No.1057 令和2年5月号

葉桜やうつけき頭叩き見る  うしほ

潮  干  祭
 半田市の祭りは3 月の末から始まって、ほぼ日曜日毎に市内各地の神社で祭りが行われる。いずれも豪華な山車を繰り出して盛大に行なわれる。その最後の締めをするような華麗な祭りが、海に面した神前神社で 5 月 3 日、 4 日に行なわれる。山車 5 台が出る。どれも、江戸時代建造の華麗な山車ばかりである。山車は、海辺迄引き出され、海岸に勢揃いする(写真)。無形民俗文化財に指定されている。武豊線亀崎駅下車徒歩 5 分。所在地・半田市亀崎町、神前神社前。
写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


碧南市 清澤満之ゆかり寺にて 三句
味淋蔵抜け花冷えの西方寺
花冷えやたつた二畳の籠り部屋
小窓開ければ花屑の窓格子
花冷えや茶盌の縁を指で拭く
西尾市 吉良家ゆかりの実相寺花まつり
吉良寺の朝から甘茶ふるまへる
釈迦堂の前で商ふ牡丹苗
綿菓子を巻く男ゐて花祭
天上天下さす指濡れて甘茶仏
釈尊は二寸と少し甘茶掛く
甘茶たつぷり注げば釈迦の微笑めり
蓮台に甘茶溢れて仏生会
火頭窓みな開け放ち仏生会
仏生会転読僧の居並べる
手話の子の固き口元花冷ゆる
菜花蝶と化すや分厚き和蘭辞書
茅花流しやジョギングの沈下橋
土左衛門引き揚ぐるごと海髪を引く
茅花流しや手話の子の息荒き
三井寺
十五番札所眼下の鯉幟
眦に憂ひ滲ませ草の笛
群馬県 舘林を訪ふ 九句
正造の声が聞える麦の秋
茅花穂に大押出しといふ強訴
鉱石をカラミと呼べり行々子
蜘蛛垂れて足尾鉱毒直訴状
薄暑光どつと鉱毒被告の碑
被告碑に欠けし名を指し汗の指
正造はここで客死と紅空木
茅花穂に正造の抱くマタイ伝
茅花流し吹けばその先遊水池
麦秋や田中正造百回忌
麦秋や鉱毒事件百年史
渡良瀬は利根へそそげり茅花穂に
四間道(しけみち)に屋根神多し樟の花
百年の艶や立夏の太柱
舟小屋の船の出払ひ夏鴎
明日は椿寿忌多作多捨とは剛毅なる
麦秋の野に出て心洗ひけり
生繋ぐための泡生み乗込める
蓮浮葉浄土の匂ひ立てし池
大マスクして蛇捕りの太眉毛
大鼡呑んで蛇身動かず
卯の花や爐框に置く長煙管
四月馬鹿過ぎたり自註句集成る

真珠抄五月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


梅が香や不断念仏鉦の音       石崎 白泉
ミモザ揺れ花屋の前の賑々し     前田八世位
聖堂のオルガンの上の陶雛      田口 風子
病室の日記は句帖魚は氷に      鈴木 帰心
剪定の腰のベルトは斜交ひに     渡辺 悦子
朝市や菠薐草の根の真つ赤      酒井 英子
春薄暮にぎれば握り返さるる     大澤 萌衣
白鳥の汚れを弾く白さかな      堀口 忠男
捨印を丁寧に押す春休        田口 茉於
潮騒や椿の中の海難碑        村上いちみ
のどけしや車掌の英語駅を告ぐ    鶴田 和美
啓蟄やトンネルを出る豆電車     鈴木 玲子
春泥や一歩踏み出す子の勇気     松元 貞子
記念日をひとつ増やして春苺     加島 照子
日脚伸ぶ背もたれのなき椅子ひとつ  桑山 撫子
桜東風スカイブルーのユニフォーム  中野こと葉
うららかや古民家に聴くビートルズ  水野 幸子
春に座す大仏猫を腕に膝に      清水みな子
もう春と爺のつぶやきバスに乗る   田畑 洋子
剪定やシルバーさんの手際よく    久野 弘子
目印にハンカチ結はへ遍路杖     杉浦 紀子
鬼やらひ詩吟で鍛ふ女声       平井  香
暖かやお庫裏の傍にいるだけで    深見ゆき子
指貫はフランス土産針祭る      稲垣 まき
ハーレーの男シャイなり麦青む    深谷 久子
すかんぽや大縄飛びに入れぬ子    鈴木こう子
春禽の好める一樹ありにけり     稲吉 柏葉
寺の猫跨いで通る落椿        近藤くるみ
春疾風コロナウイルス連れ来たり   石川  茜
山桜石のベンチに白湯を飲む     荻野 杏子

