No.1050 令和元年10月号

張渡す足場の綱や松手入れ うしほ

射  放  弓
400 年近い歴史があるお弓奉納の儀式が高浜市で行われている。吉浜地区にある八幡社と神明社で行われている。裃に大小の刀を差した武者姿の若者が、厳しい作法にのっとり、東西の空へ白羽の矢を射放(しゃほう)する。その放たれた矢を見学者が争うように拾う。破魔矢として家に飾るためである。毎年10 月の第2 土曜日(八幡社)と第2 日曜日(神明社)で行われる。高浜市無形文化財。所在地・八幡社は高浜市八幡町、神明社は高浜市芳川町。名鉄三河線吉浜駅から両社とも徒歩10分。高浜市役所都市政策部(☎ 0566-52-1111)。
写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


鈴木蔵氏陶房
樫垣の剪定急ぐ炎天下
香月の絵架けて陶師の白団扇
苗木城
山城の天辺に立ちほととぎす
土用三郎疎水に落す堰の板
蟬涼しく下田歌子の勉学所
城山に桝形多し夏薊
葛切やすやと云ふ名の老舗菓舗
浜昼顔砂紋集まる砂防柵
打ち返す波海の子ははだし好き
父の日やランチタイムの鮭茶漬
降臨の峰とや大山蓮華咲く
暑気寄せつけず滋比古先生九十二
祝 市川栄司句集上梓
夕涼や江戸手拭にある小粋
夕顔や生絹のやうな肌ざはり
ちんぐるま池塘にしばし歩を止むる
秋立てる艶方丈の長廊下
原爆忌忘れてゐたりうかつなり
しらびその群落のぼりお花畑
鵙鳴くや太き注蓮張る兜岩
この島に遍路道あり赤のまま
笛に笛応へて島の鳶は秋

真珠抄十月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


梅雨晴の蝶触覚の透き通る       田口 風子
降壇の眉根涼しきチューバの子     池田あや美
蚊遣火や木地師二代目駒を彫る     天野れい子
嘘をつく桃の産毛のそよぐほど     加島 照子
日常でありつつも今日原爆忌      竹原多枝子
夜祭や魔性めく娘のうしろ面      深谷 久子
ダムに沈みゆく黄鶲の繁殖地      堀口 忠男
五日闇窓打つドクターヘリの音     中野こと葉
新涼や絵筆にのこる海の色       水野 幸子
万緑やアメリカ楓もその中に      久野 弘子
子かまきり戦ふ貌でわれを見る     川端 庸子
いづれ火につつまれる身ぞ蛍飼ふ    大澤 萌衣
男の子らしさとは何水鉄砲       鶴田 和美
原爆忌カープ善戦ありがとう      柳井 健二
仙翁や熊の出没頻繁に         荻野 杏子
塗籠の黴の香重し下男部屋       新部とし子
海の日や張子の鯛の跳る浜       深見ゆき子
滴りのあれば男は顔洗ふ        田村 清美
でで虫の歩みを見むとしゃがみこむ   和田 郁江
もう並ぶランドセル鞄屋の夏      笹澤はるな
デパ地下に蛸カツを買ふ半夏生     浅野  寛
黴臭きのらくろを読む蔵二階      磯村 通子
熱帯夜枕抱えて孫来たり        松元 貞子
覚えある虻の翅音に身構へる      岡田 季男
陶工の握るこぶしや夏の雲       関口 一秀
晩年に入りしか祭笛聞ゆ        成瀬マスミ
炎天や黒一色の能登瓦         江口すま子
雨天中止ぽつんとをさなごの浴衣    磯貝 恵子
近づけば止まるサイレン熱帯夜     原田 弘子
一つひとつ用足しをればもう晩夏    高橋より子

