道沿いに濠もつ寺や犬ふぐり うしほ
下呂の田の神まつり
飛騨路に春を呼ぶ国の重要無形民俗文化財の「田の神まつり」が 2 月の14 日(毎年この日)に行われる。下呂市の森水無(もりみなし)八幡神社で行われる。花笠を被った舞、神楽囃子、田の神行列、餅かつぎの儀、花笠を着用した踊り子による踊りなど様々な出し物がある。獅子舞(写真)は最後の方で行われる。獅子舞はその姿のまま神社階段を登って踊りを見せる。所在地・下呂市森1321 高山本線下呂駅より徒歩10 分。森水無八幡神社。下呂市観光協会。問合せ・☎0576-24-2222 下呂市観光協会。 写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風
流 水 抄 加古宗也
前橋・元総社町
寒禽の声鋭し獅子の谷落し
水槽に戦の名残り氷張る
神木は焼けても死なず寒替る
寒禽や社殿を化粧ふ透し彫
笹鳴や幾つも並ぶ石祠
風呂沼の跡かも一丁潜り浮く
社叢いま塵一つなし笹鳴ける
武尊(ほたか)らしき雪嶺を見る利根を見る
天秤の太きを選び成木責
風止んで遠くに聞ゆ成木責
風二月分流堰に白き鳥
風二月白塀長くつづく寺
二ン月やティッシュもて拭く出刃の先
如月やラマ僧の着る糞掃衣
二月堂より如月の影を踏む
正法寺古墳
葺石の間地獄の釜の蓋
金城次郎作カラカラ
熱燗や次郎の魚の目が笑ふ
僧が打つ音木耳裂く余寒かな
梅二月珈琲皿は飛び鉋
真珠抄二月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
冬あたたか如来の後ろ通るとき 田口 風子
十二月八日時計の針合はす 川嵜 昭典
はみだせる志功の葉書冬ぬくし 池田あや美
手に剣武人埴輪の冬に入る 春山 泉
狐火を語れば細るランプの灯 市川 栄司
樫ぐねに風の記憶の蘇る 関口 一秀
老木のどれもこぶ持つ寒さかな 桑山 撫子
抱きあぐる猫に鼓動や開戦日 堀田 朋子
落葉掃く箒目にふと耕司さん 岡田 季男
裏口にははのゐさうな石蕗日和 水野 幸子
妻の黙大根おろしの辛さかな 村上いちみ
凍てし夜の救急搬送車より電話 重留 香苗
満席の会場埋めるマスクかな 渡辺 悦子
塔心礎刻む南北冬に入る 平井 香
冬凪や大回りして七里灘 石崎 白泉
ゆりかもめ残る地名に木場とあり 池田真佐子
寝転んで木の葉の雨となりにけり 烏野かつよ
身の丈の暮しを常に日向ぼこ 稲垣 まき
原爆の地に教皇来冬帽子 村重 吉香
図書館の壁画は民次冬うらら 前田八世位
包丁にしかと抗ふ冬林檎 稲石 總子
年の瀬や使いこなせぬスマホ持ち 松元 貞子
ジャズはスウィングコートはクロークへ 今泉かの子
冬薔薇玻璃の向かうは爆心地 中井 光瞬
湯の花の乳いろ匂ふ冬至かな 稲吉 柏葉
見舞妻来ておもむろに毛糸編む 鈴木 帰心
大木に鋸当て銀杏落葉降る 服部 喜子
休業の札掛け磨く年用意 川端 庸子
賀状書きつ喪中葉書を読み返す 高橋より子
駆け引きを繰り返す騎手神渡し 嶺 教子
選後余滴 加古宗也
十二月八日時計の針合はす 川嵜 昭典
「十二月八日」といえば、日本連合艦隊によって、アメ
リカ・ハワイ島の軍事施設に奇襲攻撃が行われた日だ。連
合艦隊指令長官・山本五十六はアメリカ留学の体験から、
経済力・軍事力において日本をはるかに上回るアメリカと
の戦争に反対しつづけたが、陸軍の圧力と何といっても国
民の好戦的世論に抗い切れず奇襲に踏み切らざるを得な
かったといわれている。山本五十六にとって敗けるとわ
かっているにもかかわらず行った日本開戦に強い責任と後
