井垣清明の書3
李白詩古風其二十三
昭和55年(一九八〇年)一月
第19回日書学展(東京都美術館)
李白、古風五十九首(其二十三)
釈 文
秋露は白くして玉の如く、
団々として庭緑に下る。
我行きて忽ち之を見、
寒早くして歳の促すを悲しむ。(以下略)
流 水 抄 加古宗也
梅が香を聞く豪商の無双窓
夜もすがら猿の鳴く声大雪解
染寺に深き井戸あり寒牡丹
亀鳴くや万年筆はモンブラン
魞挿してをり竹生島影を置く
燕来る北に大きな太鼓楼
放菴の渇筆に見る春の色
大津絵に瓢鯰図あり春の雷
銅鏡の数多出し池春の雪
哀調を生み出すピック春の雪
塞の神くくられし幹風光る
控訴院跡とや今朝の風光る
駅名は芭蕉と変はり風光る
里山や楤の芽を掻く左鎌
雪解やさるぼぼを吊る三之町
朱の橋を渡れば陣屋雪達磨
湯殿跡にも氷張り義朝忌
梅が香に出て甚五郎の狛遊ぶ
春愁や円卓に置く英和辞書
土筆野やゆつくり走るミニバイク
たんぽぽや地鶏はいつも放し飼ひ
白木蓮や碌山の鐘つき放つ
真珠抄十二月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
風鐸の色なき風に揺れて音 奥村 頼子
鐘楼の僧衣素風をはらみたる 今泉かの子
望月や雁木一段目まで海 堀田 朋子
猿走る影やもろこし直売所 平井 香
姉川も妹川も曼珠沙華 田口 風子
教室の前の百鉢棉の花 長村 道子
むかご飯米は川場の雪ほたか 関口 一秀
ラジオからカーペンターズ秋扇 鶴田 和美
秋風や人と距離おく癖がふと 髙橋 冬竹
五右衛門風呂底板足で嵌(は)む厄日 江川 貞代
雪匂ひ浅間山荘事件の日 田口 茉於
神鹿の角短くもせめぎあふ 荻野 杏子
黒揚羽下枝に交む木下闇 堀口 忠男
長き夜やテープ起しの二万文字 堀田 和敬
ジンジャー咲くテニスコートに今日の線 酒井 英子
石段は勅使門へと曼珠沙華 阿知波裕子
落鮎の寂々と身の色鎮め 稲吉 柏葉
朝顔の摘む手に余る花の屑 春山 泉
秋冷えや首のエコーの低き音 服部 喜子
バケツもて売る弘法の青蜜柑 堀場 幸子
お日待ちの馳走は芋の荏胡麻和え 深見ゆき子
縄暖簾首でかきわけ新走 村上いちみ
十月や軽トラつづく精米所 磯村 通子
新米や嫁に任せる水加減 松元 貞子
秋深し車券売り場の男の背 工藤 弘子
鼻丸め日がな立ちんぼ象の秋 髙橋まり子
義元の首検証地秋の声 柳井 健二
秋の田の夕日大きく沈みけり 烏野かつよ
稜線に入れば吹き上ぐ野分かな 山田 和男
兄の手の空蟬そっと妹の手に 鈴木まり子
選後余滴 加古宗也
猿走る影やもろこし直売所 平井 香
浅間山麓は良質な高原野菜が大量に生産されることで有
名だ。中でもキャベツの美味しさは格別で、採れたてのキャ
ベツを塩揉みにしたものはうまい。先年、嬬恋村を訪ねた
とき村人に馳走になった。それは衝撃的なおいしさだった。
昨今は、人里まで猿が下りてきて田畑を荒らすことが珍し
くなくなっている。掲出句の猿も、もろこし畑は無論のこ
と直売所のもろこしも隙あらば盗ろうと周りをうかがって
いるのだろう。猿や熊の出現のニュースも日常的なものに
なろうとしている。この句は「直売所」が面白い。
望月や雁木一段目まで海 堀田 朋子
「雁木(がんぎ)」といえば、まず思い浮かぶのが新潟県
など雪深い地方で、町屋の軒から庇を長く張り出させたも
ののこと。豪雪対策用に頑丈に作られたものが思い浮かぶ。
