No.1043 平成31年3月号

椿咲く寺裏坂や雨有情  うしほ

乙川八幡社祭礼
半田市では、豪華な山車の出る祭りが10 地区で行われる。その先頭を切って行われるのが、この乙川八幡社の祭りである。そして、5 月初めの有名な亀崎の潮干祭りで終わる。この乙川八幡社の祭りは、坂上にある神社のため、山車の坂上げ、坂下ろしは、移動に危険かつ技量を必要とするのである。もちろんそこが見所でもある。ここの5 台の山車は、市内の山車の内では、最も大きく豪華である。今年は3 月16 ~ 17 日に行われる。勇壮な坂上げは前日午前10 時、坂下ろしは午後1 時30 分。2 日目は坂上げ午後3 時、坂下ろしは午後4 時より。所在地・半田市乙川八幡町2。JR武豊乙川駅下車すぐ。 写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


霜晴や水掛け仏に護符を貼る
小春日の水掛け仏のずぶ濡れに
雪嶺の気高さ土門拳を見る
山門に立てかけし杖冬落暉
柚子の香や瀬戸に窯垣てふ小径
冬蜂の歩みののろしお砂踏
笹鳴や山懐に藩祖廟
群馬県鬼石(おにし)
愛の鐘三つ四つ鳴らし冬桜
仲のよき探鳥夫婦浮寝鴨
木道の弾み杜若の帰り咲き
恍と口開け大雪の木乃伊仏
木枯や即身仏にある拳
木乃伊仏見て冬瀧の音に酔ふ
深沙王のぎよろ目寒波を寄せつけず
来年のこと考へず落葉掃く
峠道のぼれば南木曽雪螢
牡蠣雑炊少し沢庵あれば足る
短日や叩いて焼ける牛の肉
掌にすくひ呑む美しき冬泉
襟巻に粋といふものありにけり

真珠抄三月号より珠玉三十句 加古宗也推薦


凍る夜の板敷川に湯の匂ひ      荻野 杏子
サンタてふ大いなる嘘子よ育て    鶴田 和美
光るもの一人にひとつクリスマス   今泉かの子
不ぞろひのいうれい飴や白粉婆    江川 貞代
的中の射手は動ぜず弓始       加島 照子
年迎ふ赤城嶺白く化粧して      鈴木 玲子
たつたこれだけの雪の雪だるま    田口 風子
初明りさすガウディの塔未完     大澤 萌衣
ぼろ市に買ふケロリンの薬箱     天野れい子
聖夜劇馬を演じる子を探す      川嵜 昭典
かさよりも重たさ着ぶくれて    髙橋 冬竹
雑炊や山で分け合ふ山仲間      山田 和男
蕪鮨ふと我がよはひ怖ろしき     酒井 英子
半券を落としてしまふ寒四郎     阿知波裕子
そのままでゐてほし母に寒卵     堀田 朋子
胃のありか確と寒九の水飲めば    乙部 妙子
しぐるるや茶香炉に足す川柳     服部くらら
襟巻に煙草の匂ひ近松忌       水野 幸子
冬の蠅陶器に座してバチャン焼    田口 綾子
起き抜けに霧氷ゆたかな露天風呂   高相 光穂
年の瀬に履歴書一通書き上ぐる    竹原多枝子
オリオンやポストに落すお年玉    小柳 絲子
四世代はみ出しさうに初写真     朝岡和佳江
ふる里へ送る荷の底古暦       生田 令子
一陽来復黒き毛交じる白き髭     石崎 白泉
妻と姉二時間半の初電話       柳井 健二
子の額に母は掌を当て卵子酒     前田八世位
手足凍てきし重監房の跡地      工藤 弘子
柿の皮干して禅寺淋しくす      桑山 撫子
守り札お茶菓子も入れて初荷出す   磯村 通子