悔を持ったとも。その結果、五十六の乗った飛行機は太平
洋上でアメリカの戦闘機に撃墜され太平洋に沈んだ。以後
は日本軍の連戦連敗。大陸においても次々に形勢は逆転し
て、一九四五年八月十五日、日本の無条件降伏で戦争は終
結した。即ち、日本軍の真珠湾攻撃によって、日本の歴史
は大きく変った。「時計の針合はす」は「十二月八日」を
歴史の分岐点ととらえているのだ。私の父母の兄弟の多く
が、第二次世界大戦で死んだのだが、生き残った一人の叔
父は、われわれ子供たちに「戦争をやっちゃいかんよ。戦
争はいかんよ」と度々話していたことがこの句を見たとた
んに思い出された。
十二月八日「第九」の楽屋地震走る 渡辺 悦子
奇しくも「十二月八日」を詠んだ句が続けて登場した。
十二月に入ると全国各地で、ベートーベンの「第九」が演
奏されるが、どうして十二月なのかについて確かなことを
私は知らない。私の町でもかなり前から毎年、地元の合奏
団が呼びかけて、「第九」のための合唱団が結成され、演
奏会が開かれている。「第九」の演奏会のときに地震が偶
然に起きたのかもしれないが、「十二月八日」と「第九」
と「地震」が必然的につながっているように思われるとこ
ろにこの句の力がある。そして、この句は、われわれに様々
な問いかけをしてやまない。
風吹いて蜜柑明りの姫街道 荻野 杏子
蜜柑畑は多くの山の南斜面に広がっている。東海地方で
は、西尾(三ヶ根山)、蒲郡。静岡県の三ケ日、薩埵峠(さっ
たとうげ)あたりもそうで、太平洋から海風を受けて育つ。
一説には、蜜柑は潮風を浴びて育つとうまくなるとも言わ
れていて、そういわれると確かにそれに違いないと思われ
る。「風吹いて」が、何となく小春日和の景に見えて、心
地よさが伝わってくる一句だ。「姫街道」の「姫」もおい
しい蜜柑への連想に効果を上げている。
ジャズはスウィングコートはクロークへ 今泉かの子
十七音中十四音が片仮名という珍しい句だが、歯切れの
よいスウィングを表現するのに妙にかなっている。スウィ
ングといえば、かつて「スウィングギャング・ジャズオー
ケストラ」というアマチュアの音楽グループと親しくして
いたことがあり、その切れのよい演奏にすっかり惚れ込ん
だものだった。この句「コートはクロークへ」が意表を突
いた展開でそれでいてぴったり。演奏を聞く前から、わく
わく感が伝わってくる。
閼伽井屋の水音に時雨華やぎぬ 田口 風子
「閼伽井屋」とえいば、大津は三井寺のそれが有名だ。
本堂の脇の山裾にはりつくように立っている。三井寺の閼
伽井の特徴は噴き出す水ががぼがぼと鳴ることで、初めて
訪れたときには驚いた、と同時に魅せられた。大きな音だ。
その勢いに、時雨も華やいで聞こえるというのだ。私は「時
雨華やぐ」という季語は、「お天気雨」のような状態をい
うときが似合うと思うが、音によって、時雨が華やいで思
えるというとらえ方も悪くはない。しとしとと降っていた
雨が、お囃しに呼応するように降るというのも面白い。三
井の晩鐘も聞こえてくるようだ。
しるこ屋に羽子板市のながれ客 市川 栄司
羽子板市といえば東京浅草の浅草寺境内で開かれるものが
有名だ。年末の風物詩として…しばしばテレビなどでもその
様子が紹介される。かつては、役者絵が貼りつけられたもの
が主流だったが、近ごろでは、スポーツ選手とか、タレント
も登場しているようだ。この句「しるこ屋」をもってきたと
ころがうまい。若い女性たちの華やいだ声が、しるこ屋とそ