ところが掲出の「雁木」は広島県など瀬戸内の港で見かけ
る船着場のことだ。階段のある桟橋で、潮の高い低い、即
ち潮位によって船を着ける高さを選べる。かつて、NHKの
大河ドラマ「坂の上の雲」で、靹の浦を出港する帆船を大
勢の人々が見送る場面があった。靹の浦の港に立ったとき、
雁木というものの構造に痛く感心したものだった。満潮時
に雁木の一段目まで海になるという把握は作者の原体験に
裏打ちされたもの。そこには事実の報告だけでなく、ふる
さとへの深い愛着が見てとれる。
教室の前の百鉢棉の花 長村 道子
作者の住む西尾市の福地地区は、その昔、綿の栽培が盛ん
だった。棉の実をつむいで糸をつくり、木綿織物を作った。
それが近年まで「三河木綿」として有名だったが、戦後は
石油製品によって一気に衰退したことは周知の通りだ。そ
の昔、崑崙人が福地の浜に漂着したが、村人の手厚い介護
によって元気になり生涯を福地で暮らしたという伝説があ
る。その崑崙人が亡くなる前、世話になった村人たちに、
壺に入れて大事にしまっておいた種を採り出し、その栽培
方法を教えてくれたという。福地地区の小学校ではその伝
説を今も大切にして、毎年棉の鉢植えを育てている。棉の
花は黄色で大きく、じつに美しい花だ。やがて実になると、
まるでかわいい桃のような形に育つ。そして、ぽんと爆ぜ
中から白い綿が飛び出す。俳句ではそれを「桃吹く」という。
姉川も妹川も曼珠沙華 田口 風子
「姉川」といえば滋賀県にある川で、伊吹山を源として、
琵琶湖に注いでいる。一五七〇年に織田信長が浅井長政、
朝倉義景と戦って破ったところで、今も古戦場の面影をか
なりのこしている。河口では「のぼり鮎漁」が漁業組合に
よって行なわれ、全国に出荷されている。その土手にいま
曼珠沙華が帯のように咲き誇っているというのだ。「妹川」
もまた同様の景を見せている。この句、姉と妹という川の
名前を、事実を踏まえながら詠んでいるのが面白い。それ
によって曼珠沙華の美しさを際だたせている。
朝顔の摘む手に余る花の屑 春山 泉
朝顔は一日花。朝一斉に咲いたかと思うと、夕方にはすっ
かりしぼんでしまう。しぼんでしまった花はいかにも哀れ
で、逆に咲いた花の美しさを損ねてしまう。つまり、朝顔
の美しさを損ねないよう花屑を摘もうとしているのだが、
その花屑の多さに驚いているのだろう。それは、咲き始め
ている花の数の多さに驚いているということでもある。「手
に余る」が花の数を具体的に、しかも感覚的に表現してい
て心地よい。
ラジオからカーペンターズ秋扇 鶴田 和美
カーペンターズといえば、何十年か前の若者たちを文字
通り夢中にさせたアメリカン・ポップス界のスターだ。お
そらく、私の記憶ではビートルズ以来の空前の人気で、兄
と妹という組合せも珍しかったし、兄妹なればのハーモ
ニーはこれまでの軽音楽界にはなかった圧倒的に美しい
ハーモニーを生み出した。「ラジオから」の措辞に懐かし
さが心の中から噴き出した様子が見て取れる。そして、「秋
扇」によって再びいまの作者に立ち戻っている。バタ臭い
ようでバタ臭くない一句。
風鐸の色なき風に揺れて音 奥村 頼子
「風鐸」は仏堂や塔の軒の四隅などに吊り下げてある青
銅製鐘形の風鈴をいう。私にはそもそも音をたてることを
期待して吊るされたものではないように思われる。つまり、
あくまで装飾品として吊り下げることで、堂塔の美しさを
