No.1045 令和元年5月号

奥能登や小さき代田の厄介石 うしほ

奴の練り
江戸時代中期の頃からあると言われる歴史的伝統行事である。現在では、毎年5 月3 日に行われる。十万石の格式を持つ架空の殿様・秋田出来守という架空の殿様や、徳川家康の生母於大の方などが市内中心部を、伝統の技(奴の練り)などを見せながら、派手やかな行列が一時代絵巻を繰り広げつつ。市内の市原稲荷神社(写真)まで続く。最寄駅:三河線刈谷市駅・JR刈谷駅。刈谷市指定無形民俗文化財。連絡先:刈谷市観光協会 ☎ 0566-23-4100。
写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


牧野暁行同人会長の句碑が西尾市東郊の
今川義元ゆかりの東向寺に建立された
(平成三十年四月)二句
句碑開く日や草笛に濃き祝意
百花繚乱トランペットは春を祝ぐ
岡崎・東公園に子供象飼育される
キャンドルは春苺ふじ子の誕生日
鹿の子をバンビと呼べり黄たんぽぽ
哀れとも見え長短の袋角
二人つ子ゐてたんぽぽの絮飛ばす
雲雀野の心に二連の大水車
観音の道は九十九折に紫木蓮
抱卵の鳧と出会へる段々田
若草に腰置き昔ばなしかな
門畑を耕してをり地鶏歩す
自転車の男の子女の子や揚雲雀
爼は厚き柾目や桜鯛
青饅や少し小ぶりの呉須絵鉢
足助路に土蔵多くて桃の花
繭倉の跡とか吊し雛くぐる
桃の花束ねて能登の朝市女
酒蔵に並ぶ酢蔵や梅二月
石垣の刻印乾き梅二月
水槽のけさは溢れて梅開く

真珠抄五月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


花時のオランダ坂にジャズ喫茶    田口 風子
梅二月機織る人の藍を着る      酒井 英子
幾千の芽吹きを抱へ山まろき     荒川 洋子
この家のすべての窓に春灯      竹原多枝子
お焚き場の雛と待てり神降ろし    工藤 弘子
針供養箆にかすかに母の文字     清水ヤイ子
人込みを避けて散策冬水鶏      堀口 忠男
雛道具収め見つけし古日記      鈴木 帰心
啓蟄や部屋に出し虫逃がしやる    田口 綾子
普段着に軽くかけたる春ショール   鈴木美江子
水ぬるむ魚目覚むるに足りぬほど   鈴木 恭美
柳川のさげもんめぐりどんこ船    浅野  寛
春立ちてをり閻王の金色眼      阿知波裕子
梅の香や二つは押せぬ車椅子     平井  香
春火鉢置いて田峰の芝居小屋     天野れい子
春風や精神科医の目鼻だち      桑山 撫子
墳山をまるごと包みかぎろへり    鈴木 玲子
建国日定刻外す回収車        磯村 通子
薄氷や社殿に対の防火槽       新部とし子
屈伸し客待つ車夫や春城下      生田 令子
飛び石を少女と飛んで梅日和     水野 幸子
窓開けて今朝もうぐいす菜を刻む   高木たつみ
草萌や休まず動く山羊の口      髙柳由利子
春めけり園児等の声湧く辺り     髙相 光穂
曽孫作る千代紙雛のすぐ転ぶ     浅井 静子
啓蟄の土や乳牛べた坐り       深谷 久子
オルゴール鳴らして妻は雛飾る    服部  守
気に入りの席空いてをり春の雲    中野こと葉
花はこべ和紙にくるまる母の紅    飯島たえ子
縁側を掃き出していて亀鳴けり    岩瀬うえの