の周辺にまで、にぎやかに聞こえてくる。浅草羽子板市の明
るさだけでなく、江戸の粋まで活写して心地よい。
はみだせる志功の葉書冬ぬくし 池田あや美
「志功」は板画家・棟方志功。志功は強度の近視で、板を
なめるようにして刀を走らせたという。戦争中、富山県福光
町に疎開していた志功は福光町にたくさんの作品を遺してい
る。志功が疎開時代に暮らした建物が、現在、棟方志功美術
館の前に移築されて一般公開されているが、部屋の中には、
かつてともに柳宗悦が提唱した民芸運動に参加した仲間た
ち、例えば浜田庄司の作品などが無雑作に部屋隅に置かれて
いる。そして、居間の壁は無論のこと、風呂場や便所にまで
びっしりと絵や文字が書かれている。志功は絵が描きたくな
るともう我慢できず、すぐに筆をとって、どこにでも描きつ
竹林のせせらぎ 今泉かの子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(12月号より)
城跡は少し高台色鳥来 岡田つばな
よく使われる季語に「小鳥来る」があります。掲句は「色
鳥来」作者はきっと聴覚だけでなく、視覚でも小鳥の存在を
とらえられる場所にいたのでしょう。「少し高台」の程よい
高低差と、「色鳥」の美しい羽根の色が見える距離感。縦方
向と横方向の軸に支えられて、広々とした空や木々の繁りが
立体的に立ち上がります。秋の空の澄んだ青さに、垣間見え
るいろいろな鳥の鮮やかな色。歴史を秘めた城跡に、今もい
ろいろな使者が、にぎやかに訪れる秋の空です。
懸税青きが初ひし稲穂かな 川端 庸子
懸税(かけちから)とは広辞苑によると、古代、茎のまま
抜いて青竹にかけて神に奉った稲の初穂、をいうそうです。
「青きが初(う)ひし)」は今年の稲のまだ青い様子でしょう。
伊勢在住、地元の神事に詳しい作者ならではの、神へ奉る秋
の供物、稲穂の一句。
新走並んで座る席選ぶ 田口 茉於
心の距離感というもの。「並んで座る席」を選んだ作者の、
相手への親近感を感じます。対面の席ではなく、同じ景色を
前にして、声も耳元に届く、それだけ近い間柄。秋の季感は
薄れつつあるものの、はしり物として新酒を頂く、そこには
ちょっと小粋な二人の時間が流れているようです。
鎮守様おしこむ台風十九号 鈴木 里士
今年の秋は台風の被害がすさまじく、河川の、特に防災の
手薄な所を狙ったかのように濁流が押し寄せ、日本各地がひ
どい惨状に襲われました。台風の見えざる手を思わせる、卓
抜した比喩「おしこむ」。昔からその土地に根づいている鎮
守様までも、まさに押し込んでしまう十九号の脅威でした。
鶏頭の抜かれても色失はず 奥村 頼子
鮮烈な真っ赤な色がまざまざと見えるようで、少しどきり
としました。字面の「鶏頭」のせいでしょうか。花の色は血
の色に重なり「抜かれても」は地面から引き抜かれただけで
はないような、生々しさを勝手に感じてしまいました。とま
れ、十七音が再現するシーンの鮮やかさが秀逸な作品です。
風炉先に九楊の書や実むらさき 烏野かつよ
風炉先は風炉先屏風のこと。茶道具の一つで二つ折りの低
い屏風です。その屏風にあったのは石川九楊の書。九楊は万
葉集やドストエフスキー、さらに震災、原発事故にまつわる
作品でも知られる書家にして論客です。今夏、催された古川
美術館での展示も記憶に新しいところ。屏風にあったのは碧
梧桐の句でしょうか、それとも「実むらさき」の季語から
「源氏物語」の一節でしょうか。九楊のあの独特な書に、あ
れこれ想像が広がります。
終の日は夕顔の咲く宵がよし 監物 幸女