選後余滴  加古宗也


降壇の眉根涼しきチューバの子     池田あや美
チューバは金管楽器の中で最も大型のもので、壮重な低
音が魅力。チューバの音が入ることによって演奏に深みと
厚みが出る。チューバは大型ゆえに、その演奏者はたいて
い身長が高く、がっしりとした体躯の者が担当する。大き
な少年は眉根も濃く凛としている。その男らしい眉根を「涼
し」と見たのだ。しかも、演奏を了えた充実感をもって降
壇するときの少年は自信に溢れ美しい。
山家には風吹くやうに流れ星     荻野 杏子
「風吹くやうに」の把握が見事。強い説得力を持つ。山
の空気感が見事にとらえられていて驚く。さらに「山家に
は」によって、山家の前に立っていること、山家にいる喜
びが伝わってくる。淋しさと清涼感が心地よい和音を生ん
でいる。
夜祭や魔性めく娘のうしろ面     深谷 久子
首から背中に垂らした面を「うしろ面」というのだろう
か。むろん娘の顔は見えないわけで、娘の姿全てが魔性に
見えてくるというのだろうか。どこの夜祭か。一度見てみ
たいものだ。
二の腕の幼き日焼け見せに来る     田口 風子
二の腕にできたわずかな日焼を大変なことが起きたかの
ように、少し興奮して見せに来る子。「幼き」の中に「わ
ずかな日焼」と「幼い子」という二つの意味が感じられて
面白い。子供は大人にとっては大したことではないことも
大発見をしたかのように思うものだ。そんな孫子がかわい
くて仕方がない。それが愛というものなのだろう。
ダムに沈みゆく黄鶲の繁殖地     堀口 忠男
開発と自然保護の問題は戦後の日本の在り方を検証し、
判断するための重要なキーワードになっている。地球温暖
化問題もまた同様で、二十一世紀は人間にほんとうの英智
があるのかどうかの答えが出る世紀なのかもしれない。
男の子らしさとは何水鉄砲     鶴田 和美
そういえば「男の子らしさ」あるいは「男らしさ」とい
う言葉を昨今、めったに聞かなくなった。平和なこの時代、
男らしさ、男の子らしさなど必要としないのかもしれない。
女性はいよいよ強くなり、男性はいよいよ弱くなる。この
句水鉄砲を登場させたのが面白い。
蚊遣火や木地師二代目駒を彫る     天野れい子
木地師はいうまでもなく、木材を轆轤などで加工して、
盆や椀にする人たちをいう。この二代目は本来の仕事であ
る器の製作を脇に置いておいて駒を彫っているというの
だ。駒を彫ることが副業なのか、遊びなのか、いずれにし
ても本来の木地師の仕事をはずれたところに、この句の面
白さがある。しかも「二代目」というのが作者の鋭い眼力で、
二代目というのは、初代に学びながら初代と同じことをす
ることを良しとしないものなのだ。そこを突いている。そ
れに、「蚊遣火」という季語の斡旋が厚みをつけた。
嘘をつく桃の産毛のそよぐほど     加島 照子
「桃の産毛」がそよぐことなどありえない。つまり、そ
れも嘘なのだ。嘘に嘘を重ねることで相手を煙に巻いてい
る。俳句なればの上品な俳味がここにはある。
万緑やアメリカ楓もその中に     久野 弘子
「万緑」という季語は「万緑の中や吾子の歯生えそむる
草田男」によって、一気に人気を得た季語だと言われて
いる。無論、夏の季語だ。しかも、万緑を形成している樹
木を日本に昔からある樹木とわれわれは決めつけているよ
うなところがある。その常識を真正面から打ち破ったのが、
この句だ。「アメリカ楓」に喝采。
原爆忌カープ善戦ありがとう     柳井 健二
一九四五年八月六日、アメリカによって世界で初めて広
島市に原爆が投下された。そして、一瞬にして数万人の尊
い命が奪われた。そんな広島に市民の手によって誕生した
唯一のプロ野球球団がある。それが広島カープだ。原爆の
惨禍から立ちあがった広島市民の心意気がカープを生み出
し、育ててきたのだと思う。作者柳井さんは、じつは広島
の出身。柳井さんなればの一句に乾杯。
一つひとつ用足しをればもう晩夏     高橋より子
夏の一日は長い。ゆえにたっぷり時間があるように観念
的には思われるのだが、そうでもない。びっしり詰まった
仕事を一つ一つ片づけていると、ふと気づいたときは夕刻
になっている。そして、この夏もそんな忙しさの中であく
せくしているうちに晩夏になっていたというのだ。ふと人
生の過ぎゆく早さと重なり合う思いだ。
覚えある虻の翅音に身構へぬ     岡田 季男
姿を見なくとも翅音で虻とわかったというのだ。そして
即、「身構へ」た、その反応が上質な俳味になっている。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(八月号より)


