月の湖の外輪山や時鳥 うしほ
御 田 植 祭
裸祭りで有名な尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)、一般的には国府宮神社(こうのみや)と呼ばれるが、この神社ではその他にもいろいろな神事が行なわれる。毎年6 月には、御田植祭が行われる。今年は6 月28 日の10 時から御田植祭が行なわれる。午前10 時に御本殿にて祭典が行なわれた後、神社北側の御新田にて早乙女たちが笛、太鼓の田植え歌に合わせて苗を植える(写真)。名鉄名古屋本線国府宮駅下車、徒歩3 分。所在地・稲沢市国府宮1-1-1 国府宮神社。電話0587-23-2121。 写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風
流 水 抄 加古宗也
近江八幡水郷
鳰浮巣葭間に心地よき艪音
路地奥の奥に教会蔦若葉
釈迦堂を撰仏場と松の蕊
岡崎・瀧山寺に源頼朝の歯あり
運慶の木彫に遺髪竹の秋
右左右見て渡る麦の秋
春落葉やまず清田の楠大樹
せせらげる疎水に掛けて蕨餅
蜜豆の蜜アカシアの香をもてる
母校跡栴檀の花むらさきに
麦秋やバウムクーヘン家苞に
梅雨晴や蛇の目傘干す郡上路地
梅雨晴間傘工房の蛇の目傘
浜木綿や片寄せてある車椅子
海揚りてふ壺抱けは涼しくて
釈迦堂の裏に池あり蠑螈棲む
栗咲いてとのぐもりたる郷小布施
秋葉山参拝
鉄砲百合鬼百合火伏神の山
桑は実に蓑曳鶏の姦しく
黴の香や臍風呂と呼ぶ風呂のぞく
苔咲きてをり牛馬水溢れをり
万緑や寝覚の床に昼餉とる
万緑や少年が吹くサキソフォン
真珠抄六月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
囀りや新薬師寺へ続く道 鈴木 帰心
夏隣カーブミラーに鳥の糞 鈴木 玲子
東北震災忌アザラシの一回転 鶴田 和美
水草生ふ水を砦に生きるもの 荻野 杏子
花筏寄す拝殿は海の上 中井 光瞬
花冷ゆるエゴン・シーレの女の目 田口 風子
みつしりと脂肪たくはへ鳥帰る 堀口 忠男
春葭簀立て路地裏の何でも屋 高橋 冬竹
赤糸の魔除結びや亀の鳴く 髙瀬あけみ
手向け水零れて回る風車 川端 庸子
花山葵田峯の水に三束ほど 岡田つばな
百千鳥もうすぐ雨の来る匂ひ 中野こと葉
土牢の闇見て戻る花海棠 髙橋より子
グランドにランナー一人花の昼 渡辺 悦子
菜花蝶に鼻濁音きれいな娘 池田あや美
囀りや濡れ手のままの立話 石川 茜
四阿に水かげろふを浴びて春 工藤 弘子
花惜しむいとまもあらで躑躅燃ゆ 荒川 洋子
踏青や杖の効能説きもして 久野 弘子
春の鹿邪魔をするなと見つめくる 磯貝 恵子
春分の日に晩酌を二人して 井垣 允明
一本は瓦屋の奥落し角 今泉かの子
シャボン玉飛ばす母娘や休校日 黒野美由紀
麗かや子供と話す手話の人 鈴木まり子
初つばめ敬老パスを首に下ぐ 水野由美子
春燈やまた東京に娘を残し 山科 和子
四阿や鬼ごっこする雀の子 渡邊たけし
たんぽぽの絮のひとつが地に降りる 堀田 朋子
じゃんけんに負けて泣く子に草の餅 水野 幸子
素直さがたまに気がかり桃の花 奥平ひかる
選後余滴 加古宗也
花山葵田峯の水に三束ほど 岡田つばな
山葵は清流にしか育たない。というよりも清流でしか良
質のものは育たないといった方がいいのかもしれない。山
葵はその根を摺りおろして、鮨をいただくときに醤油、あ
るいは溜りとともにいただくのが普通の食べ方だ。香辛料
として鮨との相性はぴったりだ。かつては静岡県のものが
有名だったが、いまは、静岡産とともに長野県安曇野の大
