No.1041 平成31年1月号

こぼこぼと夜更けし雪の湯壺かな  うしほ

花  祭  り
 八百万の神を迎え五穀豊穣、無病息災を願って舞う「花祭り」は、奥三河の祭りとして有名である。奥三河の佐久間ダムの建設で、水に沈む村から、この豊橋の地に移り住んだ人たちがいる。彼らは、この花祭りを受け継いで、奥三河以外での唯一つの花祭りを今でも毎年、 1 月 4日午後 2 時頃から御幸神社で行っている(写真)。所在地・豊橋市西幸町古並 240 御幸神社。問合せ0532-46-5922 御幸神社。

写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


上州の山河澄みたり鬼城の忌
鬼城忌や鬼城の美しき無精髭
城跡は連隊の跡曼珠沙華
小鳥来てをり烏川碓氷川
宿下駄の焼印しかと露むぐら
露けしや彌陀三尊を遠拝み
柳ちりぢり蓮如上人船着場
トテ馬車のトテと踏み出す花野かな
よく晴れて花野の風のやはらかし
陶房の裏は豆畑豆を引く
そこに富士あれば南蛮煙管咲く
鰯雲いつも少女のやうな人
鬼の子を泣かせ忠治が処刑の地
立てば湖風跼めば松虫草を愛づ
狭き坂のぼり画室へ一位の実
桐の実や閉されしままの家具の店
佐久島
民宿の十坪畑や秋茄子
弁天の深井をのぞき穴まどひ
どちらかと云へば甘口温め酒

真珠抄十月号より珠玉三十句 加古宗也推薦


制服のまま立冬の港まで         田口 茉於
桜落葉一番きれいは決められず      竹原多枝子
差羽群れ空に円柱描き初む        堀口 忠男
ほほづゑや端よりゆるむ鱗雲       堀田 朋子
杉丸太凭せる庇初時雨          市川 栄司
鬼の子や遊び上手な山家の子       鈴木 玲子
合唱にチェロの切り込み秋深む      鶴田 和美
錦秋に夢を抱いてラッパ吹く       高木たつみ
ヴィーナスてふ土偶は身重豊の秋     加島 照子
夫と待つ介護タクシー秋時雨       東浦津也子
能登沖の三角波や鰤起し         島崎多津恵
ケータイでまた念を押す夜長かな     金子あきゑ
一言をつつしむことに初明り       桑山 撫子
酢造りや粕桶の箍弛みなし        加島 孝允
秋深む郷愁の詩にマンドリン       新部とし子
昔から同じ絵柄の千歳飴         加藤 久子
顔見世の感想はまあまあと老女達     荒川 洋子
たつぷりとオリーブオイル冬に入る    水野 幸子
地歌舞伎に化粧師(かおし)三人来てをりぬ 白木 紀子
ハロウィンの仮面吊して英語塾      浅野  寛
人柄も匂ひ媼の栗おこわ         鈴木こう子
一問にかへす一答白障子         大澤 萌衣
若き日の父の句帖や文化の日       鈴木 帰心
奥社まで神がいっぱい豊の秋       平井  香
教師熱血校庭の照紅葉          深谷 久子
化石林秘めし淡海に秋惜しむ       渡邊たけし
衣被篭いっぱいに奈良井茶屋       水野  歩
内堀に漣走る蔦紅葉           荻野 杏子
秋高し婆もラップに身を揺する      石崎 白泉
老いゆける秋思の黙を許されよ      成瀬マスミ

