No.1061 令和2年9月号

 

流 水 抄   加古宗也


泥仏の頬のたるみや昼の虫
益子
掛け流す釉やほつほつ柿熟るる
谷汲山華厳寺 三句
蜂屋柿家苞に買ふ結願寺
笈摺の一宇に溢れうそ寒し
笈摺の朱印滲めり秋時雨
かまつかの一茎花器の心として
斑鳩に塔いくつある火焚鳥
秋蝶の黄のまぶしくて石の庭
石庭の波すれすれに秋の蝶
秋声や髭切丸を祀る宮
城跡に校歌が聞こえひょんの笛
南吉の生家は下駄屋かまどうま
のすり立つ修道院の赤き屋根
黄落やワインをかもす地下倉庫
柿落葉栞とするに大き過ぎ
神留守の菜切包丁研ぎ澄す
猿塚のどんぐりの山崩れけり
神旅にあれば太棹強く打つ
枯芝の香や新しきスニーカー
古民家や柚餅子は紐でつなぎ干す
短日の影の長きに驚けり

真珠抄九月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


青田風当直の夜具窓に干す        荻野 杏子
夕立や解体ビルに話し声         川嵜 昭典
蜜豆が目当ての店の読書会        荒川 洋子
まだ何も捕へぬ白さ捕虫網        乙部 妙子
ふと胸騒ぎ青鳩の鳴く夕べ        池田あや美
擦れ違ふ歩荷見詰むる一歩先       長村 道子
若きより粋を通してパナマ帽       竹原多枝子
子規庵に朝顔市の流れ客         市川 栄司
産む度に強くなる娘や夏盛ん       磯貝 恵子
草刈りの草にまみれて神父様       今泉かの子
老鶯や鎌倉いまも谷(やつ)多し     高橋より子
新緑や筵の先の露天風呂         山田 和男
熊蟬や城址まで延ぶ石の道        春山  泉
島津藩廟所紫陽花は海の色        三矢らく子
赤ん坊の眠つてをりぬ大日傘       岡田 季男
爪たてて空蟬にまだ雨雫         田口 風子
梅雨出水山羊も避難のゴムボート     深谷 久子
菓子折りに上品な熨斗葛桜        磯村 通子
彫り深き河馬のレリーフ梅雨晴間     鶴田 和美
ときどきは円になりきるかたつむり    斉藤 浩美
草茂る更地折合ひつかぬまま       太田小夜子
夕立雲コロナ禍の町覆ひけり       久野 弘子
にいにい蟬一心に鳴く木を探る      長坂 尚子
大西日もの音耳にへばりつく       大澤 萌衣
涼しさや梁太き蔵カフェ         奥村 頼子
駅出口変へて七夕飾りかな        成瀬マスミ
納棺の友のツナギや梅雨晴間       山科 和子
一片の煮崩れもなき舌平目        鈴木 帰心
レモネード目尻のしわの美しき人     中野こと葉
義足からころ散歩する犬梅雨晴間     天野れい子

