつに適確で、その純化された季語の斡旋が見
事だ。《声明の楽譜は符牒さみだるる》も面白いし、《冷や
し飴宇治十帖の橋詰めに》も固有名詞がよく効いた。
タンバリン打つ黄のカンナ緋のカンナ   重留 香苗
作者は幼稚園の先生として今も子供たちと向き合ってい
る。タンバリンを打って、子供たちと踊る様子が、すっき
りと明るく、健康的に見えてくる。それは「黄のカンナ緋
のカンナ」の繰り返しが大きな力になっていることは見逃
せないところで、自ずと作者の人柄も透けて見えてくる。
黴の香や妻の遺せし針坊主   岡田 菫也
先年亡くした奥さんのことがしみじみと思い出されるの
だろう。針坊主というすでに多くの家で使われなくなった
裁縫道具が登場してくる。しかも、黴の香がする。黴の香
によっていつの間にやら遠くなりつつある年月に思いをい
たしているのだ。さりげないがしみじみ感が深く伝わって
くるのは、作者の思いが深いからだといえる。《あきらめし
旅あり軒のかたつむり》の一句も人生の哀歓がさりげなく
詠まれて過不足がない。
夫をまたひとりぼつちに冷奴   服部くらら
作者の日常も多忙を極めている。今日もまた夫を一人残
して仕事に出る。「お昼は冷奴ですませてね」といって冷蔵
庫を指し示しながら、夫への申し訳けなさに胸がふさがる
作者だ。「冷奴」にユーモアがこもっていると同時に、切な
さも流れる一句だ。
日盛りの先も日盛り検針夫   桑山 撫子
雀がこの頃、激減したという話しがある。事実、数十年
前にはどこの家にも、どこの公園にもいっぱいいた雀がよ
ほど注意していないと見られなくなった。その原因につい
て専門家は、いまの日本の建築物の構造にあるという。つ
まり、すっかり軒のある家が少なくなってきているのだ。
巣ができなければ卵も産めない。卵が産めなければ雛は生
まれない。検針夫もまた片陰を拾ってゆくことがむつかし
くなっている。「日盛りの先も日盛り」と繰り返すことによっ
て検針夫の太陽との戦いぶりが見えてくる。こんなとき社
会の進歩とは何だろうと思ったりもする。
蒲焼の鯰一本家苞に   松岡  高
蒲焼といえば鰻と相場が決まっていそうだが、お千代保
稲荷の参道には鯰の蒲焼を売りにしている食堂が何軒かあ
る。鯰という珍しさもあって作者も家苞にしたのだろうが、
実際のところ、大きな割りには肉が少なく、したがって食
べるところが鰻と比べて少ない。味も淡白だ。ただただ珍
しいということで家人が喜ぶことも確かだ。「鯰一本」とい
う言い方がべらんめいで楽しい。

しまなみの架け橋 中井光瞬  青竹集・翠竹集作品鑑賞

室生寺に端居して聴く午後の風   湯本 明子
端居と言う季語は俳句の国日本でしか表現出来ない、心身
の休憩ではないでしょうか。美しき日本の四季の中にいて、
雨の多い女人高野、室生寺の一角で身体を休めています。室
生寺は七百年代に造営された興福寺、延暦寺と縁の深いお寺
です。訪れた人の我欲などたちまちに取り払えるほどの、山
岳密教的な場所です。作者は奥の院まで行かれたのでしょう
か。急坂に四百段の階段、心身無にならなければ辿り着けな
い、懸造の位牌堂にある木椅子の休憩所の風は、せせらぎの
音を消して風だけがねぎらう様に登ってきます。室生寺の近
くの長谷寺も四百段の階段があり、足腰が元気な内にお参り
したいものです。万言の言葉より実感句は強く心に残ります。
信楽の甕に目覚むるひつじ草   新部とし子
信楽焼きは中世に壺 甕等を窖窯で焼いていましたが茶道
が発展し当時の文化人によって広められました。狸は明治に
入ってからです。近畿地方を中心に出土している大きな甕は
この頃の物であると思われます。茶の湯の流れを汲む素朴な
甕に、何年咲き続けているのわからない未草は、貴族のよう
に清楚で可憐な花であるだけに辺りの空気を凛とします。
春の雪鯖街道に長靴屋   成瀬マスミ
若狭街道の熊川宿は琵琶湖に抜ける山峡の中ほどにあり、
雨も多く昔は鯖街道の宿として賑わいました。若狭で獲れた
魚に塩を一振りして、一昼夜かけて京へ運ぶと丁度良い塩加
