No.1059 令和2年7月号

金魚逃げて悔のある目に古書を繰る  うしほ

万  燈  祭
刈谷市の秋葉神社では、毎年 7 月末に、二百年の歴史を持つといわれる万燈祭が行われる。県指定の無形民俗文化財になっている。各町内では、歴史上の武者を描いた大きな万燈が毎年作成される。若衆達が担いで町内を練り歩く。二日目の本番の夜になると万燈にも灯を入れて、秋葉神社神前で若衆たちが、代る代る灯の入った万燈を担いで威勢良く乱舞する(写真)。毎年7 月の最後の土曜日、日曜日に行なわれる。所在地。秋葉神社及びその周辺。秋葉神社・名鉄三河線刈谷市駅から徒歩 5 分。問合せ・刈谷市観光協会・☎ 0566-23-4100 刈谷市観光協会
写真撮影(カラー)・プリント・文 柘植草風

流 水 抄   加古宗也


庄内の風やさしくて稲の花
月の山振り返るとき秋の虹
造船のハンマー音や青蜜柑
狐雨降る白芙蓉紅芙蓉
花びらの吹かれ色増す酔芙蓉
島宿の前の坪畑夕化粧
佐世保いまも軍港の町敗戦忌
八月十五日灰色の駆逐艦
沼田
鳩吹くや鬼の首塚立つ城址
秋の蝶ゆるり雁橋(かりがねばし)渡る
丘陵の上にクルスや風九月
秋声や茶筅くるりと回し抜く
蜩や早瀬にかかる葛橋
けふ処暑の宮居を抜ける郵便夫
朝顔や水打ちてある袋路地
新涼や藻掛けの猪口の口歪む
湯殿山
ずぶ濡れて湯殿の神の冷まじき
卓袱台を文台として虫の秋
松代
大本営跡とや女郎蜘蛛の糸
水落す段戸の裾の段々田
秋薔薇は真紅即ち愛の色

真珠抄七月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


すかんぽやひもじさ知らぬ子の背丈     松元 貞子
叩きもて掃除する妻昭和の日        石崎 白泉
茶葉と乗る荷台手を振る茶摘つ子      岡田つばな
キャラメルのおまけが目当昭和の日     加島 照子
凭り掛かる椅子一つ欲し四月尽       池田あや美
忘れ傘取りに傘さす啄木忌         田口 風子
外出を猫も控へて籐寝椅子         天野れい子
門柱に守宮不動の影もてり         荻野 杏子
水よりも空のきらめく大植田        水野 幸子
外出もままならぬ間に春尽くる       荒川 洋子
田水張る里へ連なるバイク音        今泉かの子
すかんぽやかじりて時を逆戻り       中野こと葉
木香薔薇溢れ鉄路の鉄条網         堀場 幸子
山並に濃淡のあり栗の花          沢戸美代子
風光る木綿のシャツも海の色        中井 光瞬
茅花流し不要不急の用なれど        鈴木 帰心
揉みくれしうなじ暮春の美容室       工藤 弘子
踏切をわたればカフェ花水木        石川 桂子
朋輩は仕立屋を閉づこどもの日       高濱 聡光
感染の速報リラ冷えの身体         鈴木こう子
麦の秋夫の大事な修理箱          磯村 通子
コロナ禁足金魚の顔も見飽きたり      村上いちみ
免許返納してじゃが芋の花ざかり      岩瀬うえの
床高き川辺の家や桜咲く          鶴田 和美
人住まずなりたる屋敷桐の花        浅井 静子
槌音のまろき木の家うららけし       酒井 英子
柿右衛門のカップで紅茶さくら実に     江川 貞代
都忘れ職員室のあの机           磯貝 恵子
甲羅干す亀にも触れて糸柳         久野 弘子
三冊の絵本を選び子供の日         黒野美由紀