人生最後の日を選べるとしたら、日中の暑さもおさまった
夏の宵、夕顔の花開く頃。それは作者の美意識が選んだ一時。
光源氏の寵愛を受けた女性の名とも重なる、幽玄なる趣の句。
香に満ちていよよ膨らむ金木犀 岡田 初代
今年の金木犀はその芳香を長く保ってくれ、随所で季節の
豊かさを実感させてくれました。「いよよ膨らむ」のとおり、
その樹勢、花の色、遠くまで流れゆく香。共感の一句です。
コンバイン残され釣瓶落としかな 服部 喜子
コンバインは稲刈りから脱穀、選別を一手に引き受けてく
れる頼もしい存在です。その作業効率の速いこと。今日の仕
事を終えた重機に今、人影は無く、日の光も速い速度で翳り
を帯びていきます。辺りは次第に夜の帳の静けさに包まれて。
うまそうに葉を食う毛虫見て居りぬ 渡辺よねこ
むしゃむしゃ?がつがつ?食欲旺盛な食べっぷりを見てい
るのは、案外胸のすくことかもしれません。ダイエットが必
要な飽食の身とは真逆の、成長途中の毛虫クンです。
からくりを舞ふ家康に秋の蝶 石川とわこ
三河の人にとってはお馴染み、岡崎公園のからくり時計の
家康人形です。澄んだ大気の下、地味な色合いの秋蝶も、きっ
と、能を舞う家康に誘われてやってきたのでしょう。
琵琶の糸張り替へますか良敬忌 杉浦 紀子
やさしく問いかけるような調べが、読む者の胸にもしみじ
みと響きます。「良敬忌」は富田潮児師の忌。潮児翁の身辺を
よく知る作者の追慕の思いが、そっと伝わってくる作品です。
芋茎買ふまほらの風に乾びしを 今津 律子
芋茎は水で戻して煮付ける庶民の食べ物として、長い間重
宝されてきました。まほら等、万葉の古代を思わせる措辞に、
昔から食べられてきた芋茎の素朴な感じが響き合っています。
秋旱錆びゆく母の裁ち鋏 水野由美子
時の経過がもたらす乾きと錆。「錆びゆく母の裁ち鋏」に
母上への切ないような気持ちも感じます。水不足の状態が続
く秋に、錆の状態が進む裁ち鋏。この取合わせの妙。
俳句常夜灯 堀田朋子
カルストの石吹き残す秋の風 荒川 遊季
(『俳壇』十二月号「水の造形」より)
日本の三大カルスト中、掲句は秋吉台を詠まれた句だ。周
知のようにカルストとは、雨などの浸食によって石灰岩が地
表に露出した地形をいう。カルスト台地には大木は育ち難い
ようで、秋には一面、ススキやチガヤなどの草々や、リンド
ウ・センブリなどの花々が、石灰岩を見え隠れさせる。
掲句の瞠目は「吹き残す」だと思う。この表現で、今吹く
「秋の風」が、秋の真中の清清しく大地を吹き渡る力のある
風を特定させる。背丈の伸びた草々がどんなに吹き乱れても、
白々とした石の威容は、その存在を揺るがさない。
秋吉台の石灰岩は、赤道近くの海底でのサンゴ礁がプレー
トの移動で日本列島にやって来たものだそうだ。億年に渡り
移動と浸食を繰り返す自然の仕業への作者の畏敬の思いが、
的確な写生句となって提示されている。
身に入むや蹴りしボールの止まるとき 栃木絵津子
(『俳壇』十二月号「小鳥来る」より)
季語「身に入む」は秋も深まった頃の骨身にこたえる冷感
を言うが、その奥に込められている人生の淋しさや厳しさを
詠む句も多い。掲句は、蹴ったボールが転がった先で止まっ
た時に立ち上がる心模様を詠んでいる。それは、時間の停止
であり分断であろう。ボールは、たとえ相手が壁であったと
しても、蹴り出した者の元へ再び戻ってくるべきものであっ
てほしい。戻って来ないボールは、止まった瞬間に孤独の象
徴となってしまうから。
公園での一コマだろうか。孤独と上手つき合う術を会得した