選後余滴  加古宗也


病室の日記は句帖魚は氷に     鈴木 帰心
「病室の日記は句帖」というフレーズには少しばかり曖昧
さがつきまとう。句帖を日記がわりにしているのは入院患
者なのか、介護のために病室にいる人なのか。患者も俳人、
介護者も俳人ということになるといよいよその判別が難し
い。この句はおそらく帰心さんの母親の隆子さんが入院し
ていたときの一と駒を句にしたものと思われるが、そうな
るといよいよどちらが句帖に日記を書きつけたのかの判定
がつきかねる。しかも、俳句を日記がわりに書き付けたと
解すると、判定の難しさは尋常ではない。ところが一歩さ
がって、隆子さんも帰心さんも句帖にその日の出来事を俳
句で記したということがあっても少しも不思議なことでは
ない。お互いに句帖に俳句を記して、顔を見合わせて、にっこ
りとしたとなれば、最高に素敵なことだ。俳句を媒体とし
て、親子の絆が心地よく深まり、表現された一句として一推
しの句とした所以だ。「日記は句帖」は俳人にとって日常だ。
「魚は氷に上る」は七十二候の一つで、立春の第三候に
当たる。人も含めて動物たちが春になって一気に元気が出
てくる様子ととらえるのも面白い。
白梅や明智が妻の墓小さし     石崎 白泉
明智光秀を主人公とするNHK大河ドラマが始まって、
明智人気が一気に上昇しているようだ。いまさらではある
が、歴史というものは常に勝者の側から綴られている。光
秀のことも同様で、謀叛人・明智というイメージが大衆の
中にしっかりこびりついていた。そして、それを逆手に取っ
たのが今回のドラマだ。つまり、明智光秀が謀叛を起すの
もやむを得ないというドラマ展開が予想される。
ところで、岐阜県明智町は光秀の出身地と言われている。
明智は土岐氏の支族で、戦国時代、光秀によってじわじわ
と歴史の表舞台に登場してきた。明智にはその一族の遺跡
がいまも大切に遺されているが、その一つが「明智が妻の
墓」だ。「墓小さし」が光秀の人生と重ね合わせて「哀れ」
を感じさせる。
啓蟄やトンネルを出る豆電車     鈴木 玲子
鉄道模型、即ちジオラマの動きを面白く描いている。盤
上に山、川、そして、トンネルと風景模型がセットされて、
その上をボタン操作で走らせる装置は子供だけでなく、大
人でもすっかりはまってしまうようだ。トンネルから出て
くる豆電車を地虫に見立てているのが楽しい。季語の斡旋
が意表を突いていて思わずニヤリとさせられる。
春薄暮にぎれば握り返さるる     大澤 萌衣
「春薄暮」という詠み出しが何ともうまい。この詠み出
しによって、清少納言の『枕草子』の冒頭の部分、「春は
曙やうやう白くなりゆく山際」が想起され、それによって、
すんなり「握り返さるる」の意表を突いた表現が、ユーモ
アにすりかえられている。「にぎれば」によって自身の積
極性をアピールしたつもりが「上には上が」で、じつにめ
でたしめでたしで完結しているのだ。
剪定の腰のベルトは斜交ひに     渡辺 悦子
「斜交ひに」によって庭師の、剪定師のありようが的確
に表現された。「斜交ひ」であることが職人の力量を端的
に示す表現になった。
聖堂のオルガンの上の陶雛     田口 風子
「聖堂」という言葉は「孔子廟」など儒教の祠堂を呼ぶ
場合もあるが、ここではキリスト教のそれだろう。雛祭は
三月三日の女児の節句だ。キリスト教と日本的な行事とが
次第に融合して新しい文化が定着してきたというのが日本
におけるキリスト教の歴史というものだろう。陶雛という
決して高級な雛でないところに、庶民の中に深く根付いて
きたキリスト教の歴史を見ることができる。《次々に鳥影
過る雛の部屋》も秀作。
のどけしや車掌の英語駅を告ぐ     鶴田 和美
東海道新幹線ではかなり以前から、いや最初から流暢な
英語で駅名などを知らせる放送が入っていたが、ここ数年
前から名鉄電車でも、車掌が英語で駅名などを知らせるよ
うになった。ひょっとしたら中部国際空港(セントレア)
が開業したのがきっかけであったのかもしれない。「車掌
の英語」というよりも「英語らしきもの」というのが実際
に近いが、それでも、車掌さんたちの一所懸命さはよく伝
わってくる。「のどけし」がよく効いている。
記念日をひとつ増やして春苺     加島 照子
苺はいうまでもなく夏の季語だ。それは露地栽培が普通
であったからだが、いまはすっかりハウス栽培が主流に
なっている。三河の苺農家に聞くと、生産のピークは十二
月のクリスマスの頃と二月から三月にかけてで、早春の出
荷量が圧倒的に多いという。味もみずみずしくて甘い。と
なると季語の位置も微妙なものがある。作者は苺が大好き
なのだろう。「記念日をひとつ増やして」とあっけらかん
と言ってのけたところがすこぶる心地よい。さてさて何の
記念日なのかな?