選後余滴  加古宗也


外出を猫も控へて籐寝椅子     天野れい子
いうまでもなく新型コロナウイルスの世界的流行、日本に
おける外出自粛要請を受けての一句。そうでなければこの句
の成立基盤が崩れてしまう。一方で、十年あるいは二十年も
たつと新型コロナウイルスのことはすっかり忘れ去られて、
何を詠んだ俳句なのかわからなくなるかもしれない。掲出句
の見事さは、この危機を「外出を猫も控へて」とユーモアで
いなしたところにある。俳人は俳句を作れば作るほどしたた
かな精神力が養われる。終息を見据えて一気に俳句界の盛況
は復活すると私は予測している。ところでこの句の「籐寝椅
子」という季語の斡旋は見事で、一読、にんまりとさせられ
た。猫のしたたかさが透けて見えるからである。
外出もままならぬ間に春尽くる     荒川 洋子
この句もまた新型コロナウイルスをテーマにした一句とし
て読むのがいいと思う。「春尽くる」の季語がうまい。
凭り掛かる椅子一つ欲し四月尽     池田あや美
与謝蕪村は「アンニュイの詩人」といわれる。一句に流れ
る情調、つまり、なんとも気だるい感覚がそこにあって、蕪
村自身は無論のこと蕪村の生きた時代がいやおうなく倦怠の
時代であったことを想像させる。ところで掲出句にもそれが
ある。例えば「凭り掛かる椅子」がそうであり、「四月尽」と
いう季語がそうだ。加えて、やはり新型コロナウイルスにな
すすべを持たない今の自身の無力感が「アンニュイ」を呼び
込んでいる。
新じやがを蒸(ふか)せば母のにほひして   松元 貞子
私は食べるものに嫌いなものはない。好き嫌いは子供の頃
の食生活とかなりかかわりがあるという。私は大家族で育っ
たせいか、食べものに好き嫌いを言ってはいられなかった。
それが幸運だったのだと思う。何でもおいしい。つい先日、
定年後に小百姓をはじめた友人に新じゃがをもらった。新
じゃがは何といっても蒸して食べるのが一番うまい。蒸すと
きに塩を振ってもうまいし、熱いうちにバターを塗って、ほ
うほう言いながら食べるのもいい。「母のにほひ」とは、や
はり作者が子供の頃、新じゃがを蒸してくれた母のことを思
い出したのだろう。これはまさしく原風景。原風景は俳句の
際にも、じつは意識するとしないとにかかわらず、強く影響
するものだといえる。
朋輩は仕立屋を閉づこどもの日     高濱 聡光
「朋輩」は仲間あるいは友達という意味だろう。「こどもの
日」という季語から推して、幼なじみあるいは同級生なのか
もしれない。作者も定年を迎えて、幼なじみのことが一入懐
かしく思われるようになったのだろう。「仕立屋を閉づ」が
心にひびくのは、うまく閉じられたかどうかという思いが脳
裡を過ったからに違いない。「こどもの日」が強烈に心をゆ
さぶる。
忘れ傘取りに傘さす啄木忌     田口 風子
私も子供の頃からよく傘を忘れた。いまもそうだ。そこで
その原因を考えてみると、帰宅の時、雨がすっかり晴れ上がっ
ていたためうっかりしたというのだ。この句、雨の中を忘れ
傘を取りにゆくのだが、中七までのフレーズに何となくペー
ソスがあり、そこがこの句の魅力になっている。啄木の詩に
もどこか似たペーソスが流れている。
コロナ禁足金魚の顔も見飽きたり     村上いちみ
これまた新型コロナのための自宅ごもりを詠んだもの。こ
の句「禁足」という言葉が面白い。不本意ながらという気分
がじつにうまく表現された。「金魚の顔も見飽きたり」もす
とんと腑に落ちる。明快な表現が心地よい。
田水張る里へ連なるバイク音     今泉かの子
田水を張ると田園風景は一変する。平面がいくつかの区画
の中で光る美しさは格別だ。その水面に反射するように爆音
が鳴りひびく。そしてバイクの爆音は不思議に水田の静けさ
に吸収されるように感じられるのはどうしてだろう。バイク
はひょっとしたらハーレーダビッドソンの編隊か。
踏切をわたればカフエ花水木     石川 桂子
生活空間を区切るものとして、「踏切」が登場してくる面
白さは格別だ。踏切のこちら側は生活そのもの、向う側は憩
いの場所であり休息の場でもあるカフェがある。カフェの面
にはアメリカハナミズキが明るく咲いている。ちょっとお洒
落な都会の風景でもある。
柿右衛門のカツプで紅茶さくら実に     江川 貞代
佐賀県の有田の柿右衛門窯は、濁し手(にごしで)という
柔らかく透明感のある白磁によって世界にその名を轟かせて
いる。そして、初代柿右衛門が生み出した柿色は白磁に映え
て焼物の宝石といっても言い過ぎではない。そのカップで紅
茶を飲んでいる。こういうのを至福というのだろう。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(五月号より)