選後余滴  加古宗也


酢造りや粕桶の箍弛みなし     加島 孝允
夏の季語に「納豆造る」「醤油造る」「酢造る」などがある。
さらに「干河豚」「塩烏賊」「奈良漬製す」「生節」など保存
食が並んでいる。夏の暑さによる腐敗を防ぐための工夫が昔
から行なわれていたことの証しだが、これらが、何かの拍子
で発見され、発明されたらしいのも、日本人の生活の知恵と
してうれしい気持にさせられる。そして、その中で作者は「酢
造り」に着目している。愛知県には半田市と碧南市、西尾市
に古くから酢造りをする業者があり、ことに半田市の河埜酢
は「みつかん酢」の名で親しまれ、全国的にも大きなシェアー
を誇っている。そして、掲出句の面白さは、おいしい酢はど
うして造られるのかの答えを具体的に指し示していることで
ある。つまり「箍弛みなし」だ。
児と遊ぶ紅葉明かりの消ゆるまで     竹原多枝子
紅葉明かりの中で児と遊ぶ。まるで絵本の中に居るような
光景ではないか。そして、遊び場に紅葉明かりを選んだ作者
の心根の優しさ、子供への溢れるばかりの愛情が美しい。「消
ゆるまで」が、さらに美しい心根を伝えてくれている。
老いゆける秋思の黙を許されよ     成瀬マスミ
「老う」とはどういうことだろう。健康をはじめ体力的な
ものもその尺度の一つであろうが、同時に心の変化がまぬが
れがたくある。「青春」と「老」とは同じ人間でありながら
どうして違ってしまうのだろうかと思ったりもする。この句
の最大のポイントは「秋思の黙」で、老うことによって「未
来志向」から「回顧」へ大きく転換してしまうことがあげら
れよう。「秋思の黙」は何とも切ない。切ないが、俳句はそ
れを救ってくれるような気がする。俳句には写生という方法
があり、それが「発見」という前向きの喜びをくれる。外に
出よう。
顔見世の感想はまあまあと老女達     荒川 洋子
顔見世は江戸時代には芝居の一座が総出で見物人におめみ
えすることで旧暦の十一月が多かった。いまは、十二月に京
都南座で開かれる大歌舞伎の「顔見世」が代表的なもの、東
京の歌舞伎座、名古屋の御園座などでも興業される。この句
「まあまあ」といったところが抜群の俳味で、老女のいかに
も老女らしい屈折した思いが伝わってくる。「まあまあ」と
いう言葉には一言で言いつくせない複雑さがある。そこのと
ころを穿鑿すればするほど、ちょっとした短編小説が書けそ
うな気がしてくるから面白い。
冬紅葉秀頼淀ら自刃の地     荻野 杏子
人間にバイオリズムがあるように人生にも栄枯盛衰が抜き
さしなくある。圧倒的な権力者・天下人秀吉が死んだとたん
に、豊臣から徳川に天下人の座は移る。淀君は織田信長の妹
お市の方と浅井長政の長女で、後に豊臣秀吉の側室となる。
そして、大阪城落城の際、城中にてその子秀頼とともに自刃
した。戦国の女性たちの男に翻弄された人生を、冬紅葉とい
う季語に集約した。冬紅葉の色が二人の血の色とも重なり合
い凄まじい。
杉丸太凭せる庇初時雨     市川 栄司
材木商の倉庫や製材所はどこもひときわ高い。材木を容易
に収容するための工夫に他ならないが、よくよく見ると丸太
や角材をそのまま立ててもたせかけてあるだけのところが多
い。しかも、簡単にロープや縄で横に据えてあるだけで、縄
を切ろうものなら、一気に倒れ込んでくる。杉丸太のずらり
と並んだ姿は美しく、そこへ降り出した時雨のやや斜めの線
が交差していよいよ美しい。「初時雨」の「初」がよく効いた
一句で、はっと見入った作者の感動がすっきりと見て取れる。
《隙間より三輪山の見え干大根》も作者のふるさとゆえの
確かな描写になっている。
人柄も匂ひ媼の栗おこは     鈴木こう子
食べものというものは不思議なもので、調理されたものは
かならずその人の人柄が匂う。甘い、辛い、すっぱいだけで
なく、匂いにまでそれが出るから面白いといえば面白い。そ
このところを鋭く描写して成功した。
ハロウィンの仮面吊して英語塾     浅野  寛
昨今は田舎町でもハロウィンが大流行だ。ハロウィンが終
わって塾に来たのか、途中で塾にやってきたのか。この句、
英語塾がぴたりと決まっている。
合唱にチェロの切り込み秋深む     鶴田 和美
合唱曲の途中に突然、チェロの音が入ってきたというのだ
ろう。何という曲なのか私にはわからないが、チェロの音が
挿入されることで、曲調が一気に変った。「切り込み」とは
音楽の世界の独特な表現なのだろうか。面白い。
ヴィーナスてふ土偶は身重豊の秋     加島 照子
「ヴィーナス」はいうまでもなく、美の神。身重の姿は決
して美しいとはいい難いが、子孫繁栄を願った土偶であって
みれば、身重は自ずと美しい姿だ。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十一月号より)