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(三月号より)


納豆の糸を絡める男箸     荻野 杏子
これはもう栄養満点。納豆のおいしさを引き出すのはよく
掻くこと。納豆の糸が白く引くまでしっかりと掻く、太くて
長い男箸。薬味の種類やたれを入れるタイミングなど、それ
ぞれ好みはいろいろでしょうが、白いごはんには、もってこ
いのお伴です。豪快で、おいしそうなねばねば納豆の一句。
買初は水体薬師の水ぐすり     池田あや美
水体薬師が祀られているのは、岡崎の真福寺。水の中より
薬師如来が顕れ出られたことに因り、今も本堂の中の井戸水
を本尊としているそうです。「水ぐすり」はお薬師様の井戸
から汲んだ、御霊水。授与された水の御利益に、現世の対価
を支払う、健康祈願の買初です。
寒四郎来てゐる鴉よく鳴く日     田口 風子
寒四郎は寒の入りから四日目。麦の豊凶を占う日とされ、
晴れなら豊作、雨なら凶作。調べてみると、この吉凶は「彼
岸太郎、八専(はっせん)次郎、土用三郎、寒四郎」という
四兄弟。擬人化された季語がなんとも可笑しい。「寒四郎殿
が来ている、今日は烏がよく鳴くわ」そんなつぶやきが聞こ
えてきそう。きっと、今年は豊作になるのでしょう。
春まだき囚徒は立ちて手紙書く     白木 紀子
明治村にある監獄の書信室でしょうか。仕切られた区画の
中で、等身大の人形の姿を見たような記憶があります。収監
の身で書く手紙は立ったまま。座ることは許されない縛りと、
冬が終わるまもなくの「春まだき」。共鳴の一句。
指貫の無き指寂し二日かな     稲垣 まき
先だって珍しく繕い物をし、指貫を外し忘れていました。
つけたまま過ごしていたのは、案外指に馴染んでいたからと
実感。作者はきっとよく針仕事をされる方なのでしょう。正
月二日、いつもと違う指の感覚に寂しさを覚えたのです。昨
日は特別な元日。年の改まる気分に、指貫を一旦外されたの
でしょう。非日常から日常へ、その境にある小さな存在。
あつあつの大根煮いただく初観音     朝岡和佳江
あつあつの煮大根はまだ湯気が立っていて、しかも充分な
厚みもありそうです。さらに観音様の境内となれば、また格
別にありがたくおいしそう。新しい年を迎え、参拝の気分も
晴れやか、気持ちもおなかもほっこりの初観音様です。
町に住む惣領が来て冬構     髙相 光穂