花を待つ小さき傷持つ二人かな     岡田つばな
桜の開花を心待ちにする、二人の間柄はわかりませんが、
どこか切ないような愛おしさを感じます。日を重ね膨らんで
いく蕾に、小さな傷も少しずつ癒えてゆくでしょうか。
利休忌や炉縁清めて自服して      金子あきゑ
天下一の茶人、千利休。中七下五の畳みかける表現に追善
の思いを感じます。時の権力と近しい距離にいた利休の末路
に思いを馳せる、静かな空間、しみじみとしたひととき。
菜の花に茣蓙敷き母の役貰ふ      川端 庸子
ままごとでお母さんの役は花形です。ついて回ることの多
かった私には縁のない役所でした。今も昔も変わらない菜の
花の印象的な黄色に、遠い昔の素朴な懐かしさが漂います。
『魯山人の料理王国』囀れり      酒井 英子
本の題名と季語だけの大胆な取り合わせ。料理人、作陶家、
書家、そして美食家、北大路魯山人。様々な顔を持つ風流人
の名を冠する本は鳥のとりどりの鳴き声と共鳴しているよう。
金庫めくトランクもあり雛の間     天野れい子
「金庫めく」がまこと言い得て妙。重厚で、豪華な作りの
トランクは、雛の間にも似つかわしい調度品なのでしょう。
子は浮きて沈みて菜の花蝶と化す    江川 貞代
菜の花の中を子どもが現れたり隠れたりする動きは、菜の
花を舞う蝶のよう。季語の幻想性と子のもつ無垢な純真さと。
引く網に妖光しどろ蛍烏賊       小柳 絲子
網に引き上げられて青白い光を発する蛍烏賊。夜の闇の中、
網の中で妖しく乱れている様が臨場感をもって伝わります。
鳥雲に入る道標の北はしろ       阿知波裕子
自らの磁針により北を目指し雲間に消えていく鳥。地上に
は北の方角にある城を指す路標。人の営為と果てない空と。
白椿紅椿を縫って露天風呂       清水みな子
「縫って」にある露天風呂までの距離感、椿の数本。宿浴
衣を着て紅白の椿の何本かの間を行く、足取りも軽そうです。
早春のドナウやくさり橋眺む      原田 弘子
春まだ浅いドナウ川での異国詠。鎖で桁を支える、吊り橋
構造の美しいくさり橋。滔々と流れる川の美しさもまた。
蝌蚪のひも熱弁振るふ指導員      松元 貞子
指導員の熱心な様子が彷彿として何だか妙に可笑しい。詳
しい説明をまだ解せない子等。同様に蝌蚪の成長もこれから。
春の闇ぬけて汚れた口すすぐ      大澤 萌衣
密なる静寂さの中、夜の濃い闇の一部から抜け出し、口を
漱ぐ。それは浄化の行為とも。春の闇の不穏、艶なる気配も。
突くたびに歪に落ちる紙風船      神谷つた子
高く打ち上げる動きに目が行きがちな紙風船。手で突いた
所が凹んでは空中へ。落ちてゆく形に視点を当てての一句。
武蔵野線初荷貨物車数へをり      岡田 季男
並んだ漢字があたかも四角い貨物車の並びのようです。実
際、次々と続けばつい数えたくなります。めでたい初荷車輌。
卒業の三男送り夜具を干す       磯村 通子
親の務めを無事果たされた安堵感。三人の子育てもひとま
ず一段落の卒業です。晴れ晴れとした気持ちが伝わる下五。
春場所や四股鮮明に届きたり      斉藤 浩美
初めての無観客場所。四股を踏む音等テレビを通してもよ
く響き、力士の一連の所作に神聖な場と、再確認した春場所。
風光る歩み寄らねば遠のけり      小川 洋子
中七下五の象徴性。実景としての映像物も、記憶という流
れ去るものも、人間関係もまた然り。胸に迫る、風の明るさ。
春水のふくらみ橋を持ちあぐる     荒川 洋子
大胆な比喩表現もまた、俳句のたのしいところ。春の柔ら
かな風光を背景に、透明な水のきらめくような力を感じます。
ポケットに手を突つ込んで卒園す    川嵜 昭典
なんだか頼もしいぞ。粋がっているようでも、子どもなり
の言い分があり、そうして卒業、いえいえ、卒園するのです。
地下鉄のしばし冬日の中通る      渡辺よねこ
地下鉄でありながらしばし地上を走る、名古屋の東山線の
貴重な?一部。冬の日の日差しもまた同様に貴重な温もり。
山祇の杖の一とふり梅ふふむ      監物 幸女
山祇(やまつみ)は山の神。春の訪れを告げる杖は山神さ
まの御意のままに、春告草の梅へ。ふふむ梅は春の事触れ。
マラソンの先頭集団山笑ふ       近藤くるみ
注目はやはり先頭集団です。後に続くランナー達に先駆け
て走る一団に、息づき始めた春の山からエールも送られて。