三師みな福耳であり白い風     牧野 暁行
ふくよかな耳たぶは福相。句作にあたって、福耳は心耳と
もとれます。村上鬼城翁も富田うしほ師もそして百一歳で
逝った潮児師も、福耳でした。十九歳で耳疾を患い、境涯俳
人という一面が強調されやすい鬼城翁ですが、職場復帰や庵
再建を支援したまわりの人々、傾倒し句集編纂を担った乙字
の存在等、人に恵まれた一面も見過ごせません。また師資を
継承するに相応しい場にも恵まれています。潮児師が住まわ
れた居は、庭の句碑や鬼城揮毫による襖や天袋など、その影
を身近に感じる所。ご存知のように守石荘として現、宗也主
宰が碑守を引き継いでみえる所です。「白い風」という普段
のことばが、鬼城から「若竹」へと馴染んで、揺るぎない風
となって、今も流れているように思います。
えのころや日がな一日句の友と     渡辺たけし
「えのころや」のやわらかな詠いだしは、そのままゆったり
とした句の調べと句意につながり、背後にゆとりのある作者
の日常を窺うことができます。それは、「仲間とともに吟行し
ているときこそ、私にとって至福の時間だと言っていい」と
いう主宰の感慨にも重なっていくようです。
毒茸の観察会にまぎれ込む     工藤 弘子
大勢の中の一人としてまぎれ込んだのは、作者。同様に毒
茸も山野の茸の中にまぎれ込んでいます。さらに深読みし
「の」を主格の格助詞として曲解すれば、毒茸が観察会にま
ぎれ込んでいるとも。生物学的には、敵から種を守るための
防御策としての毒。まぎれもない実体験の一句です。
ねずみ花火従兄弟かはらず剽軽で     平井  香
ねずみ花火のくるくると地を走る勢いのよさと、明るく陽
気で闊達な従兄弟と。そう、昔からこんな感じの子だったと、
幼い頃を知る、周りの近親者の笑い声も聞こえてくるようで
す。水の入ったバケツを用意し、様々な種類の花火をそろえ、
もくもくと煙のあがる中、皆で花火に興じています。血縁の
絆の薄れゆく現代、懐かしいような夏の夜の一場面。
白玉や浮いた話のなくはなし     水野 幸子
この曖昧さ、艶っぽさ。今風にいえば、恋バナもあるには
あるの、という感じ。白玉団子の滑らかなつやつやした表面
と色恋の艶っぽい話。白玉のもつ柔らかさと、恋愛のもつ心
の動きのやわらかさ。ないような、あるような揺蕩(たゆた
い)のほどよい加減が絶妙の一句です。
葡萄忌の木々揺れ雲は流れ行く     清水みな子
葡萄忌とは、鬼城忌のこと。鬼城は葡萄が好きだったので
しょうか。掲句は平明で何気ない情景。鬼城ゆかりの上州の
地で作者はゆったりと周りの自然を感受しているのでしょ
う。立ち止まって実感する周りの動き、流れ。全ては生々流
転。葡萄忌は未だ歳時記に掲載がありません。季語としてひ
ろく定着するよう、読者諸兄姉の名句を待つところです。
秋分の日や夫をして父をして     川嵜 昭典
人間は多面体。妻がいる夫であり、子をもつ父であり、そ
して息子であり、職業人であり…。昼夜がほぼ同じ長さのこ
の日、二つの役割をこなした作者。求められる像にふさわし
い存在感とそこに少しの疲れも窺えます。自分中心というよ
り、大切な家族を中心に過ごした祝日の有り様。それは祖先
を偲ぶ秋分の日の、今を生きる幸せな家族の休日。
重陽や酒は獺祭猪口唐津     江川 貞代
なんとめでたい。好きなお酒と好みの器。もう言うことは
ありませぬ。菊の花びらを浮かべれば、めでたさも極致。漢
字の並ぶ掲句、歯切れのよいリズムは声に出して読んでも心
地よく、凛とした骨格です。お気に入りを手に美酒もすすむ、
至福の今宵、重陽のひととき。
葉裏見す月の吉野の真葛原     乙部 妙子
ここは吉野。葛が生い茂る野原に風が吹き渡ると、大きな
葉は翻り白い葉裏を見せます。冴え冴えとした月の光は白い
葉裏を際立たせ、「うらみ(裏見)葛の葉」の世界。清浄な
月の光に狐にまつわる伝説がよみがえります。美しくも妖し
い秋の夜。異世界へと誘われる吉野の里、月夜の真葛原です。
夫見舞ふ今日は掘りたてふかし芋     粕谷 弘子
「ほの赤く掘り起こしけり薩摩芋」鬼城、「家族の和さてほ
かほかの蒸し藷」宗也(『俳句』十一月号)の二句が想起さ
れます。夫の病窓へ今日はふかし藷を持って行きます。丹精
込めてできた藷なら尚更おいしい。夫を見舞う作者の思いが、
素朴なぬくもりと共に伝わります。
夏空に校歌斉唱のけ反って     浅野  寛
去年、夏の甲子園の話題をさらったのは秋田、金足農業。
金農旋風。他校のように選手を使い分ける潤沢な戦力はなく、
一人の絶対的エース吉田投手を核に、地方予選から決勝まで
同じ九人の選手で勝ち進んだのです。一列に並んだ全員が、
全力で歌う校歌の爽やかさ。仰け反る姿勢を支える、背筋力
のしなやかさ。上にはまぶしい夏空が広がっています。

