No.1022 平成29年6月号

流 水 抄   加古宗也

鹿垣に流す電流涅槃西風
涅槃図の金糸銀糸の綾をなす
長浜
盆梅の一隅に座し茶を喫す
皮一枚あれば咲かせて神の梅
梅東風や回廊に敷く緋毛氈
梅東風や触れて親しき山羊の髭

昼時や阿弥陀籤引く鮑海女
春の香をたて製材の鉋屑
抱く刹那ゴム風船のはじけけり
釈迦の鼻糞新聞に包みくれ
三粒ほど釈迦の鼻糞ポケットに
涅槃会や転読僧の青つむり
百僧のひれ伏すことも常楽会
除染進まず皮固き草の餅
囀や路地奥にあるパンの店

真珠抄六月号より珠玉三十句 加古宗也推薦

暖かや古代文字にも上手下手        平井  香
草餅の黄粉のつきし句帳かな        岡田 季男
花曇ラクダは並べて無表情         風間 和雄
鷹鳩に化して鴉に追はれけり        田口 風子
閼伽桶を提げて見てゐる初桜        高橋より子
春塵や古代文字解く眼鏡拭く        鈴木 玲子
地下足袋の媼土雛担ぎ来し         久野 弘子
白鳥の踏みゐし岸辺草青む         堀口 忠男
ときどきは雲にも遊び春の鴨        水野 幸子
逢ひにゆくミモザの花をひとかかえ     大澤 萌衣

詩を一つ卒業の子に選びけり        烏野かつよ
亀鳴くや鉋で削る和蝋燭          山田 和男
白木蓮ひそかに青味がかりけり       髙相 光穂
行く春や器具の古びし外科愛す       東浦津也子
葬終えて明日のパン買ふ春の夜       磯村 通子
はだれ野や震災復興遅速あり        石崎 白泉
春寒を来て僧坊と尼坊跡          新部とし子
春雨や火山の島の石畳           荒川 洋子
春めくや生掛けの蝋のうす緑        嶺  教子
入院は何時まで桜散りにけり        筒井 万司

疑へば募る哀しさ白木蓮          小川 洋子
満開の木蓮空を支へけり          加藤 久子
春の雨猪のぬた場に溜りゐる        西浦  優
水温み亀の子ダワシもらいけり       大溪うつぎ
引きたての横断歩道風光る         春山  泉
デジタルの時計合はせる日永かな      高濱 聡光
驢馬眠るばかりや春が淋しいか       成瀬マスミ
彼岸西風波打ち際に夫を連れ        岡田由美子
雲雀鳴く畑の中のクリニック        神谷つた子
春うららイズモ・ラ・ルージュてふチーズ  原田 弘子

選後余滴  加古宗也

詩を一つ卒業の子に選びけり   烏野かつよ
卒業を迎えた子に詩の一篇を選んだかつよさん。詩をくちず
さむこと、詩を語ること、あるいは詩を作ることは人生最高の
時間だといっていい。俳人であるあなたにして子のために詩を
選ぶ、あるいは詩等を選ぶ心があるかといえば、はっとして後
ずさりをしてしまう人が多いのではないか、と危惧してしまう。
「唇にうたを持て」とは誰れの詩だったろうか。掲出句を読み
ながら、あらためて詩のある暮しについて、静かに考えてみた
い。あなたもそうしてほしい。

春夕焼けため息橋をくぐる恋   大澤 萌衣
イタリア・ベネツィアの古城の中に溜め息橋と俗称される石
橋がある。つまり、その石橋の先は牢獄で、一度その橋を渡っ
たら、奇蹟が起きないかぎり二度ともとには戻れない。囚人は
その橋の半ばにさしかかると例外なく歩を止め、ふうっと深い
溜息をついたと伝えられている。恋をしたために、溜息橋を渡
ることになってしまったのだろうか。明かり窓から差し込む夕
焼けが恋のすさまじさを伝えている。

草餅の黄粉のつきし句帳かな   岡田 秀男
縁側で草餅をつまみながら句作にふけったというのだろう。
作句の仕方も、人によってそれぞれだが、俳人として最もぜい
たくなスタイルといっても過言ではない。つまり、作者にとっ
て、最も至福の時間を過ごしているのだから。黄粉はいったん
付くとなかなか取れない。午後からは句会、草餅を食べながら
の句作であったことが句友にばれてしまう。その時は、これは
ちと恥ずかしいぞ、と思ったが、ふと思い返してみると、こん
な上質な俳味の溢れた句はそうそうできまい、とうそぶいてみ
たのだ。

