語りつぐ言葉の閑や汗を拭く うしほ
大足蛇車祭(おおあしじゃぐるままつり)
蛇車とは、山車のこと、愛知県武豊町の豊石神社では町内を引き回された出車が神社へ入って、午後 7 時頃から花火が実施される。そのひとつ「蛇の口花火」は本殿前に引き出された山車の上で行われ、竜の口になぞらえた手筒花火が山車の上で左右に大きく振り回され壮観である(写真)。 7 月の第 3 土曜日と日曜日に行なわれる。所在地・武豊町神戸・豊石神社。JR武豊線武豊駅から徒歩 7 分。問合せ ☎ 0569-72-1111 武豊町役場。写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風
流 水 抄 加古宗也
義朝の敝死(たお)れし湯殿寒鴉鳴く
寒晴れの鐘楼門に忘れ鎌
高井戸にいまも水湧き冬の梅
笹鳴きや光悦垣の大うねり
尾﨑士郎記念館
一布衣とうそぶく男瓢々忌
早稲田から寄贈の梅のふふみけり
甲斐さんを偲べば余寒とどこほる
自衛隊演習場
梅が香を断ち空砲のつづけざま
出囃子の聞こえ大須の春確か
紙風船突いて富山の薬売り
打ち返す怒涛水仙岬とも
渡船場に猫の集まる目張東風
料峭や南木曽娘の南木曽猫
(註)南木曽猫=ちやんちやんこ
草餅や太き鼻緒のねずこ下駄
堰板を落とし水菜を洗ひけり
紅梅と同じ高さに猫眠る
春の街爺は印伝袋提げ
アネモネの紫匂ひ四旬節
春泥を来て猪肉の味噌仕立
料峭や猪の皮干す雛の茶屋
雛の歌流し中馬のバス通り
雛の日の馬籠摂待水溢れ
雛の日のちんげんさいに味噌少し
股座の炭火にあぶる草の餅
臍の上にかかへて桜草の鉢
残雪や苦汁小屋立つ峠道
春灯の淡しマチスのパステル画
ピアノ弾くはいつもマドンナ卒業歌
武相荘
武蔵野の端の一戸やきぶし咲く
春点前梅花皮(かいらぎ)は掌に心地よし
寄せてすぐ引く白波や桜貝
鰆東風吹く底曵きの網大工
寄居虫の宿を移せる忘れ潮
知多尾張高野山二句
弘法の縁日と云ひ葱の苗
もんぺよく似合ひし婆や春子売る
噛むほどに甘き石蓴を摘みくれし
真珠抄七月号より珠玉三十句 加古宗也推薦
立てば背の高き教師や麦は黄に 田口 茉於
湖明り植田明りや蓮如輿 今井 和子
ベルリンの壁に落書き春兆す 大澤 萌衣
サックスのファが鳴る茅花流しかな 川嵜 昭典
髪切つて蝶舞はせたる少女かな 荒川 洋子
馬刀貝漁さそいの塩は妻の役 岡田 季男
五月くる間伐材の椅子つくえ 中村 光児
鳴かぬ鳥も数多いるらし木下闇 竹原多枝子
赤ポストなくなつてゐる四月かな 田口 風子
夕刊のうすき月曜薔薇に雨 丹波美代子
麦秋や軽々こなす逆上がり 服部くらら
古茶新茶主婦の座未だかはりなし 石川 茜
母の日の宅配ネイルしたところ 今泉かの子
藤すでに散り敷く円空入定地 阿知波裕子
同胞の新樹あかりにかたまれる 酒井 英子
城支ふ通し柱に触れて夏至 江川 貞代
麦秋や街中にある一枚田 牧野 暁行
五月の蚊しつかり詠めと刺しまくる 勝山 伸子
寿(いのちなが)句集の成りて暮の春 鈴木 帰心
薫風や僧侶と座る講義室 春山 泉
鉄人は鉄人のまま春惜しむ 高柳由利子
リハビリを済ませし夫に柏餅 稲垣 まき
樟若葉郷社で受ける古稀算賀 山田 和男
飛火野に下の禰宜道馬酔木咲く 奥村 頼子
母の日や照れて差し出すぽち袋 江口すま子
春深し太刀の目貫に花の彫り 清水ヤイ子
筍流しや底深き薬研堀 石崎 白泉
戦争と平和を生きてみどりの日 三矢らく子
蛇口から水飲む園児夏めけり 重留 香苗
夏鳥の溜息聞こゆ八ツ場ダム 堀口 忠男
選後余滴 加古宗也
筍流しや底深き薬研堀 石崎 白泉