選後余滴  加古宗也


大石忌一力亭の犬矢来     鈴木 恭美
大石忌は陰暦二月四日だが、広く「大石忌」と呼ばれるの
は京都祇園の一力茶屋で、毎年三月二〇日に行われる大石良
雄(通称・内蔵助)の追善法要を指すようだ。大石は歌舞伎
「仮名手本忠臣蔵」で一躍、日本史の中で、ヒーロー中のヒー
ローとして登場し、今日なお、その人気に陰りがない。主君
浅野長矩(ながのり)仇討を成功させるために、京都山科に
住み、一力茶屋で遊興にふける話しは「忠臣蔵」のクライマッ
クスの一つ。一力茶屋ではこの日、法要のほか京舞井上流の
家元による舞が手向けられるほか、庭に掛出廊下が設けられ
て抹茶や蕎麦がふるまわれる。さて、この句の面白さは何と
いっても下の句の「犬矢来」だ。築地の外壁と溝との間ある
いは軒の空間を犬走りというが、そこで犬が小水をひっかけ
たりするのを防ぐために、竹などで編んだ円い柵を結ってい
るところがある。犬の小水はとんでもない破壊力を持ってい
て、ストレートに床付近にかけられると腐食してしまうとい
う。この句、日本を代表する花街と一見きれいに見えるが、
じつは無粋な犬矢来を登場させて、さりげなく俳味を見せた
ところが面白い。
春宵やほろほろ舌に鳩サブレ     阿知波裕子
全国に銘菓があるが、関東地方で最も人気の菓子の一つが
鳩サブレだろう。鎌倉・鶴ヶ岡八幡宮の表参道にあるのが本
店だというが、国民的人気がある。どちらかといえばビスケッ
トの触感だが、噛むとさくっと割れる。そして、下にほろほ
ろと甘みがひろがる。鳩サブレを楽しむには春宵が一番だ。
ちなみに、私の大好物の一つである。
春火鉢置いて田峰の芝居小屋     天野れい子
奥三河の山村、田峯には古くから、田峯観音の境内を舞台
に二月の十日に「田峯田楽」が、十一日には「田峯歌舞伎」
が終日演じられる。十日の田楽では、面をつけて狩衣を着た
舞手たちが深夜まで田楽舞を演じる。終盤に入ると端反の湯
を沸かしていた燠をひきずり出して、蹴散らすのだが、その
火の粉を浴びることで、今年は無病息災ということになる。
翌十一日は、広い境内いっぱいに青竹を組み合せて作られた
俄作りの芝居小屋が現われ、その中で田峯歌舞伎が演じられ
る。俗にいう農村歌舞伎と呼ばれるものだが、村の青年たち
によって演じられる歌舞伎は堂々たるもので、ブルーシート
と青竹で作られた観客席には、おのおのが持ち込んだ、火鉢
があり、それを抱きながらの芝居見物だ。山村の二月は寒い。
寒いが村人たちの顔は喜々として輝いている。当然、家から
持ってきたご馳走が並び、酒が出る。観客席の回りには露店
が並ぶ。田峯歌舞伎はこれまでアメリカを始め、世界へ公演
に出かけている。
大岩に座して望めり春の山     荒川 洋子
山の頂き付近までくると一気に眺望が展ける。そんなとこ
ろにはたいてい大岩が露出していて、そこに座って、しばら
く休息を取るときの心地よさは格別だ。眼下にはところどこ
ろに何かの花が咲いているのが見え、大岩の回りの木々は
すっかり芽吹き始めている。大岩の座ったあたりが春陽の温
もりだろうか、ほのかに温かいのがうれしい。遠山はうっす
らと霞がかかっていたのだろうか。
梅の香や二つは押せぬ車椅子     平井  香
観梅に出かけたのだろうか。途中、車椅子の人たちと出会っ
たのだろうか。この人の車椅子も、また、この人の車椅子も
と思いながら身動きならない作者の姿が想像される。人間優
しさこそが大切。結果として、二つの車椅子は押せなかった
としても、そう思ったこと、そのことが何にも増して尊いこ
となのではないかと思う。そんな作者の優しさは《喇叺水仙
あと一息の蕾かな》にもよく現われている。
杉花の嵩の気になる通学路     堀口 忠男
今年は例年に増して杉の花の飛散が多かったようだ。私も
二か月程花粉症に悩まされた。何の前ぶれもなく、突然鼻水
がぽとりと落ちるのだ。この句、「通学路」の登場によって、
「子供たちの花粉症は大丈夫かな」という思いが去来したの
だろうか。やはり、子供たちを思う優しい心根が詩となって
いる。
啓蟄や部屋に出し虫逃がしやる     田口 綾子
「啓蟄」は二十四節気の一つで、地中の虫が這い出してく
る節。冬眠から覚めて、せっかく土中から出てきた虫を、い
きなり叩き殺してしまってはかわいそう。そっと、それもか
なり苦労して窓の外へ逃してやった作者だ。こういうのを仏
心とからかう人もいるが、そういう俗物には詩はできない。
この句「啓蟄」という季語がぴたりときまっている。
柳川のさげもんめぐりどんこ船     浅野  寛
柳川の船遊びの一駒だ。柳川では雛祭の頃、「さげもん」
という飾りを家々が出すという。それをどんこ船に乗って見
物するのも、柳川流雛祭だと聞いた。「さげもん」はまだ歳
時記には登録されていないが、きわめて魅力的な季語だと思
う。多くの人に詠んで欲しい。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(三月号より)


