No.1039 平成30年11月号

神迎う篝火うつる波穂かな うしほ

扇 供 養 祭
名古屋市の名所、大須観音では、11 月の第 2 土曜日に舞踊などで利用した古扇を奉る扇供養祭が行なわれる。扇というだけあって芸能関係の人たちが多く、着物姿で参加される。11 時ごろから本堂で読経、そのあと境内の筆塚前で古扇のお焚き上げが行なわれる(写真)芸どころ名古屋らしい行事である。所在地:名古屋市大須観音(☎ 052-231-6525 )地下鉄・大須観音駅下車すぐ。 写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


神木は大き洞持ち神の留守
時雨傘たたみ重軽地蔵抱く
三波路の黄葉は屋根へ駆けのぼる
夫婦仲よささう蜜柑摘みくれし
畦枯れてをり日溜りに鮒目高
木枯を来てや小鹿田(おんた)の飛び鉋
熱燗や湯気あげてゐるモンゴイカ
強霜やてぐす張りある鯉生簀
農村舞台抱へ込みたる枯木山
猪鍋は八丁味噌と決めてをり
十二月八日耳鳴り止んでをり
十二月半ばの街のよそよそし
冬日向バリカンの垢紙で拭く
一陽来復金の茶釜の湯を汲める
岡崎・蕪村ゆかりの寺
月僊の声とも霜の声かとも
義央忌本所も吉良も雪催ひ
煤逃げのさて糟糠の妻ばかり
牡蠣割女トタン板もて風を避く

真珠抄十一月号より珠玉三十句

加古宗也推薦


ドアノブは天使のかたち小鳥来る     今井 和子
ジャズメンの床にバーボン秋の夜     山科 和子
兄不意に訪ねて来たり野分あと      深谷 久子
新らしき軍手に換へて草むしり      堀口 忠男
街の鳥まだ鳴いてゐる夜長かな      川嵜 昭典
長居して忘れてきたる秋日傘       丹波美代子
貫主緋衣引接(いんじょう)は紫衣菊日和 酒井 英子
秋声や私に在宅ファイルあり       牧野 暁行
羽咥へ鵜が鵜によりぬ秋の昼       荻野 杏子
読書会木の実の独楽に興じ合ふ      荒川 洋子
ムーミンの生まれし街や夏閑か      鶴田 和美
桐一葉老えばまたでる齟齬一つ      髙橋 冬竹
百合の香の強し仏の眠れるか       桑山 撫子
山荘の夕日すとんと虫すだく       濱嶋 君江
半田秋醪(もろみ)から酢へ酢は江戸へ  加島 孝允
秋興やギリシャ酒杯の口づけ図      池田あや美
すずむしや遺愛の品は柿右衛門      渡邊たけし
座布団の足らぬを運び月の句座      乙部 妙子
虫聞くや合点のいかぬこと抱へ      服部くらら
草の花両手で履かすベビー靴       近藤くるみ
蘭の香や無言の微笑タイ舞踊       田口 綾子
脛当に金箔の跡秋深む          江川 貞代
爽やかや四角に畳む濯ぎもの       石川  茜
竜淵にデーモン閣下御園座に       今泉かの子
日傘ごと遠会釈する交差点        水野  歩
寺の銅鑼を叩いて遊ぶ帰省の子      天野れい子
寝墓まで道続きをり葡萄畑        三矢らく子
食み出してみたきときあり鳳仙花     米津季恵野
夜学の子ネオンの路地を抜けて駅     島崎多津恵
年聞けば年忘れたと生身魂        加島 照子