「薬研(やげん)」とは主に漢方薬の薬種を粉にするときに使う道具で、金属あるいは硬い木でできている。舟形をしており、その深
いところに薬種を入れ、円盤型の軸のついた道具で、ごしご
ししごいて粉にする。つまり、薬研堀とは、薬研のようにV
字型に深く掘られた堀で、敵の侵入を防ぐのに効果がある。「筍
流し」とは竹が皮を脱ぐ前に思い切り伸び切り、親竹と肩を
並べる頃に吹く風のことで、大きく揺れる姿は美しい。堀端
に立って、戦国時代に思いを馳せていたのだろう。ちなみに、
私も薬研が大好きで、骨董市で見つけたやや小型のものを、
キーボードの上に置いて楽しんでいる。
サックスのファが鳴る茅花流しかな 川嵜 昭典
作者はフルートの奏者で、音楽にはかなりのめり込んだ時
期があったようだ。サックスは音にかなりの広がりとふくら
みのある楽器だが、そこから生まれる音の中でも「ファ」は
特別。ドレミファの「ファ」なのだ。茅花流しのボリューム
とぴったり息が合う。
リハビリを済ませし夫に柏餅 稲垣 まき
身体能力を回復させるためにはリハビリを欠かすことはで
きない。しかしながら、リハビリの辛さは、ときに言語を絶
することもある。それに堪えたご褒美に柏餅を、の措辞には、
美しい母性が迸っている。
夕刊のうすき月曜薔薇に雨 丹波美代子
月曜日に夕刊がどうして薄いのか。あまり、それを気にす
る人も多くはないが、そういわれてみると確かに薄い。いろ
いろ思いをめぐらしてみるのに、前日の日曜日は記者も編集
部も印刷部も多くの人たちが休暇を取っているのだ。普段な
ら前日の工程の中に翌日の夕刊の何ページかの作業が済んで
いるのだ。薔薇もたっぷり雨をいただいて休息してこそ元気
に美しい花を咲かせてくれるのだ。
茅花咲く海部の島の古墳群 渡邉たけし
「海部の島」とは三河湾に浮かぶ佐久島のことだそうだ。島
の何か所かにいまも古墳の跡が残されており、ことに島の中
央部に当たる小高いところには小型だがまさに古墳群と呼ぶ
にふさわしいところがある。佐久島は古墳時代には早く豪族
の重要な拠点の一つであったことを物語っている。初夏には
古墳とその周辺は白い毛皮のコートを着たように茅花が一面
に穂をなびかせている。茅花はどこか原始時代を象徴するよ
うな植物だ。
五月来る間伐材の椅子つくえ 中村 光児
杉や桧は間伐をしないと山が荒れる。逆に間伐することで
良質の建築用材を得ることができる。ところが、戦後の杉・
桧の山は乱伐によって荒れ禿山がいたるところに出現した。
禿山は治山治水の上からよろしくないと、一時期植林事業が
活発化したが、その頃から輸入材がどっと日本に入ってくる
ようになった。良材を育てるには間伐は無論のこと、いつも
山の管理を凝らないことが肝要だ。そこで再び、採算の問題
が浮上して山が放置された。そして、現在、採算割を覚悟で
間伐材の利用など山を守ろうという村落がいくつが出てきた。
間伐材を使った椅子つくえに触れ、何ともうれしくなった作
者なのだ。折りしも新緑の季節。
麦秋や軽々こなす逆上がり 服部くらら
運動能力のかなり高い子供でも、こと鉄棒ということにな
るとそうはいかない子供が多い。小学生時代の体育の授業で
最初にぶつかる壁が逆あがりだ。作者が鉄棒を今も軽々こな
すのか、あるいは、軽々こなす子供を見て、鉄棒に苦労した
経験を思い出しているのか。「麦秋」は人間に予想以上の力を
くれる季節なのだ。
母の日の宅配ネイルしたところ 今泉かの子
宅配は娘さんからの「母の日」のプレゼントだろうか。宅