選後余滴  加古宗也


手足凍てきし重監房の跡地     工藤 弘子
ハンセン病(癩病)患者は長く隔離政策の中で苦しめられ
てきた。それは患者だけでなく、その家族にまで差別という
拷問を強いてきたが、それから一応、解放されたのは、ほん
の何年か前だ。強制的な不妊手術だけでなく、国の隔離政策
は筆舌尽くしがたい悲劇を生んできた。そんな隔離施設の一
つが栗生楽泉園だ。昨年九月、惜しまれながら逝った女優、
樹木希林の主演映画「あん」は、そんなハンセン病患を迫真
力をもって描いた作品だ。重監房の跡地に立ったときそこに
閉じこめられた患者の苦渋が甦って、身動きならなくなった
のだ。二句目、ハンセン病患者が語り部となったとき、積年
押えつづけてきた悲しみ、苦しみ、そして、怒りが噴き出し
て、止まらない。時間の観念がどこか止まったような「雪ば
んば」の浮遊、三句目、楽泉園に咲く冬すみれの清らかな美
しさ。それは寒気に耐えぬいて開いた紫の花だ。四句目。ハ
ンセン病で明を失った人を、やさしく導く盲導鈴。盲導鈴の
音はやさしい。それは、それを鳴らす人が優しいからに他な
らない。
凍る夜の板敷川に湯の匂ひ     荻野 杏子
確か矢作川の上流域だったように記憶する。川床が岩盤で
敷き詰めたようなところがかなり長く続いている。冬、水嵩
が少なくなると川床や岸辺に甌穴(おうけつ)が見えるとこ
ろが何か所かある。甌穴というのは岩盤に生じる鍋状の穴で、
水量の多いときに石が濁流で回転して岩盤に穴をあけるも
の。天然記念物に指定されているところもある。板敷川は川
床につづく岩盤の様子から、そう愛称されたのだろう。凍る
夜の板敷川の冷たさは格別だが、その川面から湯の匂いがの
ぼってくるというのだ。「湯」即ち「温泉」の匂いにわずか
だが凍てから解放された作者だ。「凍る夜」と「板敷川」の
緊張した調べの中に「湯の匂ひ」が心をゆっくりとほぐして
くれたのだ。
不ぞろひのいうれい飴や白粉婆     江川 貞代
京都、六波羅蜜寺にほど近いところに、六道珍皇寺という
不思議な寺がある。その昔、京で死人が出るとその辺りに死
体を置いてゆくのが、当り前のことだったようだ。ところが
夜な夜な亡霊が現われ、近隣の人々を苦しめた。そこで、小
野 篁(おののたかむら)が珍皇寺を建て、亡霊をしずめた
という伝説がある。珍皇寺には巨大な小野 篁の像がまつら
れているが、この篁が閻魔大王の元祖だという。そして珍皇
寺の近くにいまも「ゆうれい飴」を売っている店がありこれ