選後余滴  加古宗也


桐一葉老えばまた出る齟齬一つ     高橋 冬竹
「桐一葉」という季語は桐の大きな葉がふわりと落ちるさ
まを言ったもので、ふと秋の訪れを感じさせる季語だ。秋の
訪れを感じさせるとは、衰亡の兆しを感じさせることでもあ
り、秋という季節の持つ寂しさと重なり合っている。しかも
ほんの直前まで思いもよらなかったことが眼前で起きる驚き
が見事に集約された季語だと言えよう。「老えばまた出る齟
齬一つ」は齟齬が生じるたびに老を実感させられるというこ
とであり、人生の無常と怖いほど重なり合う。
残暑の街ゆらして大型バス来たり     荒川 洋子
今年ほど残暑の厳しさ異常さを実感させられた年は、私の
体験の中にはない。これまで、異常高温で話題になった群馬
県館林市、岐阜県多治見市だけでなく、埼玉県熊谷市、それ
に続いて前橋市、高崎市、名古屋市などの四〇度に迫る高温
が記録された。異常高温によってひきおこされる熱中症で愛
知県豊田市の小学一年生が死亡した事件はまわりをも巻き込
んだ悲劇だった。掲出句は異常高温によって発生する春の陽
炎や逃げ水のような現象をつぶさに目撃しての作に違いな
い。大型バスが揺れて見え、その揺れが街を揺らしたかのよ
うに印象している。写生の面白さはこんなところにもある。
自由の女神右の踵に小鳥来る     山科 和子
自由の女神像はアメリカはニューヨーク市マンハッタンの
南、ベッドロー島に立てられた女神像で、フランス国民によっ
て、両国民の友好の証しとして一八八六年に贈られたものだ
という。日本人でも、「自由の女神」と言えばすぐにその巨
大で美しい像が思い浮かぶほどポピュラーな存在だ。そんな
女神像だが、この句は一気に「右の踵に小鳥来る」と予期せ
ぬ方向に視線をひっぱってゆくことに面白さがある。それに
よってぐんぐんと想像が広がってゆく。
長居して忘れてきたる秋日傘     丹波美代子
「長居して」によって、楽しい時間が持てたことが想像さ
れる。楽しいことの心地よさは、そのことに人を封じこめ、
つい周りを見えなくさせるものだ。秋日傘を忘れたのは、日
が傾くまで長居してしまったのか、楽しい思いのためか。
搾乳衣馬柵に干されて赤とんぼ     今井 和子
この句、乳搾りの場面だけにとどまらず、牧場という広い
舞台をも見せている。それによって自ずと清浄な空気感まで
伝わってきて、心地よい一句になっている。一場面を正確に
とらえることによって、ぶれずして大場面への展開を見るこ
とのできる楽しさを教えてくれる一句でもある。
円空仏祀る鵜匠の家も秋     荻野 杏子
円空はあの一刀彫の仏像彫刻で知られている。岐阜県を中
心に名古屋周辺、遠くは北海道まで旅をしている。そして、
旅の先々で、木彫の俗に円空仏と呼ばれる仏像を遺している。
伊吹山の山頂で仏像一万体を彫り上げることを発願して、山
を降りた。掲出句は鵜匠が出てくることから推して、岐阜県
関市での作と思われる。じつは円空は旅の終着点を関と定め
そこで即身仏になっている。即身仏というのは生きたまま成
仏することで、断食によってそれは達成される。関市にはい
まも入定地跡が残っている。そして、鮎漁でも有名なところ
だ。関もはや落鮎の季節、信仰によって暮しと精神のバラン
スが保たれるのが鵜匠なのだろう。関市を流れる長良川の美
しい水が見えてくる一句だ。
すずむしや遺愛の品は柿右衛門     渡辺たけし
有田の名工、酒井田柿右衛門。初代は柿の実の赤さを焼物
に写し取ろうとしたあの柿右衛門で、いまでも柿右衛門窯の
中庭には大きく太い柿の木がたわわな実をつける。当時、あ
の柿の色を出すことは画期的なことで、その成功によって、
一気に柿右衛門は名声を得た。そして、十数代にわたって名
工を輩出していることは周知のことで、濁手(にごしで)と
呼ばれる白磁の上に見事な柿が絵付けされている。この句「す
ずむしや」と詠み出されているが、柿右衛門の壺とすずむし
が見事な呼応を見せている。そして、故人の人柄までがほの
ぼのと浮かんでくるところがいい。
座布団の足らぬを運び月の句座     乙部 妙子
予定していた人数以上の参加者がいたことを、「座布団の
足らぬを運び」といっている。これは主催者からすればうれ
しい悲鳴だ。主催者のもてなしとともに、月が美しく輝いて
いたのだろう。
日傘ごと遠会釈する交差点     水野  歩
情景がくっきりと見えるのがいい。そして、突嗟の動作ゆ
えの心のありようが心地よい。儀礼の一切ない、心からの会
釈が心地よいのだ。「日傘ごと」に少しのユーモアがまじる
のもいい。
年聞けば年忘れたと生身魂     加島 照子
「生身魂」は本来、盆のときに使われるが、今日では高齢
でしかも身内からも他人からも愛される人にかむせられる。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(九月号より)