配を受け取りに出なくては、と焦るが「ネイルしたところ」。
この慌てぶりが、なんとも作者らしく可愛い。
五月の蚊しつかり詠めと刺しまくる 勝山 伸子
作者は、ざっくばらんに心情を吐露することのできる俳人
だ。六月号の同人紹介でも、率直にいまの思いを語り胸を打っ
た。「刺しまくる」まではなかなか言えそうで言えない。
戦争と平和を生きてみどりの日 三矢らく子
かつて「激動の昭和」という言葉が盛んに使われたが、そ
れは「戦争」と「高度経済成長」を軸に語られる。そして、
その一つの縦糸が昭和天皇の存在だろう。作者も昭和を生き
抜いてきた卓人の一人である。「みどりの日」はその昔には「天
皇誕生日」だった。天皇もまた「戦争」と「象徴」に翻弄さ
れた生涯だったと思われる。
赤ポストなくなつてゐる四月かな 田口 風子
あるはずの赤ポストがない。四月は年度初めではあるが、
赤ポストがなくなるとはどういうことか。
竹林のせせらぎ 今泉かの子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(五月号より)
笛失せてなほ構へゐる囃子雛 髙橋 冬竹
女の子の成長と幸せを祈るひな祭の雛人形。人形のもつ太
鼓や小鼓はお囃子の大切な道具ですが、その笛が、長い歳月
の間に失われてしまったのでしょう。吹く笛がなくとも、そ
の姿勢をとり続けている人形に、作者はそこはかとない、も
ののあわれを感じたのでしょうか。五人囃子の笛方の姿に、
春灯がやわらかい影を落としています。
新聞は山となりけり春炬燵 関口 一秀
この新聞はもうすでに読み終わった新聞。片付けるべく、
定位置へ持っていくなり、紐でくくるなり、そろそろかたを
付ける時期。春炬燵も冬の寒さを過ぎて、日によっては不要
の暖かさの中に置かれています。積まれた新聞の山を前に、
なんとなく手を出せないでいるのでしょう。炬燵の置かれた
くつろぎの空間の中、春のどことなくもの憂い雰囲気と暮ら
しの緩やかさが、一句の中で共鳴しているようです。
三輪車自我強き子に風光る 勝山 伸子
子育てもやさしい子にと願うだけではなく、自分の意見を
きちんと伝えるコミュニケーション能力を求める時代。三輪
車は幼児期数年間の乗り物です。自分という意識が芽生える
第一反抗期にもあたります。日差しが日ごとに強くなってく
る風のきらめく季節と、個性のひかる子どもの成長と。実は
掲句は「一、二、三」と題された、楽しい仕掛けのような連
作の三の句。
頬に指寄す春愁の半跏像 奥村 頼子
半跏像は、台座に腰をおろし、右足を曲げて左足の膝頭に
乗せた半跏趺座の姿。「頬に指寄す」形は思考する姿。半跏
思惟像は、広隆寺の弥勒像や中宮寺の観音像が有名ですが、
何処の古刹でしょうか。頬に指先を向けたたおやかなしぐさ
に、つかみどころのないような春愁を感じ取られたのでしょ
う。しなやかな姿と静かなほほえみの奥にある春の愁い。
啓蟄や寝ぼけ眼で墨をする 井垣 清明
長かった冬を抜け、ようやく訪れた春の気配がなんとも
ユーモラスに表されています。「寝ぼけ眼で墨をする」って、
いったい今から何を始めようというのでしょう。寝ぼけ眼で
大丈夫でしょうか。少しくらいの粗相は、冬ごもりからの解
放感で、許されそうな気配もします。「墨をする」の音から、
「蟄(すごもるむし)戸を啓く」の言い方も引き出され、季
語の斡旋のよろしさが光ります。
春たのし口二つあるミルクパン 岡田つばな
口二つとは、鍋の両側についた二つの注ぎ口のこと。ミル
クパンは、ちょっとした料理やたっぷりのミルクを温めるの