減になっていたという、健脚自慢の集まる宿です。街の靴屋
さんから長靴は姿を消し、日曜雑貨の店に追いやられました
が、地域によってはまだまだ充実しています。春の最後の雪
が降ればこれから気温も上昇し、昔は元気さを売り物にした
人達の足の見せ所の季節となって来ます。鯖街道の春の雪が、
熊川宿の近代洋風資料館を、百様の思いで包んでいます。
代名詞ばかりの会話山笑ふ   高柳由利子
指示代名詞のこれ それ あれを笑って捉えるか、学問的
に捉えるか、何とも言えない諧謔性のある句です。一人称が
「これ」と言えば二人称は「それそれ」と答え、三人称は「あー
あれね」とすべての事物を指して話します。作者は今まで句
材に対して真正面から捉える方だと思っていましたが、変化
球が来ました。代名詞でも心が通じれば日々の一瞬が光りま
す。老いて行く大事な一コマに作者の気合いが入ります。
母であることの重きを母の日に   茂原 淳子
この世の母の位置付けを改めて知り、女としての幸せを脳
よりも自己の肉体に感じます。一升瓶には一升の水しか入り
ませんが俳句の言葉にはそれプラス余韻 余情があり作者の
重き心があります。母親になって知る母の有り難さ、母の重
大さを母の日に、母に尽くして初めて知ります。自省を肯定
的に捉えた句で、母と子の情がリアルに伝わって来る句です。
訪ふ家は交番の横柚子の花   重留 香苗
はっと何かに気付いたようにハートに小さな笑みが残りま
す。以前は駐在所でしたが今は交番です。無形の安心力が伝
わって肩の力が抜けて来ます。現在の住宅事情は団地造成に
より、真四角に土地を整形してどの家も同じ様な形で目印は
ありません。昔の家並は不揃いで地図を書いて貰って訪ねた
ものです。また柚子は「柚子の大馬鹿十八年」と言われるよ
うに種子からですと花咲くまでに年数がかかり、棘がある木
なので家の敷地内には植えず、少し離して植えたものです。
一読で流しても再読すれば町屋の名残りが蘇る佳句です。
簗番の前に大きな台秤   今井 和子
句作りの対象物に動きのある物とない物があります。しか
しこの台秤は正面にでんと控えておりながら、いかにも今、
使用するかの如く針の動きが隠れています。簗は各河川の漁
業組合の方々が管理されて、山峡の町の経済にも影響を及ぼ
します。豊漁であれば他地域への出荷もあり、台秤の針は入
れ物の重さ分だけマイナスにされていて濁声と共に計ります。
子の知らぬほろ苦き味土筆食む   岩瀬うえの
自然は皆それなりの働きを持ち、人間に対峙しています。
一握りの野の土筆を家に持って帰って、袴を取り茹でると、
一箸ほどの苦き味が口に広がります。その瞬間に土筆は春を
もたらす大人の味になります。物が溢れ一見豊かそうな街の
暮らしですが、宝の山の自然に愛情を注ぎ野に出て、芹 蕗
の薹 たらの芽等今の子に無縁な味覚を採取し、母として教
えて欲しいものです。親子にだけ解る空気感が充満します。
麦飯や鬼城の一句天に在り   金子あきゑ
若竹も区切りの千号が過ぎ、鬼城先生は天から喜んでいただ
けたでしょうか。又、天の一句はどの句を披露していただける
のでしょうか。興味深々です。紙一枚、ノート一冊が貴重な時
代から先生の下に馳せ参じ、句と共に泣いて笑って次世代へと
繋いでゆく俳誌は他に類を見ません。これからは包容力のある
大きな背中の、加古主宰に導かれて牧野同人を筆頭に、同人全
員また次世代へと引き継いで参りたいものです。

一句一会  川嵜昭典

春山の深みへ歩み進めけり   金久美智子
(『俳壇』六月号「雨二夜」より)
「春山」の本意は、そわそわと、また生き生きと生命感に
満ちた山のことである。その春山の「深み」へ歩を進めると
いうことは、すなわち、目で見、感じる春の動きを超えて、
人の力の及ばないような、生命そのものの懐に飛び込むとい
うことだ。言ってみれば、本来、人が触れてはならないよう
な、春山の生命そのものの秘密に触れようとすることだ。作
者は春山の生命力を感じるだけではなく、春山の生命そのも