白鳥の踏みゐし岸辺草青む   堀口 忠男
白鳥は何羽か群をなして飛来し、春になると群れをなして北
へ帰る。岸辺にあがって羽撃く姿は、青い水の上に漂う白鳥と
は違った美しい光景をつくり出す。白鳥に目をやっているとき、
ふと岸辺の草が青み始めていることに気づいた、というのだろ
う。それは直ちに白鳥の北帰行の近いことを示唆する光景であ
り、ふとある思いが胸を過る。白鳥の白、草の青、大地の黒。
さらにいえば、面と線がシンプルでありながら、絶妙なバラン
スで配されることによって、心地よい映像を静かに生み出して
いる。

鷹鳩に化して鴉に追はれけり   田口 風子
「鷹化して鳩と為る」という季語を少し縮めて、「鷹化して鳩
に」という使い方をする。七十二候の一つで、啓蟄の第三候に
当たる。つまり、二十四節気をそれぞれ三つに分けて七十二候
としたもので、「鷹鳩に化し」は啓蟄の頃の季節と考えればよい。
鷹といえば猛禽類中の猛禽類。鳥の王様という感じだが、それ
が啓蟄の頃となると急に鳩のようにおとなしくなる。というの
だ。さらに、それが鴉にまで追はれた、といっているところが
俳諧だ。じつは、先日、三河湾を望む三ヶ根山に遊んだとき、
鴉が大きな野鼠に喰いついて捕食しているのを見た。鴉もまぎ
れなく猛禽類だった。

花曇ラクダは並べて無表情   風間 和雄
「ラクダは並べて無表情」といわれて、なるほどと合点した。
ライオンや虎、犬などは威嚇の表情をするが、ラクダにはそれ
が無いような気がする。それはあくまで「気がする」で、ひょっ
として、時には怒りの表情をすることがあるのかもしれない。
それを「並べて」と言いとったところが絶妙で「花曇」という
季語がぴたりと呼応している。

閼伽桶を提げて見てゐる初桜   高橋より子
墓参りに出かけたときの一句で、それもこれから墓に参る途
次なのだろう。初桜に目が止まって、自ずと歩が止まったのだ。
閼伽桶には無論、水が満たされており、かなり重いはずなのだ
が、そんなこともふと忘れて足を止めた。日本人の桜好きは格
別なのかもしれないが、初桜は発見したとたんに金縛りにあっ
てしまうような衝撃力を持っている。さらにいえば墓参りの途
次というところに作者の心根の美しさが見て取れて心が洗われ
る。

行く春や器具の古びし外科愛す   東浦津世子
「医は仁術」。最新医療機器がびっしり詰まった総合病院はた
しかに医療の最先端というべきなのだろうが、どうも好きにな
れない。やはり町医者がいい。外科に至っては、少々錆びかかっ
た鋏、いかにも切れなさそうなメス、そんなものに安心をおぼ
えてしまう。アナログ人間はとかく馬鹿にされるが、高度なテ
クノロジーによって失ったものも大きい。

デジタルの時計合わせる日永かな   高濱 聡光
私など、円の中に文字盤がある時計でないとどうも落着かな
い。進んだ時間と残りの時間を一目で把握してこそ安心するた
ちなのだ。デジタルは私にとっては闇の世界だ。

雲雀鳴く畑の中のクリニック   神谷つた子
まるでメルヘンの世界のよう。しかも、健康的で明るい。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(四月号より)

菊焚くや静かな火照りほつほつと   小川 洋子
菊を焚く火は黄泉へとつながる火。菊を焚くのはもう枯れ
ているから。唯、茎や下の方の葉は枯れて乾いていても、花
の一部はまだ色を留め、その終焉はなかなか見極めがたいも
の。命が果てるまでには、まだ名残りの息があり、焚く火の
中に花の色も見え隠れしているのかもしれません。深まりゆ
く冬の中、辺りは少しずつ熱を帯び見守る作者にも大地にも
火照りを与えています。「ほつほつと」とは、少しずつゆっ
くり炎が巻いていく様子のようにも、また時折ぽつぽつと明
るくなる焔の感じのようにも思われます。焚かれる菊の匂い
が記憶の底を呼び覚まし、思い出が蘇ってくるような一句で
す。

濁し手を両手に包む霜の朝   小林 泰子
濁し手は米汁手とも書き、米のとぎ汁のような乳白色の磁
器。江戸時代、採算が取れず一度は途絶えたものの、十二代
柿右衛門が甦らせ、赤がより際立つ余白の美としても夙に知
られています。その大切な器を両の手のひらに包んで、寒い
朝なのでしょう。外には霜が降りています。全てを覆う真っ
白な雪の朝ではなく、うっすら白いベールがかかったような
霜の朝。白という色の無限の魅力を感じる作品です。