王わさび園のものが広く全国に知られるようになっている。
山葵は香りが生命。そのことから自ずと清流で、しかも冷
たい水で育てられる。田峯は奥三河の山村で、田峯観音と
おいしい泉の湧くところとして、知る人ぞ知るパワースポッ
トになっている。
じつはこの俳句と出合うまで、田峯の山葵を扱った俳句
を知らなかった。田峯はおいしい湧水がふんだんに出ると
ころで、観音霊場でもある。観音様の足元から湧き出る泉(名
水)で花山葵を洗ったというのだ。観音様からいただいた
春の香りをほんの少し家苞にするという心根がうれしいで
はないか。俳句をするということは、こういう心根を育て
てくれるということでもある。ちなみに、山葵はその根を
いただくのも無論いいのだが、山葵の白い花、茎もまた食
材として珍重される。
グランドにランナー一人花の昼 渡辺 悦子
黙々と練習に励む青年あるいは少女。陸上競技は、その
ほとんどが個人競技だ。したがって最後のところは一人で、
ひたすらトレーニングするしかない。練習の仕方について
種々アドバイスをもらうにしても、それを身に付けるか否
かは本人次第。広いグラウンドにたった一人のランナー。
孤独そのものの光景だが、けっして暗いイメージが湧かな
いのは「花の昼」という季語の力だろう。そして、どこか
懐かしさが甦ってくるのがいい。
春燈やまた東京に娘を残し 山科 和子
母親と娘の関係は、父親と娘の関係とは微妙にちがうも
のがあるらしい。「また東京に娘を残し」のフレーズによっ
て娘と自分との関係というよりも、自分自身の、少々オー
バーに言えば葛藤がそこに見える。それでいて「春燈」と
いう季語を置くことで自分の気持を明るく締め括っている
のがうれしい。
四阿に水かげろふを浴びて春 工藤 弘子
水面に当たった太陽光が、四阿の軒や天井などに映って
揺れるさまを水かげろうという。普通の陽炎よりも、はっ
きりと光のゆらめきが見える。「水陽炎」も春の季語とし
ていいと私は思うが、この句の場合、結句に「春」と持っ
てくることによって一気に春を強く意識させることに成功
している。私の好きな俳句に《地の果てに幸せあると来し
が雪 細谷源治》があるが、結句に季語を持ってくること
によって読み手に強い感動を伝えている。
菜の花咲く暗渠の上の遊歩道 鶴田 和美
私は『おぼろ月夜』という童謡が好きだ。「菜の花畑に
入り目うすれ…」に始まって「おぼろ月夜」で一番の歌詞
が終る。それは三河平野の、それも春には三六〇度菜の花
に囲まれた家に育ったせいかもしれない。原風景といって
もいい。作者もまた遊歩道を歩きながら、現在と過去との
間を行ったり来たりしている。暗渠とはかつてこの下に川
が流れていたということでもあり、ある瞬間にはその川の
流れが眼裏に浮かび、その土手に菜の花が咲き乱れていた
ことが鮮明に思い出されるのだろう。「暗渠の上の」がそ
の間の心の動きを見事に浮き彫りにして過不足がない。こ
の句を読みながら、あらためて幸せとは何かを噛みしめる
ことになった。
《東北震災忌アザラシの一回転》は作者の得意とする素
材さばきで、和美ワールドとして大切にしてゆきたい。
悶悶とコロナ籠りよ放哉忌 高瀬あけみ
「新型コロナウイルス」は「コレラ」に匹敵するような
恐怖を全世界に与えつづけている。それは決定的な治療薬
がいまだに見つからないことであり、ゆえに終息の目途が
立たないことだ。「コロナ籠り」という新語も何となく定
着しはじめている。「籠り」とは自由が奪われることであり、
ストレスを増幅させられる。荻原井泉水門下の尾崎放哉・
種田山頭火は自由律の俳人として、近代俳句史にその名を