大人ならまだしも、子供にはさぞかし淋しいものだろう。
着眼点が具体的であり、かつ含意的であるのが素敵だ。
ボロ市の値札はどれもなぐり書 石井いさお
(『俳句界』十二月号「垂直」より)
まさにその通りです。当然のように疑問に思わなかった事
が、俳味を持った面白い句になるのだと、再確認できる。ボ
ロ市の店主は、各々個性的だ。話しかけ易い人やら無愛想な
人や。不思議なことに、売る気満々の人より、買うか買わぬ
かどこ吹く風の人の方が信用できそうな気もしたりする。そ
んな個性が「なぐり書」の値札にも表れているのだろう。こ
の値段は取り敢えずのものですよ、ご相談に乗りますよ、そ
れがボロ市の値札だ。スタンプの数字では人情がないのだ。
冬の日のボロ市をひやかして回る作者の楽しさが伝わって
くる。事実を掬い取る句は、事実以上を掬うのだと思う。
脱ぎし靴よりふつと息クリスマス 安倍真理子
(『俳句界』十二月号「ふつと息」より)
新鮮でかつどこか懐かしくて、心が温まる句だと思う。場
面は色々に想像できるが、この靴は今、冷たい風の吹く戸外
から、暖かい家の中へたどり着いたことと、今日がクリスマ
スの日であることは揺るがない。そして、この靴の主はやは
り作者本人であるのだろう。
「ふつと息」という表現のなんと豊かなことか。車などで
乗り付けたのではなく、少し離れた場所から、逸る気持ちを
足取りに乗せて歩いて来たのだ。脱いだ時、作者の体温によ
る温みと湿りを呼吸するようにはきだした靴に、たどり着い
た安堵と待っていてくれる人のいる喜びが意識されたのだろ
う。それは、今日がクリスマスだからなのだ。クリスチャン
であればなおさら、そうでなくても、クリスマスは神様と自
分の回りの人達に感謝する日としたい。そう思わせてくれる
清らかな句だ。冴え冴えと輝く凍て星も見えて来るようだ。
破魔矢に手伸ばしてゐたる赤子かな 山本 一歩
(『俳壇』十二月号「外套」より)
新年の初詣の一場面か。作者が目を止めた可愛らしい光景
だ。厄除けのお守りの「破魔矢」も、新しい生命に輝く「赤
子」も、この上なくおめでたい。破魔矢の何たるかも知らず、
初々しい好奇心のままに、赤子が手を伸ばしている。その光
景に、作者は、幸せの目撃者のような気持ちで目を瞠ったの
だろう。
勿論、戸内に飾られた破魔矢でもいいし、「赤子」が作者
に繋がる間柄でもいいと思う。でもやはり、麗かな日の賑や
かな境内であってほしい。「赤子」は、ただ行き合っただけ
の見知らぬ赤子である方がいい。そう感じるのは、俳句が無
用な甘さを嫌うからではなかろうか。そんなことを思う。
赤子の伸ばす小さな手が、目に浮かび続けている。
かく荒れし天を繕ふ秋あかね 山之内喜七
(『俳句界』十二月号「天を繕ふ」より)
地球的な気候環境の変化なのだろう。昨今、自然災害が猛
威を揮う。令和元年も十月に入ってより、15号・19号と雨台
風に見舞われた。東北から関東・甲信越地方の名だたる川が
決壊や越水をおこし、甚大な被害をもたらした。
掲句は、魚沼市在住の作者によってその現場感覚で詠まれ
た句だ。「かく」という措辞に、まさに眼前に広がる被害の
現実が強調されている。その地上と、台風一過で晴れ渡った
天との間を、今「秋あかね」が群れて飛び交っている。まる
で「天を縫ふ」ように。痛々しいほど美しい修辞だと思う。
どんな自然災害にあっても、人は天を信じていくしかない。
赤とんぼは、一途に生きていた幼い頃を思い起こさせる。
復興へと、決して手離さない希望の一句だと思う。