灸花あふれ貝塚荒れしまま     高橋 冬竹
かつて古代人が食し、捨てた貝殻の遺跡。そこに今あふれ
るように灸花が咲いています。かわいい小花ながら臭気があ
り、正式名称は屁糞葛。句の背後にあるのは、食べずには生
きられない人の生、循環器としての存在。そして連綿と続く
容赦ない時の流れ。取り合わせた二物の漢字二字とア音が呼
応する、整えられた構成にも作者の力量を感じます。
涼しさや箍にたまりの色と香と     田口 風子
豆だけを原料とするグルテンフリーのたまり。江戸時代か
らの伝統製法を守って醸造し、梁や柱には今も生きてはたら
く菌がすみ続けているそうです。その桶を締める要となる箍
に焦点を当て、風味を視覚嗅覚に託して詠まれました。知多
武豊の風土に生かされた、たまり蔵へ挨拶の「涼しさ」です。
御顔ほころぶ先生とゐて涼し     服部くらら
句碑まつりでの一景。毎年この日は、句碑の前に色とりど
りの野菜が山盛りにされ、先生を囲んでグループごとの写真
撮影など、にぎやかな語らいや笑い声に包まれます。ことに
加古先生が笑えばその場はいっそう華やぎます。体感的な涼
しさというより、心に涼しさを感じる、敬愛の「涼し」です。
身に余る言葉の涼し句碑まつり     牧野 暁行
「若竹」同人会長の作。この日もお元気そうな姿が見られ
ました。受けた賛辞に対して「身に余る」と感じられ、その
言葉の奥の心ばえに、涼しさもまた感じ取られたのでしょう。
句碑まつりの日の和やかな雰囲気、大勢が集う快い活気。「若
竹」の行事の一つ、句碑まつりを讃える感謝の「涼し」。
星祭ひとの願ひを見て歩く     田口 茉於
短冊に書いた願いはプライベートなこと。でも竹に吊るさ
れた時点で、それはオープン化されます。「ひとの願ひを見
て歩く」この軽い詠みぶりがいかにもイベント化した、現代
の七夕を感じさせます。星祭の斬新な切り口の作。
船を滑らせ瀬戸内の夏霞     清水みな子
「滑らせ」の措辞に、波の穏やかな瀬戸内の、海の上を流
れるようにゆく船の動きが見えるようです。遠くには夏霞が
かかり、瀬戸大橋も見えるでしょうか。遠景としての大きさ
に心のゆとりも感じられ、舟行の旅のたのしさを感じます。
ががんぼよ逃ぐるな足が折れさうな     小柳 絲子
濁音の多く強いイメージもする名前とは裏腹に、ががんぼ
はむやみに足が長く、蚊のように人を刺して害することもあ
りません。大きな形(なり)の割に細く取れやすい足の、そ
の頼りなさに、つぶやくような優しい五、四、八の十七音。
水族館もっとも奥に鬼虎魚     髙橋より子
鬼虎魚は鱗もなく体は棘だらけで、しかも背びれに強烈な
毒がある醜悪な形の魚。大勢が訪れる水族館の「もっとも奥」
という客観的事実だけで鬼虎魚を象徴的にとらえています。
銀の蛇銅のカラミの沈む川     平井  香
カラミ(鍰)とは鉱石を製錬する際に出る混合酸化物のか
すのこと。足尾銅山からの鉱滓が沈む渡良瀬川に蛇がいたの
でしょう。銀と銅。蛇がもつ無気味かつ神聖な二面性。川が
もつ鉱毒の昔と復活の現在。脱皮する蛇の生態は再生のイ
メージにもつながります。様々に共鳴し合う一句の世界。
菩提樹に花ハミングはシューベルト     三矢らく子
辺りには甘い芳香。ふと見上げると鈴なりに咲く黄色い小
花。大樹を見上げ、ついシューベルトの菩提樹のメロディー
を軽くハミングしたのでしょう。作者の心の弾みが快い調べ
となって清々しく伝わってきます。洗練された明るさの一句。
夏祓真砂にきしむ祢宜の沓     島崎多津恵
「真砂にきしむ祢宜の沓」に夏祓の清浄さが表れています。
祢宜の履く黒漆の浅沓。その沓底が細かい砂地へはいる重厚
感のある音。きしむ音は俗に馴染まない音のようにも感じま
す。畏まって聞く厳かな音に、艶やかな光沢の黒い沓。
伸びやかな少女の四肢や更衣     新部とし子
健やかな少女の瑞々しさ。汗ばむことも多くなった季節の
変わり目、更衣の軽やかさが少女の身も、見る者の心も明る
くしているようです。夏へと向かう開放感も感じられます。
平和とは普通の暮し沖縄忌     加藤 久子
日本で唯一地上戦が行われ、軍より島民の犠牲の方が多
かった沖縄。六月二十三日は、二十数万に及ぶ犠牲者を悼む
慰霊の「沖縄忌」。当たり前のことが当たり前にできる暮ら
しの幸せに、強いられた大きな犠牲を思います。
老鶯や四間竿持つ渡し守     髙柳由利子
豊橋牛川の渡しと題された一句。夏の鶯は、春以上に声も
大きく艶もあると聞きます。七メートル余りの竹竿一本で十
人乗りほどの船を操る渡し守。渡し守の昔ながらの熟練の技
に、老鶯の磨かれたような美しい囀りが響いています。