遺したが、その人生は悶悶たる気鬱との格闘であったであ
ろうと想像される。そして、気鬱から瞬時でも開放される
ときがあったとすれば、それは句を作っているときであっ
たのではないかと思う。
春葭簀立て路地裏の何でも屋 高橋 冬竹
「何でも屋」とは日用雑貨を商う店のこと。「雑貨店」と
いわずに「何でも屋」といったことで、身近かで、しかも
親しみの籠った表現になった。「何でも屋」という言葉は
おそらく俳人が生み出した造語であろうが、親しみやすく、
しかも長く使いつづけられてゆくことで育つのが言葉だと
いうことだ。俳句の季語もそうで、季節感を持った言葉で、
しかも多くの俳人に使われることによって定着する。
この句「春葭簀」がじつに魅力的で明るく暖かい。
竹林のせせらぎ 今泉かの子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(四月号より)
春の夢叶はぬことを飽きもせず 渡邊たけし
「叶はぬこと」と思いつつ、「飽きもせず」できるのは、きっ
と好きだから。春の夜の夢の如く、たとえそれが儚いことで
あっても、甘やかなものであっても、続けることができる不
動のサムスィング。それが何かは、読む者それぞれが自由な
発想で受け止め、広げてよいのでしょう。眠りの中の映像で
も、憧れる夢への行動でも、続けていれば、いつか叶う日も
来ると信じたい、全く以て同感の胸の内。
春光やえんとつ太きログハウス 岡田つばな
光あふれるおだやかな春の風景です。丸太を組んだログハ
ウスには明るい春の日差しが注いでいます。屋根には存在感
のある煙突。春寒の日には薪ストーブの煙が上がるのでしょ
う。のどかな風光、木の温もりに作者の詩心が動いた一作。
夕東風や畑の作付けまだ迷ふ 金子あきゑ
農作業の始まる春が到来。畑の土は柔らかく鋤き返され、
今は連作障害を避けるべく、どこに何を作ろうか、思案中で
す。忌地(いやじ)を起こしやすい作物はナスやトマト、ス
イカ等々。新しい住処に決断がつきかねます。春の柔らかな
東風に、そろそろ日の陰りの冷たさが感じられる夕暮れです。
寒禽を翔たせし枝のふるへかな 工藤 弘子
「枝のふるへ」は支えしもののふるえ。飛び立ちしものの
力のふるえ。「ふるへ」に冬の冷たい空気感も伝わります。
厳しい冬を生きる寒禽の、飛び立つ一瞬を、枝の小さな揺れ
から言い留めました。写生と詩情のマリアージュ。
昭和雛飾る商家の通し土間 辻村 勅代
「昭和雛」に平成、令和と続く時代の流れの速さを感じま
す。大きな戦争があった昭和、大きな災害があった平成、そ
して今、新型ウイルスの脅威に怯える令和は始まったばかり。
「通し土間」を抜ける風のように、時の流れも過ぎ去ってい
きます。その時の流れや時代背景を映すといわれる雛飾り。
江戸の享保雛は大型で豪華絢爛、昭和のお雛さまは清楚なお
顔立ちとか。けれど、お雛さまを飾る風習の根底にある、健
やかにとの願いは、いつの世も変わりません。
落葉積むだけの暮らしに板戸打つ 中井 光瞬
「落葉積む」暮らしの厳しさが「だけ」という限定された
表現に込められています。自然とともにある暮らしの素朴な
豊かさは、生計の基盤の上に成り立ちます。積まれた落葉は、
農作物を育む腐葉土となる一方で、生かされなければ単なる
塵芥に過ぎません。板戸を打つのは補修のためか、或いは戸
閉めのためか。空き家の多くなった過疎地では、後者の方の
意でしょうか。落葉の落莫としたイメージとも重なる一句。
玄室に入るためらひや雪催 平井 香
「玄室」とは古墳時代の棺を納める墓室。かつて死者が埋