選後余滴  加古宗也


紫陽花の毬軟らかく手に返る     山田 和男
紫陽花の花の本意の一つがこの「軟らかく手に返る」だと
思う。紫陽花の毬を見ていると無性に触れたいという衝動に
かられる。あの大きな毬を掌に包み込むようにして押さえた
くなる。紫陽花はその力で一瞬掌を離れて沈むが、再び掌に
戻ってくる。「軟らかく」はその時の感覚であると同時に、
紫陽花の持つ優しさという本意だと私は思う。作者は自他共
に認める山男だが、山男のあの強さは、このような優しさと
表裏をなすものだろう。「俳句は人」ともいう。
青田風当直の夜具窓に干す     荻野 杏子
作者のご主人は勤務医として十分のキャリアを積んだ人だ。
そんなご主人も若い頃は当直医として、夜の勤務もしばしば
であったにちがいない。その都度、妻たる作者は宿舎に出向
いて、ご主人の使った夜具を次の当直医のために干したのだ
ろう。それは医師の妻として当然のことというよりも、ご主
人の立場を大切に守るための妻の心掛けであったのだろう。
夫と朝食を取りながら、ふと若い頃を懐かしんでいる様子
が見えて心温もる。
長梅雨や鬼門櫓に石落し     乙部 妙子
数ケ月前、西尾城跡に二之丸角櫓が再現された。それを早
速俳句にしたのだろう。西尾城は承久の乱で戦功のあった足
利義氏が三河の守護職に任じられ西尾にやってきたのが、こ
との始めといわれている。そして、西尾は砦を建て西条城と
命名し長男を初代の城主に、吉良に東条城を建てて三男を城
主にしたのが城下町として発展する始めだったといわれてい
る。西条城は江戸時代に入って西尾城となり、徳川家康の側
近とその系譜が代々城主となり幕末まで続いている。本丸に
丑寅櫓が二之丸に二之丸櫓があり、天守閣は本丸ではなく二
之丸に立っていた。「石落し」は櫓の上にあらかじめ石を積
みあげておき、敵が攻め込んできたとき頭上から落とすとい
うもので、鬼門櫓というのが妙に似合っている。それにして
も戦というものはいつの時代でも残酷で非情なものだ。「長
梅雨」の季語によって人間の非情がしみじみと思われる。
サイダーに古希を祝へり下戸同士     荒川 洋子
祝いといえば酒がつきものだが、下戸同士とあっては、サ
イダーもやむを得まい。何故サイダーか?ということになる
とちょっとむずかしい。青春時代、乾杯に男も似合う飲みも
のを、と考えてみると、ラムネかサイダーだ。そして、サイ
ダーの方がラムネより少しばかり高級感がある。そういえば
サイダーはコーラに圧倒されてしまうかと思っていたが今も
人気の清涼飲料水のようだ。ちなみに私の好みの飲み物はク
リームソーダだ。
遠蛙母に優しくできぬ日も     山科 和子
「母に優しくできぬ日」とはどういう日なのだろう。人は
ときにやさしさの許容範囲を超えてしまうことがある。その
とき、おのずと心の葛藤に苦しむものだ。自分の苦しみ悲し
みを自身で解決することができないときはしばし、静かな場
所に身を置くことだ。遠蛙は意外に心の凝りをほぐしてくれ
る。勇気をくれる。
立ち話はづみ片蔭痩せはじむ     鈴木 玲子
久しぶりに出会った友人とつい立ち話がはずむことがとき
にある。ことに女性はそれが得意のようだ。ちょっとのつも
りが十分、二十分。「片蔭痩せはじむ」とあるから、いつの
間にか、太陽は頭上にのぼってしまったのだ。随分、長い時
間、話し込んでしまったようだ。これも童心。
夕立雲コロナ禍の町覆ひけり     久野 弘子
夕立雲は一っ気に頭を覆いつくす。しかも、黒々とした雲
で、視野全体を暗くしてしまう。夕立雲とコロナ禍の街の配
合が妙にリアリティを持った句だ。新型コロナウィルスの蔓
延は世紀の大事であるに違いないが、何年か先にあるいは
子々孫々が、こういう時代もあったんだと知ってくれること
は悪いことではないと思う。
擦れ違ふ歩荷見詰むる一歩先     長村 道子
自分の背を越える荷物をかついで山道を歩く歩荷。ときに
自分の体重をはるかに超える荷を背負うこともあるようだ。
歩荷の確かな歩みは「見つむる一歩先」にある。即ち、確か
な把握がそこにある。
夕立や解体ビルに話し声     川嵜 昭典
「解体ビル」とは「死のビル」と言い換えてもよい。その
解体ビルの中から人の話し声が聞こえてくる。解体業者の工
人たちが、夕立の降る間、しばし工事の手を休めているのか
近くを通った人が、夕立を避けようと解体中のビルに飛び込
んだのか。解体ビルから本来聞こえてきてはならない人声が
聞こえてくるミステリィーがこの句の眼目だ。
産む度に強くなる娘や夏盛ん     磯貝 恵子
この句には「女は弱し、されど母は強し」の一言では片づ
けられない、母親としての作者の感動がある。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(七月号より)