きわだたせるもののように思うのだがどうだろう。それゆ
えに、思いもよらず音を発した驚きがこの句の核心のよう
に見える。そのことを支えているのが「色なき風だ」だ。「秋
風」ではなく「色なき風」であるところが、じつに見事な
季語選びといえる。
長き夜やテープ起しの二万文字 堀田 和敬
三師を偲ぶ会の講話のテープ起こしだ。感謝、感謝。
竹林のせせらぎ 今泉かの子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(十月号より)
目が合へば目を伏す秋の白き馬 田口 風子
取り立ててということではなく、ふと目が合った、何気な
い瞬間。その一瞬をすくい取り、秋の澄んだ空気感が伝わる
一句に仕立てられました。うつむいた眼差しが、慎み深いよ
うにも自然なようにも思われ、秋の爽やかな風の中に立つ、
白い駿馬の姿が見えるようです。
濃紫絞り上げてやおにはちす 辻村 勅代
鬼はちすは葉の裏に棘をもつ蓮。普通の淡い紅色と比べ、
生気を「絞り上げ」たかのような、くっきりとした濃い紫色。
泥の中から育つ蓮。その泥水を吸い上げて咲く花の高貴な色。
八月の雲笠寺台に砲台座 池田あや美
見晴らしの良い笠寺公園内にある高射砲の砲台跡。かつて
B29を何機も撃墜したとか。戦火の昔も、穏やかな公園となっ
た今も、大空に八月の雲は湧き、浮かんでいます。
はつあきの老猫こねこの瞳持つ 清水みな子
老いた猫にある子猫のような瞳の輝き。それが認められた
のは、作者がこよなく猫を愛しているから。季節は秋に入り、
これから凌ぎやすくなってくるところ。期せずして愛猫に捧
げる一句に。(実はこの老猫ルイは八月末に命を閉じました)
その中に笑はぬ男ソーダ水 水野 幸子
集団の中に一人だけ、場の空気感とは違う表情をした男。
ニヒルに笑わないというより、大勢のなかにあっても、個を
失わず矜持を保っているような。はじける笑いと炭酸の泡の
取り合わせとは真逆の、一人の男の潔さとソーダ水の清涼感。
散る数の咲く数越ゆる凌霄花 堀田 朋子
これは自然のならい。つるの先に揺れるオレンジの鮮やか
さは、地についても目を引きます。数のことを言いながら、
実は咲いていた時を越えて、なお美しい光景なのでしょう。
時の流れに人も花も老いていきます。その流れのなかにあっ
て、散ってなお魅惑的な、今、このときの凌霄花。
原爆忌飛べない鶴を折っている 加藤 久子
折り鶴に託す願いが届きそうにないこの現実。単なる行為
を表す中七下五が、いっそうその虚しさを訴えてくるようで
す。空虚感を抱きながらも、鶴を折り続ける現在形の句末が、
憤懣のようにも、恒久として続く平和への祈りのようにも。
憧れは兼高かおるサングラス 天野れい子
いきなり蘇ってくる圧倒的なこの名前。ある世代限定では
ありますが、日本が世界に追いつこうとしていた、昭和の一
時代。『兼高かおる世界の旅』。子どもの頃、世界の広さに、
そのもの珍しさに驚嘆しながら見たテレビ番組です。(記憶
では)「あたくしね…」という素敵な話し方、そしてかわい
い顔だちによく似合う、素敵なサングラスでした。
マイセンの秘宝観に行くサンドレス 奥平ひかる
お宝を観に行く、お出かけ気分のサンドレスです。ちょっ
とおしゃれしたわくわく感。「マイセン」と「サンドレス」
の弾むような響きや、畳みかけるようなリズムが愉しい。