一句一会    川嵜昭典


どしゃ降りの夜や金魚が藻に凭れ      池田 澄子
(『俳壇年鑑』二〇二〇年版より)
少し鬱な、しかし非日常的でわくわくするような、いずれ
にしろ気持ちがさざ波を立てる「どしゃ降りの夜」だ。そん
な気持ちを知ってか知らずか、金魚もいつもと違う様子を見
せる。どうも自分の部屋というのは、自分のそのときの気持
ちに合わせて変化しているようだ。もちろん本当はそんなこ
とはなく、自分の気持ちがそうだからそう見えるのであろう
が、自分の部屋の壁面が、あたかも自分の体の皮膚のような
役割をしていると感じることは確かだ。部屋自体が作者その
ものになったかのような面白さがある。
まつ暗な水に棲むもの十三夜     石田 郷子
(『俳壇年鑑』二〇二〇年版より)
樋口一葉の小説の影響もあるのかもしれないが「十三夜」
と聞くと、どことなく影を持つような情景を想像してしまう。
しかし「十三夜に曇りなし」と言われるように、澄んだ月と
それを包む闇は(矛盾するかもしれないが)神秘的に開放さ
れた美しさを十五夜以上に感じさせる。
掲句の「まつ暗な水に棲むもの」は、その十三夜の影と神
秘性を表すのに見事な措辞だと思う。その場所に何かがいる
ことは分かっている。分かっているが確かめようもなく、ま
た確かめる必要もない。人間の世界を超えたところにあるも
のの存在を感じながら、眼前の十三夜を愛でるというのが、
人間にできる精一杯のことなのだ。人間の知と感覚を超えた
ものの存在する世界で、人間が生きることの美しさと慎まし
さがこの句にはある。
放浪に憧れもあり神無月     大竹多可志
(『俳壇年鑑』二〇二〇年版より)
一年のうち数週間くらい、一九五〇年代、六〇年代のジャ
ズをやたらに聴きたくなる時期がある。現在のクリーンな
ミュージシャンたちと違って、当時のジャズメンたちは瞬間
的な日常を生きており、酒やドラッグなどはほぼ当たり前の
ことで、良く言えば情熱的な、悪く言えば破滅的で自己陶酔
的な演奏をそのレコードに刻んでいる。それは「放浪」とも
相通じるところがあると思う。そしてこの、自己の情熱にの
み忠実な姿にはやはり惹きつけられ、だからそう簡単には放
浪できない我々は、ジャズを聴き、芭蕉を読み、またいつか
は、という炎を胸の内に留めるのだ。掲句の「神無月」は、
作者にとっての、人生の神無月なのかもしれない。神無月を
含めあと三か月、人生をどのように使おうかと、胸に秘めた
炎に聞いているようだ。
発光もできずに一人裸足かな     佐藤 文子
(『俳壇年鑑』二〇二〇年版より)
螢や烏賊や深海魚など、光を放つ動物は、人間から見れば
異物以外の何者でもなく、そこには驚きと憧れがある。掲句
は、螢を追いかけたのだろうか、水際を追いかけ、追いかけ
てもそれは異物であり、仲間に入れぬまま立ち尽くす。「裸足」
というところに、少女のような純真さと、動物としてのヒト
の無垢さが表現されている。寂しさというよりは、人間の存
在の自立を表しているように思う。
百千鳥さへ聞こえなくなる祈り     藤井あかり
(『俳壇年鑑』二〇二〇年版より)
きっと明日からは、違う自分になってしまうだろうという
出来事を経験する一日が、人生にはある。周囲の美しさが、
急に他人事になってしまう一日が、ある。
その一日、心は心自身にどんどん入っていく。具体的な出
来事から、そこから抽出される考え方へ、その考え方から、
抽象化された一つの真理にまで。ただしその真理は、自身で
辿り着いた真理であるので、正解かどうかは分からない。だ
からそれは、祈りというものに近い。そしてこう思うのだ。
この祈りのあと、きっと自分は変わっているだろう。しかし
その変わった自分は、以前よりもきっと優しくなっているの
だ、と。生きているとそんなことの繰り返しだ。
萩は実に指はなんでも触れたがり     森野  稔
(『俳壇年鑑』二〇二〇年版より)
まさに俳人の俳人たる所以のような句。そもそも見れば分
かる、読めば分かるというのは、現代の人間の思い上がり以
外の何物でもなく、やはり経験し、ときにいい思いをし、と
きに苦い思いをしなければ身にならない。萩の実を指で触れ
たとき、頭ではなく、身体が「なるほど」と感じているとい
うところが「指はなんでも触れたがり」という表現に表れて
いる。知に向かわず、とても素晴らしいと思う。
ほんたうに枯れてゐる木もありにけり     矢島 渚男
(『俳壇年鑑』二〇二〇年版より)
見ている木の中に、枯木ではなく、命を終わらせた木が紛
れている。多くの生の中で、そっと命を終わらせている状態
に、なぜか胸を打たれる。それは自分もまたそのように命を
終えていくからなのかもしれない。はっとする一句。