俳句常夜灯   堀田朋子


自転車は直線と円青嵐     大島 雄作
(『俳壇』八月号「夢の泪」より)
自転車を「直線と円」に分解して、その集合体と捉えた幾
何学的感覚が明快だ。成程そう言われてみればその通り。な
んて風通しが良い句だろう。人生はどうしても難解になりが
ちだ。些細なことから少々重大なことまで、日々選択に悩ま
されたりする。そんな時は、掲句のように物事を単純にして、
風に吹かれてみれば良いんだなと感じさせてもらった。
「青嵐」は明るく爽快な季語だ。前向きな力強さを含んで
いる。青嵐の吹き渡る野辺を自転車で行く。「直線と円」の間
を吹き抜けてゆく風は、作者の胸中も爽やかに吹き抜けてい
ることだろう。明快で生の喜びに満ちた句として魅了される。
捩花のねじり余りて素直なり     能村 研三
(『俳壇』八月号「離陸待機」より)
「捩花」のピンクや白の小さな花の一つ一つは可愛らしい。
その花が律儀に一列に並んで、細い茎の周りを螺旋状に咲き
登る姿は、思わず跪いて見つめてしまう。何故そんな姿なの
だろうとつい詮索してしまう。螺旋の向きも間隔も決まって
いないようだ。案外、自由気ままなのだ。
さて、作者の着眼は「ねぢり」ではなく「ねぢり余り」に
ある。ねぢり終わってすっと真っすぐに天を向いた部分だ。
そこに「素直」を見つけた作者の柔らかな感覚が羨ましい。
捩花の花言葉は『思慕』。古く奈良時代の和歌に由来するらし
い。恋に悩み苦しむ様をこの花の姿に例えたのだという。叶
わぬ恋がやっと成就したのか、叶わぬとついに手放したのか。
「素直」の内実はそれぞれなのだろうなと思う。「捩花」に触
れるほどに近づいて得た感性の句だ。
舟降るるときの軸足秋の風     鶴岡 加苗
(『俳壇』八月号「吊革」より)
人は、自分自身の身体について案外と疎いのかもしれない。
「軸足」とは自分の身体をささえる方の足だ。左右どちらの
足が軸になるかなんて、普段は考えもしないものだが、いざ
「舟降るるとき」になると、足が自然と役割分担してくれる。
その時作者は、自信の軸足を意識したのだ。不意の身体感覚
は新鮮なものだと思う。「秋の風」は三秋に渡っていて様々
な風を想像できる。掲句の風は単に爽やかな風ではなく、舟
を揺らす程の風だろうと思う。さすれば軸足にかかる力は相
当なものかも知れない。しみじみとするのは季語の力だ。作
者の「軸足」への労わりまで読み取るのは蛇足だろうか。
牛飼の束で買ひゆく蠅叩     橋本 榮治
(『角川俳句』八月号「一夏」より)
そう言えば子供の頃はどの家庭でも二三本はあった「蠅