を舐めると万病に効くという。その効能のあやしげなことと
珍皇寺の帰りの家苞によいということからその名が付いたら
しい。この句「不ぞろい」というのが、いかにもそれらしく
あやしげなのがいい。白粉婆のあやしさと見事に呼応してこ
の句を面白くしている。
サンタてふ大いなる嘘子よ育て     鶴田 和美
サンタクロースの話は無論つくり話しであることは大人な
ら誰しも知っている。知っていながら皆な大好きなのは、そ
の格好のかわいらしさだけでなく、例えば、空からトナカイ
が引く橇に乗ってやってくるというスケールの大きさだ。さ
らに、屋根におりたサンタクロースは煙突を抜けて家の中に
入ってくるが、けっして煤で汚れたりはしない。幸い服も長
い髭もけっして汚れたりはしない。子供は夢と愛によって育
てられることをサンタというキャラクターをつくり出した昔
の人々は知っていた。正しいこと、真実だけが子どもを育て
るのではない。いや、その逆で、夢と愛こそが子供を育てる。
たつたこれだけの雪の雪だるま     田口 風子
子供が大好きなものの一つに雪だるまがある。私も子供の
頃、雪が積もると雪だるまを作ったものだ。始めは少しの雪
の球も、雪の上をころころ転がすたびにころころと大きく
なってゆく。大きな球とそれより少し小さな球をつくり、小
さな球を大きな球の上に乗せる。それから、炭やら木の枝な
どで目鼻口などをつける。さて、この句「たったこれだけの
雪」なのだが、例え雪は少なくても、どうしても雪達磨が作
りたいのが子供だ。子供たちの持つロマンを見事に活写した
一句。
風花の橋より様子よき男     今泉かの子
「風花」という小道具は男も女も、徹底的に美しく演出する。
私は「風花」というものを「晴天にちらつく雪」と解したい。
したがってその雪はとことん白く、明るく、軽く、美しい。
橋を渡ってくる男を、けっしてみにくい男とはいわないが、
季語は様々な美を演出するものだと思う。「様子よき男」に
ドキドキ感が見て取れて楽しい。
ぼろ市に買ふケロリンの薬箱     天野れい子
「ぼろ市」は年末の季語。現在は骨董市などとともに全国
各地で開かれる。中にはこんなものを、という代物まで売ら
れておりそれが楽しい。例えそれがぼろでも、好きな人にとっ
てはお宝。それが「ぼろ市」の成立するゆえんだろう。東京
世田谷のものがことに有名。「ケロリン」は頭痛薬。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(一月号より)