にぴったりの、小ぶりの片手鍋です。一人、二人の暮らしに
は、まこと重宝。この使い勝手のよい手軽さも、手に負担と
ならない軽さも、春たのし。右利きも左利きも、どちらにも
使いやすい春たのしです。
ニライ橋カナイ橋渡る春の午後 清水みな子
ニライカナイとは、沖縄地方で信じられている海のかなた
や海の底にあるとされる理想郷。実際にその名の橋があると
は知りませんでしたが、きっと素晴らしい景観の橋なので
しょう。うらうらとした陽気の春の午後、こんな名前の橋を
渡るという行為に、幾ばくかのスピリチュアルな感じもしま
す。いつかきっと幸運が訪れてくるに違いありません。
手の平にのる目鼻なき紙雛 杉浦 紀子
華やかな節句のお祝いとして飾られているお雛様ではあり
ません。手の平に乗るほどの小ささで、お顔には目も鼻もな
い、紙のお雛さま。それゆえ、日本に古くからあった、人の
穢れや禍いを移す形代の風習に思いが至ります。人の身代わ
りに災いを負う人形(ひとがた)は流したり捨てたりするこ
とで、女児の身の障りや災いを祓います。ささやかなお雛さ
まの形に春のやさしい情趣が漂います。
桜待つ米寿四人のクラス会 吉見 ひで
毎年桜が咲くことを人は楽しみに待ち、花の盛りを愛で、
散りゆく花を惜しんできました。米寿を迎えられためでたさ
に、四人の長きにわたる交流もめでたく、さらに桜の開花を
待つという楽しみも加わり、春の明るさにあふれた一句です。
言ひそびれたる一言や春の雷 鈴木美江子
その場で言い出す機会を失い、言わないでしまった一言が
虫だしの雷ともいわれる春の雷に思い起こされたのでしょう
か。春の雷は夏ほどの激しさはなく、長く続かないとはいえ、
自然の轟きに悔やむような情感が呼び起こされたのでしょう
か。微妙な心の綾を季語の柔らかな読みが受け止めています。
啓蟄やガレのランプの影うごく 渡辺 悦子
エミール・ガレといえば、アール・ヌーボーを代表する作
家として、自然をモチーフにしたガラス工芸で知られていま
す。光に合わせて影が動いたように見えたのでしょうか。そ
れともランプに施された自然の動植物が、まさに命をもつか
の如く一瞬わずかに動いたように見えたのでしょうか。光の
魔術師といわれるガレのマジック。啓蟄の候、春の目覚めに
感応するような力が芸術作品にはあるのかもしれません。
一句一会 川嵜昭典
濡れてゆく人なつかしき春の雨 辻田 克巳
(『俳句四季』四月号より)
思い出の中で、どうしても消せない人、心に残り続ける人
がいる。そのような人は、出会ったときというのを必ずと言っ
ていいほど覚えている。その出会ったときの言葉や表情、風
の匂い、空の色なども含めて、その瞬間は心にずっと留まる。
掲句において作者は、目の前の「濡れてゆく人」を通して、
おそらく別の、心に残る人を思い出したのだろう。その人は
春の若い地面を匂い立たせるような雨とともに、ずっと作者
の心にあり、そしてずっと好きでいるような人なのだろう。
若かりし頃の、春に出会った人というのは、心の中でもしま
われる場所が違うような気がする。
登校の子を陽炎へ送り出す 立村 霜衣
(『俳句四季』四月号「寒明」より)
子育てをしていると、親は子を、「まだ」できないとか、「ま
だ」成長の途中、と考えてしまうが、一方で子を見ていると、
「もう」できていて、「もう」親の考え以上に独自の世界を持っ
ている、ということに気付かされる。掲句は、もちろん子を
心配して見送る作者の姿なのだが、子が「陽炎」へ向かうと
いうのが、子は既に独自の世界を持ちつつあり、親はその世