涼しくて緑青で描く山荷葉 阿知波裕子
サンカヨウは冷涼な高地の多年草。描かれた葉の色はくす
んだ緑。白い花は雨に濡れるとガラスの透明感に変わるそう。
最後の長音の柔らかさが上五へ戻るような、響き合う涼しさ。
囀りや廃村かこむ桑古木 堀口 忠男
桑の木は、かつて殖産興業の一つだった養蚕業の名残り。
人影の消えた村に桑の古木は、枝を広げ葉を茂らせています。
ここは鳥の楽園。人のいない村に聞こえるにぎやかな鳥の歌。
婚も死も酒盛りとなる扇風機 稲吉 柏葉
良き時代の慶弔終盤の一幕。よろこび事もとぶらい事も、
人が寄っては酒を酌み交わす。人がつながる場にあった、持
ち運びも手軽な電化製品、扇風機。昭和を映す巧みな一作。
哲人の双眸緑蔭のゴリラ 加島 孝允
イケメンゴリラのシャバーニ殿でしょうか。緑の木蔭に哲
学的命題を思索するがごとき眼差し。漢語の硬質な韻きも、
涼しく快い。ゴリラは一夫多妻、鉄人でもあるのでしょう。
蔵カフェの椅子ひとつ空け梅雨深む 加島 照子
大事なものを保管する蔵の、あの独特の、密なる空気感と、
ソーシャルディスタンスのための空席。どこかちぐはぐとし
た不安定さのまま深まっていく梅雨の、気息が伝わる作品。
道の辺になにやらかわす蟻と蟻 茂原 淳子
情報交換?それとも挨拶?「なにやらかわす」が人間同士
のようにも、蟻語のようにも。どこか秘密めいていて楽しい。
二十万年のヒトの上をいく、数千万年の歴史をもつ蟻の社会。
さくらんぼわたしがいちばんかわいいの 岡本たんぽぽ
この堂々とした、あっけらかんとした詠みぶり。直球で来
る決め球に参りました。さくらんぼも得心のことでしょう。
俳句常夜灯 堀田朋子
漁網にて囲へる畑や藷を挿す 松林 朝蒼
(『俳句通信』VOL. 117「梅雨入りの島」より)
いつかの海辺で見たことのある景色。情緒を廃した写生の
句にもかかわらず、「藷を挿す」人の暮らしぶりがリアルに
想像される。いや想像してみたくなる。男性だろうか女性だ
ろうか。ひと歳召した人だろうか。半漁半農なのだろうか。
それとも漁から引退した後の暮らしなのだろうか。役目を終
えた漁網を有効活用して畑のものを鳥や動物から守る合理的
な人なのだろう。「藷を挿す」という措辞が効いている。藷
の苗蔓を数十センチほどに切って、畑の畝に斜めに挿すよう
に埋めていく作業が見える。結界を張るように漁網を巡らせ
た中の農事は、安心感がありそうだ。慎ましやかな生活と、
自分の暮らしを自分で守るという誠実な生活。そういう光景
に出会い、心を寄せている作者の心情が句の背後を支えてい
る。穏やかさに満たされる。
退勤の猫背に戻る熱帯夜 一関なつみ
(『俳句四季』十月号「望郷架電」より)
今年の夏は殊更暑かった。残暑を含めて幾つの「熱帯夜」
を耐えて生活しただろうか。
作者は職業人なのだろう。責任感がある、達成感もある。
背筋を伸ばして働く意欲もあるだろう。一日の仕事をやり終
えて帰宅の途に就く。職場の戸を開いて外の空気に触れる。
ああ今夜も熱帯夜だ。張りつめていた肩の力が緩んで、本来
の「猫背に戻る」瞬間を意識する。疲れを逃すところのない
熱帯夜に人が囚われる時を、具体的な身体感覚で表現してい
て、ストレートに伝わる。溜息をつくにも力がいる。
けれども、明日はまた元気に仕事に向かうであろう作者も
見えてくるのだ。たつきを得て生活するとは、こういうこと
なのだろうと思う。切なくて愛しい句だと感じた。