煮立つ繭さわさわ一糸紡ぎけり     酒井 英子
「さわさわ」が核。糸取りの工程にこの擬音語の斬新さ。
ひらがなの柔らかさと明るい響きも生きています。もし、漢
字を当てるなら、爽々か、騒々か。爽々からは湯気の白さや
繭の白さが、騒々からは泡の沸き立つ様子や、繭がそれぞれ
躍る様子が連想されます。実際に目にしての見事な活写。
ツーリング翠巒の風縫うて来る     辻村 勅代
はつらつとした景です。ツーリングの長音からはじまる響
きが「縫うて」のウ音便まで、風の流れのように夏山を渡っ
てきます。スイランの明るい響きをはらんだ風は、緑の山々
の霊気。それは生命力溢れる夏山からの風です。
蜩のこゑ家苞に欲しといふ     荻野 杏子
蜩の透明感のある美しい響きをストレートに詠んで、共感
を覚えます。金属音のような響きでありながら、次第に小さ
くなって消えていく感じは切なくもあります。座五の穏やか
な結びに蜩の響きの余韻が重なる、かなかなかなかな。
過去帳に父の筆跡きらら虫     沢戸美代子
過去帳を開き、紙魚を発見したものの、そこには見覚えの
ある筆跡が…。直筆の癖を知る肉親ならではの感慨。きらら
虫の季語に御尊父への敬慕の気持ちも込められた追悼の一
句。
どかと入る汗の重みの洗濯機     江口すま子
確かにこの夏、庭や畑へ出てちょっと動いただけで、着て
いる物はぐっしょりでした。「どかと入る」にこの夏の尋常
でなかった暑さが直に伝わります。実体験のもつ確かさ。
夕立の音より走り来たりけり     岡田つばな
上から下へ一気に読み下します。スピード感をもって流れ
るように。空を見上げてもうそろそろ、と思っていたところ
に、聞こえてきた雨の音。あわてて駆け出す人影。句を構成
する言葉の流れるようなリズムと句意がうまく呼応し、相乗
効果を生んでいます。
死は神のシナリオ忽と梅雨の果     重留 香苗
お知り合いの突然の死。驚き悲しまれつつも、人知を越え
た、大いなるものの采配として作者は受け止めたのでしょう。
上田五千石氏の「萬緑や死は一弾を以て足る」も想起されま
す。誰にもいつか訪れるそのときに人は従うしかありません。
冷奴無口な孫を持て余す     松元 貞子
笑っちゃいます、わかっちゃいます、この感じ。口数の少
ないお孫さんとの距離を計りかねている感じ。もてなしてや
りたい気持ちはあるけれど、お節介なことはしたくない。冷
奴のひゃっこいような、おかしみの一句。
ウェルテルも遠き日となる曝書して     湯本 明子
今日はよく晴れた乾いた風の日。すでに青春の日々は遠く、
久々にゲーテの「若きウェルテルの悩み」を風にあてていま
す。かつての自分を振り返り、懐かしむかのようなひととき。
下五のやわらかな連用止めに穏やかな今の心境が窺えます。
拝殿の奥まで蓮の花の風     水野 幸子
声に出して読めば、ハの音の清々しい響き。この清浄さ。
一句の中を清らかな風が渡っていくようです。簡単な言葉で、
清澄かつ流麗な世界を表現できる、俳句ならではの一句。
水中花水取りかえてよみがえる     杉浦 紀子
命をもたない花の、いのちの一句。作りものの花であって
も、水をかえてやれば、また新しく蘇ったように見えるので
す。同じ作者の「水中花咲ききることの美しく」もまた、感
性の光る、いのちを感じる一句です。
コーヒーと紅茶に別れ梅雨の宿     飯島たえ子
やれやれと宿に着いたときのウェルカムドリンク、それと
もティータイムでしょうか。各々の好みにより、注文は別々
に。外は梅雨の雨。でも仲間との愉しい旅の一齣です。
新宿に聴く声涼し合唱祭     平野  文
新宿はいろいろな世代の人が行き交い、ビルやデパート歓
楽街など、たくさんの顔を持つ街です。その新宿での合唱祭。
合唱のハーモニーの響きや力が、活力と喧噪にあふれた都会
にあってひととき、心に涼風をもたらしてくれたのでしょう。
捨てきれぬものを広げて土用干し     石川  茜
本当はこれから先のことを考えての、土用干し。掲句はそ
の真逆。実はもう必要でないものばかりの虫干し、というこ
の俳味。あっさりと詠みながら、真をついています。
夏休み児の腕白に降参す     後藤さかえ
夏休みは長い休み。疲れを知らない幼い子のやんちゃぶり
に「もう参った、参った。」この夏の暑さに、子どものエネ
ルギーの熱さも加わり降参です。でも今、大人を振り回す腕
白な子は、きっと将来楽しみな子でもあるように思います。