界がどんなものか分からないまま、その後ろ姿を静かに見守
る、という構図を表しているようだ。陽炎の先は、親はもう
既に口出しのできない世界なのだろう。そのような親の不安
と、それでいて成長は喜ばしいという葛藤が陽炎によく表れ
ている。
表門開ける時刻や蓮の花 西池みどり
(『俳句四季』五月号より)
「蓮の花」は、ヒンドゥー教、仏教などにおいては特別な
花で、清らかさ、正しさの象徴である。そういうことを知ら
なくても、読者は、蓮の花というのは何となく高貴な、明る
い花であるような意味合いを感じる。そして掲句を読んだと
き「表門」「蓮の花」という言葉から、正しきことを正しき
方向から、正しきときに行う清々しさ、そんな印象を得るの
ではないだろうか。それは、蓮の花の、何となく普段から抱
いているイメージが、表門という言葉とぱっと溶け合うから
だ。俳句においては、その物のイメージが句中で大きな役割
を持つ。
アネモネの切手を貼つて日永し 西山 睦
(『俳壇年鑑』二〇一八年版より)
手紙を貰ったときの楽しみの一つに、切手の図柄がある。
そんなに大したことではないけれど、手紙を読む前にちらと
切手を見て、いろいろな感想を抱いたりする。掲句はその反
対側の、送る側の視点だが、まず上五の「アネモネの」に、
それを見た相手がどう反応するのだろうという、作者の
ちょっとした気遣いや昂りがある。そして中七の「切手を貼
つて」の「て」にもまた、手紙を書き終えて、切手を貼った
のちの、少し時間が経過したという静けさがある。ここでこ
の句の面白いのは「日永し」が続くことである。書き終えた
のちに投函があっても良さそうなものなのだが、中七の「て」
のあとに「日永」が続くと、どうも投函の形跡が読み取れな
くなる。むしろ、切手まで貼ってしまった手紙をどうしよう
かと穏やかに考えている様子を思い浮かべてしまうのだ。こ
の最後の曖昧さが、日永という伸びやかな季語と重なって、
思いが揺らぐ作者の心の中を想像してしまう。
火あぶりの鮎を見てをる男たち 佐藤 文子
(『俳壇年鑑』二〇一八年版より)
女性が男性を詠む、男性が女性を詠む、そういう方が、同
性が同性を詠むよりも客観的な真実を含んでいることが多い
ような気がする。掲句。男達は火あぶりの鮎を見ているだけ
で、決して鮎の火加減を見ている訳ではない。いかにおいし
くなるように焼くか、ということに気を遣っている訳ではな
く、火に焼かれる鮎を通して、もっと根源的な、自身の奥に
ある狩猟の本能のようなものを見ているのだろう。競争社会
というものを作ったのが男性だとすれば、それに疲れ、鮎焼
きのようなしばしの息抜きをしていても、本能の部分は捨て
きれない男性の悲しさのようなものが、この句にはある。
失恋を金風が取り巻いてゐる 坊城 俊樹
(『俳壇年鑑』二〇一八年版より)
「金風」の「金」は、収穫の季節である秋の象徴であり、
だからこそ秋風を金風と言うのだが、失恋を秋風が取り巻く
のでは寂しすぎる。作者が「金」を使ったのは、むしろ、そ
の失恋の豊かさを表しているからではないだろうか。失恋は
一つ、恋を失ったことである。しかし、失ったということは、
次の一つを得ることでもある。今思えば、若かりし頃の失恋
の素晴らしさは、心に一つ傷を得るごとに、一つ、次に新し
い人を想う経験を得ることではないだろうか。裏を返せば、
失恋したことがないと豪語する人に胡散臭さを感じるのは、
結局は何も得たことがないと言っているのと同じだからでも
ある。失恋を金風が取り巻き、人は何かを得ている。