一句一会    川嵜昭典


空蟬のいつも何かを待ち惚け     白濱 一羊
(『俳壇』十一月号「複眼」より)
そのまま読むと「空蟬の」の「の」は「が」と解すことから、
空蟬が何かを待ち惚けている、という意味になる。しかし「空
蟬の」で一呼吸置いてから中七以降を読み下してみると、少
し句の印象が違い、空蟬もさることながら、読者である自分
自身も何かを待っているのではないか、という気になってく
る。そもそも空蟬は、抜け殻なのだから、その中身が戻って
くるということは二度とない。それでいて何かを待っている
ように思われるのは、自分自身もそのような経験を多く味
わっているからだろう。例えば卒業後の学校にもう一度行っ
てみたようなとき。また、若い頃に悲喜を共にした友人と再
会したようなとき。それらは、絶対に戻れないと分かってい
ながらも、その頃に戻りたいという気持ちを呼び起こす。現
在に不満があるわけではないが、時の流れが常に一方通行だ
ということが分かっていればこそ、もう一度味わってみたい
と願う。そんな思いが「待ち惚け」にはあるのではないか。「空
蟬の」の「の」の切れの力を存分に生かすことによって、一
つの意味の裏にもう一つの意味が流れている。
漱石も百円均一古書の秋     遠藤若狭男
(『俳壇』十一月号「ステーキ愉し」より)
好きな作家の本が古本屋に売られているとき、複雑な気持
ちになる。その本が、かつて誰かに読まれていたのだと、誇
らしく思う反面、今は手放されてしまったという現実に、少
しがっかりもする。それが十把一絡げのような値になってい
ると、尚更だ。とはいえ、掲句の面白さは、そんな十把一絡
げのような値に「古書の秋」という、澄み切った、広々とし
た季語を合わせることによって、漱石が、手軽に人々に広まっ
ている、と連想できるところにある。ある特定の人々だけが
手にでき、楽しめるものではなく、広く一般の人々が楽しめ
るところに尊さがあるのだという、それこそ、俳句と通じる
ような趣を感じることができる。
遠のけば悲歌めき浦の祭笛     千田 一路
(『俳句』十一月号「遠のけば」より)
祭をするということは、歴史はもちろん、その地の出来事
や、人々の気持ちも受け継いでいくということだ。浦の祭で
あれば、海難事故や自然災害も多かったかもしれない。そう
いうものは祭の表面には見えないけれども、人々の心の中に
は残っている。作者も恐らく、土地の人々からそのような出
来事を見聞きしたのだろう、それらに思いを馳せた瞬間に、
この笛の音が別のものに変化した。目の前で見ているときに
は賑やかさ一色だった祭が、全く別のものになった。器楽と
いうのは不思議なもので、歌詞のような言葉はなくても、演
奏する人、そしてそれを聴く人の気持ち一つで、同じ音が、
さまざまな表情に変化する。「悲歌めき」という言葉に、作
者の、言葉以上の感情と実感が込められていると思う。
秋草のひとつのやうな測量士     柴田多鶴子
(『俳句』十一月号「落葉焚」より)
「測量士」という意外さに思わず吹き出してしまう一句。
考えてみれば、測量士というのは、そこにいると分かってい
ても、全く気にしていない。測量士の方も心得ていて、上手
に視界から消えてしまう術を身に付けているかのようだ。秋
の草もそのようなものだろう。それこそ俳句をしていなけれ
ば、秋の草は一生気に留めなかったかもしれない。しかし、
秋の草は秋の草として、静かに、かつ確実にその役割を果た
しながら生まれ、消えていく。一つの草を見ればささやかな
成果なのかもしれないが、長い月日が重なると、本当に力強
い成果となる。この、誰からも気に留められないながらも、
確実に成果を残していくところに、秋の草と測量士との妙な
繋がりを感じてしまう。そしてその繋がりが心地よい俳味を
生み出している。
燃え残る線香拾ふ菊日和     黒澤麻生子
(『俳句四季』十一月号「大きな鞄」より)
墓参りのときの光景だろう。墓に供える線香は、下の部分
がいつも燃え残っている。墓参りで新しい線香を供える前に、
まずその燃え残りを拾い、以前の供花も除き、きれいにして
初めてその日のものを供える。それらの行為一つ一つが、決
してめんどくさいものではなく、故人との対話に思えてくる
から不思議だ。また、線香を拾うという細かい行為が、その
まま細やかな心遣いともなっている。掲句はそんな行為に「菊
日和」という季語を配することで、清々しさの中に優しさが
溢れる句となっている。
レース屋にレース溢れて軽井沢     すずき巴里
(『俳句四季』十一月号「風の工房」より)
レース屋にレースが沢山あるのは当たり前のことなのだ
が、「軽井沢」の言葉で、句が一気に爽やかに、軽くなる。レー
スの涼しさと、避暑地の解放感が見事に合わさっている。こ
こに地名の持つ力があるように思う。