葬された部屋へ入る一歩手前の、躊躇する心。まだ降っては
いないけれど、今にも雪が降り出しそうな空模様。どちらに
も漠とした不安な気配、底冷えのする空気感が漂っています。
啓蟄やバルタン星人父子二代 川嵜 昭典
「バルタン星人」はウルトラシリーズの中でも特に有名な
怪獣です。ザリガニのようなはさみ状の手をもち、「フォッ
フォッフォッ」と笑い声のような声を発します。調べてみる
と、なんと六代まで続いた愛されキャラ。冬眠の小動物が穴
を出る頃、この地上でも、異星人への愛が、父から子へとめ
でたく受け継がれました。映像がありそうでない時候の季語
と、人が創り出した映像をもつ地球外生物との取り合わせの
妙。
しるこ屋に尼様と食ぶ餅二切 飯島たえ子
尼様と甘味処のしるこ屋へ。俗を離れた尼様の、女性とし
ての素顔を取り戻すような、甘いもの。お汁粉の誘惑は甘す
ぎない方がおいしい。また、甘すぎては世俗に近すぎるよう
な。そして一切れではちょっとさびしい、三切れではちょっ
と多い、「餅二切」のほどのよさ。ほどの良い甘さとともに、
仕立ての塩梅のよさを感じる作品です。
夫の退院たつぷりと梅生けて 冨永 幸子
梅は、「花の兄」といわれ、ほかの花より春にさきがけて
咲き、慶事にもよく使われます。何といっても香りの高さ。
その梅を生けて、退院が決まった夫を出迎えます。帰ってく
る夫を待つ心の華やぎが込められた「たつぷりと」。無事御
帰還の我が家には、馥郁たる香が満ちていたことでしょう。
冬の雨絞り暖簾のたじろがず 鶴田 和美
「絞り暖簾」の連なる有松・鳴海宿での吟。歴史的たたず
まいの街道筋に、特産品の「絞り」を商う店が並んでいます。
音もなく、ほそぼそと降り続く冬の雨。暖簾のかかる軒先に
も降りこんでいます。暖簾は一枚の布ながら、また、店の格
式を表すもの。「絞り暖簾のたじろがず」の措辞に、歴史に
裏打ちされた、今に伝わる「くくり」の手仕事の奥深さ、貴
重さを感じます。技を受け継ぎ、代を重ね、それは「暖簾を
守る」こと。冬の雨は静かに街並みに降り続いています。
俳句常夜灯 堀田朋子
流れ残りし如くに年の湯にゐたり 今瀬 剛一
(『俳句α』春号「年の湯」より)
「年の湯」は大晦日に使う風呂。兎にも角にもこの一年の
やるべきことを終え、今年も行くなあという感慨に浸る時間
だ。感慨は人それぞれだろうが、裸体という無防備な状態は、
心の奥にある真実を浮かび上がらせるに違いない。
水というものは流れていくもの。作者は不確実に流動する
世の中を、水の流れのように感じているのだろう。蛇口と排
水口の間にひと時溜められたものが風呂だ。そこで「流れ残
りし如くに」と感慨する。世の流れに流されることなく、よ
くぞ踏ん張って生きたという自身への労いの句だと思う。世
の中を傍観する一抹の淋しさも感じる。「年の湯」の本意が
溢れている。自己をみつめる時間が、しみじみと流れている。
曇り日のいつしか暮色こごみ和 高橋 千草
(『俳壇』四月号「海からのめぐみ」より)
雲の奥に太陽の光をかすかに感じさせながらも、一日中曇
り続けて、そのままいつしか暮れていく日がある。作者は、
北海道在住の方だ。かつてはこの時期、日本海沿岸に鰊の大
群が押し寄せて、産卵と放精で海が乳白色に染まったそうだ。
この頃の曇りを『鰊曇』と呼ぶという。掲句の「曇り日」に
作者は、そんな豊かなイメージを重ねているのかも知れない。
もっとも感銘を受けるのは、取り合わせの「こごみ和」。
こごみとは、クサソテツというシダ植物の若芽で、天ぷらや
おひたし、胡麻和えなどでいただく春の山菜だ。夕餉にこご
みの小鉢をそっと付ける、その感じがとてもいい。日々、あ