ほんまやなあほんまにあほやな蝦蛄捌く わたなべ じゅんこ
(『俳句四季』十月号「どんぐりり」より)
大阪だなあと思う。大勢ではないようだけど、一人での呟
きでもないだろう。気の置けない数人での食事の現場。アル
コールも入っているか。誰かの噂話になる。「あほやな」と
皆で意見の一致。と言っても、それほど深くて真剣なわけで
もない。自分だってそう立派なことをしているわけでもない。
何せ今は、「蝦蛄を捌く」のに半分夢中なのだから。茹で上がっ
た蝦蛄は本当に美味しい。
突き放しているようで、実は愛がこもっているのだろう。
表層を詠んでいるようで情け深い。まだ経験がないけれど
「ほんまにあほやな」と言ってもらいたくなる。
紙魚として宇治十帖に迷い込む 塩野谷 仁
(『俳句通信』VOL. 117「闇に蟻」より)
作者の願望の句でしょうか。「紙魚」という虫は、本の中
へ入り込むことで、その物語を体験することができるのでは
と考えた作者。自分が紙魚になれるとしたら、「宇治十帖」
がいい。そう夢想する作者の人となりが楽しい。
「宇治十帖」は、源氏物語五十四帖の最後の十帖で、光源
氏死後の宇治を舞台にした、薫大将の半生の物語だ。光源氏
の次男だが、実は柏木の子と匂わせられていたりする。数々
の女性関係において希代の優柔不断男と描かれている。つま
り類に違わず、もて男だったのでしょう。そんな世界への憧
れは、まあ理解できます。小さな「紙魚」に大きなご自分を
投影された遊び心に拍手します。
猫が来る人間が来る青葉道 小檜山繁子
(『俳句四季』十月号「巻頭句」より)
何ひとつ邪念のない句だと思う。特別なことではない、目
にしたことをそのままに提示された句。数々の経験を越えて
来た後に至った素朴さを感じる。
道とは、どこかからどこかへと繋げるものだ。猫が来て人
間が来て、また何かが来る。生き物たちの生の途上のひと時
が、この道の上にあるのだと思う。掲句の道は今、「青葉道」。
この季語によって喚起されるのは、自然が与えてくれる瑞々
しい生命力だろう。猫と人間がキラキラと透明な光に包まれ
ながらやって来る。邪念を廃した心で見れば、この世は美し
いものをいたる所に用意しているのだろう。見えるか見えな
いか、気づくか気づかないか。曇りのない感受性が素敵だ。
さらに、猫と人間を並列に捉えていることが面白い。そこ
に諧謔味というより、人間も猫もそれぞれの様式で暮らす同
じ生き物だという達観した包容力を感じ取ることができる。
梅雨明けの夕日まみれの観覧車 小川もも子
(『俳句通信』VOL. 117「父」より)
日本に梅雨は無くてはならないものの一つだが、長梅雨と
なると、明けるのをまだかまだかと待ち望んでしまうもの。
そんな日々。本日とうとう梅雨が明けたようだ。気象庁の
お墨付きも出た。久しぶりのオレンジ色の濃い夕日が大きな
「観覧車」を照らし出している。なんと言っても「夕日まみ
れ」という表現が実に力を持っていて惹かれてしまう。観覧
車は平面的なものではない。空間の中に鉄の棒と板で構築さ
れたものだ。それ故夕日にまみれるとは、なんと的確な観察
であろうか。
夕日は明日の晴天を約束すると言う。梅雨が明けたという
喜び、次は本物の夏がやって来るという覚悟。観覧車一つに
視線を集中させることで、それらの前向きな心象風景を眼前
に立ち上がらせることに成功している。