志村の青冴ゆシテ方の能衣装     服部くらら
染織家、志村ふくみの青です。青がとれる植物染料は藍。
藍を発酵させ染液を作り、月の満ち欠け等々に従い染色し、
そして色のいのちを全うさせるかのように織物に残します。
志村の青は祖母、豊からふくみへ、さらに娘洋子へ受け継が
れ、その能衣装には、きっと草木の命から放たれる光のよう
な力が宿っているのでしょう。季語「冴ゆ」の透き通るよう
な冷たさは、澄んだ透明感をもつ青に具現化されています。
丸子船へさきに目鼻ある小春     渡邊たけし
丸子船は丸太を二つ割りにして、側面につけた帆船。かつ
て琵琶湖水運を担った船は、舳先のことを面(つら)と呼び、
それぞれ船ごとに違う面構えをしていたようです。ちびまる
こちゃんのかわいさを連想させる船の呼び名と、小春ののど
やかな日和と。近江は湖北での吟。
巫女舞の緋袴みだす空つ風     鈴木 玲子
神に奉仕する巫女の舞の最中に、袴を乱すほどの強風が吹
いたのでしょう。若い巫女さんの鮮やかな濃い紅色の袴を乱
すとなれば、いささか艶めきますが、それも上州名物ならで
はの空っ風。緋袴の色に同じ、赤を冠する赤城颪です。
顔見世の興忠信の火焔隈     三矢らく子
歌舞伎の独特のおもしろさといえば、荒事(超人的な力の
主人公が勇猛ぶりを見せる)の演出法、特にカブいた舞台の
派手さが挙げられます。隈取りもその一つ。血管を強調させ
るような真っ赤な筋は力強さや迫力を表現。佐藤忠信の火焔
隈は、討手に襲われた静御前を助ける正義や勇気を表してい
るかのよう。顔見世の興です。去年、南座には二年ぶりにま
ねきが上がり、一段と華やかな顔見世興業となりました。
草むらを蝶の出てくる小六月     深見ゆき子
誰もが見たことのあるような光景。その一瞬をあっさりと
詠んでいます。でも、どこかミステリアス。蝶のもつ命の根
源的なまばゆさと小六月の不思議な明るさが幻想を誘いま
す。
べそをかき習ふ自転車猫じゃらし     小川 洋子
一旦乗れてしまえば造作ないこと。でも乗れるまでは二輪
しかない不安定さは、こわく感じるもの。戯れ気分の猫じや
らしの季語には、べそをかいたこともいつか懐かしい思い出
に変わる、そんな力があるように感じます。
耳掃除上手な父よ花柊     高瀬あけみ
耳掃除が上手と感ずるのは、きっとそこに大きな安心感が
あるから。邪気を払うとされる柊。その花は甘い香の白い小
花です。花のほのかな香に、幼い頃の思い出が蘇り、「父よ」
と呼びかけたい思いにかられたのかもしれません。
しかないてならはさびしと八一詠む     奥村 頼子
「鹿鳴集」は会津八一の歌集。奈良の名物旅館、日吉館に定
宿し、奈良をこよなく愛した書家でもありました。また八一
といえば、独特なひらがな表記。万葉集にも鹿の鳴き声の歌
は多く、妻恋いの声は秋という季節の哀愁を呼び起こします。
表記も句意もまこと見事な、八一へのオマージュの一句。
クレヨンのぐにゆぐにゆ描きや小六月     鈴木 帰心
何といっても「ぐにゅぐにゅ」が効いています。太く鮮や
かな色の線が丸く渦を作って画面に遊ぶ感じ。手に付くクレ
ヨンの油性の感じ。クレヨンを持つことが楽しい、まだ幼い
手でしょうか。部屋には小春の暖かな日差しが溢れています。
廃屋の熟柿落ちたる夕間暮     喜多 豊子
昔、嫁ぐ際には柿の苗木を持っていき、その女性が亡くな
ると枝を切って、火葬の薪や骨を拾う箸にしたという説があ
ります。女性のかつての人生を思わせる柿。掲句はもう住む
人の絶えた家の熟れ過ぎた柿です。その重さのままに落ちて
しまった夕方、それは逢魔が時。全うされず朽ちていくよう
な何か不穏な気配もあります。魅力は魔力か、の一句。
もう誰も使わぬ鉄棒布団干す     岩瀬うえの
布団干しに鉄棒は最適です。土台もしっかりしていて、な
により大きな布団を掛けやすい。「もう誰も使わぬ」不要の
物となった鉄棒に、新たな利用価値。お日様の力で、ふかふ
かほかほかの布団に。今夜、よい夢をみられそうです。そう
いえば、鉄棒の初歩に「布団干し」なる技もありました。
掘り立てを物々交換冬菜畑     犬塚 玲子
土から上げたばかりの冬菜を手に、近くで農作業中のお馴
染みさんとのやりとり、その場面が見えるようです。ここに
は、「お互いさま」の地に足の着いた暮らしがあります。
炭洗ふ手首やさしく細束子     成瀬 早苗
これは茶道に使う炭。炭を洗うのは、匂いやパチパチ爆ぜ
て畳に火の粉が飛ばないように。勿論炭の粉で手が汚れない
ようにもするためです。束子をもつ手首のやさしい動きに、
炭点前を準備する心遣いが伝わります。