水の面をとろりと突きて菖蒲の芽     工藤 弘子
さらりとした水の縁語のように「とろりと」がはたらき、
春のやわらかい大気が、ふうわり、句全体を包んでいるかの
ようです。粘液状態の「とろり」が「突く」という強い動き
の動詞とつながって、なんの違和感もないどころか、感覚的
に菖蒲の芽のやわらかさが伝わるのです。さらに咲いた菖蒲
の花びらの柔らかさにまで及ぶ、嫋やか且つ揺るぎない表現。
蛇穴を出てウイルスの渦の中     辻村 勅代
今のこの特異な日常を、こんなにもあっさりと、しかも俳
味をもってして詠んだ一句に敬服です。冬眠から覚め、やっ
と出てきた地上。そこは新型コロナウイルスが猛威を揮う世
界でした。蛇の毒よりこわい「ウイルス」。その韻を踏んで
の「渦」。今、世界中がこの渦に巻き込まれ、まさに渦中の日々
を送っています。新たな第二、第三の渦の脅威を恐れつつ。
俊太郎の生きるといふ詩夏に入る     服部 嘉子
この詩は「生きているということ いま生きているという
こと」の繰り返しが各連の最初に置かれ、最後は「あなたの
手のぬくみ いのちということ」で終わります。谷川俊太郎
の同じ題名の詩は他にもありますが、きっとこちらでしょう。
この春の厄災に、突きつけられた命へのおそれ。人の生死に
関わる感慨は如何ともしがたく、季節は生命力あふれる夏へ
と入りました。今このときを静かに佇む作者の影を感じます。
矢作古川カヌーを楽しむ輩いて     深見ゆき子
カヌーといえば、オリンピックで銅メダルを獲った羽根田
卓也選手。豊田市出身、矢作川で練習を積んだとか。掲句の
川は矢作川のかつての本流。作者はきっと遠くから、カヌー
に興じる連中を眺めていたのでしょう。競漕ではなく、水遊
びとして楽しむカヌー。「輩」の言葉に、こんな所で、との思
いも感じられます。季語カヌーは「スカール」の傍題。
こどもの日我が猫ルイの誕生日     清水みな子
ペットロスという言葉も定着し、ペットは今や家族の大切
な一員です。このルイもまた然り。実はこの猫、フランス王
を思わせる名の通り、グレーがかった長毛のゴージャスな猫。
掲句も、人馴れしない貫禄さをもつ愛猫ルイに相応しい、堂々
たる詠みぶり。畳みかける対句表現に力強さも感じられます。
薫風や物干し竿にぬいぐるみ     鈴木 玲子
一読、青葉を清々しく吹き渡る風と、その風を受けている
ぬいぐるみの気持ちよさが伝わります。綿を詰め縫って包ん
であるぬいぐるみは、人形の一分類。ヒトガタではないけれ
ど、人が心寄せる存在です。自ずと心地よさをよぶ光景です。
鳩の首むらさき帯びる五月かな     高橋より子
鳩の体の色は様々ですが、特に首の辺りの曲線は複雑な色
合い。紫がかった微妙な色を生むのは、麗しい五月の陽光。
芒に雨溜めて紫麦傾ぐ     乙部 妙子
この観察眼。紫麦は穂や茎が美しい紫色。その色ではなく、
芒(のぎ)に溜まった水の重さに着目した、春の一句。
客待ちの船に灯が入る若葉の夜     稲吉 柏葉
浪漫の香と若葉の清新さ。海に宵闇が迫り、船に人恋しい
明かりが灯れば、何か物語が始まりそう。艶っぽい夜の気配。
赤土の脱藩峠余花の雨     大石 望子
以前テレビで見た、坂本竜馬らしい風体の観光ガイドの方
を思い出しました。歴史のロマンを感じる脱藩峠。遅咲きの
桜に降る雨は志半ばで倒れた竜馬の無念さにも滲むようで
す。
世界中ムンクの叫びのまま立夏     杉浦 紀子
今のパンデミックの状況を名画に託した一句。あの不安に
震える顔のまま、呆然と立ちつくしている様子。言い切りの
句末「立夏」の「立」つが、上にも係り、二重の効果に。
新緑や鳥の顔して仲間入り     飯島 妙子
いいなぁ、この溌剌たる大胆さ。鳥の翼に憧れる、なんぞ
を飛び越して、一挙に同じ仲間として、鳴き交わそうとでも?
こんな楽しい魂胆も、清々しい新緑の季節なればこそ。
なんじゃもんじゃ俄仕立ての弁当屋     水谷  螢
コロナによる赤字挽回の為、テイクアウトの方策を採った
店。つぶやきのような樹の名前が、画策する弁当屋の必死の
あがきの様子とも、この状況に驚きをもった作者の声とも。
五月雨や仏語和訳の初々し     荒川 洋子
中七下五に当たるのは『フランス辞範』。オランダ語通詞
によって編まれた日本で初めての仏和辞書です。時は鎖国中
の江戸時代。五月雨のしずくの音と、難儀な翻訳の言の葉と。
アイス見せ子等誑かす婆となる     喜多 豊子
皆がなりたがる、かわいくやさしい婆さん像は置いといて、
こちら、長谷川町子のいじわるばあさん像。つわもの、佐藤
愛子は孫の説教に「改めないと雷と共に幽霊になって出てく
る、と脅す(笑)」と、言。アイスで誑かせる子もまた愛しい。