ある程度大きなお屋敷なのでしょう。「総領」は、一族を
統括する代表者としての歴史的背景を担った言葉。その責任
を果たすべく、今は住んでいない家の、冬への備えに来たの
でしょう。来るべき冬に向かって、惣領がする冬構なら万全
です。でもそこにほんのちょっぴり辛味も含んでいるような。
正月凧の糸引く真顔父も子も     服部 喜子
真顔が凧の糸を引く父子の真剣さを物語っています。普段
とは違う真剣勝負の表情です。空高く揚がることは運気を良
くするとの謂われもあります。大空高く揚がる凧の、一本の
糸を引く親子の手加減に、その絆も強まっていくようです。
人慣れしホームの鳩や日脚伸ぶ     高柳由利子
そういえば、こんな光景、見たことがあります。プラット
ホームの開け放たれた空間を鳩が歩いたり、ちょっと飛んだ
り。えさは無いはずなのに、ホームに居着いているのか、自
由な鳩ものん気に歩く、冬も終わり頃、太陽の日差しが少し
ずつ伸びて、春はもうそこまできています。
顔出さぬ猫が気になる年の暮     岩瀬みその
全くもって共感しきり。過疎の山奥では、地域猫が近所の
方との共通話題。獣と闘うのかいつも傷を負っている白。し
ばらく顔を見ないと思ったら、子連れで現れた三毛猫。一年
も押し詰まり、人の来し方行く末をふと思う年末。人の感慨
と同様に、なじみの猫の動向にも思いがいく年の暮です。
大根洗うびっと声して罅走る     鈴木こう子
「びっと声して」にはち切れそうな大根の太さや、瑞々し
い大根の新鮮さが込められています。土のついた大根を水で
洗い流す、その場の臨場感もまた、伝わってきます。皹が走
る、緊張の割けた一瞬に、声を発した大根の、見事な豊満。
干布団雲は南へ流れゆく     岡本たんぽぽ
布団を干す行為にある、恵まれた日差し、のどやかな風。
そして時間的、精神的なゆとり。平明なゆったりとした詠み
ぶりに、青空の大きく開けた感じも伝わります。上空には北
向きの風が吹いていたのでしょうか。お天道さまの下で、雲
の流れを追うしばらく。雲と共によい時間も流れています。
えへおほと尾張万歳折烏帽子     加島 照子
「えへおほ」から連想される「えへへ」「おほほ」の笑い声。
笑う門には福来る。今の漫才でいうボケとツッコミのルーツ
が太夫と才蔵。風折烏帽子の太夫が舞い、頭巾の才蔵が鼓を
打つ、二人の滑稽な掛け合いです。一句の軽妙な調べに、祝
福芸の一つである、万歳のめでたさが響き合っています。