寝息とはほつとするもの寒の星     荻野 杏子
暗闇の中、耳にした寝息に安堵するという状況に、かけが
えのない人を気遣い、思い遣っている日常が窺われます。寝
息は時をつなぐ存在の証。寒の星が命の瞬きのように、冴え
冴えとした光を放っている夜です。
松一本竜に見立てて星仏     金子あきゑ
はて星仏とは?「四方拝」の傍題として新年の部に記載が
ありました。元日に行われる宮中の儀式で、一般でも庭上で
四方を拝することが行われているそうです。見立てとは、見
なすというだけでなく、あいだを見ようとする文化意識に根
ざすもの。日本独特の文化観を基盤に五穀豊穣、天下太平を
祈る儀式、星仏の凛とした一句。
校長のうさぎ当番二日とか     酒井 英子
厳粛さのある一日は過ぎ活動的な二日。うさぎの世話は校
長先生に、と聞き及んだ話に、おだやかな明るい正月の気分
も漂います。きっと、校長の人柄同様よい学校なのでしょう。
人日の切符吸はるる改札機     髙橋 冬竹
人日は一月七日。元日より六日までを六畜の日とし、七日
は人を占い、人を尊ぶ日と定めたとか。街の改札では当たり
前のように、切符は自動改札機の中に取り込まれていきます。
一つの証が消え去る、少しの不安もあるでしょうか。手にし
ていた切符の実在と呑み込む機械の速さと。流れるように機
械処理されていく、人日の一コマを掬い取った一句。
新春句座先ず息災を称えけり     辻村 勅代
若竹の大きな行事の一つ、新春句会ならではの一句。新春
のめでたさはもちろん、相見えての達者が何より。群馬から
は毎年数名の句友がおみえになっています。今年は若干人数
が減りました。来年、多くの方の出席がかないますように。
肩ぽんと叩きて送る出初式     浅岡和佳江
今日は出初式。特別の緊張感です。消防士或いは消防団員
でしょうか、かつての火消しです。いなせな江戸っ子を送り
出す昔の切り火のように、「肩をぽんと叩き」明るく送り出
します。緊張感をほぐし、また無事にいきますようにとの願
いも込めて。
宝船すでに吾家を船出して     奥平ひかる
何とたのしい。七福神を乗せたこの宝船は、今頃どこの波
間を揺られているでしょうか。「ながきよのとおのねぶりの
みなめざめなみのりぶねのおとのよきかな」の回文のように、
また巡って新元号の初夢に登場してくれるかもしれませぬ。
冬薔薇たっぷり活けて誕生日     沢戸美代子
花の少ない冬。「花の女王」とも称される薔薇をたっぷり活
けたとは、この上なく豪華な誕生祝いです。寒さが身にしむ
季節、冬薔薇の豊かな華やぎが嬉しい誕生日。
元日や翼を広ぐ鳥の影     川嵜 昭典
何か大いなるものを感じます。元日の粛然として改まった
空気の中、静から動へと移ろうとする瞬間でしょうか。広げ
られた翼はこれから大きな空へ羽ばたいていこうとするも
の。これからに期するところがある、清々しい元日です。
着ぶくるる赤子は家族皆に似て     荒川 洋子
赤ちゃんを囲んでの、家族のにぎやかな会話が聞こえてき
そう。この児のここは誰それに似て。重ね着された赤ちゃん
はいよいよふっくらし、家族皆を明るくしてくれる存在です。
熱燗や逢うも最後のクラス会     安藤 充子
最後のクラス会となれば淋しさは否めませんが、思い切り
がよいような、きっぱりとした印象を受けます。いつかは来
ると受け止め、心を決めて臨んでいるかのような。熱燗とい
う季語のせいでしょうか。まずは、一献。鬼城の「熱燗の舌
にやきつく別れ哉」も想起されます。
乱取りの湯気もうもうと寒稽古     大石 望子
組み合う体から発散する熱気。ばんばんと道場に響く受け
身の音。乱取りは相手を傷つけない程度に技を自由にかけ合
う柔道の練習法。寒稽古ならではの、技の習得にとどまらな
い気合いや激しさが一句の中から立ち上ってくるようです。
お年玉忘れて帰る坊主かな     水谷  螢
お年玉を忘れていくとは…と、少々あきれた感じが「坊主
かな」の親しい呼び方に表れています。昔、ランドセルを忘
れて帰った子もいたことを思い出しました。子どもは頓着し
ませんが、健やかな成長への願いが込められたお年玉です。
白菜のやうな人居て凍晴るる     近藤くるみ
漬け物にすればその歯ざわり、鍋に入れれば出汁の含み加
減。何にしても馴染んでくれる、まことに旨い白菜です。そ
の白菜のようにふっくらとして、柔軟に対応してくれる人が
傍に居て、頭上には青く晴れ渡った凍て空が広がっています。