まんさくや水音ぬるみ紐をとく   甲斐 礼子
金縷梅の名は、花のない山中にあってまず咲く、まんず咲
くからとも、豊年満作に見立てつけられたからとも、諸説あ
るようです。掲句はまさに縮れた花が枝に手足を伸ばしたよ
うに咲く様子を言い留めたもの。まだ辺りには寒気が残る中、
川を流れる水音に、いち早く春の柔らかさを感じたのでしょ
う。結句「紐をとく」に作者持ち前の明るさと、春の到来を
迎える喜ばしい気持ちが伝わります。

蝋梅や弾かれぬままにピアノ古る   髙橋より子
この冬、花の香に悶絶しました。(しそうになりました。)
数日ぶりに山の家を開けた途端です。投げ入れの蝋梅でした。
掲句を一読、季語のもつ馥郁たるかおりに、ピアノがかつて
奏でていたであろうメロディーラインを思いました。今はも
う弾かれることもなくなったピアノ。そこには家族の歴史も
あるでしょう。久しく調律もされず、白鍵の色も黄ばみ始め
ているかもしれません。けれど蓋の中で、キーのなめらかな
艶は保たれています。鍵盤の艶と蝋梅の花の光沢。作者が遠
い日に聞いた調べと同じように、窓を開け風を入れると、そ
のかぐわしい香りも風に流されていきました。

信長塀に添ふ痩身の黒コート   池田あや美
痩身の黒コートとはなんてスタイリッシュ。まさに粋好み。
翻る裾が見えるようです。信長塀は、信長が桶狭間の戦いで
勝利したお礼に熱田神宮へ寄進した築地塀。土と石灰に瓦を
積み重ねたミルフィーユのような塀です。今も実際に手で、
直に触れることができます。信長は三大英傑の中でも、斬新
な発想と改革の大胆不敵な天下人。黒のハードなロングコー
トが似合いそうです。つい、現代の信長と、男性を想像して
しまいましたが、添う意から女性の姿と受け取ってもまた、
素敵です。中七のソウの畳みかける音のリズムと「黒コート」
のきっぱりとした体言止めが句の立ち姿をすっきりとしたも
のにしています。歴史的建造物から人物へ、さらに現代へと、
時の流れを遡り、想像の広がる秀句です。

春水や猫桃色の舌で舐む   市川 栄司
春の水のもつなめらかな柔らかさ。掲句は、やの切れによ
り、いっそう詠嘆の意が強調されています。さらに猫の舌の
色という着眼のよろしさ。猫は舌で水をすくうのではなく、
裏側に舌を巻きこみ、引っ張り上げるようにして水を飲むそ
うです。ここでは、飲むではなくて、舐む。その舌の先が、
春光のあたる水面に伸びて、ぴちゃぴちゃ少し音も聞こえる
かもしれません。猫のもつ気ままさや体のしなやかさ、猫の
舌の明るさ。春水の季語に猫の柔らかさが膨らむ佳句です。

三寒の二の腕四温のひざがしら   桑山 撫子
三寒四温の季語は三寒と四温を別々に独立させても、一句
の中に組み合わせても、それぞれに使うことができる季語で
す。掲句は体の一部を季語と組み合わせた対句表現。気温は
もちろん、光や風など季節の少しずつの移ろいを体感温度と
して身の内に感じているのでしょう。ここしばらくの肌寒さ
に二の腕をさすったり、またこのところの暖かさに膝頭をな
でたり。かしらを一番上の意をもつ言葉ととらえれば、一か
ら四まで入り、数の上でもまたおもしろい一句です。

豆撒きの豆に当るも福の内   浅井 靜子
一読、何だかクスッとして、そして、しばらくしてその包
容力の大きさに気づかされた一句。邪気を払う豆撒きの豆に
当たった作者。当てられたのか当たったのか、特にそんなこ
とは構わないのです。どちらにしても当たったのなら、この
身に引き受けましょう、という気概。「福は内」ではなくて「福
の内」。大らかに受け止める姿勢は頼もしくさえ感じられま
す。当たらず障らずなんておもしろくない。もうそこまで春
が来ている時期、何か新しいことに挑戦する気力を与えてく
れる作品です。

俳句常夜灯  堀田朋子

蕨狩やがて蕨に採らさるる   堀本 裕樹
(『角川俳句』四月号「啖呵」より)
こんな句に出会うと心底楽しくなる。蕨狩と人間の本質を
軽妙に言い当てた句だ。手は一本の蕨を手折りながら、目は
次なる一本を見定めている。山の神様が微笑んだのか、蕨が
次々と誘い顔で迫って来る。こんな時は、太古の狩猟採集生
活で刻まれた遺伝子が喜ぶのである。やがて籠いっぱいの収
穫を得て家路に着く。ふと夢中になっていた自分を振り返り
〝採らされていたのだな〟と笑みが零れる。そして、収穫の
喜びに酔わせてくれた山の神様への感謝も湧いてくるのだ。
人間は可愛いと思わせていただいた句です。