のに触れようとしている。「雨二夜」十句には、この句の次に、
「山神の遺せし花か盛りなり」という句が置かれている。春
山の「深み」へ歩を進めた結果、山神の秘密を垣間見てしまっ
たかもしれない、ということだろうか。
背もたれが隔てる男女夏近し   堀米 義嗣
(『俳壇』六月号「曲線」より)
この句には、「男女」は男女としか書かれておらず、それ
以上の情報はない。男女の年齢も、関係性も、全て読者の想
像に委ねられている。夏が繁栄の季節だとすれば、異性を、
性差を最も意識するのは夏ということになる。その男女の違
いをくっきりと表現しているのが「隔て」であり、来るべき
夏の、男女の性のエネルギーを十分に表している。「夏近し」
という季節からは、若い男女を想像したくなるが、若かろう
がそうでなかろうが、いつまでも男女は男女なのだろうと思
う。
夏蝶の己忘るる高さかな   池田琴線女
(『俳句』六月号「蛍の夜」より)
「己忘るる」とは、夏蝶と作者と、どちらなのだろう、と
思う。「夏蝶の」の「の」は、「が」の意味に取れるので、文
法通り考えれば、夏蝶が我を忘れたかのように高く舞い上
がっている、という意味だろう。しかし文法通りに行かない
のが詩の良いところであって、声に出して「夏蝶の」で、一
旦小休止をとって読み上げてみると、夏蝶を見た作者が、カ
メラが急に反転したかのように、自身を急に顧みているよう
にも読める。すなわち、我を忘れて舞い上がっている蝶に自
信を投影して、作者自身も、舞い上がっているように感じて
いると取れるのだ。「夏蝶の」の後で、作者は急に、蝶を見
る目から、蝶自身の眼に移り、作者が空を飛んでゆく。この
視点の急激な変化が面白いと思う。
雲の峰崩るるように立ち上がる   山田 佳乃
(『俳句四季』七月号 季語を詠むより)
「崩るるように」という表現に驚く。雲はいつも柔らかく、
ふわふわと浮かんでいるように思うが、この句から感じられ
るのは、むしろ雲の固さと繊細さだ。作者は雲の峰を見上げ
たとき、その雄大さの内に潜む、脆く、壊れやすい雲の一面
を感じ、まるでガラス細工のように慈しむ。そしてその壊れ
やすいものが幾層にも重なる様子を「立ち上がる」と表現し
ている。大人になると、どうしても常識という名の偏見で物
事を見、処理してしまう。雲も、そもそも柔らかい、という
目で見てしまう。常に心を新鮮に保ちたいと思う。
風鈴のほかは加へず母の部屋   柴田佐知子
(『俳句界』七月号「青簾」より)
これも一つの、夏を迎える準備だろう。しかしそれは、来
たるべき暑さに対抗するための、具体的な準備というよりは、
今年の夏も恙なく迎えられるという、精神的な安心感を得る
ための準備だ。大切な人の声を聞くと安心できるように、今
年もいつもの風鈴を取り出せるという安心感。何も変わらな
い母の部屋へ、たった一つ、季節のものを加える。それだけ
で、その日から日常が、いつもの夏になる。句の中に、風鈴
の音だけが響いている。
いつからか人の匂いの夏日かな   渡辺誠一郎
(『俳句』七月号「草木」より)
春や秋は、その周りの自然や物音から季節を感じることが
多いが、周りの人からも季節を感じられるのが、夏の特徴だ
と思う。掲句。春は目から、秋は耳から知るものとすれば、
夏は鼻から知る。「匂い」という、生々しさこそが夏であり、
生きている証拠だ。春と夏との境目を、鼻で感じ、街を歩く
作者の姿に共感を覚える。
真昼間は立てて置くなり竹婦人   今瀬 剛一
(『俳壇』七月号「大和男」より)
「真昼間」「立てて」など、竹婦人の本来の機能とは逆の意
味の言葉を並べることが面白く、かえって竹婦人とは何ぞや、
という想像が働く句。季語の本意の裏を突いている。几帳面
にも竹婦人を立てて置いておくことで、その持ち主の人とな
りや、その日の過ごし方までもが分かるように思えるから不
思議だ。心から感動する俳句も素敵だが、このような、少し
くすっとするような、日常に寄り添ってくれる俳句もとても
素敵だ。