一句一会    川嵜昭典


石拾ひゆく七月の外ヶ浜     片山由美子
(『俳壇』九月号「髪洗ふ」より)
「外ヶ浜」は、竜飛岬のある、青森県の外ヶ浜のこと。太
宰治の『津軽』から引用すると「北に向かつて歩いてゐる時、
その路をどこまでもさかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこ
の外ヶ浜街道に至り」とし、竜飛のことを「本州の極地」と
記している。
その地を訪ね、触れるという方法は人それぞれだろうが、
食でも風俗でもなく、掲句の、石を拾うという行為に、素朴
な優しさと、遠くまで来てしまったという、伸びやかな郷愁
を感じる。少しひんやりとした石の触感と、七月という暑く、
かつ涼しい季感が呼応して、浜に立つ喜びと寂しさが一気に
押し寄せて来るようだ。また、月や火星から持ち帰る石に大
きなロマンを感じるように、外ヶ浜の石も作者の心に、別の
星に来たようなロマンをも与えているのである。
ふるさとのどれも肥えたるあめんぼう     中坪 達哉
(『俳壇』九月号「屋敷蛇」より)
都会のあめんぼうと田舎のそれとでは、体つきはやはり違
うものなのだろうか。真偽は分からないが、掲句の「ふるさ
と」の言葉からは、豊かさ、温かさなどが連想され「どれも
肥えたる」は、本当にその通りであろうと、読んでいるこち
ら側も感じてしまう。そもそも、故郷のあめんぼうが本当に
肥えているかどうかは本当は問題ではなく、作者にとって、
故郷の豊かさを、実感をもって感じられたのがあめんぼうで
あり、更に、目の前のあめんぼうから幼少期の頃に捕まえ、
遊んでいたあめんぼうにまで、作者の気持ちは時を越え、飛
んでいっているのだろう。故郷の豊かさ、そして過去を懐か
しむ気持ちを単に述べているのではなく、具体的なあめんぼ
うに思いを乗せているところがいかにも俳句的でさっぱりと
していて、心地良い。
言の葉になりゆく前の声涼し     日下野由季
(『俳壇』九月号「子守唄」より)
子育てをしていて、子が自分の気持ちを、ある程度きちん
とした日本語で話せるようになると、その子が以前、泣くな
り身振り手振りなりで伝えようとしていた事柄について、実
はこのような意味だったのか、と気付かされたり、再認識さ
せられたりすることがある。掲句はそれよりももう少し前の、
それこそ言葉にならない、子の発する声だが、子が何を伝え
ようとしているのか、親は本当に真剣になって聞き、想像し、
考える。その真剣になったときに聞く子の声は、本当に美し
いものであり「涼し」そのものだろう。それは、子に真剣に
向き合うからこその感覚であり、一方で、いつまでも忘れら
れないものでもあろう。そのような声が、前述のような言葉
になっていったとき、今度はどのような気持ちを作者は抱き、
表現するのだろうか、と、そんなことも想像していくと楽し
い。
十五人分の重さの柏餅     山田 佳乃
(『俳壇』九月号「起し絵」より)
何とも迫力のある一句。もともと柏餅は、家系が途切れな
いようにという意味を込めて端午の節句に供されるように
なったものだが、そのような目で見ると「十五人分」「重さ」
という言葉が、より力強く迫ってくる。すなわち、次代に繋
げていこうという祈りのようなものが感じられる。家系とか
師系とか、系譜にはいろいろあるけれども、人が生きていく
うえでの一つの本質として、次に繋げるという行為は非常に
大切なものであり、それを「柏餅」というものに具現化した
ところに俳味がある。
鬼の子も夜は星屑に身を濡らす     池田琴線女
(『俳句四季』九月号より)
小さな蓑虫が無数の星の下、静かに眠る姿を想像させ、な
んともロマンチックな気分になる句。星が全てを包み込むよ
うな夜は、蓑虫とて例外ではなく、人も蓑虫も、そのほか全
てのものが、宇宙の中の一つなのだと気付かされる。また、
蓑虫を「鬼の子」と表現することで、星の美しさとのギャッ
プが生じ、俳句らしい可笑しみや、言葉遊びも生まれている。
朝顔や小ぶりなれども青深く     永方 裕子
山鳴りのやうやく止みて夏炉かな     同
(『俳句四季』九月号「逝く夏」より)
「朝顔」の句。朝顔というのは、その簡素な花の造りとは
裏腹に、その色は味い深いものがある。その色だけ見ている
と、本当は薄い花弁のはずなのに、肉厚にも見えてくるよう
な深さだ。「青深く」は、まさにそんな、朝顔の色のみを凝
視したものであり、また、「小ぶりなれども」という言葉に、
本当に小さな朝顔の色の中に、宇宙にも勝るような広がる世
界を見出している。
「山鳴り」の句は「やうやく止みて」の言葉に、山鳴りの
恐ろしさ、そして安堵の気持ちが凝縮されている。夏炉を囲
む人々の、静かな会話が聞こえてくるようだ。