朧夜へ花屋の明り溢れだす   河原地英武
(『角川俳句』四月号「夜叉神」より)
この句には、色がある、香りがある、明りと暗がりがあり、
湿りがある。「朧夜」は朧に霞んだ春の月を頂いた夜。そん
な月の下には柔らかで甘い不確実さが満ち満ちている。それ
が私達に想像力の翼を与えてくれるのだ。この句の世界に存
在するであろう花屋の店主や花を求めに来た客が背負ってい
るドラマを、読み手の心の状態によって様々にイメージさせ
てくれる。二人の短い会話さえ聞こえてくるようだ。
誰しもが思い思いに世界を作りあげることができる句だ。
「朧夜」という季語が日本人の心を刺激してやまない。

みづうみの芯照りだして蘖ゆる   対中いずみ
(『俳壇』四月号「棒と渦巻き」より)
「蘖ゆる」には生命の再生がある。切り倒された木の根元
や切り株から萌え出る芽には、健気な柔らかさと次の命を信
じる逞しさが宿っている。自然と応援したくなる。自然界の
命を司る神々も同じ気持ちなのだろう。みづうみの水面に光
を反射させて、小さな芽の芯を照らし出している。慈しんで
いる。句の奥に神々のまなざしを感じ取ることができる。
眼前の景をそのままに詠むことで、句は深淵を見せるのだ
と改めて実感させていただいた。神々の生きとし生けるもの
への祝福を詠まれたのだろう。

花筏ゆるりと時の組みかはる   清水 和代
(『俳句四季』四月号より)
とても繊細な句。「組みかはる」のは「花筏」だ。けれど、
「時の組みかはる」と表現することで、時の業が一層際立っ
てくる。時はまた、原因と結果をも演出する。微かな水流と
風によって、花びらの一片一片が触れ合い押し合って形を変
えてゆく花筏。一瞬とて同じ形はない。世の現象のあらゆる
ものは、時という一方通行の摂理に掌握されているのだなと、
しみじみ思わせられる。いわんや人もまたその掌中にある。
我が身に起こるすべてのことを、まるで組み変わる花筏の
ように美しく捉えて、「ゆるりと」暮らしておられる作者の
心境が、読み手の心に沁みてくる。

野火の香や北斗七星宙ぶらりん   下鉢 清子
(『俳壇』四月号「水いろの雨」より)
一句に野火のあとの懐かしい香りが満ちている。夜空には
星々が輝き始めた。けれど地上にはまだ、野火の香りと温も
りが色濃く残っている。鎮火を確信して人影はない。見上げ
れば北斗七星が、まるで天空の掛け金に吊るされたかのよう
に瞬いている。北斗七星は、言わずと知れた柄杓の形。
「宙ぶらりん」という修辞には俳味と面白さがある。さっき
まで使用されていたかのように、僅かに揺れているようにも
感じられてくるから面白い。きっと鎮火にも一役かってくれ
たに違いない。
柄杓を使ったのはどなた?そんな楽しい句だ。

沐浴の痩躯冬日をしたたらす   中原 道夫
(『角川俳句』四月号「妄執の櫂」より)
インドにて詠まれた三十六句中の一句。全句がヒンドゥー
教徒にとっての聖なる河・ガンジス河畔に身を置かれて詠ま
れている。死を上手に隠された国に生きている者には、驚愕
の光景に違いない。眼前の一瞬一瞬を焦点の真中に据えて詠
み止めようとする作者の気合が迫って来る。しかし、テーマ
は深く重いものなのに、句に気負いはない。掲句にも、冬日
の煌めきが花びらのように纏っている。句は感動を詠むもの
だが、感動に呑まれては詠めないものなのかも知れない。
河畔の火葬場には、私達が思うほど悲愴感はないという。
火葬は魂の開放であり、骨灰を流すのは死者にとって最高の
幸せなのだ。沐浴もまた罪を浄めるためのものだ。死の色濃
き地にいて、返って、牛や犬をも含めた生きる者の持つ輝き
と逞しさを見止められた、そんな三十六句だと思う。

そこまでは行けぬと椿落ちにけり   佐藤 麻績
(『俳句四季』四月号「栄螺」より)
椿の散り方は、まさに落ちると形容されるのに相応しい。
作者は、落椿の落ちざまを〝最後の断念〟と感じ取られたの
だろう。中には木の元から随分離れたところに落ちた一花を
見ることがある。まるで、何かを誰かを追って追って、つい
に追い切れずに諦めた落椿。気持ちの限りを尽くした落椿に
は、一層の切なさがある。
掲句には、落椿に自らの心象を重ねたというよりも、落椿
そのものになられた作者が感じられる。