叩」。すっかり姿を見ないと思っていたが、活躍する場所は
確かにあるんだな。材質は、ヌメ革・金属・プラスチックな
どがあるようだが、掲句の「牛飼」が買ったのは、安価なプ
ラスチック製のものだろう。「束で」買って行く姿には、確
かに目が止まるだろう。作者も、おっと思い、その男の生業
が「牛飼」であることを知って納得したのだ。
日常の中で頭中をよぎる不思議とも言えないほどの小さな
思いを逃さないで詠めば、こんなに面白い俳句になる。詠む
対象がどんなに俗なことであっても、どこか風格が生まれる
のが俳句なんだと実感させられる。「牛飼」という一種乱暴
な表現に、返って牛飼という労働を尊ぶ心情がうかがえる。
相伝の標高千の植田かな     太田 土男
(『角川俳句』八月号「北の国から」より)
同時掲載の句から類推すると、東北地方の〝やませ〟に見
舞われる土地で詠まれたようだ。それも「標高千の植田」と
言うからには、ことさら稲作に苦労の多い土地なのだろう。
そんな田を代々受け継いで、稲を作り続ける村がある。この
季節のどこまでも青い景色が立ち上がる。
掲句は、感情を抑えて事実だけをたんたんと、一物仕立て
で詠み下されている。だからこそ末尾の「かな」が深く効い
ているのだと思う。作者は、植田の一枚一枚に、そこで稲を
作り継いできた人へ思いを馳せているのだろう。継ぐべくし
て継いだ人、渋々と継いだ人。そんな夫に嫁いできた妻。そ
こで生まれて来た子供たち。そしてまた代は継がれて来た。
簡潔な事実写生こそが、狂いのない句の景色を眼前に復元
させ得る。そして、作者が寄せた人間への愛しさと切なさが、
句の奥に確かに見える。まさに俳句の基本形がここにある。
薪能恋の台詞はよくわかる     星野 高士
(『俳壇』八月号「涼し」より)
薪能はもとは神に捧げるものだった。夜の神社仏閣の静寂
の中で篝火を焚けば、自ずと非日常で幻想的な空間が生まれ
る。今では屋内に立派な能楽堂を持つ都市も多いが、元々は
屋外で虫の声や風の音を感じながら鑑賞するものだったのだ。
薪能の台詞は謡(うたい)なので、現代人にとっては聴き
取って理解するのは難しいのでなかろうか。演目の内容を予
め知っておくことを勧められる。けれども、「恋の台詞」は
不思議とよく理解できるのだという。恋というものが、万人
に古今東西共通の感情を呼び起こすものだからだろう。
そのことに気が付いた時の作者の面白がり様がにじみ出て
いて好感度の高い句だ。人ってみんなそうだよなという共感
が温かい。作者の人となりが詠ませた句だと思う。