一句一会    川嵜昭典


冬麗のとんびのさらふメロンパン     勝又 民樹
(『俳壇』三月号「メロンパン」より)
「鳶に油揚げをさらわれる」ということわざもあるように、
鳶の視力はすこぶる良く、一説には視力が八・〇もあるそう。
その飛ぶ姿も、羽ばたくでもなく、すっと滑空するので、油
断していて食べ物を奪われるというのも、さもありなんとい
う気がする。ただ、掲句におかしみを感じるのは、奪われた
のがメロンパンであり、冬麗という季語を用いているところ
だ。そんなに悲愴になるわけでもなく、メロンパンを取られ
た後に、皆で笑い合っているようすを想像してしまう。冬麗
という季語が効いている。
根の国のはなし葛湯を飲みながら     中村  遥
(『俳壇』三月号「曼荼羅」より)
「根の国」とは、黄泉の国、もしくはそれに近い世界のこと。
古事記や日本書紀では、黄泉の国を死後の世界としているの
で、根の国というのも死後の世界に近いものだろう。とはい
え、この辺りの見解は諸説あり、掲句では根の国を、この世
とあの世の境の世界、と捉えたい。自分が死んだら、もう死
んでしまった人たちに会えるだろうか、と話し合う。それは、
悲しい話というより、先人と自分たちとを繋ぐ、いわば明る
い話なのではないだろうか。葛湯という、庶民的な、ほっと
する飲み物が、そんな明るさをもたらす。死というものは、
現在と違って、記紀の時代にはもっと身近なものであったろ
う。あえて根の国という言葉を用いることによって、死をそ
の時代のような身近なものにしているように思う。
蛍烏賊こぼれ星斗となりにけり     川口  襄
(『俳壇』三月号より)
光る生き物のというのは、やはり不思議だ。舟の明かりが
消え、蛍烏賊の光が幻想的に輝く。暗闇に光るそのさまは、
確かに「星斗となりにけり」だろう。自然、というものを考
えるとき、自然から宇宙へと、思いは広がっていく。そして
思いは逆の順を辿り、宇宙から自然、自然からその中にいる
自分や身の回りのものへと、宇宙の中の自分を再認識する。
そう考えれば、蛍烏賊が輝くのも、夜空の星が輝くのも、同
じ重さに思え、より星も、蛍烏賊も、自分に引き付けて愛お
しく感じられる。掲句の、蛍烏賊が星になるのはもちろん比
喩だが、比喩以上に両者が同じように感じられる一句。
室咲を置いて使へぬ椅子ひとつ     山田 佳乃
(『俳壇』三月号「青き窓」より)
室咲の花というのは、買って部屋に置いたときはそれなり
に大切にするけれども、いつしか置物のようになってしまう。
鉢を、深く考えずに椅子に置き、その椅子が必要になったと
きに、鉢置きに使っているのだったと思い出す。そしてまた、
室咲の花が未だりっぱに咲いていることにもようやく目が行
く。それがいいのか悪いのかということではなく、日常とい
うのはそんな風に、何気ない行為と、ふとした瞬間に訪れる
気付きの繰り返しなのではないかと思う。そんなことに気付
かされる、日常を切り取った佳句。
あたたかやどこへ行くにも胎の子と     日下野由季
(『俳句四季』三月号「花を力に」より)
母になるというのは、まさにこういうことなのだろうと思
わせる一句。同時に、人が子を産むということが、理屈では
なく、全くの不思議であることにも気づかされる。何でもコ
ントロールできると思いあがっているような現代において、
生の不思議さと美しさを、率直な言葉で詠んでいる。
鳥の恋譜面に音符書き足して     柴田 奈美
(『俳句四季』三月号「羽のごとく」より)
バンドでも、オーケストラや吹奏楽でも、もしくは少人数
のアンサンブルでも、人と一緒に音楽をする、楽器を演奏す
るというのは、とても楽しいものだ。一人で演奏していては
味わえないような高揚感や繋がり、一体感を感じることがで
きる。ただ、意外に難しいのが楽譜の手配であり、少人数の
アンサンブルなどでは、その編成に合うような楽譜がなかな
か見つからないことが間々ある。そういうときは、その編成
に合うように楽譜を書き直したりする。掲句は、そんな作業
の真最中なのだろう。楽譜を書いていると、鳥の声が聞こえ
る。鳥も、一緒に奏でる相手を探すように、また、見つけて
一緒に奏でているように、美しく囀る。そうした鳥たちの中
で音符を書いていると、あたかも鳥たちとアンサンブルをし
ているのではないかという気にさえなってくる。とても楽し
い一句。
呆れたる冬草の根の長さかな     太田うさぎ
(『俳句四季』三月号「目玉」より)
冬の草はしぶとい。しぶといが、掲句の「呆れたる」は、
むしろ褒め言葉だろう。なんとここまでしぶとく生きていら
れるなあ、という感嘆が込められている。これもまた、心の
俳句の一つ。