一句一会    川嵜昭典


在宅勤務の吾子より電話松の芯     佐々木建成
(『俳壇』七月号「見えぬ敵」より)
新型コロナウイルス感染症の蔓延はとてもネガティブな出
来事だが、掲句は思わずくすっとなってしまうような句だ。
通常、子が仕事中に親に電話を掛けるというのは─ もしそ
のような句を想像してみると─ 緊張感のある句になってし
まうと思うが、こと在宅勤務中となると、子も、くさくさし
た気分の中で、一つ親にでも電話をしてみるか、という緊張
感を少し欠いた気分が出てくる。そしてその緩みが俳味と
なっている。また「松の芯」という季語からは、当然コロナ
ウイルスは心配ではあるものの、子は子で着実に成長してい
るのだな、という安堵感を親は持っていると感じることがで
きる。
照らしたきものだけ照らし夜店の灯     仲  寒蟬
(『俳壇』七月号「夜店の灯」より)
夜店が子供心にも少し後ろめたく、それだけに非日常的な
魅力を感じさせるのは、その自己中心的な態度にあるのでは
ないかと思う。夜店の周りは基本的に闇が包んでおり、店は
その明かりのみで自分がそこにあることを主張している。ま
さに「照らしたきものだけ」の状態だ。暗闇の中に自己主張
をするというのは、ちょうど舞台の上で役者がスポットライ
トを浴びている状態に似ている。それは役者にとっては自己
陶酔的な気持ちにもなるだろうし、見ているこちら側も憧れ
の目で見ることになるだろう。この世の中に夜が、闇がある
限り、夜店もずっとそんな背徳的な非日常性を子供に与え続
けるのだろう。
夏蝶を裾に遊ばす火山かな     藤本 智子
闘魚の血鰭といふ鰭燃え立たす   同
(『俳壇』七月号「闘魚の血」より)
「夏蝶を」の句。単なる蝶ではなく、夏蝶というのが、火
山の大きさや、未だ活動し続けているという生命の躍動を感
じさせる。忘れてはならないのが、作者もまた夏蝶と同じく
火山の裾にいるということだ。すなわち、夏蝶と火山を対比
しているようで、その大きさから考えれば、人間も夏蝶とさ
ほど変わらず、山裾に遊ばされているということだ。
「闘魚の血」の句。闘魚は自分の縄張りに別の闘魚が入っ
てくると、威嚇、攻撃する。その鰭は惚れ惚れするほど綺麗
だが、そう思うのは人間だけで、当の闘魚にしてみれば生き
るか死ぬかの燃え立った気持ちの表れだろう。
両句に共通するのは、火山といい闘魚といい、人間の見え
ないところで大きな命のエネルギーが生き、動いていること
を作者は感じ、句に詠んでいるということだ。闘魚のような
小さいものにも、火山のように大きなものにも、等しく地球
のエネルギーが存在し、動いている。そんな感動が両句には
あると思う。
春の夜のわれ一塊の老女なり     大石 悦子
(『俳句』七月号「朴の花」より)
「一塊の老女」という表現に独特の迫力がある。そこには
どこまで客観的に自身を見ることができるのだろうというく
らい、冷静に自己を見る作者の姿がある。そして「春の夜」
という言葉からは、俗世の欲や願いを抑え、ただ周りの自然
にのみ心を委ねるという態度を見ることができる。人間を、
自然から生まれた一個の物体だと捉えた場合、突き詰めてい
けばこのような生き方になるのだろうというような、一つの
真理を感じる。
日蔭より日向に蜘蛛の力糸     長島衣伊子
(『俳句』七月号「ひとすぢ」より)
糸をはくこと、糸の上で生活すること、糸で空を飛ぶこと、
それらの全てが実現できない人間にとって、蜘蛛は全く不思
議な生き物だ。そしてその不思議さから、何となく蜘蛛を気
味の悪い生き物だと思ってしまう人もいる。それを作者は、
「日蔭から日向に」という言葉で、蜘蛛を人とは全く価値観
の異なる世界で生きる美しい生き物として描き出すことに成
功している。そしてその逞しさを「力糸」という言葉に見事
に凝縮させている。
口中に舌やわらかき桜かな     月野ぽぽな
(『俳句』七月号「見えないもの」より)
桜を詠んだ句の中でも、意表を突くような句。一方で、意
表を突いているようで桜の本質を捉えているようにも感じら
れる句。口の色、舌の色、そして桜の色が微妙に溶け合う。
そしてよくよく思い出してみると、桜の花びらの触感という
のは、確かに口の中で舌を動かしたような柔らかさと相通じ
るもののようにも思える。ユニークかつ本質的な一句。
光にも影にも逃げてゆく目高     杉山 加織
(『俳句』七月号「流光」より)
警戒心の強い目高は、見るとすぐに水草などの陰に隠れて
じっとしてしまう。掲句はそんな目高の動きにつられる「光」
「影」の動きが涼やかで楽しい。