一句一会    川嵜昭典


天涯を背にオリオンの立ちあがる     辻 美奈子
(『俳句αあるふぁ』冬号「すこしむらさき」より)
オリオン座は八十八あるという星座の中でもとりわけ分か
りやすい。昔は冬になれば、塾の帰り道に、いつも探し、見
ていた。今も気が付けば、仕事の帰り道でオリオン座を探し
てしまう。昔と比べれば、本当に見にくくなってしまったオ
リオン座ではあるけれども、オリオン座を見つけると、なぜ
かほっとして元気が出てくる。掲句は「天涯を背に」という
言葉が、いかにも力強く、勇気をくれるオリオン座そのもの
である。そうしてまた、このオリオン座に勇気づけられた人
たちが、昔からどれくらいいたのだろうと、星の距離ほども
あるような歴史の長さをも感じさせる。
エヴァンスの音色の余白秋深む     堀本 裕樹
(『俳句αあるふぁ』冬号より)
「秋深む」という表現は一見「秋深し」と同じように思え
るけれども、「深む」は「深める」という意味であるから、「秋
深む」は「秋を深める」という意味になる。ということは、
掲句は「エヴァンスの音色の余白が秋を深める」ということ
になり、「エヴァンスの音色の余白がある/秋深し」という
ことでは決してない。エヴァンスというのは、ジャズピアニ
ストのビル・エヴァンスのことで、繊細で、語るようにピア
ノを弾く人である。名盤(名演奏)も多い。音楽というのは、
奏者の奏でる音が大切であるのはもちろんなのだが、一方で、
音と音との間の取り方が命でもある。特にジャズのような即
興演奏の場合、聴き手は、どのタイミングでどのような音が
来るか、無意識に身構えている。それは音を聴くことである
と同時に、間を体で感じるということでもある。曲を聴き進
めていくごと、音の間に身を浸し、委ねる。その一瞬一瞬が、
そしてピアノの息遣いが、作者に、秋がひたひたと深まって
いく時間の経過を感じさせたのだ。単に秋が深い、と捉えた
わけではなく、秋そのものに身が嵌っていったという、身体
感覚の句である。
泥に降る雪うつくしや泥になる     小川 軽舟
(『俳句四季』一月号「雪」より)
泥に、一つのはかない希望のように雪が降る。そのとき心
は、少しの昂りを持つ。しかしその直後、雪は泥に吸い込ま
れるように消えてしまい、同時に心の昂りも消え、元の気持
ちに戻ってしまう。この中七の、一瞬の昂り、はかなさこそ
雪の本質に通じると思う。桜にも通じる、消えていく美しさ
への賛辞、そういったあわれの思いを的確に表している。
照らされてゐるうち月と繋がりぬ     抜井 諒一
(『俳句四季』一月号「聖なる闇」より)
ふと気が付くと、月が出ている。出ているだけではなく、
光が優しく自分を照らしていてくれる。「照らされてゐるう
ち」とあるから、最初は、作者の方から積極的に月と対面し
ていた訳ではないだろう。むしろ月の大らかさに、立ち止ま
らざるを得なかったのではないだろうか。こちらが見ていな
くても見られている、こちらが気にしていなくても包まれて
いる、そんな自然の大きさを感じる。そうして作者は心を開
くことになる。「月と繋がりぬ」という完了の形が、いま、
この瞬間に月と繋がったことを、驚きをもって伝えているよ
うでもあり、月との信頼関係がより強固になったということ
を伝えているようでもある。十七音の中に、作者一人の時間、
月に気付く時間、そして月とともにいる時間と、時がゆった
りと流れている。
思ひあぐねて冬のポストの前に立つ     柿本 多映
満月の夜の細胞のざはざは           同
(『俳句四季』一月号「鬼が哭く」より)
「思ひあぐねて」の句。手紙、電話、メール等々と、相手
に思いを伝える手段は、昔ながらのものから新しいものまで
いろいろあるけれども、変わらないのは、出したら終わり、
ということだろう。ひとたび送ってしまえば(言ってしまえ
ば)、相手は何かしらのリアクションをする。そう考えてし
まうと、ためらいが出る。掲句のような、手紙を投函する本
当に一歩手前での逡巡は誰しも経験することだろう。「冬の」
が、その逡巡をより厳しく際立たせている。「満月の」の句は、
破調のようにも読めるけれども「まんげつの/よるのさいぼ
う/のざわざわ」と読むと、リズムもすっきりして、それで
いて、下五の「のざはざは」のちょっとしたリズムの揺れが、
細胞の蠢く感じを出す。両句とも、心と体のざわめきを、繊
細なようすで描いている。
肩に来て蜻蛉力を抜きにけり     西村はる美
(『俳句四季』一月号「霧ヶ峰」より)
遠目に見れば、すっと飛んでいるように見える蜻蛉も、目
の前にぬっと現れると、とてもびっくりする。それだけ力強
く飛んでいるということだ。掲句。目の前に現れ、はっと驚
いた次の瞬間、蜻蛉はすっと肩に止まる。この緩急の落差が
面白く、蜻蛉の力の抜き加減と、作者の、驚いた後の力の抜
け加減が調和しているようでもある。