一句一会    川嵜昭典


青空へゆく冬蜂の後ろ脚
道折れてまぶしき冬日また冬日     山西 雅子
(『俳句』三月号「芹の沢」より)
大きな空の光の下に蜂、もしくは人を配置することにより、
かえってまっさらなキャンバスに、ただ空だけを描いたよう
な、そんな解放感を感じさせる句となっている。特に「道折
れて」の句は、歩いても歩いても常にその上には空があり、
ひたすらに動く人の姿を天から見られている、そういった宇
宙的な広がりも感じる。「まぶしき」という言葉に、人の小
ささを感じさせ、俳味を感じさせながらも真理がある。
巻貝の奥まで砂のある遅日     篠崎 央子
(『俳句』三月号「巻貝の」より)
浜辺で何気なく拾った巻貝から、すっと砂がこぼれたのだ
ろう。よくよく考えれば、その巻貝は、以前は生物であった
のであり、その生物が死んでからは砂を詰めるしかなく波打
ち際で漂っている。そこに、春の暮れのちょっとした物憂さ
とやるせなさとが交わって、悲しみとまではいかないが、心
に影を感じたのではないだろうか。そして、すっと日が暮れ
てくれればそんな思いもすぐに消えてしまうのだが、「遅日」
であるからして、その影はなかなか絡み付き、消えてくれな
い。春特有の心の動きがよく表れている。
ひらくとき磯巾着の左きき     江崎紀和子
(『俳句四季』三月号より)
磯巾着の開くときの回り方を見て「左きき」と表現してい
るのが面白い。注意深く観察すれば、動物にしても人間の利
き腕に相当する概念があるそうで、カンガルーにしてもオウ
ムにしても、何かをするのに必ずどちらかの脚や手で行動を
起こすことが多いそうだ。ただ、掲句の磯巾着になってくる
と、それとは違って、その開き方にも大きな真理があるよう
にも思う。例えば銀河は、地球の北極側から見ると左巻きに
なっている。貝などの巻き方もこれに相当するようだし、そ
の渦の比も素数に関係しているそうだ。そう考えると、磯巾
着の「左」は、海の中にいながら、宇宙と繋がり、交信して
いるしるしなのではないか、そんなことも考えてしまう。
まだ一志抱き木の芽のかたくなに     大高  翔
(『俳句四季』三月号「灯すべく」より)
作者は四十代。四十代はとても不安定だ。仕事についても、
ある程度は板についてくるのだが、それでも心の中に引っ掛
かるものを常に持っている。家庭についても、毎日が奮闘中
のようなところがある。一人になれる時間は無いに等しい。
自分自身に何があるのか、何を求めて来たのか、その方向に
進んでいけているのか、そんなことを慌ただしい生活の中で
考えながら生きている。掲句は「まだ」という言葉がいい。
ともすれば、心の中に抱いている志を忘れがちになる毎日の
中で、それでもなんとかそれを守り、育てようとするさまが
とてもよく表れている。木は周りからは気づかれないうちに、
その内側にエネルギーを溜め、花開く。同じように常にエネ
ルギーを溜め続けたいと心から思う。
あぢさゐの中に喫茶を営めり     橋本小たか
(『俳句四季』三月号「束子」より)
紫陽花が美しい花と知ったのは大人になってからだ。子供
の頃は咲いていても素通りしてしまうくらい気にもかけない
花だったが、今は、小さな鉢にしても、群がって咲く花にし
ても、本当にきれいだと思う。同じく大人になってから面白
さが分かったのが喫茶店で、何もせずにただコーヒーを飲む
のがこんなに落ち着くとは思わなかった。子供の頃は、ただ
飲み物を飲むのはつまらないだけだった。どちらにも共通す
るのは、ひっそりとしているということだろうか。紫陽花は
陰に咲き、喫茶店もどちらかといえば少し通りを入ったとこ
ろにある店の方が落ち着きがあり、自分の時間を持つことが
できる。掲句の喫茶店もそんな、ひっそりとした店で、そこ
に流れる時間も、まさに大人の時間なのだろう。影の良さが
分かるというのも大人になるということだ。
いくばくの罪を携へ待降節     冨士原志奈
(『俳句四季』三月号「いくばくの」より)
「待降節」は、クリスマスイブまでの約四週間の期間のこ
とで、その期間あたりから街もどことなくクリスマスモード
で、せわしくも華やかになっていく。掲句の「罪」「待降節」
という言葉の並びを見ると、この「罪」は、原罪のことでは
ないだろうか、とも思ってしまうが、おそらく「いくばくの」
という形容詞と、日本で詠まれているということから考えて、
もっと広い意味での「罪」と捉えてもいいように思う。つま
り、自身の内にある、もっと身近な悔い、心残り、そんなも
のが、街の華やかな気分の中で押し寄せてきて、その中で一
人取り残されてしまう、そういうことだろうと思う。人は言
葉を持ったからこそそういうことを意識し、また意識しなが
ら生きざるを得ないと考えると、人と人との関係は本当に難
しく、確かに罪なのだろうと思う。