るがままの空を心に映しつつ、旬のものを料理しながら、丁
寧に生きていく作者の暮らしが見えて来る。春を目覚めさせ
るこごみの緑色が、曇天への差し色となって鮮やかだ。
棒立ちに波やりすごす海苔掻女 中川 雅雪
(『俳壇』四月号「海の幸、山の幸」より)
穏やかな有明海や瀬戸内海に見られる、海苔粗朶を立てる
養殖海苔ではなさそうだ。波の激しい日本海の外湾での岩海
苔を採取する「海苔掻女」を見つめた句であろう。日本人が
古墳時代から親しんだ食材の海苔。冷たい海での作業である
ことからか、「海苔掻女」は、俳人の句心を殊に刺激する。
時に襲ってくる大波の衝撃を最小限にやり過ごすには、なる
ほど「棒立ち」が最適だろう。経験を積んだ仕種には、感動
を覚える。作者は、ただ観察しているのではない。冷たい海
水に濡れる衣服に包まれた「海苔掻女」の心の熱と共鳴して
いるのではなかろうか。写生句は写生にとどまらないのだ。
卵割る囀の窓すこし開け
熱弁の男に子猫抱かせたし 柴田佐知子
(『俳壇』四月号「指の棘」より)
ユニークで、少し棘のようなものを含んだ句をいただいた。
晴れた早朝、鳥たちは盛んに囀っている。その嬉し気な声を
もっと聴こうと窓を開ける。さあ朝食の準備にと卵を割った。
そして作者は気づくのだ。卵と囀の関係性に。不穏なものを
意識しつつも、卵料理を止めるわけでもなかろう。掲句の上
五と中七以降は、時系列として反転していると思う。それが、
人間の食べるという行為が持つ咎を、より鮮明にしている。
熱弁というものは、とかく自己中心的になり易く、聴く方
はうんざりすることがある。水を差すことも出来ず、時間が
延びていく。こんなときの解決策として、柔らかな子猫を抱
かせたらと考えている作者。この愛らしい発想に共感する。
日々の生活や人間関係の中で、ふっと心に立つ波を捉える
ことの大切さを教えられる。こんなに面白い句が詠めるんだ。
梅咲いて闇がつぎつぎ舌めきぬ 佐怒賀正美
(『俳壇』四月号「子どもの情景」より)
「子どもの情景」と題された十句中の一句。言語的に発達
過程の子どもは、対象を感覚的に受容するが、大人はそれを
言葉に換えて概念化して理解する。それも成長だが、それに
よって失うものがあるのではなかろうか。対象に真正面から
向き合って、子どものような体感覚を大切にしたいという、
作者の思いを感じる。
金子兜太氏の『梅咲いて庭中に青鮫が来ている』を想起し
た。梅の花は小さな命の塊だ。兜太氏は梅に負けないもう一
つの生命体・青鮫を登場させた。しかし、掲句は舌のような
闇をそこに見る。梅の花の命の傍らには、美しさ故に、死を
もが存在するような気がする。それを子どもは畏れのような
ものとして感覚するのではなかろうか。子どもが持つような
不可思議な感覚を、独自の言葉で詠んだ、大人の句だと思う。
楽団にひそかな掟霞草 小山 玄黙
(『俳句α』四月号「掟」より)
「ひそかな掟」とはいかなるものかと、想像する面白さが
ある。人が集団となれば、自ずと不文律があるものだ。作者
が所属する楽団にも、あれこれあるらしい。それを、快いと
思うか、疎ましいと思うかは人それぞれだろう。さて、作者
の想いを推し量る時、季語「霞草」の斡旋が効いてくる。
霞草は、添え花として重宝される、白い小花を無数につけ
る密やかな花だ。薔薇などの主役の花を引き立たせ、花束と
いうひとつの集まりを華やかに纏めあげる役割を持つ。
作者は、この掟を肯定している。掟を意識する時、この楽
団に所属していることの喜びをも感じるのではあるまいか。
的確な季語の選択だと思う。とても雄弁な季語だ。